「書籍秩序」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:shosekititujyo_ootatadasi

 十万という破格のバイト代を提示されたとき、気が付けばよかったのだ。世の中そんなに甘くないと。
 だが言い訳するようだが、あのときは他に選択の余地がなかった。仕送りをすべて使い果たし、バイト代が入ってくるのは十日先。それまで飢えをしのぎながら生きていくしかない状況だった。そんな人間が目の前に十枚の一万円札を置かれて冷静でいられるだろうか。いや、無理だ。
 それに叔母の口車も巧かった。
「部屋の片付けを頼みたいだけなの。一部屋だけよ。他には一切、手を着けなくていいから」
 ちょろい仕事だと思った僕を、誰が責められよう。
 しかし今、その部屋を前にして呆然としている自分がいる。
「亡くなった主人が書斎に使ってた部屋なんだけど、入ったことないのよ。ていうか、入れないのよね」
 その理由は、部屋のドアを開けたときにわかった。目の前は壁のように高さ二メートルほど積み上げられた本で遮られ、その奥を見ることができなかったのだ。
「この本を、どうすればいいんですか」
「だから、どっかにやってほしいのよ。片付けて」
 あっさりと言われた。焼くなり捨てるなり、勝手にしてくれていいというのだ。
「本当に捨てちゃって、いいんですか」
「いいわ。わたし、本なんか全然興味ないから。わたしが帰ってくるまでに何とかしてちょうだいね」
 そう言うと、叔母はカルチャーセンターとかに出かけてしまった。こうなったら、やるしかない。
 しかし捨てるにもまず、本を部屋から出さなければならない。僕はうずたかく積み上げられた本の壁の一箇所に手を伸ばした。途中から引き抜こうとしたのだ。
 が、本は塗り固められた煉瓦のように動かなかった。試しに押してみても結果は変わらない。
 まいったな。僕はすでに敗北感に囚われそうになっていた。いくら本好きだからって叔父さん、買い込みすぎだよ。
 こうなったら、方法はひとつしかない。上から一冊ずつ取り除いていくのだ。僕は手を伸ばし、一番上に置かれている一冊を掴んだ。
 長岡西周の『溶解の破断』だった。たしかこれは三年くらい前に出た本だ。僕も発売されてすぐに買って読んでいる。意外に叔父とは本の趣味が合ったのかもしれない。生きているうちに、話したかったな。
 しかし感慨に耽っている暇はなかった。続けて上から本を取っていく。
 種座哀の『道行逡巡』、篠見太郎座の『生きて雄山』野乃駄美麗沈の『舎外は厄々の果てに』といった本が出てくる。どれも三年くらい前に刊行された小説本ばかりだ。
 そうか、叔父が死んだのは三年前だったな。つまり叔父は死ぬまでこの部屋に本を詰め込み続けていたということか。なんだか壮絶な話だ。
 続けて箭見癇の『励音と芯報』、他部六の『あれみ』、雅灯やんの『わく本滔々』といった著名な本が出てきた。叔父は結構メジャー好みだったんだなと思ったが、円何篤亀の『死せる頓挫』という珍品を発見して考えを改めた。かなり通な読者だったようだ。これらの本を全部読んでいたとして、だが。
 本の壁を崩しながら、それが僕の一番の疑問だった。叔父は本当にこれらの本を全部読んでいたのか。
 もしかしたら、ただ集めることだけが目的で、中身は読んでいないのではないか。
 本好きには、そういうタイプもいる。僕の大学の先輩にもひとりいた。この手の人間はなりふりかまわず本を買い込み、自分のものにしてしまうだけで満足するのだ。
 そりゃ叔母さん、怒るよなあ。捨てたくなる気持ちもわかる。
 しかし僕は、この本を捨てるつもりはなかった。これだけの量だ。売れば幾らかにはなる。十万のバイト代にプラスして、本を売った金も自分のものにするつもりだった。焼くなり捨てるなり好きにしていいのだから、売って儲けてもいいはずだ。
 最初は十把一絡げの大型古書店に売ってもいいと思っていた。だが根鮴菜躯の『県令必殺』を発見して考えを変えた。出るところに出たら万単位の価格が付く本だ。まだこの中には貴重な宝が眠っているに違いない。
 先程とは打って変わって、僕は意欲的に本の発掘に取り組んだ。
 奥に入るにつれて、本は古くなっていく。八並半戸の『葉書を寝る』、築津微々の『幽霊なる風の時よ』、円善東平の『美馬や神前』は十年近く前の本、その奥には柄身伊豆菜の『球体は抽斗頃』もある。これなども古本屋では結構な値段がつくはずだ。僕は金鉱を掘り当てたような気分で、奥へ奥へと進んでいった。
 本はさらに古くなり、三十年前、四十年前のものが出てきた。瀬藤阿智科の『海溝電』、遥尊の『私の柄模様』、緒流るるいの『御名まで』と名作が出てきたときには興奮した。
 そして遂に珍品中の珍品と遭遇した。丸目小篤の『貂に詰まるの末を』だ。マニアックな古本屋の奥に硝子ケースに入れられて陳列されているような、まさに稀覯本といえるものだった。しかも状態がすこぶるいい。売ったらどれだけの金になるか見当もつかない。
 金鉱どころか、ここはダイヤモンド鉱山だ。僕は本を手に狂喜乱舞した。文字どおり踊りだしたのた。
 それが間違いだった。
 本はかなり危うい均衡の上で積み上げられていた。それを側面から崩していったので、かなり不安定な状態になっていたのだ。そんな場所で踊りだしたらどうなるか。僕は身をもってそれを体験した。
 土石流のように崩れだした本が直撃したのだ。
 逃げる間もなかった。あっと言う間に首まで本で埋まった。
「た……たすけてっ!」
 声をあげるのが精一杯。それも分厚い一冊が滑り落ちてきて、こめかみを一撃することで終わった。
 その本が寝山久山の『加点の町立』であることを眼が認識した次の瞬間、僕の意識は途切れた。

