「Swing the sun 4」片理誠(画・小珠泰之介)

(PDFバージョン:Swingthesun4_hennrimakoto
 金星に到着した後も彼女の機嫌は全然良くならなかった。
「船長は散々私のことを無茶だの滅茶苦茶だのとののしってくれたけど、その言葉はそっくりそのまま、ううん、倍にしてあなたに返すわ! 何なのよ! こうして生きていられること自体、奇跡としか呼びようがない! 今まで散々あちこちを旅してきたけど、こんなひどい旅は生まれて初めて!」
 実際ひどい有様だった。顔面は青ざめ、頬はこけ、髪はボサボサ。せっかくの美人が台無しだ。目の下には隈までできてる。
 金星名物、空中都市(エアロスタット)。強化ガラスで囲まれた展望ルームの外、眼下には二酸化炭素の大気に浮かぶ雲の群れが見えた。光の当たり具合によって時々刻々と色を変えてゆくその雲海は、確かに美しい。が、雲の正体は濃硫酸。機械人としては何とも恐ろしい眺めでもある。
 この空中都市は宙に浮かぶ巨大なマッシュルームをイメージしてもらえば分かりやすいだろう。この星もまた過酷な環境でね。ほとんどの者は地表では暮らせない。そこで金星の連中が独自に発達させたのがこの空中都市というわけだ。俺たちのいる場所からでも、あちこちにでかいのが浮かんでいるのが見える。いや、なかなかの壮観だね。
 辺りには様々な連中がいた。一目で旅行者と分かる者もいれば、年齢や性別どころか、どっちが前でどっちが後ろなのかも分からないような奴もいる。そのほとんどは俺たちの周囲をせわしなく通り過ぎていった。数人から十数人規模の人の塊が、出たり入ったりを繰り返している。この展望室は空港のロビーを兼ねているのだ。ゆえに足を止める者は少ない。気をつけて歩かないと誰かにぶつかってしまいそうだった。人混みの向こうでは七三分けの小太りなサラリーマンが、待ち合わせにでもしくじったのか、キョロキョロと周囲を見回している。
 一番端の手すりまで移動すると、俺は「フッ」と息を吐いた。
「だから言っただろ、俺は貨物船の船長だって。快適な船旅がお望みなら、次からは客船に乗ることをお勧めするね。……だいたい、泣きたいのはこっちだぜ。おかげで船がまたボロボロだ。無茶な加速はするわ、太陽風にはさらされるわ、キャッチャーごと金星の大気には突っ込むわ……よく燃え尽きなかったもんだ」
「こっちだって体中の骨がバラバラになるところだったわ!」と手すりにもたれながらジェスト。眉間に皺を寄せている。
「ならなかったんだから良かったじゃないか」
「ならなければいいってもんじゃないのよ! はっきりともう一回指摘させてもらうけど、あなたの淑女へのいたわりの心は、まったく十分とは言えないわ! 全然よ!」
 あー、はいはい、と俺。まったく、どうして俺の周りにはこういうガミガミ屋の女しかいないんだろう。そういやリラの奴も出会った頃は結構おしとやかだったんだよなぁ。なんでどいつもこいつも最終的にはこうなっちまうのか。不思議な話だ。
「だがとにかく依頼は果たしたぜ。報酬はきちんと頂けるんだよな?」
 そう。俺自身の評価なんかより、ここはまずビジネスの話だ。もらうべきものは頂かないとね。
 彼女はしばらくの間、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、やがていかにも渋々といった風に尻のポケットから携帯端末を取り出すとそれを操作した。
 俺はメッシュにアクセスし、口座への入金を確認する。毎度ありぃ。
「ああ、それから必要経費の方も」と揉み手。
「その点は交渉の余地ありね」と突然彼女がそっぽを向いた。ええ! そりゃないぜ!
