「硝子の本」平田真夫

(PDFバージョン:garasunohonn_hiratamasao
「おい、あれは何だと思う」
 土星の輪と平行に飛びながらタイタンに向かう途中、ふと妙な物を見つけて、相棒に話し掛ける。
「何のことですか」
「ほら、『上』を見ろ。カッシーニの端っこに、何か四角い物があるだろ」
「どれどれ」
 衛星間用小型機に同化した彼――いや、彼女かも知れない。実は、生活用ボディ同士では顔を合わせたことがないのである。今はこちらも真空と無重力に特化した体に同化しているし、何処かで出会っても、互いに相手だとは判るまい――は、慌てて自分の「眼」をそちらに向ける。
「どの辺ですか」
「待ってろ。今、方角を合わせてやる。『眼』の調整をこちらに渡せ」
「はい、どうぞ」
 目の前のタッチパネルに現れた十字型のカーソルを、肉眼で見付けた物体の位置に調整してやる。
「判るか」
「待って下さい。倍率を上げます」
 パネルに重なった映像が拡大される。途端に、件(くだん)の物体は画面の外に行ってしまう。
「ちょっとそのままにしてろ。視野から外れた」
 言いながら、再びカーソルを調整する。相棒が声を上げた。
「あ、判りました。あれですね」
 土星の輪と平行に飛んでいるといっても、ここまで近付いてしまうと、何処からが輪の外で何処からが中との明確な基準は無い。大小様々な大きさの氷の粒が、上に向かって次第に多くなっていくだけである。カッシーニの端にあるその物体も、疎らな氷の粒に囲まれて、辛うじて輪の中と言える位置に浮遊していた。
 さて、問題の物体だが、此処から見る限り正確な平行四辺形のようである。距離までは判らないが、かなり遠そうだ。したがって、その大きさはかなりのものとなる。
 色は銀、というか、土星からの光を反射してきらきらと輝いていた。その分には、他の氷の粒とさほど変わらない。問題は、群を抜いた大きさと、形の正確さだ。
「で、もう一度訊くが、ありゃ何だと思う」
「さあ。近付いて調べる以外、ないでしょうね。場合によっては、当局に報告しなくてはならないかも」
「よっしゃ。そっちに向かってくれ」
 言うが早いか、機は先端を輪の方に向けた。本当は、あのように氷が密集している空間を飛ぶのは危険なのだが、この機体には自動回避装置が付いている。巡航速度で飛ぶ時にはともかく、ゆっくり行動する分には問題は無い。
 接近するにつれて、物体の本当の形は平行四辺形ではなく、きちんとした直角の頂点を持つ直方体であることが判ってきた。だが、宇宙空間では、肉眼視での距離感が取り難く、なかなかそばまで来たという実感が湧いてこない。それ程相手は遠距離にあり、また巨大なのだ。
「こんな物が、何故今まで見過ごされていたんだろう」
「そりゃ、如何に大きいとはいっても、所詮宇宙サイズで見たら大したことはありませんからねえ。形まではレーダーでは判らないから、誰かがこうして、直接目視する機会が無い限り、他の氷粒に紛れて知られずに終わってきたんでしょう」
「成程」
 その間にも、相棒は次第に速度を落としながら、物体に近付いて行った。そして、
「現在、百キロメートルぐらいの所に居る筈です」
 と言った位置で進行を止める。宇宙規模での百キロなら、ほんのすぐ近くということになるが、やはりたかだか十メートルの相棒の機体と比べれば、相当な距離だ。その位置から見ても、物体は視界の端から端まで延び、上下にも圧倒的な威圧感を以て聳え立っていた。
「大きさは?」
「待って下さい。すぐ測定値が出ます。ええと……驚いたな、横幅――と言えばいいのかな――が一六四キロメートル、高さ一一二キロメートル」
「すごいもんだな。厚さは判るか」
「さっき近付く時に撮った映像から換算すると、だいたい三十キロメートルですね」
「で、三回目の同じ質問だが、あれは何に見える?」
「本……でしょうか」
 その通り、それはまさしく、横に寝た巨大な本の形を採っていた。全体的には半透明なゼリーのように向こう側の星を透かして見せ、時々、中を素早い光の粒が走る。こちらから見る側が表紙なのだろうか、下の辺には綴じ代としか思えない、紙を貼ったような筋が入り、題名が書かれる筈の位置には見たことも無い記号のようなものが彫られていた。
