「円満な夫婦」宮野由梨香

(聞いて極楽シリーズ・その3)
(PDFバージョン:ennmannnafuufu_miyanoyurika
 その塾は私鉄の急行が停まる駅前の商店街の中にあった。高校受験のための塾だった。志保は大学の事務室にある資料でそのバイト先を知り、紹介状を書いてもらった。幸い、志保の教えぶりは評判がよいようだった。
「志保ちゃんが来てくれて、本当によかったよ」と、塾の経営者の男は言った。男は自分のことを「塾長」と呼ばせていた。志保を面接して採用したのも、この塾長だった。
「長く来てくれるつもりがあるなら、いろいろ任せたいな」
「就職活動で忙しくなるまでは、来ることができると思います」
 志保は大学2年生だった。
「十分だよ。そうだ! いっそ、ここに就職したら?」
と、中年男は相好を崩した。
「考えておいてよ。それまでのバイト代も、はずむからさ」
「そうですね」と答えたが、もちろん、志保にその気はなかった。
 思えば、この時にはっきりとした態度をとるべきだったのである。

「なんかさぁ、きれいな服を着ていても全く似合っていない人っているよね」と、塾長が突然言った。いつも、GパンにTシャツの志保は戸惑った。志保は控室でその日教える教材の準備をしていた。2人の他には、誰もいなかった。
「そういうのを見るとね、志保ちゃんだったら、どんなに似合うだろうと思うんだよ。これって、愛だよね」
「はあ」
「服を買ってあげようか? 今度、いっしょに食事でもしてさぁ」
「そんな、あの…」
 ちょうどそこへ、別のバイト学生が入ってきた。
「じゃ、考えといて」と言って、塾長は去って行った。

 印刷室は3畳ほどの部屋だった。印刷機はけっこう大きな音をたてる。だが、ドアを閉めると、ほとんど音は外に漏れない。
 教材の印刷をしていたら、塾長が来て、こう言った。
「知っている? 僕、このビルの7階に部屋を2つ持っているんだよ。ワンルームだけど、日当たりいいし、駅も近いから便利だよ」
 2階に塾の入っているこのビルの上は、マンションになっているのだ。
「住む気ない?」
「はぁ?」
「だからさ。イマドキの女の子って、そういうのは割り切って考えるよね? 別に志保ちゃんを不幸にさせるつもりはないし、これってお互いのためになるんじゃないかなぁ」
「……。」
「僕はけっこうお金持ちなんだよ。いい話だと思うけどなぁ」
 志保は固まってしまった。
「カン違いしないでよ。夫婦仲はきわめて円満なんだ。だけどね、愛はないんだ。愛は大切だよね。僕が今、愛しているのは、志保ちゃんなんだよ。……ああ、大丈夫、ワイフはね、絶対にここに来ることなんてないから。そりゃ、歩いて10分くらいの所に住んではいるけど、『男の仕事場に来るものじゃない』って教えこんであるし、今までだって、来たことなんか一度もない」
 そう言いながら塾長は、志保の肩に手を回そうとした。
 志保は思わず一歩とび退いた。
「ちょっと抱きしめるくらい、いいじゃないか」
 志保は、印刷機の反対側をすり抜け、外へと走り出た。

「何のためいき?」
 いきなり晴れやかな声がした。志保は顔を上げた。学食の長テーブルの向かいの席に、同級生の史子がいた。
「ここに座る時も声をかけたのに全く気が付かないし、さっきから、ためいきばっかり」
と、史子は笑った。
「どうしたの?」
「バイトに今日行くか、行かないかで、悩んでいるの」
 この前行った時の印刷室での出来事を話すと、史子は言った。
「ふうん。……まあ、こんなところでため息ついていても始まらないわよ。立ちなさいよ」
 促されるままに食器を片付け、外に出た。気付いた時には、電話をかけられるところまで引っ張られて来ていた。
 史子は言った。
「今すぐ電話して、そのバイトやめるって言いなさい」
「え?」
「何を言われても、もう2度と行ってはダメ! バイト代は振り込んでもらいなさい」
「だって、今日の授業はどうなるの?」
「そのバカ真面目な性格も読まれているわね。悪質よ。常習だと思うわ」
「そうね。……そうよね」
 志保は心底、悲しくなった。どうせ塾長は生徒たちには自分に都合がいいように説明するのだろう。
「せっかく慣れてきたのに。……ちゃんと真面目に仕事してきたのに、どうしてこんな目にあうの?」
 史子の目が険しくなった。
「そのセリフ、もう一度言いたくなかったら、さっさと電話かけるのね」

