「聞かざるは一生の損」林譲治

(PDFバージョン:kikazaruha_hayasijyouji
 ホテルの電話で起こされた。枕元の携帯を確認する。着信はない。つまり電話の主は、私の携帯番号を知らない相手。よい徴候だ。電話はフロント経由の外線電話だった。それは警察からで、妻が自殺したらしいという。ただ事情を訊きたいこともあるので早急に帰宅してもらいたいと。
 妻の死に茫然自失の夫を装いつつ、私は帰りの飛行機の中で、状況を分析していた、警察は新聞配達が第一発見者と説明した。電気もTVも点きっぱなしであることに不審をいだき、リビングの窓から覗いたら、妻が倒れていたという。近くに薬の瓶が転がったままで。
 普通なら新聞配達がこの程度のことでは不審には思うまい。未明に起きている人間など珍しくないからだ。ただし、自殺未遂で騒ぎを起こしたことがなければだが。
 妻はもともと虚弱な方で、最近では持病の他に心療内科にも通っている。処方される薬品が副作用の強い薬なので、過剰摂取は厳禁されていた。場合によっては命にかかわると。
 医者の言葉に嘘はなかった。私がカプセルに細工して、摂取量を増やしたら、救急車を呼ぶ騒ぎとなった。もちろん命に別状はない。そこは計算した。
 その時は、服用量を妻が間違えた、過失ということで落着した。が、それから三ヶ月の間に同じ騒ぎが二度続いた。その三ヶ月の間、私は妻に「君は自殺願望があるんじゃないのか?」という暗示を与え続けた。
 妻の主治医に「妻は自殺願望があるんじゃないでしょうか?」と妻想いの夫を演じることも忘れない。妻自身も同じ過失が三度も続いた事で、自分には本当に自殺願望があるのかもしれないと疑いだしていた。だから最近では、自ら主治医に相談するようにもなっていた。
 準備に三年間を要した計画は最終段階を迎えていた。すでに結婚早々に我々は互いに生命保険をかけている。額面は保険金殺人が起きても不思議はないレベル。ただし、自殺では保険金は下りない。妻が自殺しても私には保険金は下りない。
 これは別の意味での保険だ。自殺で保険金が下りないからこそ、夫である私には、妻を自殺に見せかけ殺す動機がないわけだ。
 では動機は何かと言えば、妻の財産だ。土地建物、さらには相続した金融資産。概算で、保険金の数倍はある。億を手に入れるため、数千万は棄てる。それが私の安全を保障する。保険金を棄てたところで、損をするわけではない。

 目的は財産だが、私は妻の財産の総額は知らない。財産などまったく関心が無く、ただ妻という人間を愛している、それを装い続けた三年間。だから妻の財産について尋ねたこともない。
 妻自身、過去に何度も財産目当ての男に辛い想いをしてきたらしい。だから交際していた時には、彼女は一間の安アパートで生活していた。貧乏OLが資産家の一人娘とは誰も思うまい。
 じっさい私も財産目当てで結婚したわけではない。確かに同棲していた頃は、愛していた。だが性格の不一致は如何ともし難い。だから数ヶ月後には別れることを考えていた。それを思いとどまって結婚したのは、偶然だ。
 同棲時代、ゴミ出しは私の仕事だった。そして私は証券会社や大手企業の封筒をそのゴミの中から見つけた。妻により細かく破り捨てられ、内容は読めなかった。だが、証券会社や企業のロゴはわかったし、読み取れた単語から内容を推測するのは容易だ。
 時期的にも株主総会の季節だ。株主総会関連の書類や株の配当に関する報告なのは間違いない。紙切れの中には独特の紙質で、株券の保有数だけが読み取れるものもあった。その会社の株価と保有数をかければ、妻の資産の一部は容易に計算できる。それだけでも数千万を数えた。全体では億を超えるだろう。
 騙されたという怒りもあったのかもしれない。自分の財産について何一つ言わなかったのは、結局、彼女は自分で言うほど私のことを信用してはいないと言う事だ。なら、期待通りの人間になってやろう。そのための三年間だったのかもしれない。
 結婚すると多少は私を信じたのか、新居は彼女の実家となる。古いが邸宅という名がふさわしい家。不動産の登記簿を確認すると、それだけで億単位の価値があった。
 それでも私は財産への無関心を装った。会社にも真面目に通い、出張も頻繁にこなした。時々、証券会社の書類が無造作に置かれていることもあったが、指も触れなかった。
 それはたぶん試験だったのだろう。不愉快ではあるが、資産家令嬢として、過去に深く傷ついたために、早々に人間を信じられないのかもしれない。それは私の計画にとって、マイナスでもありプラスでもある。マイナスなのは妻を信用させるのに時間が必要な点。プラスなのは、妻さえ信用させられれば、私を疑う人間などこの世にいるはずがないからだ。
 そうしてチャンスをうかがった。さすがに三年もこんな生活を続ければ、彼女も私を信用する気になったのだろう。時々自分の財産のことを仄めかすようになった。だが私は無関心を貫いた。それは君の財産なんだから、君の好きにすればいい。そんなやり取りが何度かあった。
 今思えば、転機は半年前の夕食だった。
 その日、珍しく妻の方から、私を食事に誘ってきた。私がプロポーズした、二人にとっては想い出のレストランだ。結婚記念日でもないのに、そんな場所を選ぶなど、何か話したいことがあるのは明らかだったが、私はあえて気がつかない態度を貫く。何も考えずに素直に妻との外食を喜ぶ無害な男に徹するのだ。
 レストランでの落ち着いた雰囲気のなか、妻は何か思いつめていた。何かを告白しようとしているのは明らかだったが、私は最後まで会話の主導権を握り、妻に告白の機会を与えなかった。
 当然のことだ、妻の財産について私は何も知らない夫で有り続けなければならない。それは計画の大前提だ。だからこの時も、妻から誘っていたものの、支払いは私がした。結構な出費だったが払えない額ではない。
「明日からまた頑張って働けばいいだけさ」と私が言った時、妻は微笑みはしたが、泣くのを我慢しているようにも見えた。
 妻にとって、過去の恋愛経験がトラウマになっていることは、私も気がついていた。それで私に財産のことを隠していたわけだが、三年間、私を騙し、財産のことを隠していたことが、彼女には精神的な負担となっていたらしい。三年の間に、彼女の罪の意識が段々と成長したということか。
 妻との外食からほどなく、彼女は心療内科に通うようになり、さらに持病も悪化してきた。精神の不調が肉体にも影響したのだろう。
 ようやく私は、計画を最終段階に進めた。妻の処方薬は幾つかあるが、劇薬指定なのは二種類。それらのカプセルの一部で、薬剤の量を増やしたのだ。だから数日に一回は、増量したカプセルを服用することになる。
 もちろん片方だけが増量なら体調不良で済む。だが二種類の劇薬の両方が増量カプセルなら、副作用の相乗効果で命に関わることになるのだ。
 私の在宅中に起こるなら、また自殺未遂という話で処理できる。私が不在の時にカプセルの偶然が起こるなら、妻は自殺に成功し、夫である私には完璧なアリバイが保障される。保険金は下りないが、財産は私のものだ。
 計画はすべて順調らしい。しかし、高揚感はあまりない。結局、妻は最後まで財産目当ての男としか巡り会えなかった。それを思うと、可愛そうな気がしたからだ。私に言う資格がないのは百も承知だが。

