(PDFバージョン:doukesi_hiratamasao)
――希ガス
周期表上の十八族に当たる、ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドンの六つの元素。最外殻の電子が丁度八つで安定しており、化合物を作り難い気体である。その為、不活性ガスとも言う。ただし、キセノンがフッ素や酸素などと結晶性の固体になる例もある。古くは存在量が少ないと思われていた為「希ガス」と呼ばれたが、実際には空気中で三番目に多いのはアルゴンであり、それ程「希」ではない。
夜の園内を照らす電気の明かりの下で、道化師が風船を配っている。この遊園地のあちこちで目にする赤と黄色の縦縞模様の制服、ただ、他の従業員のそれとは異なり、だぶだぶのズボンまでが同じ柄だ。帽子も被らない頭頂部の髪は綺麗に剃られており、どうみても鬘ではない。それが、道行く子供達を相手に、色取り取りの風船を手渡しては、一人一人の頭を撫でているのである。
跨っていた馬の背中を突いて合図を送り、足を止めさせる。しばしそのまま佇んで、その仕事振りを眺めることとする。
ヘリウムを詰められて宙に浮かぶ風船は、まだ彼の左手に何十本も残っており、幾ら子供の手に握らせてもいっかな無くなる気配が無い。というより、少しでも減っているようにすら見えなかった。まるで、配るそばから新しく増えていくみたいである。
どうなってるのかしら。
誰かが横に隠れて、新しい風船を膨らませながら渡しているのかとも思ったが、そのような人影は幾ら目を凝らしても見えなかった。そもそも仮にそうだとして、左手だけで受け取るのは難しかろう。そんなことをしたら、手を開いた瞬間に全部が空に逃げてしまう。
しかし、どんなに注意深く観察してみても、風船の数は少しも変わらない。一本、又一本、子供の手に風船が渡され、辺りに色取り取りの球が漂いながら散って行く。あれでは、いずれ敷地全体に溢れ返ってしまうのではなかろうか。成程、この遊園地ではどんなことでも起こり得るのだ、と改めて思わせられる。
そうして見ているうち、自分も風船が欲しくなった。余所見している馬の首を叩いて、道化師を指差す。馬は、解った、という風に、そちらに向かった。途中、何人かの子供達と擦れ違い、彼ら彼女らの影法師が、頭上に丸い球を漂わせながら走って行く様を目にする。
みんな、あれを持ったまま、回転木馬や珈琲茶碗に乗るのか。多分、その時は親に預けたりするのだろう。では、独りしか居ない自分はどうしよう。
と、その時、道化師から一本を受け取った女の子が、何の弾みか手を放してしまった。十歳にも満たなさそうな少女は、飛んで行く黄色い球を見上げ、しばし呆然とする。そして、顔を元に戻してから、肩を振るわせてしゃくり上げ始めた。周囲に満ちる客達のざわめきや音楽で声は聞こえないが、恐らく簡単には収まるまい。
と、すぐに道化師が新しい風船、今度は赤いのを一本右手に取り、首を縦に振りながら彼女に差し出す。少女は尚も肩を震わせながら、しかし素直にそれを受け取った。そうして、頭を撫でてくれた道化師に、今度は辺りにも聞こえるはっきりした声で、
「有り難う」
と言う。
それから彼女が道化師に頭を下げ、こちらに向かって走って来るのと擦れ違う。馬の背で体を捩り、少女の行く先を眺めると、そこには両親と思われる若い男女が待っていた。娘が合流し、三人で連れ立って、回転する水上舟に向けて歩き出す。見ていて何やら自分までもが安堵したように感じ、馬を促して尚も道化師に近付いて行く。
降りようか。
数メートル近くまで来て馬を止め、しばし逡巡する。このまま風船を貰っても良さそうだが、何か偉そうに見えはしまいか。他にこんな動物に跨った客が居ないので、どうもよく判らない。
と、迷っているうちに彼の方でこちらに気付き、顔料で赤と白に塗られた顔を上げて、にっこり微笑んだ。
