「コルヌコピア5」山口優

(PDFバージョン:korunukopia5_yamagutiyuu
 空間が揺らいだ。
 私は気づく。これは、ピアが私を暴漢から救ったときと同じだ。但し今、この世界と少しずれた空間に飛ばされているのは、暴漢ではなく私自身、そしてピア、アマルティの三人。
「悪魔退治は大仕事だ。善良な一般人に被害が及ぶといけないからね」
 物言いは柔和だが、アマルティの声音は既に私と対等な学生のそれではない。悪魔を倒す天使、異端を排除する信徒――自らに誤謬は一〇〇%ないと信じ切った者特有の確信と優越感に満ちあふれている。
「何をするつッ――」
 言いかけて、私は言葉を喪う。私の身体が急速に落下し始めている。自由落下だ。ピアも、そしてアマルティも。アマルティだけは、落下しつつも、落ち着いた態度を崩さない。
 落下しつつ、ピアが私の腰にしがみついてきた。
「地球の重力に引かれてるんです」
 そう説明する。
「何よそれ――」
「余次元空間にも重力は届きます。でも他の相互作用は届かない。だから、電磁相互作用に伴う、地面とあたしたちの肉体の接触による抗力はここでは存在しないんです」
 素通りするということか。地球という物体そのものも。だが地球の重力だけは伝わっていて、私たちは少しずれた空間の地球のコアに向かって落ち続ける。
「君はどいて。そいつが殺せないじゃないか」
 アマルティが言う。
 殺す――。
 私は腰にしがみつくピアを見つめた。ピアはもう、哀願の目はしていない。ただ真っ直ぐに、私の決断を待つような視線。
 思い切り顔を踏みつけてやったが、殺すつもりはなかった。殺す方法なんて分からない、という事情もあったが、ただ地球から、私の周りから追い出せれば良いと思っていた。
 だが、アマルティは本気だ。それは分かった。
「なぜそこまで! 私は地球から追い出せばいいと思ってる」
「私のマスターの命令だよ」
「マスター……?」
「我等のマスターの一族は、かつて万能の力を持っていた。彼等はその力を、マスターに仕えていた我等に授けた。永遠に続く生命体への忠誠心とともに。彼等を、そして彼等の子孫を、育て護り栄えさせるために」
「あなたも……願望機……」
 私の話を無視して、アマルティは語り続ける。
「だがその一族の一人、私のマスターは気づいた。生きるということは願望と環境のギャップを埋めようとする行為だ。永遠に埋まることの無いギャップを埋めようと努力し続けることこそが生きるということ。生命そのものが、無限の力を持つ彼ら自身にとっての願望機なんだ。ギャップが無くなれば、生きる意味がなくなる。生きるためにこそ高度化していった高度な情報処理、つまりは意識が退化するのは必然。我がマスターは変わり種でね、辺境を旅する放浪の思想家だった。一族の文明の潮流に乗り遅れた――だから気づいた。まあ、私もマスターに付き従って、潮流に乗り遅れてしまった存在だったから、究極の願望機になりきれず、あれこれマスターに世話を焼くこともなかった。それが結果的に幸いしたんだ」
 アマルティは右手の掌をすっと私に向けて突きだした。構えるような仕草。
「文明の滅亡を目にして、我がマスターは失意のあまり死を選んだ。私にそれを止める暇すら与えずに。そして遺言で私に最期の命令を与えた。何年かかってもいい。全ての願望機を滅ぼせ、と」
 瞬間、アマルティの掌が光る。
「危ないっ!」
 ピアが私の前に立ちはだかっていた。眩い光。私は思わず目を閉じる。衝撃が私の身体を襲い、自由落下のまま、かなり後ろへ吹っ飛ばされた。踏ん張れるものもなく、そのまま私は落下し続ける。
 ゆっくりと、目を開けた。ピアが私の前方で漂っている。私は空間を掻いた。ピアに近づく。服はボロボロで、あちこちですすけた素肌が見えている。私が買ってやったバッグだけは、しっかりと握りしめていた。
「ピア、ピア大丈夫……?」
「マスター……。逃げて……。あの人は、あなたも……」
 ピアの言葉に、私は前方を向いた。アマルティが、再び手を構えている。静かに。確信に満ちて。
