「十二宮小品集8 蠍館の女」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:12kyuu08_ootatadasi

「全世界で千五百種以上のサソリが生息していると聞きましたが、本当ですか」
 私の問いに、駿河教授は形のいい唇を緩めた。
「ええ、熱帯から亜熱帯にかけて、それくらいの種類のサソリがいます。ここに集められているのは、そのほんの一部、三十種類くらいです。口さがないひとたちは、この研究室のことを蠍館などと呼んでいますけど」
 いくつかの水槽が並んだ部屋に、私たちはいた。砂を敷かれたその中にいるのは、針の付いた尾を振り立てた黒や褐色の虫たちだ。
「なぜサソリが毒を持っているのか、ご存じですか。彼らが暮らしているのは、多くは砂漠などの過酷な環境です。当然、餌を得る機会も少ない。だから獲物に遭遇したら確実に仕留めなければならないのです」
「そのために即効性のある強力な毒を手に入れた、ということですか」
「そうです。毒は彼らが生き残るために必要な武器でした」
「なるほど、面白い話です。ところで、ひとつ伺ってよろしいですか。どうしてサソリの研究を?」
「よく聞かれる質問ですね。女のくせにどうしてサソリなんて気持ちの悪い虫なんかを研究しているんだ、と。でもわたしは彼らを気持ち悪いとか醜いとか思ったことはありません。ご覧なさい、この機能的な姿を。外骨格は磨き抜かれた装甲のようです。そして威圧的な鋏と尾。動きの俊敏さも魅力です。どれひとつとして無駄のない、ストイックな美に満ちた存在です。内骨格の周囲にぶよぶよの組織を纏った人間なんかより、ずっと美しいと思いませんか」
「私にはどうも……人間のほうが好みですね」
「そういうひとのほうが多いでしょうね」
 駿河教授は笑った。
「主人も、刑事さんと同じ側に属していました。人間の、それも女性がかなり好きだったようです」
「その御主人のことなんですが、司法解剖の結果が出ました」
「そうですか。で、どうでした?」
「死因については、毒物によるものだと判断されました。なんでもペプチド性の毒物というものが検出されたそうで。ペプチド性毒物、ご存じですよね?」
「ええ、サソリの毒がそれですから。神経のNa+チャネルに作用して筋肉の収縮を引き起こし、呼吸困難に陥らせます。ただ、サソリの毒というのは一般に思われているほど強力ではありません。彼らの獲物はごく小さな昆虫やトカゲなどです。人間のような大型哺乳類を仕留める必要などないので、毒性も限られています」
「しかし一部には人を殺せる毒を持つものもいるとか」
「ええ、例えばこの子」
 駿河教授は目の前の水槽を指差した。中には緑がかった体色を持つ大型のサソリがいた。
「オブトサソリ、別名デスストーカー。毒性はサソリの中でも随一で、人間を殺すことも可能です」
「そいつに刺されたらイチコロなわけですね。ご主人のように」
「でも刑事さん、主人はホームパーティの最中に急に倒れて死んだのですよ。わたしの他に五人の客もいましたが、誰もその場にサソリなど見てはいません」
「見えないところに隠れていたサソリに刺されたのかも」
「主人の体に、サソリに刺された痕はありましたか」
「いえ……大学の先生方に全身くまなく調べてもらいましたが、刺し傷の類は一切ありませんでした」
「では、サソリによるものとは言えないのではないですか。少なくともわたしが疑われる謂れはないと思いますけど。もしかして、わたしがサソリの研究家ということで妙な偏見をお持ちなのでは?」
「いえ、決してそのようなことはないのですが。ただ、だとするとどうやって御主人の体内に毒が入ったのか……何かご意見はありませんか」
 私が訊くと、教授は少し考える様子を見せてから、
「わかりませんね。でも、もしかしたら」
「もしかしたら?」
「天罰、かもしれません」

「御主人の体内に毒が入った経路がわかりました」
 三日後、私はまた同じ研究室で駿河教授と対面した。
「あの日のホームパーティで飲まれたワインの空ボトルを調べたところ、わずかですが毒物が検出されました。あのワインは教授、あなたが用意されたものですね?」
「ええ、でもワインは全員で飲みました。もしもワインボトルに毒が仕込まれていたのなら、わたしや友人たちも死んでいるはずではないですか」
「たしかにね。ただ詳しく調べてもらったところ、検出された毒物の成分はサソリの毒と判断しても差し支えないものだそうです。蛇やサソリの毒は刺されたり噛まれたりすることで毒が血管や組織に注入されることで効力を発揮する。しかし嚥下しても消化管から吸収されることはないそうです。つまりサソリの毒は飲んでも大丈夫なわけですね」
「それなら、何も問題はないのでは?」
「しかし御主人は間違いなく毒殺されている。なぜか。私は解剖に当たった医師と徹底的に検証してみました。そして、やっとわかったんです」
「何がですか」
「御主人の胃壁に炎症があったんですよ。胃潰瘍の前期状態ということでした。つまり御主人の胃には傷があったんですね。毒はそこから侵入した。同じワインを飲んだ他の方々には無毒でも、御主人にだけは猛毒だったのです。あなたは御主人の胃が荒れていることをご存じだった。だからサソリの毒入りワインを飲ませ、殺したんです」
 私の告発に、教授は静かな表情で応じた。
「ワインのボトルはきれいに洗ったつもりだったのですけど、手抜かりがありましたね」
「御主人を殺害したことを認めますか」
「それはまた別の話。この前も言ったように、彼は天罰で死んだのです。わたしを裏切ったから、罰を受けたの」
「裏切り? 浮気でもされたのですか」
「それならまだ、ましです。彼はわたしがサソリの研究にすべてを捧げていることを承知の上で結婚したはずだったのに、今になって研究をやめろなんて言い出したの。あんな不気味な虫なんかを愛でるのをやめて、妻らしいことをしろと。結局彼は、わたしの研究をその程度のものとしか思っていなかった」
「だから、殺した?」
「殺すつもりはなかった、と言えば嘘になります。でも確実に殺せるとは思わなかった。ワインにサソリから抽出した毒を仕込んで飲ませてみて、もしも彼の胃炎がひどいものだったら死ぬかもしれない。その程度の気持ちでした。予想は当たったんですけどね」
「御主人の他に五人の客にも飲ませましたよね。彼らの胃に炎症があったら、さらに犠牲者は増えていたかもしれない」
「それは賭でした。もしかしたら、彼らのうち誰かも死ぬかもとは思いました。でも、かまわなかった。彼らのことも、好きではなかったので」
 私は内心、戦慄した。この女性は大量殺人も辞さないつもりでいたのだ。
「この前、サソリの一番の魅力についてお話ししませんでしたね」
 彼女は水槽を見つめながら、言った。
「それは彼らの持つ毒です。的確に相手を仕留める毒の威力。そういう力にわたし、憧れていました」
「あなたには、充分に毒があると思いますよ」
 私が言うと、彼女は微笑んだ。とても魅力的な微笑みだった。

太田忠司プロフィール
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太田忠司既刊
『目白台サイドキック
女神の手は白い』