「クリスマスキャロル」飯野文彦

(PDFバージョン:christmascarol_iinofumihiko
 昼近くに目を覚ました。どこぞへ飯でも食いに行こうとした。いつもの習慣で、玄関先のポストを覗くと、引っ越し、宅配ピザのチラシといっしょに一通の封筒が入っている。
 表に〈井之妖彦様〉と私の名前が書いてあるだけだった。住所も書いてなければ、切手も貼ってない。怪しげな勧誘、案内の類かと想いながらも、裏返した途端、私の目はくぎ付けとなった。
 H・N子と書いてある。表の私の名前同様に、淡い青インクで書かれていることも、ますます私を動揺させた。
 辺りを見回した。私が住むぼろ長屋の前の露地に、人けはなかった。十メートルあまり離れた場所にいた三毛猫が、立ち止まり、私を見ていた。動物の勘というやつで、ただならぬ気配を感じたのかもしれない。
 一瞬、迷った。投函した主が、まだそこら辺りにいるかもしれない。追いかけようか。だが足は動かなかった。代わりに外出を止め、家内に戻った。
 玄関戸を閉めるなり、ふたたび封筒に目を戻した。どちらも達筆だ。大人の書いた文字である。四十になる私より三つ年下だから、それもとうぜんか。しかし……。
 息苦しくなった。家内の酸素が薄くなったようだった。鼓動も高鳴っている。三和土にサンダルを脱ぎ捨て、台所に行って、水を飲んだ。一口目で噎せた。飛沫が左手に持っていた封筒に飛んだ。
 あわてて近くにあったタオルを当てた。幸い、文字はにじんでいない。ふうぅ、と、大きくため息をつき、自分で驚いた。わずかな間に、感情が猫の目のように変化している。
 六畳間に行き、こたつの電気をつけ、足を入れた。こたつの上に広がった、昨晩の孤独な宴の残滓を向こうへ押しやり、スペースを作る。さらにティッシュペーパーで、汚れを拭ってから、両肘を置いた。手に持っているのは、あの封筒である。
 しばらく差出人の名前を見ていた。そうするうちに不思議なもので、大人びたその文字が、次第に崩れ、かつて目にしたことがある文字と重なる。
 ――ねえ、妖彦にいちゃん、見て。
 ――へえ、N子ちゃん、漢字で自分の名前が書けるんだ。
 ――練習したから。すごいでしょ。
 ――うん、ほんとにすごいや。
 文字だけでなく、あのときのN子の声やあどけない笑顔まで、炙り出しのように記憶の表面に浮かんできた。それは目の前に書かれた文字が、N子の手によるものにちがいないと訴えてくる。
「まさか。そんなことが」
 笑おうとしたが、唇や頬は硬く引きつるだけだった。代わりに震えが来た。十二月も半ばをすぎて、寒さも厳しい季節である。こたつの電気を強くしてジッとしていたが、止まらない。こたつの脇に置かれた焼酎の一升瓶に手を伸ばして、一口煽ろうかともした。こちらは寸前で止めた。
 とうとつに、ちまたのエコ運動と同じだと想った。今のエコ運動などしょせんまやかしだ。厚着したまま暑い暑いと騒ぎ、服を着たまま水浴びしようとしている。暑かったらまず服を脱ぐように、根本を変えなければ何も変わらない。
 馬鹿なものだと常々想っていたくせに、いざ自分のこととなると同じ愚行をしている。こたつの温度を上げても、焼酎を煽ってもだめだ。根本を変えなければ――。
 封を切ろうとした。失敗した。指先に力が入らず、子供でも破れる薄手の封筒が、破れない。
 一端、封筒を置いてから、両掌をこたつ布団に押しつけた。ちらり視界の隅に入った一升瓶が、たまらなく輝いている。沼底から這い上がる勢いで、一升瓶をつかみ、栓を抜いた。ぽんと言う音が、またしても古い記憶を噴出させた。
 ――あたし、お酒大嫌い。
 ――どうして?
 ――だって、うちのお父さん、ふだんはとっても優しいのに、お酒を飲むと、すごく恐くなるんだもの。
 私が黙っていると、N子は私を見ながら言った。
 ――妖彦にいちゃんも、大人になったら、お酒飲むのかしら……。
 ――飲まないよ。あんなまずいもの。
 ――ほんと?
 ――ほんとうさ。うちじゃ父さんも、もちろん母さんも飲まないから、きっとぼくだって飲めないよ。それに、臭いを嗅ぐだけでも気持ち悪くなるくらいだもの。
 ――そう。よかった。
 一升瓶を置いて、栓をした。辺りに漂うアルコールの臭いを少しでも振り払おうと、両手を左右に振った。
 そんなことをしたところで、何の免罪符にもならない。重々承知しているくせに、根本に手をつけず小手先にばかり動かしているエコ運動となんら変わっていない。
 一端立ち上がり、壁際の机に行った。引き出しを開け、カッターナイフを取りだし、こたつに戻った。相変わらず身体は小刻みに震えている。指先もだ。それでもカッターの鋭い刃は、動揺することなく、わずかに力を加えただけで、開封していた。
 中に入っていたのは、二枚の便箋だった。やはり万年筆で書いたらしい。封筒に書かれていたのと同じインク、同じ筆跡で綴られていた。