「――私も、殺す気なの?」
「君の意識は既に堕落しかかっている。君が自覚している以上にね。君はコルヌコピアという存在を知ってしまった。その蜜の味を。やがて君は、周りの人も巻き込んで、コルヌコピアに頼り切った文明を実現させてしまう」
「そんなこと……ない!」
「言うと思ったよ。そんな文明を何度も見た。彼等の言うことを信じて、いったんは待ったんだ。だけど、みんなコルヌコピアに頼るようになった。最終的にはね。だから、もう待たないし、容赦もしない」
 アマルティは柔和に微笑んだ。つけいる隙の全くない、一〇〇%無慈悲な笑顔。
「安心して。君の代役は用意しておく。君の周りの人に罪はない。彼等を戸惑わせてはいけないからね。私は生命を最大限尊重するんだ」
 アマルティの掌が光る。
「ただ、腐った部分は除去しないと」
 瞬間、ピアが再び私の前に立ちはだかった。アマルティが放ったエネルギーを受けて、彼女の身体は更に破壊される。服は全て燃え尽き、腕が一つ、吹き飛んだ。
「ピア!」
 どうして……。
 私は言ったはずだ。帰れ、と。
 いいや違う。今の私は殺されたくない。
 その本当の私の気持ちの方を汲んで、ピアはこの場に留まり、私を護ろうとしてくれている。
 でもそれじゃ駄目なんだ。
 私は思う。
 そのままじゃ、私は堕落した、腐った部分だ。アマルティの言うとおりだ。
「ピア!」
 私は叫び、空間を掻いて、ピアに近づき、後ろから抱きしめた。
「マスター……?」
「聞きなさい。あなたは、私を護らなくていい」
 嘘だ。本当は守って欲しい。私の別の部分は叫んでいる。だが強いてそれを押さえ込む。だが私を見つめるピアは、私というより、私のその別の部分の感情に惹かれている。
「でもあなたは……」
 そう、本当は死にたくない。だからピアは私を、人を護る――護りたいと欲する。ピアのメカニズムなら、ピアの欲望なら、そう願い、そう意思して当然だ。でも。
「それが駄目なの!」
「マスター……」
「私は死にたくない……それは認める……でもそれじゃ変わらない、変われない――」
 次に私が取った行動は、私自身、全く予想していなかった。私はピアを後ろへ突き飛ばした。反動で、私自身はアマルティの方へ勢いよく突進する。突進、というには無様だった。ぐるぐる回転しながら、叫び声を上げ、それでもアマルティに向かっていく。
「君は……」
 アマルティはその一瞬、状況を理解しがたい、という顔で、私を凝視している。
「アマルティ!」
 かなりの勢いで、相手の身体に、脚の方から近づいていく。ぶつかる刹那、私は馬乗りのよう彼女の胴を脚でがっちりと捕まえた。そして彼女の首を絞める。渾身の力で。
 勿論、それで何かが変わるとは思っていなかった。ただ、ピアが見ていると思った。ピアに、私がただ護られるだけの存在だとは思って欲しくなかった。彼女が面倒を見続けなければならないような存在だとは思って欲しくなかった。だから。
 更に力を込め、私はアマルティの首を絞め続ける。
「君は……」
 アマルティは私を見つめ、同じ言葉を繰り返す。
「私は、私よ!」
 叫ぶ。
「ピアと一緒にいることが心地良かった。あなたの言うとおり、腐ってたのよ。それも私。その後でそのことにムカついてピアを足蹴にしたのも私。そして今、ピアに護ってもらうだけじゃ嫌で、あなたの首を絞めているのも、この私!」
 渾身の力といっても、たかが女子大生の力だ。宇宙の法則すら変容させる力を持つアマルティには、まるで通じない筈だった。
 だが、アマルティは、私の行動の意味を考え続けるように、身体を動かさない。
 じりじりするような、不安定な時間がすぎていく。私は反撃を恐れ、渾身の力を振り絞る。そうしていれば、反撃が防げると信じているかのように。いや、信じたいがために。私は、無様に相手の首を絞め続けた。
 どれぐらい時間が経っただろう。やがて、涼しい声で、アマルティが言った。
「ああ、ここにいたよ、マスター。新しい可能性が」
