(PDFバージョン:kokodehanai_takahasikiriya)
すいかずらの甘い花の蜜に、ぶんぶんとミツバチが飛びかう、そんな春の日。若いカマキリの三角の頭の中で、小さな声がささやきました。
――ここは自分がいるべき場所じゃない。
若いカマキリは、またあの声だ、と思いました。
花の間を飛びまわるミツバチは、みないそがしそうです。春の日射しに、朝露をふくんだクモの巣が、きらきらとかがやき、地面ではアリが何かの種をほじくりかえしています。
どこといって代わりばえのしない、いつもの光景でした。若いカマキリは近くの原っぱで生まれて、このスイカズラのヤブをねぐらにしていて、蜜をすいにやってくるチョウや、小さな羽虫をつかまえて食べ、日が暮れれば、葉の裏で休む、そんな毎日を過ごしていました。
おかしな声が聞こえてくるようになったのは、つい最近のことでした。
カマキリはあたりを見回しました。
すいかずらの甘い匂いのする風に乗って、2羽のチョウが、恋を語りながら追いかけっこするようにして飛んでいきます。
ながめているうちに何とも言えない、場違いな感覚が、お腹の底から広がっていきました。
なぜ、自分は今ここにいるのだろう、と同時に、強烈な違和感に吐き気がこみあげてきます。
思わずカマを振り上げたそのとき、自分を呼ぶ声に気付きました。
すぐそばに幼なじみのカマキリがいました。若いカマキリは、内心の動揺を隠して、カマをといでいるふりをしました。
「なぜ返事しないの。何度も呼んでたのに」
「べつに」
「このごろ変よ」
幼なじみのおせっかいがうるさくてイライラします。だまったままでいると、幼なじみが、悲しそうな顔でつぶやきました。
「あなたは変わってしまったわ」
若いカマキリは、絶望とともにさとりました。この気持ちは決して誰にも分かってもらえない。あの声が聞こえる、選ばれた者にしか……。
もはや、ここを出て行くしかありません。
カマキリは、すいかずらのヤブを出て、草原を歩き始めました。
水気を含んだ風が草をゆらします。
いくらも進まないうちに、顔見知りの年寄りカマキリに呼び止められました。
「どこにいくんだね。もうすぐ雨が降るよ」
無視して行こうとした若いカマキリに、年寄りはのんきに話しかけてきました。
「そんなに急がなくたって、人生はまだ長いじゃないかね」
若いカマキリがどんなに急いでいるか、年寄りは知りません。若いカマキリは思わず声を荒げました。
「人生は長い? そんなふうに思っているから、あなたはどこにも行かず、何もせず、何者にもなれずに、そうして年を取ったんだ!」
年寄りは、目をぱちくりと丸くしました。
「何者にって。そういうお前さんは、何になろうというんだね」
若いカマキリは、年寄りをにらみつけました。
「今の自分じゃない、何かに」
「若いときはそんなふうに思うもんだよ」
年寄りの言葉は、若いカマキリの気持ちをほんの少しも動かしませんでした。
「あなたみたいにひまじゃないんだ」
と言い捨てて、また歩き出しました。
急がなくてはなりません。
カマキリは飛ぶことはできますが、得意ではありません。葉かげをつたって、ただひたすらに歩き続けました。
どこに?
若いカマキリにも分かりません。
ただ頭の中でささやく声……「ここではないどこかへ」にしたがうのみ。
足が向くまま、何かに引寄せられるようにして進み、何日も歩き続けました。
途中、小さなクモや羽虫を食べましたが、だんだん体はやせ細って、神経がぴりぴりととがって、ますます緊張感に追い立てられるようでした。
ここではないどこかへ!
いまや絶えることなく四六時中頭の中に響く声が、立ち止まることを許さないのです。
やがて空気が変わりました。草原はいつしか深い森になり、遠くに水音が聞こえてきます。来たこともない遠くまで、やってきたのです。
湿った草をかきわけて進みます。
ふいに、草陰から、知らないカマキリが顔を出しました。小さな三角の頭をかしげます。
「見かけない顔ね」
と声をかけてきました。
なぜみんな自分を引きとめるのだろうと、いらだちをおぼえながら若いカマキリは答えました。
「旅をしてきたから」
「あなた、どこに行くの」
その口調には強い警戒心がありました。若いカマキリは、ゆっくりとカマをしごきました。
「ここではないどこかへ」
すると相手はおびえるような顔でだまりこんでしまいました。若いカマキリは、自分のカマを、口先で、なぞりながら、淡い期待を胸にたずねてみました。
「ここではないどこかへ、って思ったことはない?」
相手は、とまどうばかりです。
若いカマキリは、聞くんじゃなかったと後悔しました。
「分からない……それよりあなた、おかしいわ」
幼なじみにもそう言われたのを思い出しました。
「おかしい、だって? どこが? おかしいのはきみのほうだろう? 理解できないよ。生まれた場所で、何の疑問ももたずに毎日を過ごして平気だなんて。何の目的も、何の意志もなく、ただ流されるだけで満足できるなんておめでたいね!」
相手は首を振りました。
「何を言っているの? その目、なにかにとりつかれているみたい」
若いカマキリが一歩近づくと、相手は2歩、下がりました。もう1歩近づくと、さらに下がり、……ふいに、若いカマキリは相手に興味がなくなりました。
「行かなくちゃ」
「どこへ?」
「きっともうすぐだ、そんな気がする」
歩き始めたらすぐに、さっきの知らないカマキリのことなど忘れてしまいました。
ここではないどこかへ、ここではないどこかへ、ここではないどこかへ!
からみ合う草むらをぬけて、やぶをかきわけて、倒木を飛び越えて。
そして、川のせせらぎが見えてきました。
胸が高鳴ります。
目的地が近い、と強く感じます。
カマキリは、ますます食が細くなり、手足は枯れ枝のよう、首も胸もやせ細っていたのですが、なぜかお腹はすいていませんでした。
「もうすぐだ……」
川の水に、近づくごとに、全身が喜びに震えます。
若いカマキリを呼んだ何か……それがここにあるのでしょうか。
若いカマキリは、川のほとりにたどりつくと、迷わず水に向かって背を向け、腹を水につけました。
「ああ、やっと……」
何かが腹の中から押し出されていく感覚がありました。すうっと気が遠くなっていきます。
この春、若いカマキリのお腹の中で、卵からかえって幼虫となり細く長く育ったハリガネムシが、今、カマキリの体から出てきていました。
ハリガネムシという寄生虫は、水の中に卵を産み、小さな羽虫に食べられて、その羽虫を食べたカマキリのお腹の中で育ち、また水のある場所に戻ってくるのです。
ハリガネムシをすっかり出したカマキリは、ぺたんこになった力の入らない腹で荒い息をつきながら、もうろうとした意識の中で、つきものが落ちたような不思議な気持ちでいました。さっきまであれほど熱く強くカマキリをせき立てていた何かはもうすっかりなくなっていました。
「自分はなぜ、こんなところに来たいって思ったんだろう」
その答を知る前に、カマキリの意識は遠く、うすれていきました。
終
【閲覧注意】
決して「ハリガネムシ」というワードで検索しないで下さい。
まちがっても決して画像は見ないようご注意願います。
高橋桐矢既刊
『あたしたちのサバイバル教室』