 何度か催促したのだが、先月分のバイト代は振り込まれなかった。1か月後、志保は、バイトを紹介してくれた大学の事務室に相談に行った。事務室の人は、すぐ電話をかけてくれた。
「『急にやめられて迷惑をしたのはこっちだから払えない。これまでに払ったバイト代も返してもらいたいくらいだ』って言っているよ」
「そんな……」
「まあ、事情は、あなたの言っている通りなんだと思うよ。こっちは何も言っていないのに、『生徒を教えるのには愛が必要だという話をしたら、勝手に誤解した。来てもらうのに便利だから部屋を提供しようと言っただけなのに、いきなり辞めた』って、語るに落ちていたよ」
 志保はいまさら怒る気力さえなくしていた。
「法に訴えるという手段もあるけど、その手間とバイト代をはかりにかけて判断するんだね。とにかく、この塾はブラックリストに載せて、学生を紹介しないようにするよ。……ごめんね。これしかできないんだ」
 志保の様子に同情したのか、事務室の人は声を潜めて付け加えた。
「これは、個人的な見解だけど、……塾長の自宅の電話番号は、わからないの?」
「え? わかりますよ。もらった名刺に書いてあったと思います」
「じゃ、奥さんに相談してみたら? 円満な夫婦だって、塾長は言ったんだろう?」
 事務室の人は、にやりとした。

「それで、あなたは私に『勝った』と、おっしゃりたいのね?」
 塾長の自宅に電話した志保は、唖然とした。塾長の妻だと名乗った女性は、志保から事情を聞いてこう言ったのだ。
「『勝った』って、何ですか?」
「あの人に、私以上に愛されたって、おっしゃりたいんでしょう? でもね、私はそんなこと信じないわ。お生憎さまね」
「いえ、私はただ、働いた分のバイト代をお支払いいただきたいだけです」
「あの人があそこに住めと言ったのなら、それは仕事に必要だからに決まっているし、それであなたが勝手にやめたのなら、悪いのはあなたなんじゃないの?」
「塾長の言う通り、あそこに住めばよかったんですか?」
「ええ。私は夫を信じていますから、夫のすることに口出ししたりしません。」
 志保はあきれた。
「そうですか。『抱きしめさせてくれ』とか、印刷室で迫られたんですけどね」
「あなた、恋人に振られでもしたの? それで、わたしたちみたいな円満な夫婦がうらやましくって、こんな嫌がらせをするのね。それって、空しくない? そんな性格だから、恋人にも振られるのよ」
 埒があかないままに、志保は電話を切った。そして気づいた。塾長の言行に目くじらをたてたら、妻の失うものは、志保のバイト代の比ではないのだ。
 考えたら、気の毒な人である。
 志保はバイト代をあきらめることにした。

 分厚い封書が届いたのは、それから10日ほどたってのことだった。差出人は見覚えのない名前だった。封を切ってから、それが塾長の妻からのものだと気が付いた。
 手紙には、このようなことが書かれていた。
『不愉快な電話で気分がむしゃくしゃしたので、気晴らしにデパートめぐりをして、かなりの散財をしてしまった。それを夫に責められたので、電話のせいだと言ったら、夫も非常に怒っていた。もうあんな電話をして来ないように手紙を書くと言ったら、賛成して住所を教えてくれた。同封のものを読めば、あなたが夫に対してどんな野心を持っても無駄だということがわかるだろう。』
 志保は同封されていたコピー紙を広げてみた。
 若い頃の塾長が結婚前の妻にむけて書いたラブレターらしい。『街を歩いていて、きれいな服を着ていても全く似合っていない女性を見ると、君ならどんなに似合うだろうかと考えてしまう。この気持ちが愛なのだと思う』という内容だった。
 志保はもう悟りの心境だった。
 この二人は何があっても、永遠に「円満な夫婦」であり続けるに違いない。

―了―

宮野由梨香プロフィール


宮野由梨香 協力作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』