(紹介文PDFバージョン:kakegaenakishoukai_okawadaakira)
今回紹介する『エクリプス・フェイズ』のシェアードワールド小説は、浦浜圭一郎による新作「かけがえなき命のゲーム」だ。
これまで「SF Prologue Wave」上で「エクリプス・フェイズ」小説を読まれてきた方々は、ひょっとすると、本作の先鋭的なスタイルに驚くかもしれない。
舞台となるのは、現代日本の風俗に『ニンジャスレイヤー』風の戯画化されたオリエンタリズムが嵌め込まれた異世界。断章という形式で描かれる各々の章では、映画のように視点が変化する。視点人物「ヒデサト」と「D」が巻き込まれた、奇妙な「ゲーム」の行く末は? フランク・ミラーのグラフィック・ノベル『RONIN』にクエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』を入れ混ぜたような、ゲームと連動したシェアードワールドSFに新たな境地を拓く力作だ。
浦浜圭一郎といえば、第1回小松左京賞佳作を受賞してデビューしたSF作家として知られている。その受賞作『DOMESDAY―ドームズデイ―』(ハルキ・ノベルス)は、ゾンビ映画の古典のリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー監督)、名作グラフィック・ノベルを見事に実写化した海外ドラマ『ウォーキング・デッド』、ジェイン・オースティンを見事にマッシュアップした小説『高慢と偏見とゾンビ』等、近年大流行の兆しを見せている「新世代のゾンビ表象」を、2000年の段階で、いち早く先取りした傑作だった。
その『DOMESDAY―ドームズデイ―』では、閉鎖的な「ドーム」に閉じ込められた人々が、閉塞状況に希望を失い自殺し、「天使」なる謎の球体によって、死んだ姿のままでゾンビとして蘇らせられる衝撃的な光景が描かれた。実は、同作の流れで、13年後に発表されたこの「かけがえなき命のゲーム」は読むこともできるのだ。つまり、魂をデータとしてコピーし、セーヴ&アップロードが可能な『エクリプス・フェイズ』世界において、「死」とはいったい何であるのかという重厚なテーマが、独自の美学に基づいた迫真の戦闘描写を通じて模索されるのである。イラストレイター・小珠泰之介の手になる、美麗にして怪異なクリーチャーのイラストも見どころであろう。
ぜひ、本作を、日本SF作家クラブ50記念出版『SF JACK』(角川書店)に収録された冲方丁「神星伝」、あるいは「SF Prologue Wave」の『エクリプス・フェイズ』小説であれば、片理誠の「決闘狂」と、一緒に読んでみてほしい。
浦浜圭一郎は、自身の手になる映画シナリオ「ROOM OF DREAMS」が、2007年釜山国際映画祭シネクリック・アジア賞受賞し、同作が2008年ロッテルダム国際映画祭シネマートに公式選出されるなど、小説以外の活躍でも知られている。また、近年はLANTIS社によって、『DOMESDAY―ドームズデイ―』、および新作長編『DEATH-TECH』は英語版が電子書籍として発表されている。活動舞台を世界へ広げる浦浜圭一郎の今後の活躍から、ますます目が離せない。(岡和田晃)
(PDFバージョン:kakegaenaki_urahamakeiitirou)
1.
旭ヶ丘に警報が鳴り響いたのは22時17分。
そのとき、ヒデサトは自宅二階の勉強部屋で、紙のノートに漢字を書き付けていた。明日の期末テストに備えて『国語』の勉強中だったのだ。
卓上灯だけ点して部屋の中を暗くすると、障子を開けたベランダ窓から、月と星座を浮かべた夜空が見える。夜更かしするのは立派な校則違反だったにもかかわらず、ヒデサトは、こうして月を見ながら勉強するのが好きだった。軍人気質で厳格だった母には度々咎められたが、父は「月明かりの下で勉学に励むなんて風流じゃないか」と庇ってくれるのが常だった。けれども今は、咎める人も、庇ってくれる人も、この家にはいない。両親が相次いで真(まこと)の死を遂げて以来、三つ歳の離れた弟、トウタと二人暮らしだ。
サムライらしくない感傷を振り払い、先月16才の元服式を終えたばかりの少年は、いにしえの象形文字を描く筆先に意識を集中させようとした。それにしても…昔の人々は、いったいどうやって、こんな複雑怪奇な記号を小さく手書きできたのだろう? 神経遺伝子強化も全く受けず、機械の力も借りないで…。
千年前の人間に習得できた技能が、おまえたちに習得できないはずがない。そう教師たちは言うけれど、習字にかぎらず、栄えあるヒノモト・サムライ・スクール(H.S.S)が生徒たちに叩き込もうとする「いにしえの技能」の中には、ただの伝説じゃないのかと疑わせる技も多々あった。そもそも、教師たちの言う「いにしえ」とは、いつの時代だ? 正確な記録装置も存在せず、正真正銘フラット(未改造)な人間の伝聞のみに頼って歴史が書かれていた時代、「外」のデジタル擬人(トランスヒューマン)たちが言う『先史時代』か?