「人工のものかな」
「さっきから、それを調べているところです。もう少し待って下さい。詳しいデータが出ます。……ふうむ、こりゃ驚いたな」
「どうしたんだ」
「まず、屈折率から考えて、あれは氷ではありません。恐らくはケイ素の化合物からなる結晶でしょうが、我々の文明にはまだ知られていないものです。何しろ、硬さ――というか強度が半端じゃない」
「どういうことだ」
「拡大した表面に積もる星間物質の厚さを調べてみると、あれは少なくとも数十から数百万年の間、あそこにあったことになります」
「おいおい、気は確かか」
「間違いありません。もっと接近して、実際の表面に触れてみれば詳しく判るでしょうが、この距離から大雑把に見積もる限りでも、その位は優にあります」
「では、人間が置いた物じゃないな」
「ええ、その頃地球では、ようやく類人猿が二本足で立ち始めた頃ですから。形の正確さはやはり人工を思わせますが、だとすると、間違いなくあれは、我々の知らない文明の手になるものです」
 言われて、もう一度その「本」をよく眺めてみる。人類が紙を綴じてあのような形に作り上げる数十万年前、どんな生物があれを置いたというのだろう。
「それにしても、そんな長い期間、よく傷一つ付かないでいられたもんだな」
「そこなんですよ、強度が尋常でないと言ったのは――。置かれていた歳月から考えて、他の氷の結晶との接触・衝突は無数にあったでしょう。その間、全く無傷のまま、あんなに滑らかな表面状態を保てるとは、確かに驚異です。材料の結晶構造が詳しく解れば、我々にも随分と有用だと思われます」
「他には?」
「半透明に見えるのは、内部にある微細な金属の粒子です。ガリウム、インジウム、ゲルマニウム、その他半導体を構成する一群であることが反射率から推察されます。つまりあれは……」
「あれは?」
「巨大な電子回路を一種の超硬質硝子で包んだものですよ」
「ふうん」
 そんなものが、人類の発生と前後してあそこに現れるとは――。土星に繋がるワームホールでもあったのだろうか。それにしても大き過ぎる。見たところ、推進機能などは持っていないようだが、一体、どうやって運んだのだろう。しかもそれは、「本」の形をしているのだ。
「作動しているのか」
「さっきから周波数を色々に変えて呼び掛けているのですが、一切応答はありません。ただ、微弱な電磁場が所々から発生しています。エネルギー源は何だろう。ああ、そうか。あの金属粒子にはリチウム合金も大量に含まれていますね。多分、土星からの反射光を使って発電しているのでしょう」
「電磁場の発生に、規則性はあるのか」
「全くのランダムです。現れたと思ったらすぐ消えたり、場所を替えて他の所に似たような波が現れたり――。あれでは通信には使えませんね。恐らく、外界との交信は考えず、単独の閉じたシステムとして動いているのでしょう」
「何の為に?」
「それが問題です。何処を探しても航行装置の類は見当たりませんから、船の一種とも思えない。ただ現在の軌道を、土星からの引力と遠心力で釣り合いを取りながら廻っているだけ。輪を構成する、他の氷と一切変わりません。もっとも、電子回路であるからには、当然何らかの目的・役割がある筈です。とりあえず、電磁場の発生パターンと、回路の構造から、何か類似のシステムを我々が持っていないか調べてみましょう」
 しばしの沈黙。目の前のディスプレイを、数字と文字の群が凄まじいスピードで走って行く。やがて相棒が悲鳴を上げた。
「どうしたんだ」
「信じられない。しかし、八七パーセントの類似点がある。でも、あんなに大きいなんて――」
「一人で合点していないで、こっちにも教えてくれないかなあ」
「あ、すみません。今、データベースとの照合を行った所、あれはとんでもない物と非常に似ていることが判ったんです」
「何だ」
「生物の脳ですよ」
「何だって」
「あまりに大き過ぎるから、始めのうちは見落としていたんです。でも、かなりの点で一致している。あの細かい金属片は、それぞれが細胞に相当するものなんでしょう。時々発生する電磁場は、あれらが互いに連絡している時に生じるんです。つまりあれは、脳だけで出来ているボディです」