「お、おい、頼むよ! 全額負担なんてことになったら大赤字だ! おっかないのが火星で待ってるんだってば」
 俺は必死になって懇願するが、ジェストは「それは私の知ったことではないわ」とにべもない。
「そ、そこを何とか! ねぇ、お姫様。船だって修理しなきゃならないし、こっちも色々と苦しいんだってば!」
 そんなことを言われてもねぇ、と彼女が切れ長の目を細める。
「支払うかどうかを決めるのは組織ですから。もっとも、主計局に提出する書類を作成するのは私だけど。さぁて、備考欄には何て書こうかしら」
「心臓、じゃなくて、メインモーターに悪いジョークを言うもんじゃないよ、子ネコちゃん。ちょ、ちょっと、頼むってば、ねぇ、せめて折半てことにさ」
 金星の景色を眺めて彼女が愉快そうに微笑む。
「そういえば金星には美味しいカクテルがあるって聞いたな。少し酔ったら、嫌なことも全部忘れてしまうかしら?」
 ンフフ。妖しい金色に瞳が輝く。まるで猫だ。
 俺は両肩をすくめる。百戦錬磨のジョニィ船長も金には滅法弱いのさ。まったく、情けない。
「ああ、もう、分かったよ。一杯おごるからさ」
 あはは、と今度は口を開けてジェストが笑った。ほっそりとした美しい指が俺の装甲の上をなぞる。
「ねぇ、船長! もしいつかゆっくりできる時がきたら――」
 だが突然の銃声が彼女の言葉を遮った。

 視界が突然、朱に染まる。
 引きつったように大きくのけ反る彼女の体。次の瞬間、スローモーションのようにゆっくりと崩れ落ちてゆく。
 何が起きたのか、分からない。
 だがそれでも長年の経験によって体の芯にまでたたき込まれた実戦の勘は素早く的確に俺を突き動かしていた。身をかがめつつ背後のマウントから引っ張り出した大口径ハンドガンで敵性存在の位置を大雑把に把握、照準、発砲。何者かが吹っ飛ぶのを確認。
 左腕の中にジェストが崩れてくる。
 俺は「ジェストッ!」と叫ぶ。素早く周囲に他の敵がいないかを確認しながら。
「お、おい、しっかりしろ!」
 胸の中央から盛大に血が吹き出ていた。よほど強力な弾で撃ち抜かれたらしい。たった一発の銃弾で、あんなに綺麗だった女は、全身が赤一色にまみれてしまっていた。
 周囲で悲鳴が上がる。人垣が潮のように引いてゆく。
 陸に打ち上げられた魚のように、彼女があえぐ。震える手で襟首からロケットを引っ張り出した。
「せ、船長……カ、カプセルを」
 かくん、と首が折れる。それっきり彼女は黙ってしまった。抱きしめた体から力が、体温が、生気が、水のように抜け落ちてゆくのが感じられる。
 そんな馬鹿な!
 俺は彼女を揺さぶる。
「ジェスト、ジェスト……嘘だろ、たったこんなことで! たった一発の銃弾で! おい! しっかりしろよジェストッ! ジェスティ! 頼む! 目を開けてくれ! ジェス! ジェスってば!」
 だがどれほど揺すっても支えをなくした首がただぶらぶらと揺れるだけだった。ついさっきまであんなに生き生きと、茶目っ気たっぷりに微笑んでいた彼女。だが今は……。俺は自分の腕の中の事実を信じられない。何ということだ! くそッ!
 視界の端で何かが動く。小柄な機械人が立ち上がろうとしていた。俺は銃を構え直す。動くなッ、と吠えた。
 黒っぽい煤に覆われた、ブリキのおもちゃのような貧相な外見の機械人だった。腰のベルトから汚いずだ袋を幾つもぶら下げ、背中にも巨大なリュックサックを背負っている。
 手にしている大型ライフルは俺に撃ち抜かれて真っ二つになっていた。奴はその残骸を忌々しげに投げ捨てると、袋の中から何かを取り出そうともがく。吠え返してきた。
「よ、よくも俺の宝物を盗みやがったな! ふへへ! とと、当然の、む、報いだぜ!」
 宝を盗んだだと? 俺は一瞬奴が何を言っているのか分からなかったが、すぐに思い出した。この星まで来るのに使ったロケット・ブースターのことだ。すると、こいつがダットンか? だが誰だろうが関係ねぇ。こいつはジェストを撃った。それも卑怯にも背後からだ。
「ッメェェェッ、何ッてことしやがるッ!」
 大口径ハンドガンを握る腕がギリリと音を立てる。
 照星の向こう、じたばたともがいていた小男がどうにかして立ち上がる。向こうの手にも拳銃が握られていた。
「うう、うるせぇ! 俺が命を懸けて集めたコレクションに手をかけやがって! ゆゆゆ、許せねぇッ!」
「だからって問答無用で撃ち殺す奴があるかッ! こっちにだって止むに止まれぬ事情ってもんがあったんだ! 彼女は、この子は、人類を助けるために――」
「やかましい! 貴様も死――」
 奴が銃を構える。これ以上の話し合いは不可能か。やむを得ない、と判断した俺はトリガーを引き絞――ろうとした次の瞬間、相手の上半身が吹き飛んだ。文字通り、鉄粉となって。

 ダットンは腰から下のみの物言わぬ彫像と化した。突然。一瞬にしてだ。
 何だ? 俺は再び混乱する。それは俺が見たことのない攻撃だった。いくら貧相なボディだったとはいえ、機械人のそれを一瞬にして消滅させるなんて……。
 恐らくニードルガンだ、と見当をつけて俺は素早く気を取り直す。近距離でなら戦艦の装甲すら穿つ、という噂を聞いたことがある。だがそんな武器がなぜここに? いや、そもそも撃ったのは誰だ?