自分は一人では馬から降りられない。これを貸してくれた人によれば、赤と黄色の縞模様の服を着た者に頼めば、何とかして貰える筈である。では、目の前の道化師もだろうか。あんなにたくさんの風船を持ったままでは、難しそうに思えるが……。
すると道化師は、右手の風船を前に居た男の子に渡してしまうと、その開いた掌で招いてきた。そのまま来い、というのだろう。途端に馬が察してか、指図をしなくとも自分で足を踏み出す。周りにいた子供達は、馬に乗ったこちらに驚く様子もなく、すっと後ろに下がって道を開けてくれた。
道化師は風船を持ったまま、赤い六角形に隈取った目で、馬の正面から見詰めてくる。このままでは、お互い手を伸ばしても届きそうにない。彼も同じに思ったらしく、風船を手に、馬の隣まで寄って来た。此方は大きな動物に跨ったままなので、その顔を見下ろす格好になる。
どうしよう。頭を下げてもいいのだが、まだ何も貰っていない段階では、どうにもそぐわない。
そこでとにかく、軽い会釈をして微笑み掛けてみた。道化師も又同じような顔をするが、すぐ大きく目を開いて口を開け、大袈裟に驚く仕種をして見せる。何かと思ったが、その視線は、こちらの胸の首飾りに向けられていた。銀色の六角形に、碧光石の光。他の客と同じ、全ての遊具に自由に乗れる印だが、この飾りを使った物は、今園内に二つしか無い。彼も初めて見るのだろう。
道化師は表情を和らげると、首を縦に振って、さも感心した様子を見せる。それから少し考えて、左手の風船の束から一本掴んで差し出してきた。
え?
何の色も着いていない、ただの白。今までどの子供も受け取っていない品だ。
束の中に、こんな物が混じっていたのか。だったら、遠目にも判りそうなものである。どうして、今まで気付かなかったのだろう。もしかすると、この道化師は魔法使い――この齢ではそう言いたいところだが、生憎そんなものは信じていない――腕の良い手品師なのかも知れない。
腕を伸ばして風船を受け取り、今度こそにっこり笑って頭を下げた。相手は首を縦に振って、うんうんと頷く。彼は決して喋らない。言葉を使わず、全てを身振りで意思疎通すると決めているのだろう。改めて思い出しても、数年間の人生で、言葉を喋る道化師は知らないように思う。
と、彼は渡したばかりの白風船を指差してから、握った手を開く仕種をして見せた。
え、何?
一瞬戸惑うと、相手は大袈裟に首を傾げて困った動作をする。それから少し考えた振りをして、もう一度右手を出して風船を指差した。そのまま握り拳を作ると、ぱっと開いて見せる。同時に掌を空に向けて、何かを投げるように、ひょい、と手首を動かした。最後にこちらを見詰め、六角に隈取られた目で笑い掛ける。
解ったかな?
彼の目は、そう訊ねていた。
成程、そうか。言いたいことは通じたと思う。しかし、本当にそうしろと? 一体、どうして。
そこでこちらも同じ動作を返して、確かめてみることとする。
風船を左手に持ち替えて指差す――これを?
右手を一度握り拳にしてから、開いて見せる――離して?
掌を上に向けて、見えない何かを投げ上げる――空に上げるの?
道化師は、うんうんと首を縦に振り、もう一度素直な笑顔を見せた。話が通じて、さも嬉しそうだ。やはりそうなのか。
しかし、どうしよう。せっかく貰ったのに。
遊具に乗っている間、預ける者が居ないのは事実だが、馬の鬣に結び付けておけば良いと思ったところだ。それに、他の子供達にはこんなことをさせないのに、どうして自分にだけそうしろと言うのだろう。
しかし道化師は、笑ったままの表情を変えずに、心配するな、という感じで頷いた。その様子に邪気は無い。ならば、信じるしかあるまい。
そこで、解った、というように再び風船を右手に持ち替え、腕を力一杯上に伸ばした。黒い夜空を背景に揺れる白い球。指を開くとすぐに手を離れ、見る見るうちに昇り始める。上空は道化師の居る方角に向かって風が吹いているらしく、風船は、彼の頭上を白い点となって通り過ぎようとした。と、その動きを目で追っていた道化師が、後ろを振り向いて右手を高く差し上げる。
え?