 彼女は、愛おしそうに私の頬に掌を当てた。恋人にでもするような仕草。その瞳は慈愛に満ちていた。本来の彼女は、こんな瞳をしていたのだろう、と思わせるような、自然で、柔らかい視線。私は戸惑い、手の力を抜く。
 直後、唐突に、彼女は消えた。
 彼女の首に当てていた手が、空を掻く。次の瞬間、急に圧倒的な感覚が私を襲う。冷たく、重い質感。今までの余次元空間の、お情けで酸素と窒素が充たされていたような、無機質なものとは全く違う、重厚な皮膚感覚。
 水だ。
 海水だ。溺れているんだ。
 ようやく理解した。次の瞬間、力強く私は引っ張り上げられた。上へ、上へと。この華奢な手の感覚は、ピアだ。
 ざぶん。
 月が見えた。そして星々が。
「マスター……」
 私をぎゅっと抱きしめるピア。胸に顔を押しつけてくる。思わず、私は彼女の頭に手を当てた。撫でるように。
「ピア、踏んで、ごめん」
 ピアは首を横に振った。
「腕、大丈夫?」
「……すぐに、治ります。――ほら」
 そう言ったときには、吹っ飛んだはずの彼女の腕は、既にそこにあった。得意げに、ピアは笑う。ほらこの通り、マスターにご奉仕するのに支障はないですよ、と言わんばかりに。
 だが、私は厳しい表情を作った。
「ピア――最後の、命令」
 ピアは笑みを消し、じっと、私を見つめる。
「マスター……?」
「あなたは、あなた自身の、やりたいことを、探しなさい。あなたはロボットであって、生物じゃない。多分食欲とか、睡眠とか、子孫を残すとか、その全部に無頓着なんでしょう。やりたいことと言えば、人間の欲望を叶えることだけ――。それがあなたの欲望だった。でもそれでは駄目。なんでも言うことを聞くのでしょう? だったら、あなた自身がやりたいことを探して、見つけなさい。これが命令」
「……はい」
 ピアは私の言葉を理解したのか、静かに頷いた。大切なものを永遠にとりあげられたような、失望を隠せない顔。だがその顔には同時に、麻薬の中毒から解放された者のそれのような、吹っ切れた何かも、垣間見えた。
 私たちはじっと見つめ合う。
 地球の反対側、ブラジル沖の大西洋、星々が瞬く下で。

 一ヵ月が経っていた。
 そろそろ私の修士一年目も終わり、リクルートスーツに身を固めて忙しく就職活動を進める同級生らを横目に、修士論文の研究に本格的に着手した頃。
 ちなみに、あの事件の直後、アマルティは退学届一つを残し、私たちの前から消えていた。
 一ヵ月前のことが、今では夢のように思い出される。あれから、私はピアに連れられて、ブラジルの海岸まで到達した。一悶着あったが、なんとか日本に帰れた。ちなみに、ピアとはブラジルで別れた。ピアは言った。「この惑星じゅうを回ってきます。やりたいこと、探します」と。
 ――あの娘、どうしたかな。
 頬杖をつく私。悪い想像が頭の中をかけめぐる。
 私の命令を無視して、誰かの願望を叶えてるんだろうか。それとも、一人の娘として生きようとしたはいいが、悪い男に騙されてたりしないだろうか。
 不意に、アパートの呼び鈴が鳴る。
 ――全く、今日中に書き上げたいレポートがあるのに。
 私は胸の内で悪態をつきながら、インターホンのモニタのスイッチを入れた。
「はい、何のご用?」
 少女がいた。
 さらさらした、柔らかい黒髪の少女。ふわっとした前髪が、ぱっちりした黒目がちの瞳に柔らかくかかっている。睫は長く、鼻筋は上品にすっきりとしていて、唇は赤くふっくら。スリムな、というより、まだまだ未熟な身体を、セーラー服に包んでいる。脚には紺色の靴下に、黒いローファー。
 きらきらした瞳で、私を見上げている。
「こんばんは。あたしはピア」
 少女は言った。
「やりたいこと、見つけました」
 彼女はにっこりと笑う。
「あなたと一緒にいたいです。これから、ずっと」
「私の命令、聞いてなかったの」
 私はあきれ顔になる。だが、目の前の存在に、口元が緩むのを抑えきれなかった。
「聞きましたよ。でも一緒にいたいの。だから置いてくださいな」
 再び微笑む。
 これまでに見たことのないような、我が儘な笑顔だった。

山口優プロフィール


山口優既刊
『アンノウン・アルヴ
―禁断の妖精たち―』