◇ ◇

 井之妖彦様
 ご無沙汰しております。とつぜんのお手紙、さぞかし驚かれていることでしょう。
 話したいことはやまほどあります。とても書ききれません。ただ、この手紙を書いた訳は、どうしても妖彦にいちゃんに会いたいからです。そうです。やっと会えるのです。
 こっそり調べたのですが、まだ妖彦にいちゃんが結婚もせず、一人でいることを知りました。とっくに誰か別の人と結婚して、子供もいるんだろうとあきらめていたのですが。
 もしかして、わたしとの約束を守ってくれているのではないか。そう想ったら、じっとしていられません。ただいきなり訪ねても驚くと想い、こうして手紙を書きました。
 今度の水曜日の夜、そちらにおじゃましてもいいですか?
 もしも、ここまで書いたことがすべてあたしの勘違いだったり、妖彦にいちゃんがあたしに会いたくなかったら、この手紙は破り捨てて、忘れてください。
 けれどももし、あたしが訪ねても良ければ、目印として水曜日の夜、玄関の見えるところに、片方だけで良いから靴下をぶら下げておいてください。どんな靴下でも良いですから、どうか、どうか、見える場所に靴下を……。

H・N子

◇ ◇

 くりかえし読み返した。次第に頭の中に考えとまでは行かないものの、言葉がばらばらに浮かんできた。
 N子が生きている。私に会いに来る。あのときの約束。水曜日の夜。目印に靴下。黄色いハンカチではなく靴下。
 幼い日の昼下がり、地元の民放テレビで『幸せの黄色いハンカチ』を放映した。どっちの家だったか忘れたが、N子と遊んでいたのだろう。どうせ大人の映画だからと、私は興味がなかった。N子も最初は同じで、私と遊んでいたのに、途中から見入っていた。
 仕方なく私も見るうちに、惹きつけられた。最後の場面では、N子だけでなく、私も涙ぐんでいた。
 ――もし何かあったら、あたしたちも黄色いハンカチを合図にしようね。
 ――何かあったらって?
 ――ううん、何でもない。
 愕然とした。あのとき、すでにN子は自分の運命を感じ取っていたのではないかと、今さらながら初めて気づいた。
 その映画を見てから間もなく、N子は消えた。夕方、近所の八百屋にお使いに出て、それっきりいなくなった。とうぜんながら、警察にも通報した。町内の大人たちも、夜っぴいて捜索にあたった。
 N子は帰って来なかった。八百屋を出た後、足取りはまったくつかめず、目撃者も証拠の品も見つからない。誘拐なら犯人から連絡がある。それもなかった。何も見つからずわからないまま、日にちだけが過ぎていった。
 N子の両親は、隣の町内に住む祈祷師のところに出向いた。神隠しだと言われた。夕暮れの黄昏時、きっと神か天狗に魅入られたのだろう。そう言われたところで打つ手がない。数年後、N子の両親は、ひっそりとどこかへ越していき、私たちの地元との関係も途絶えたのだった。
 N子が消えたのは、彼女が小学二年、私が五年のときだった。互いに一人っ子だった。近所に同年代の子供が少なかったこともあり、兄妹同然に親しくしていたものだ。
 あの約束とは、ご多分にもれない。
 ――あたし、妖彦にいちゃんのお嫁さんになる。だめ?
 ――だめなもんか。ぼくだって……。
 ――何? 言って。お願い!
 とてもN子を見返せず、うつむき、顔を真っ赤にして、私は言った。
 ――ぼくはN子ちゃんが大好きだ。N子ちゃん以外には、お嫁さんなんて考えられないよ。
 ――ありがとう。約束だからね。
 指切りの代わりに幼いN子が頬にしてくれたのが、私のファーストキスだった。
 頬が火照った。あの時のN子の息づかい、唇の感触が生々しくよみがえって来た。
「でも、なぜ靴下なんだろう」
 ぽつりとつぶやいた刹那、前方の壁がぽっと明るくなった気がした。
 見上げたそこには、近所の電気屋でもらった二ヶ月ごとにめくるカレンダーがある。最後の一枚だ。十二月のほうを見たとき、なぜ靴下なのかわかった。次の水曜は二十四日だった。