こちらが思う間もなく食指と拇指だけを立て、拳銃で狙いを付けるかのように風船に向ける。次の刹那、右腕と手首が、如何にも弾を発射した際の反動が来たとばかりに後ろに引かれた。途端に、辺りに銃声が響き渡る。
何?
気の迷いだろうか。そうとしか思えない。彼の動作が余りに見事なので、そんな錯覚を起こしたのだ。しかしそれなら、何故、周りに群がっている子供達までもが、耳を塞いで唖然としているのだろう。
と、その時、夜空の上、飛んで行った風船の方角で、別の轟音と光が弾けた。みんなで一斉にそちらを見上げる。そこには巨大な火の塊が炸裂していた。
赤、黄、青、緑――次々と色を変えながら拡がって行く光の鳳仙花。流れ星のように尾を引いて散らばり、やがて全体が空の半分にまで膨らむ。と、後は噴水が落ちるように、色付きの光の粒となって地上に降り注いだ。
時ならぬ打ち上げ花火の音に、辺りの人々も足を止めて空を振り仰ぐ。一瞬間を措いて、子供達が、わっと歓声を上げた。道化師の仕業に対する称賛の響き。その中で、自分だけが、ただ唖然と空を見上げている。
しばらくして心が落ち着くと、顔を下ろして道化師の方に向けた。周囲はまだざわついていたが、彼はただ笑って、こちらを見詰めている。周りを囲む子供たちの間から、もっとやってもっとやって、という声が上がるが、道化師は首を横に振って、駄目、という仕種を見せる。
「どうしてなの」
誰か、少年の声が聞こえた。多分、訊ねたのは一人二人ではない。辺りはまだ子供達の騒ぎ声で一杯だ。
しかし、道化師はそれに答えるように、こちらが下げている銀の六角形を指差す。一瞬、碧光石が輝いた。それから少年の方を向き、彼の下げた樹脂の青いペンダントを指し示す。
残念だけど、あの光る石が無いと出来ないんだ。ごめんね。
碧光石に、そんな力は無いのに――。
そうは思うが、子供達は再びざわざわしただけで、すぐ納得したように静かになる。
それから道化師は、左手から新しい赤の風船を引っ張り出すと、こちらに手渡してくれ、馬の鬣を指差した。うん、と首を振って結び付ける。馬は先の轟音にも、首に着けられた異物にも、全く動じる気配が無い。流石、この園で長らく飼われていただけのことはある。道化師は開いている右手を腰の前に持って来ると、深々とお辞儀をした。
どうでしたか、私の芸は?
そう言いたいのだろう。そこでさっきと同じくにっこり笑い、丁寧に頭を下げる。拍手をしても良かったのだが、何だか時期を逸してしまったみたいに思う。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。周りの子供達が、一斉に手を叩き出したのだ。そこで迷うこと無く、自分もその輪に加わることとする。
馬が、言われもしないのにゆっくり歩き始めた。両手を離していたので一瞬ふら付くが、すぐ体勢を立て直して首に掴まる。鬣に結び付けられた赤い球が、風に吹かれてふらふらと揺れた。子供達がさっと道を開けてくれ、馬は、走路を七色の電球で飾られたジェット・コースターに向かって歩いて行く。
途中振り返ると、さっきの道化師は再び子供達に風船を渡しては、頭を撫でてやっていた。相変わらず、数は少しも減らないし、新しいのを補給する様子も無い。いつまでも見ていると首が痛くなるので、静かに元に戻す。目前には、コースターの巨大な走路が畝っている。
平田真夫既刊
『水の中、光の底』