 警察も医者も、妻の死因は自殺と結論した。精神的に不安定なことや、過去の自殺騒ぎが、そうした結論につながったらしい。警察では、保険金が問題になったようだが、自殺では下りないことから、それも沙汰止みとなったらしい。
 妻の葬儀を執り行い、役所に財産を相続する旨の書類をはじめ、色々な書類を提出し、落ち着いたのは、妻の死後一週間が過ぎていた頃だ。
 弁護士の訪問を受けたのは、そんな時だった。すでに老齢の弁護士は仏壇に線香を上げ、手を合わせる。聞けば彼女の両親の知り合いであるという。子供の頃から妻を知っている縁もあり、案件を引き受けたという。
「それで債務処理の件ですが」
 弁護士はさっそく要件に入った。
「債務処理とは、妻が債権者ということですか?」
「いえ、奥様は債務者です」
「債務者! どういうことです! 妻の財産は……」
 さすがに億単位の財産があったはずだ、との言葉は呑み込んだ。弁護士は私の動揺を別の意味に解釈したらしい。
「実を申しますと、半年前まで、奥様はこの家屋敷を含め、五億の財産を所有しておりました」
「五億……」
「ご存じないでしょうが、奥様は資産家の令嬢でした。ただ財産目当てで寄ってくる男たちに、それは傷つけられた。やっと、私という人間を見てくれる男性と出会ったと、それは喜んでおられました」
 弁護士もまた、私を微塵も疑っていないのが、その態度からわかった。
「五億の資産がありながら、それがなぜ債務者に?」
「奥様は悩んでおられたのです。自分が多額の財産を相続しながら、それを夫であるあなたに隠していることを。心療内科にかかられたのも、おそらくそれが原因でしょう。
 奥様は、せめてもの罪滅ぼしにと、自分の財産を殖やし、あなたの愛情に応えようとした。実を言えば私も相談を受けました。その時は、無理する必要などないとお諫めしたのですが……」
「妻は何を!」
「詳細はこの書類に。簡単に説明すれば、株式投資に失敗し、一〇億の借金を作ってしまいました。土地家屋有価証券で精算しても、なお借金が五億残ります」
「五億の借金!」
 目の前が暗くなると言うのがどんなことか、私ははじめて知った。
「最初はそれなりに利益も出ていたようです。しかし、私に言わせれば、それは単なる偶然でした。だが奥様はそれがわからなかった。半年前に土地家屋以外の財産はすべて失われた。
 あるいはそこで止めていれば、少なくとも家は残ったでしょう。この屋敷とて評価額は億単位になりますからね」
「それなのに妻は……」
「そこが悲劇です。半年前、私は奥様から株式投資の失敗を相談されました」
「それで先生はなんと?」
「もちろん、ご主人であるあなたに真実を話し、相談するようにと助言しました。いまだから明かせますが、結婚前、私は奥様からあなたがどんな人物か調査するように依頼されてました。それで興信所を雇い、あなたの身辺調査を行った。だが、あなたが財産目当てで結婚するような人物ではないことはすぐにわかりました。だから話せばわかってくれると、私も奥様も考えたのです」
「そうですか……」
 妻は私が思っていた以上に、男性不信に陥っていたらしい。興信所まで使っていたとは思わなかった。
「奥様から、二人の想い出のレストランを予約し、そこですべてを話すつもりと聞いた時には、私も安堵していたのです」
「あの時に……しかし、そんな話は聞いてないぞ!」
「やはりそうでしたか、奥様の遺言で財産を整理するまで、私もすべて解決していたものだとばかり思っておりました。まさか奥様が失った財産を取り戻すために危険な投資話に全財産をつぎ込んでいたとは……あるいは、半年前のその時に、奥様があなたにすべてを告白していれば、自殺するような結果には至らなかったのに、残念です」

林譲治プロフィール


林譲治既刊
『興国の楯1945
超爆撃機撃墜指令!』