 周囲を探る。
 人垣の前にネズミ色のスーツを着た一人の中年男が立っていた。さっき人混みの向こうで自信なさげにキョロキョロしていた奴だ。あの七三分けの小太りなサラリーマン。だが今はそのコミカルな容姿には不釣り合いな、醒めた表情を浮かべて佇んでいる。
 真っ直ぐに伸ばされた男の左腕は手首から先が折れており、そこからは大きな銃口が覗いていた。こいつ、機械人だ。見た目は生身の人間とまったく変わらないが、中身はマシン、それも恐らくは凄まじく高性能なそれが詰まっているのだろう。特別にあつらえられた、特殊なボディ。その冴えない容姿は欺瞞のためか。
 ガコン、という音とともに男の左手が元の位置に戻る。顔にも柔和な笑みが浮かんだ。
 俺はジェストから託されたカプセルを握りしめる。
 この中年、敵か味方か。こいつこそがジェストの待ち合わせていた“金星の同志”なのかもしれない。だが俺たちを追いかけていた奴らの仲間って可能性もある。どっちだ? 俺は身構える。
 男はツカツカと俺のところまで歩いてくると、深々とお辞儀をした。
「ジョニィ船長ですね。そちらの方と一緒に、どうぞこちらへ」

 血のような色の夕日が金星の雲海を茜色に燃え上がらせる。光の当たり具合によってそこに黄金色が混じった。
 展望室の手すりに寄りかかってしばらくそんな風景を眺めていると、背後から「船長」と声をかけられた。
 振り返ると金色の光の中にジェストが立っていた。今は鮮やかな青色のスーツを着ている。少し顔色が優れないようだ。首元から覗く真っ白な包帯がやけに痛々しかった。
 彼女は俺のすぐ隣にやってきた。
「もういいのか?」と俺。
 彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「心配かけちゃったわね。もう大丈夫よ。ファイアウォールのバックアップはいつも完璧だわ」
 無邪気に笑う。
 一方、俺の胸の中には苦いものが去来していた。
「ファイアウォール、か」
「船長は信じていないんだったわね」
「……ああ」
 鷹揚に俺は肯く。

 あの偽装サラリーマン(ロジャーと名乗ったが、どうせ偽名に決まっている)は、あの後俺たちを黒塗りのリムジンに乗せ、とある施設まで案内した。
 血まみれのジェストは担架で運ばれてゆき、ビルのロビーに残されたのはカプセルを握りしめた俺とロジャーの二人だけ。
 ジェストは、彼女は大丈夫なのか、という俺の問いに奴は笑って「もちろん」と答えた。
「あの方の義体は、あれで実はかなり特殊な仕様になっておりましてね。あの程度のことで機能を停止することはありませんので、ご安心を」
 俺にソファーを勧めるとロジャーの奴は直立不動の姿勢のまま、再び深々と頭を下げた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました、船長。あのダットンという男だけはどうしても買収することができなかったものですから。こちらで穏便に処理する手筈になっていたのですが、まさかお二人がこんなに早く金星に到着されるとは思ってもおらず、対応が間に合いませんでした。まことに申し訳ありません」
 だがいくら謝られても、俺には何が何だか、だ。
「……事情がさっぱり分からないぜ。いったい何がどうなってる?」
 皆、このカプセルを追っているんじゃなかったのか? どうして誰もこいつを奪おうとしないんだ? X-リスクなんだぜ?