 たん……たん……。
 どこからか音がする。何かを叩きつけているような音だ。
 たん……たん……たん……。
 僕は音のするほうへ歩いていった。
 暗闇の中、スポットライトのように光が当たっている場所がある。そこにひとりの男が背を向けて座っていた。
 たん……たん……たん……。
 男は光の届かない闇に手を伸ばす。そこから一冊の本を抜き出した。それを目の前に積み上げた本の山の一番上に積み上げる。
 たん。
 また一冊、闇の中から抜き出した本を積み上げる。たん……たん……たん……。
「あの……」
 声をかけてみた。男の手が止まる。
「何を、しているんですか」
「見てわからないか」
 男は背を向けたまま、言った。
「おまえがやらかしたことの後始末だ」
「後始末……」
「本はそれぞれ、決められた配置で積まれていた。それをおまえが崩した。おかげで世界は崩壊寸前だ。急いで修復しなくちゃならん」
「世界が崩壊寸前? そんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃない!」
 男の声が高くなった。
「おまえは何もわかっていないようだな。本は宇宙を構成する基本単位だ。然るべき場所に置かれてこそ安定する。それを乱せば本は暴走し、秩序を壊すんだ。知らないようだから警告しておく。本とはもともと、とても危険で不安定なものだ。みだりに抜き取ったり場所を変えたりしてはいかん」
「はあ……ところで、あなたは?」
 僕の問いかけに、男は振り向いた。その顔。
「……叔父さん……死んだはずじゃ……」
「死んだだと? 失敬な」
「でも、僕も葬式に出たから……」
「それは俺の仮の姿の話だ。本来の俺はこうして、ここにおる」
「本来のって、どういうこと?」
「俺は本の秩序を守る番人だ。荒ぶる本を鎮めるために、こうして」
 たん、と本を積み上げた。
「本をいるべき場所に置いている。それが仕事だ」
「書斎に積み上げてた本は、乱しちゃいけなかったの? でも叔母さんが……」
「あいつは本の価値がわからん人間だ。だから遺言で本には絶対手を着けるなと厳命しておいたんだがな。哀れな奴だ。自ら身を滅ぼしおって」
「身を滅ぼす?」
「まあいい。おまえはまだ見所がある。本を元の位置に戻せば、少なくともおまえは助かるぞ」
「元の位置って、あれを全部戻すの?」
「当たり前だ。世界の秩序は守られなければならない。その代わりと言っては何だが、おまえには現世の利益を与えよう。一生食うに困らんようにしてやる」
 叔父は闇の中から一冊の本を抜き出し、僕に差し出した。
「これはおまえが自由にしていい。秩序からはみ出した本だからな。他の本は元通りにしろ。いいな」
 渡されたのはエンロ・トラームスの『ネンガンズ・ライテン』だった。
 これってたしか、世界に三冊しかないという……。
 僕が返事をする前に、叔父を照らしだしている明かりが消えた。同時に僕の意識も途絶えた。

 眼を開けると、僕は流れ出した本の上で横になっていた。
 ゆっくり起き上がる。右手に本を掴んでいた。
『ネンガンズ・ライテン』だった。
 あれは夢なのか。いや、夢ではなかった。では本当に……。
 僕は『ネンガンズ・ライテン』を脇に置き、崩れた本たちに向き合った。
「……わかったよ。やるよ」
 足元にある一冊……憂菜燐の『酉抜けの四』から積み上げはじめた。
 カルチャーセンターで叔母が倒れたという報を受けたのは、百冊ほど積み上げた頃だった。フラメンコダンスの最中、いきなり昏倒したらしい。そして搬送先の病院で息を引き取ったという。
 僕は驚かなかった。叔父が言ったとおりだったからだ。
 ちなみに叔母は倒れる刹那、
「本が! 本が崩れてくる!」
 と叫んだらしい。その話を聞いて、少しだけ心が痛んだ。本を崩したのは、僕だったからだ。
 だから病院には行かず、本を積み上げ続けた。それが叔父のためであり、叔母のためであり、世界の秩序のためだからだ。
 そして、今も積み上げ続けている。

太田忠司プロフィール
YOUCHANプロフィール


太田忠司既刊
『星空博物館
謎と驚きに満ちた33の物語』