「ふうむ」
 そんな物が、人類の発生と前後してあそこに置かれたのか。誰が何の為に――。
「で、あいつは『心』を持っているのか」
 言いながら、もしも自分があの中に閉じ込められたら、と考える。相棒の言うには、外との連絡は全く無いということだ。
 数十万年に渡って、誰かと話をすることも、外を眺めることも無く、ただ、思考だけを続ける存在。もしもそんな物になっていたら、とっくの昔に気が狂っていただろう。
「もしも、私達と同じような思考パターンを持つ心があるかと言えば、多分ノーですね。回路の構造こそ、ボディの脳と似ていても、発生する電磁場のパターンが全然違います。あれは現在、『空き室』だと思われます」
 相手の答に、何故かほっとする。誰がやったにせよ、ただ考えるだけで何も出来ない存在を宇宙に浮かせるなんて、残酷以外の何物でもない。
「じゃあ、何だってあんな風に作動しているんだ。あの電磁場の発生は、何の為だと思う?」
 問い掛けると、相棒はしばらく考えてから、やや躊躇いがちに答える。
「これは勝手な仮説なんですが――あれだけの大きさの脳の中に入る知識となると、相当な物になりますよね。もちろん、大きいから賢いというのは、鯨の脳のことを考えれば幻想です。でも、あれは大部分を記憶領域に使っていますし、とにかく人工物ですから、作った者はあれだけの大きさを必要と考えたのでしょう。で、まさかあの中身が情報量的に空っぽだとは、とても考えられません。恐らく、相当量の知識を蓄えていると思われます。ただ、放っておくと、それらは次第に劣化してしまう。ちょうど、永久磁石の磁力が弱っていく為に、磁気媒体の記憶装置が劣化してしまうように。だから、時々リフレッシュしてやる必要があるんじゃないでしょうか。つまり、現在のあの脳のエネルギーは、内部の記憶を保持し続けるだけの目的で使われていると思われます」
「成程ね。それじゃあ、あの中には、あれを設置した奴らの知識がしっかり保存されてるって訳だ」
「仮説が全部正しければ……」
 そこで、ゼリーのように向こう側が霞む直方体を見ながら考える。
「あれを作った者の工業技術レベルから考えると、それには人類に未知な知識が大量に含まれると考えられるな」
「ええ。あのケイ素結晶体の硬度一つとっても、我々にはとても作り出せませんし、そもそもあんな巨大な人工頭脳を、単独で数十万年も維持する技術の発見など、まだまだ先の話です」
「じゃあ、今は空いているあの中に送りこまれた『心』は、途轍もない量の知識を得ることが出来る訳だ」
 そう言うと、相棒はしばらくの沈黙の後、恐る恐る口を開いた。
「まさか、あなたが?」
「そう。俺の『心』をあそこに送ることなんぞ、簡単に出来るだろ?」
「そりゃ向こうのフォーマットの解析をすれば何とか可能ですが、危険過ぎます。記憶の方はバックアップを取ればとりあえず安全ですが、どちらにしても、あれだけの巨大な回路を現在の人類の脳髄に使ったら、何が起きるか」
「なあ、こうは考えないか。あれは何の為に置かれたのかと」
「さあ」
「時間的には、地球に人類が発生したのと、同時に現れてるんだぜ。もしかすると、我々がこれを発見し、中を見るところまで発達したら、何かを教えてくれる目的で設置されたのかも知れない。現にあれは、我々に『本』を連想させる形を採っている」
「逆かも知れません。人類がそこまで発達したら、その段階で止める為にあるのかも。罠だとしたら、どうします」
「いずれにしても、一種の賭けだな。ただ、あれは外部との通信手段を持たないから、中を覗くには、誰かが乗り移るしか無い訳だろ」
「ええ、それはそうです」
「だったら、今すぐそれをやってみたところで、構わないじゃないか。正直、俺は好奇心でうずうずしているんだ。タイタンで報告してからじゃ、他の奴が先にやってしまいかねない」
 再び、しばしの沈黙。やがて相棒は、データ調整の作業に入った。
「分かりました。では、あなたのここまでの記憶を記録します。その後向こうに心を送りますが、十秒後に自動的に元に戻るように調整させて下さい。向こうに行ってしまったあなたは、こちらに何一つ連絡を取れなくなりますから、時間を決めて戻すしかありません」