 ロジャーのスペックはどう控えめに評価したとしても俺の義体のそれよりは遙かに高いはずだ。カプセルは力づくで簡単にぶんどってしまえる。もしこいつが本当に味方なのだとしても、「まずはそれをお預かりさせてください」とうやうやしく両手を差し出すのがこの場面での筋ってもんだろう。なのに誰もこれを構おうとしない。ここで大事にされているのはジェストだけだ。
 俺は混乱する。
 偽サラリーマンが上体を起こした。
「いいでしょう。普段であれば十分な報酬をお支払いするのみですますところなのですが、この度のあなたのご活躍はまことに素晴らしいものでした。そのお働きに敬意を表し、話せる範囲のことはお話しいたしましょう」
 向かいのソファーに腰掛ける。親しげに微笑んできた。
「そうですね、ではまず、とある大企業の重役について想像してみてください。全太陽系の富の何パーセントかを意のままに操れる、巨大な企業のです」
「ハイパー・コーポだな?」
 奴は答えなかった。意味ありげな薄笑いを浮かべただけだ。さて、と話を続ける。
「私のような庶民からすればそんな巨大企業の重役にまで上り詰めた人物は、まさに勝者です。しかし、勝者には勝者の苦労というものがあるようでしてね。実際には激務の毎日なわけです。何しろそこら中に敵がいる身分だ。心の休まる暇もないという奴ですよ。唯一の楽しみはバカンスのみ」
「なるほどね」
「彼も最初の内はごく普通の休暇を楽しんでいたのですが、段々と飽きてきてしまったみたいでしてね。やがてとある後悔にずっと取り付かれるようになってしまった」
「後悔?」
「成功者が何を悔やむ、とお思いですか? しかし人間には誰にだって悔いというものがあるものですよ。選ばれなかった選択肢というのは、誰にだってある。彼の場合、それはヒーローでした」
 思わず俺は首を傾げる。はあ? ヒーロー? 何を言っているんだ?
 ロジャーは愉快そうに笑った。
「おかしいですか。でも確かなのです。結局彼は人類を救い続ける陰の英雄よりも、大企業でのしあがってゆくエリートとしての道を選んだわけですが、もしあの時、企業人ではなく、ヒーローとしての道を選んでいたら自分はどうなっていたのだろう、とまぁ、随分とおセンチなわけなのですよ。もっとも、ここまでならどこにでもあるごく普通の愚痴です。しかし彼にはとてつもない財力があった」
「お、おい、まさか」
「その、まさか、なのです船長。彼はある日思いつきました、バカンスの間だけもう一人の自分として生きればいいのだ、と。若い頃の自分にそっくりの義体を用意し、そこに記憶をなくした状態の自分の魂(エゴ)をインストールする。ええ、彼の元々の性別は女なのです。それもかなりの美人でしょう? バカンスが終われば元の義体に戻り、記憶を取り戻す。ジェスティ・K・マクビーとして体験したことの全ては、きっと彼にとっては夢のように感じられるのでしょうね。彼はその幸せな夢に十分満足し、次のバカンスまでまた一生懸命に働く、というわけです。かかる費用は大変なものになりますが、それも彼にとっては小遣い程度でしかありません」
「何てこった。はた迷惑な趣味だな。俺は大金持ちの英雄ごっこに巻き込まれたというわけか」
 かぁぁぁ、本当かよ、とのけ反る。ソファーの背もたれが悲鳴を上げた。足下の床が抜けちまったような気分だ。
 その点は大変に申し訳なく思っております、とロジャー。
「もうお気づきでしょうが、我々は彼のヒーローとしてのバカンスを裏から支えるべく雇われたエージェントです。最初の内はジェスティも我々の用意したシナリオに従順だったのですが、飽きっぽいたちらしくて、最近では段々とアドリブを効かせるようになってきていましてね。こちらの用意した筋書きからしょっちゅう外れてしまうんです。結果として無関係な者を巻き込むことも」
 こちらとしても不本意なのですが、とため息をついた。
「ところが我々のクライアントはこれこそが本物の夢だと大喜びでして、ジェスティの思考に手を加えることを許してくれないのですよ。何しろ本物志向の御仁でしてね。まぁ、それをするくらいなら最初から普通のバーチャル・ドリームを楽しめばいいわけですから、もっともと言えばもっともなわけですが。そんなわけで、ジェスティには我々も振り回されっぱなしなのです」