◇ ◇

 水曜の昼過ぎから、購入してきた黄色い靴下を家の前に取り付けた。合計五十四足、買った。白や黒といったありふれたものならいざしらず、黄色となるとなかなか見つからず、自転車で市内を走り回り、やっとのことそれだけ集めた。
 五十四足で止めたのは、それ以上見つからなかっただけのことである。近隣市町村のスーパーや衣料店に電話して、買い足そうかとも考えた。が、やめた。言うまでもなく一足二つだから、その数は百八となる。百八は、人間が持っている煩悩の数といわれる。除夜の鐘でそれだけ撞くのも、すべての煩悩を洗い清める意味かららしい。
 百八という数に、何かの必然を感じた。玄関戸はもちろん、ポストの口、門、ブロック塀、自転車の上に慎重に乗って、庇や雨樋にも取り付けた。
「何やってるんだ?」
 近所に住む老母だった。
「N子ちゃんが――」
 一瞬、口をついたものの黙った。八十近い呆けかかった老人に話したところで、理解できるわけがない。
「クリスマスの飾り付けだよ」
「ふつう、明かりをつけるんじゃないのか?」
「きらきらしたのは、趣味にあわないからね」
「何で靴下なんだ?」
「クリスマスのプレゼントを入れるものといったら、昔から靴下だろ」
「何で黄色なんだ?」
 しつこいババアだ。顔をしかめ、
「別に意味はないけど、意味はないけど、目立つから……」
 と答えても、老母は皺だらけの顔を私に向けて逸らさない。
「まだ、何かほかに?」
「そうじゃないが」
「それなら、忙しいから」
 取り付けに戻ろうとすると、さらに老母は肛門のような口を開く。
「近所の人から電話があったんだ。また息子さんが……って」
「またって、どういう意味だよ」
 苦笑混じりに訊ねた。
「飲んでるのか?」
「何をだよ」
「酒に決まってるだろうが」
「いやだな。酒なんてずっと飲んでないよ。変なこと言わないでくれよ。臭いを嗅ぐだけでも気持ち悪くなるくらいだもの」
「ふっ、よく言う。あれだけ迷惑のかけ通しのくせに……」
「やめてくれよ」
 私は老母を黙らせ、
「酒なんてずっと飲んでない。大嫌いだ。信じてくれよ」
 と叫んだ。もしすでにどこかにN子が来ていて、聞かれても良いように。事実、あの手紙を読んで以来、アルコールは一滴も口にしていない。
「禁断症状とかじゃないのか」
「どういうことだよ?」
 老母は答えず、黙って私を見ている。胸が詰まった。悲しくなった。たった一人の息子が、やっと幸せをつかもうとしている。それを邪魔するつもりか。
「もう酒は飲まない。もともと好きじゃなかった。ただ……」
 嗚咽がこみあげた。ジャケットのポケットから取りだしたティッシュを立てつづけに十枚近く使った。深呼吸してから言った。
「誰にも迷惑はかけてないだろ?」
「これまでのこともあるし……」
「誰に、どんな迷惑をかけてるって言うんだよ。えっ?」
 老母の皺だらけの目尻が、かすかに光った。何か言い出す前に、私は捲くし立てた。
「自分の住んでいる家を飾って、何が悪いんだよ。今日はクリスマスイブなんだよ。年に一度、いやぼくにとっては、ずっとずっと待ち望んでいた日なんだ。だから、放っておいてくれよ。ああ、約束するよ。ぜったいトラブルは起こさない。迷惑かけない。それで良いだろ」
 涙ながらに訴えた。真心が伝わったか。
 だめだった。老母は言った。
「ほんとに飲んでないんだな?」
「だから、さっきも言ったようにぃ――」
「飲むなよ。それだけだ」
 老婆は一方的に言い放ち、背中を向けてしまった。
 玄関先に座り込み、頭を垂れて泣いた。長い間の苦労や理不尽な軋轢、冷たい世間の仕打ちが、勝手に脳裏に映し出される。
「飲みたくて飲んだことなんて、一度としてなかった。ただそうしなければ、やり過ごせなかったから……。でももう」
 私は立ちあがった。ポケットティッシュは切れていた。首に巻いたタオルで涙と鼻を拭い、作業を再開した。