「しかし、十秒とはまた短いな」
「始めは短い時間で、一瞬だけ覗くだけにした方が安全だからです。もしも上手くいったら、二度目は――」
「よし、それでいい」
 話は決まった。相棒はパネルの上に数種の記号を素早く表示させていたが、やがて、
「用意出来ました。よろしいでしょうか」
「ああ」
「では、行きますよ」
 突然、世界が変わった。凄まじい勢いで、様々なイメージがどっと雪崩れ込んで来る。混沌とした空間、星間物質の集合、やがて太陽から惑星の誕生まで――。
 かと思うと、一部のイメージは宇宙全体まで広がり、高次元内でのこの空間の在り様や、微細な素粒子が量子レベルまで拡大されて「見える」のだ。だがそれは、普段、通常の三次元空間に棲む身の理解を完全に越え、余りの情報量の多さに心が悲鳴を上げた。
「うわあ、助けてくれ!」
「どうしました」
 相棒の声が聞こえる。気が付けば、そこは元の操縦室だった。生の肉体のままだったら、冷や汗で一杯だったろう。それ程、「本」の中で一度にぶつけられた情報量は、心に負担が大き過ぎたのだ。
「十秒経ったのか」
「ええ」
「もっと長いかと思ってた。少なくとも、三十分位はあっちにいたかのように感じる」
「何があったのですか」
 そこで、「本」の中で見た宇宙の姿について、その一部を語って聴かせる。全てを説明するのは、とても無理だ。あの中に詰め込まれた知識の量は、とても現在の人間の心で受け入れられるものではない。
「恐らく、あれを作った奴らの精神は、我々など想像もつかないような大きさを持ってるんだろう。こちらが作った記憶装置に移し替えたら、パンクしてしまう位の――」
「ということは、今の所、我々にあの中の知識を引っ張り出すのは無理であると――」
「ああ。宝の山を目の前にしながら、肝心の受け皿が無い。蠅の頭に人間の知識を送り込むようなものだ。もっと人類が進化して、精神の容量そのものが大きくならなければ――」
 言ってしまってから、それがただの空手形であることに気付く。既に人間の肉体の進化は止まってしまっている。
 ――我々は間違いを犯してしまったのか?
 元の自我は機械の中に保存しておき、ボディにコピーを同化させて行動する。たとえボディが破壊されても、オリジナルが無事なら、安全でいられる。しかしこれでは、世代交代が行われず、精神の進化は止まってしまうことになる。
 肉体の在り様は自然に任せるという考え方が、或いは正しかったのかも知れない。そうすれば、脳の進化と共に、もっと巨大な容量の心が現れることも有り得る。
「不死とは、進化の否定でもあるという訳か」
「え、何ですか」
 そこで相棒に、今思っていたことを伝える。相手は、
「成程」
 と呟いて沈黙した。
 あの「本」は何の目的であそこにあるのか。進化した人類に、知識を与える為? もしそのような親切で置かれたにすれば、人類は精神と肉体に関する技術の運用を早まり過ぎたことになる。
「行こう」
「ええ。座標確認用のベンチマークは貼り付けときますか」
「一応、そうしといてくれ。今は簡単な連絡だけでいいが、いずれタイタンに着いたら、当局に詳しく報告しなくちゃなるまい。或いは、何か別の方法で役に立てることが出来るかも知れない」
「了解」
 ――人間は考える葦である。
 船が出発する加速を感じながら、ふとパスカルの言葉を思い出す。
 ――だが、たとえちっぽけな葦であろうとも、それは宇宙より偉大な葦だ。何故ならその心は、内部に宇宙そのものを収めることすら可能だから。「考える」という行為によって――。
 しかし、真に宇宙をその中に収める為には、心が宇宙の全てを理解出来るまでに進歩しなくてはならない。もしも、自分達がその機会を自ら封じ込めたのだとしたら……。
 首を振って、その懸念を振り払う。いずれにせよ、何をしようとも、あの「本」に見合うだけの精神が現れるのはずっと先、もしくは永久に無理だ。
 機は真っ直ぐタイタンに向かった。

平田真夫プロフィール


平田真夫既刊
『水の中、光の底』