 何ということだ、と手にしたカプセルを見つめる。……俺たちはこれを届けるためにこの星まで来たのだ。あんな大変な思いまでして、命まで懸けて。
「じゃあ、襲撃というのはフェイクなのか。それじゃこのカプセルも? X-リスクというのは真っ赤な嘘なんだな?」
「そのカプセルの中身はどこにでもあるごく普通の水晶片です」
 中年男の口調にはいくらかの同情が含まれているようだった。
「ファイアウォールの噂は実に都合が良いものでしてね。よく利用させてもらっているんですよ」
 そういうことか、と俺はつぶやく。
「道理でね。本物のファイアウォールなら運び屋を現地で調達させるわけがないもんな。おかしいなとは思ってたのさ。もし彼女の言っていたことが本当なら、俺は最初から呼ばれていたはずなんだ」
 相手が不思議そうな顔で俺を見つめていた。瞳の奥がキラリ、と不穏に輝く。
 俺は慌ててかぶりを振った。
「……ああ、いや、という噂を聞いたことがあるもんでね」
 そうですか、と相手もそれ以上は追求してこなかった。
「……しかし結果として今回は最高の物語になりました。あんな冒険はやろうと思ってもできるもんじゃありません。まさか試験用のダイソン・リングをリニアモーター・カタパルトとして利用するなんてね。我々は完全に出し抜かれましたよ。あなた方を追っていた宇宙船はあなたたちを見失って、太陽を一周するコースに乗ってしまい、今はしかたなく水星に向かっています、くくく。ここまで完全に出し抜かれたことは今までにはありませんでしたな。我々の用意したシナリオではあの後、敵艦に乗り込んで白兵戦での大立ち回り、ということになっていたのですが、いやいや、こちらの筋書きの方が遙かに面白い。我々のクライアントもきっと大喜びしてくださるでしょう。あはは! しかしまさか、あの船を振り切る人がいるとはね! 恐れ入りましたよ、まったく! おかげで対応できたのは予め金星で待ち構えていた私の班だけです」
「ダットンの奴はどうなる?」
「もちろん復活しますよ、バックアップから。記憶の一部がなくなっているでしょうが、それに十分見合うだけの額が口座には振り込まれているはずです」
 へ、そうかい、と俺。
「彼女は、ジェストはどうなるんだ?」
「次の冒険に向かうことになります」
「全てがお膳立てされた、ハッピーエンドになることが予め決まっている冒険に、か」
「そうです。それがクライアントからの依頼ですので」
「ジェストは、本当の自分の記憶を一切持っていないんだな?」
「ええ。そうです。彼女は冒険への飽くなき衝動に突き動かされているだけです。なぜ、などと思うことすらほとんどない」
 ロジャーの奴が如才ない柔和な笑みを浮かべる。
「実際のところ、あなたが生身の体でないのが残念ですよ。本来ならこの後はロマンチックなシーンの一つもあってしかるべきですからね。彼女が他者に心を開くなど、滅多にないことなのです」
 フ、と俺は白けた気分でうつむく。
「せっかくだが……そういうのは他の役者に任せるよ。俺は出番を間違えたスタントマンでね。演技派じゃぁないのさ」
 磨き上げられた真っ白なリノリウムの床に、アーマーで覆われた機械人の無骨な体が映っていた。
 手の中のカプセルを握りしめる。それは呆気なく砕けた。

 残念ね、と光の中でジェストが微笑んだ。
「せっかく一杯ご馳走してもらえるところだったのに……ケチがついちゃった」
 ああ、と俺。
「まずは怪我をしっかり治すことさ。酒はいつだって飲めるだろ」
「うん」
 手すりにもたれた彼女は夕日に目を細める。
「時々、自分は何者なんだろうって思うことがあるわ。私には子供の頃の記憶がほとんどないの」
 俺も太陽を見つめる。ああ、今日のはやけに赤いな。
「……俺の経歴だって嘘だらけさ。何が本当だったのか、今じゃ自分でも分からなくなってきてる」
「怖くはない?」
「怖いさ。けど、そう悪いことばかりでもないかな。大抵のものは遠くから見る方が綺麗だろ? 思い出だって同じだよ。君との記憶もいつかは遠ざかる。楽しく思い返す日がくるっていうことさ」