◇ ◇

 こたつに当たっているうちに、いつしかうつらうつらしていたらしい。
 けっして待ちくたびれたわけではない。慣れない作業に疲れただけだ。その証拠に、幽かな物音がしただけで、目を覚ました。
「N子ちゃん?」
 返事はない。腕時計を見た。まさに午前零時を迎えるところだった。
 こたつを抜けだし、玄関に急いだ。サンダルを突っかけて、玄関戸に手を掛け、私は動きを止めた。
 突風に吹き付けられたように、飲みたくなった。逃げるように家内に引き返し、台所の引き出しを開けて、焼酎の一升瓶をラッパの飲みしよう。そうすれば――。
 コホン、と外から聞こえた。私をぐいと引き戻してくれた。じっとしていられず、玄関戸を引き開けて、外に出た。
 静かで、穏やかな夜だった。月明かりがさんさんと照りつける中、私が吊した靴下が、黄色をこえて黄金色に輝いている。
 その中のひとつから、コホン、と聞こえた。間違いない。幼い頃、N子ちゃんがした咳だった。リンゴでも入れたように、ぷっくらとふくらんでいる。
「N子ちゃん。N子ちゃんだね」
「妖彦にいちゃん……」
 ふくらみがもごもごと動いた。たまらず近づき、止めてあった針金を外した。中を覗こうとしたとき、
「いや、恥ずかしいわ」
 とN子ちゃんが言った。
 応えるように、辺りから、かさかさと音がした。見ると、他にもいくつもの靴下がふくらんでいた。
「ごめんなさい。まさか靴下がこんなにたくさんあるとは想ってもいなかったから、うれしくて、つい皆、入っちゃったの」
 意味がわからず、黙っていると、さらにN子ちゃんが言った。
「全部、あたしよ。ただちょっと、事情があって……」
「事情って?」
「一年分ずつに分かれなければ、戻って来られなかったの。だからこんなに小さくて……」
 声に嗚咽が混ざった。
「いいさ。N子ちゃんには変わりないんだから」
 私はふくらんだ靴下を、一つ一つ丁寧に取っていった。二十八あった。八つで消えたから、今年で……と数え、数は合っている。
「あせらないで。一年にひとつずつ……」
「わかってるよ」
 ひとつを残して、ほかの二十七の靴下は、大切に押し入れの中におさめた。
「妖彦にいちゃん、会いたかったよお」
「ぼくもだよ」
 こたつで向かい合い、用意しておいたクリスマスケーキを取り出した。幼いN子ちゃんの顔が、蝋燭の火よりもまぶしく輝いた。

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『ハンマーヘッド』