 ジェストは寂しげに笑った。
「詩人なのね」
「船乗りなんでね」
 俺は肩をすくめる。
 彼女が手すりから離れた。
「もう行かなくちゃ。次の任務が入っちゃったの」
「……人使いの荒い組織だな。ゆっくり遊んできゃいいのに。君ならきっと歓迎されるぜ。何しろここは美神の星(ヴィーナス)だ」
 彼女は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。すぐに微笑む。
「時々、あなたのことがうらやましくなるわ、船長。……やっぱり、もう一回くらいならあなたの船に乗ってもいいかな」
「そいつは光栄だね。キャビンを掃除しておかなくちゃな」
 俺は手を振る。
 彼女は去っていった。人混みの向こうに。
 俺はしばらくその場から立ち去ることができなかった。一人で夕日を眺め続ける。
 あるいは俺は彼女にこう言うべきだったのかもしれない。全てはフェイクなんだ、ジェスト、と。俺たちは今、どっかの大金持ちが見ることになる夢の中にいる。全ては偽物で、後には何も残らない。幻なのさ、全部。命を懸けた俺たちのあの冒険も、頑張りも、覚悟も、今この胸の中でうずいている友情という名の痛みも。何もかもが嘘っぱちの、ただのフィクションだったんだよ、と。
 だがそんなことを言って何になる? それを口にした途端、俺たちはどこからともなく現れたエージェントどもに拉致されるだろう。俺はバラバラにされて金星の濃硫酸の雲の上にまかれ、彼女は記憶を消される。何も変わりはしない。俺のケチな正義感が生むのは無意味な犠牲だけだ。
 いつか彼女が真実に気づく日はくるのだろうか。本物の自分と相対する日が、彼女にも訪れるのだろうか。その時はいったいどんな対決が繰り広げられることになるのだろう。興味はある。とても。だがそれはジェスティ・K・マクビーの物語だ。俺のじゃない。
 どう考えても、何度思いを巡らせても、俺が彼女のためにできることは何もなかった。
「……そろそろ俺も帰らなくちゃな、戦神の星(マーズ)によ」
 だがここにも頭の痛い問題がある。リラだ。あいつをどうやって黙らせよう?
 何しろリラ・ホーリームーンは三三パーセントの“好奇心”と三三パーセントの“思い込み”と三三パーセントの“妄想”でできているのだ。つまり“その他”が占める割合はたったの一パーセントでしかないってことだ。このまま何の策も弄さずに帰ってみろ、顔を合わせた途端に「ねぇ何があったの船長あの大金は何だったのよどうしてウルフは真っ黒焦げなのそもそもなぜわざわざ金星に立ち寄ったりしたのさねぇねぇ聞いてるんだから答えなさいよ今すぐ答えろこの野郎ねぇねぇねぇねぇねぇってば!」とやかましくわめき散らすに決まっている。
 だが本当のことを話せばあいつまで巻き込むことになっちまうし、かといって「いいかリラ、世の中には知ってはならないこともあるんだ」と言ったところで「いいえ分からないわ私は知りたいのよだから教えてよ教えなさいよねぇねぇねぇねぇねぇってば!」と反論してくるのは目に見えていた。まったく、何て奴だ。
 結局、物で誤魔化すしかないのか。
「4D光子グラフィックメモリ、かぁ」
 ロジャーからはかなりの金額(あいつは謝礼と言っていたが、もちろん口止め料だ)をもらっているので、ウルフの修理代を差し引いても今、俺はそこそこの金持ちだ。念願の大出力陽電子砲だって、これなら交渉次第ではどうにかなるかもしれない。メモリチップの一つや二つくらい、奮発してやれないことはない。確かにね。
「けどさ、今回の仕事は俺が一人で受けて、一人で頑張ったんだぜ? なんで何もしていないあいつのご機嫌を取るために、俺が身銭を切らなくちゃならないんだ? おかしいだろ? 世の中には理不尽なことが多すぎるぞ!」
 くそう。4D光子グラフィックメモリ、金星のパーツ屋に安いのがあるといいんだけどな。
 俺はもたれていた手すりから離れると、空中都市の中心部に足を向ける。いったい前世で何をやっちまったんだろう、とぼやきながら。



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