リプレイできない歴史は歴史ではない、そう擬人たちなら言うことだろう…。
おっと、これでは敵性ミームに感染したと言われかねない。あわててヒデサトは頭を振ると、気分転換に月でも愛でようと窓の外に目をやった。そこで初めて夜空に起こった異変に気づき、気づくと同時に…警報が鳴り出しのだ。
傷ついた満月が、真っ赤な血を滲ませている。
驚いたヒデサトが立ち上がった途端、暗くしてあった部屋の明かりが自動的にまばゆく点った。窓のガラスが、ユカタ姿で頭にハチマキを巻いた自分の姿を映し出す。外の様子を見ようと窓に駆け寄ると、碁盤目状の街路に庭付き一戸建ての二階屋が立ち並ぶ居住区(アサヒガオカ)のほぼ全景が見渡せた。800戸ある家のうち、約三分の一は今も空き屋だったが、その明かりまでもが次々と点されていく。最後に、丘のふもとの広々とした校庭の向こうにある大校舎の全ての窓が一斉に光を放った。月に一度の演習のときには、なかったことだ。
非常警報に窓のガラスが反応し、半透明になって硬化していく。家全体が気密モードに入ろうとしているらしい。
月の一部と背景の星空に拡がっていく、キモノに滲んだ血のような赤色は、空気漏出を警告する赤だった。
ドームに穴でも空いたのか? いや、違う。さっきは、もっと異常なものを見た。ドームに映し出された地球の月に、何か巨大な吹き出物のような紫色の物体が形成されつつあったのだ。
窓はすでに真っ黒に近いほど不透明化している。さっき見たものの正体を確かめる方法は一つしかない。
ヒデサトは思い切って、ベランダのガラス戸を開け放った。
外は昼間の明るさだ。多少ひんやりとした空気が部屋の中に流れ込んだが、吐息が白くなるほどではない。
ドームの天井だけでなく、アステロイドを覆う氷河の地下5キロ・メートルに埋め込まれているシリンダーの外殻にまで穴が開けられていたら、この程度の冷気じゃすまないだろう。
ベランダに出て見上げると『地球の夜空』はすでになく、白く輝く天蓋に、警告サインの赤い滲みだけが拡がっていた。その赤い滲みの中央には、やはり何か紫色の泡のようなものが出来ている。
望遠機能付のゴーグルを取りに戻ろうかと思ったとき、
「ヒデサト! 外に出るんじゃない!」
聞き覚えのある声にそう怒鳴られた。
道路を挟んだ向かいの家の柵のないベランダに、剣道師範のナガヌマの姿があった。首に酸素マスクをかけてはいるが、ヒデサトと同じユカタ姿だ。ただし、帯には大小のワキザシを差している。それを見た途端、先月、晴れて帯刀の許しを得たばかりのヒデサトは、「ブシの命」を部屋に置いたまま外に出た自分を羞じた。
ナガヌマ先生が、助走もつけずにベランダの床をトンと蹴ってジャンプした。長い金髪を浮き立たせ、2メートル近くまで育ったボンサイの木が立ちならぶ自慢の庭と垣根を軽々と飛び越えると、前の道路にふわりと降り立つ。鉛でできた高下駄を履いたまま、しかも飛距離が短くなる北に向かって跳んだのに、みごとな着地だ。これだけは、いにしえのサムライにだって真似ができないワザだろう。まあ、いにしえ人たちは、ここの6倍以上もある重力に縛られてたので仕方がないが…。
「なにしてる? 早くトウタを連れて地下室に入るんだ。弟を守るのは…」
言葉をとぎらせた先生は、ぽかんと口を開けたまま、ヒデサトではなく空を見ている。
その視線を追ってヒデサトが見上げた途端、紫色の粘液に包まれた巨大な何かが、割れた無精卵の殻からしたたり落ちる卵黄のように糸を引きながら、見上げるヒデサトたちに向かって落ちて来た。
2.
墜ちてゆく…。
漆黒の闇の中、いまだ見えない肉の明かりを探し求めて、どこまでも…。
いつまでも、いつまでも、ひたすら落下し続ける…。
だが、Dは知っていた。この「暗黒の拡がり」も、この「歯が浮くような急速な落下感」も、ただの幻にすぎないことを。
闇の色は幻覚で、実際に存在するのは、全き虚無だ。虚無に色は存在しない。
この落ちていく感覚も…たった今、この俺の『義脳』がハビタット内の低重力に引かれて落下している…はずだという想定がもたらした幻覚にすぎない。
完全な感覚遮断がもたらす幻覚作用を避けるため、夢見る機能はあらかじめ抑制してある。
ただし、完全にオフにしたわけではない。「夢」と同じく「自意識」もまたある種の幻覚である以上、それを維持する機能は必要だからだ。
だから、ここまでは想定内だ。
だが、VR(ヴァーチャル・リアリティ)でのシミュレーションで見落としていたことが、一つある。
それは、この「いつまでも」という主観的な時間の感覚だ。
居住区のドーム天井から地表までの距離は400メートル。
だから、いくら、ここの疑似重力が弱かろうと、もうとっくに着地していてもいいころだ。なのに…
いつまでも、落ちていく感覚が終わらない。
どうやらストレス無しでゲームを始めることはできそうにないな、とDは思った。
3.
先頃、95才で天寿を全うしたショダイ校長は、ガニメデ生まれの生粋の(ある意味、フンタより過激な)バイオ保守主義者で、「健全な精神は、健全な生身の肉体にしか宿らない」というのがモットーだった。
〈大破壊〉(ザ・フォール)の年に起きた木星圏での軍事クーデターに参戦し、(自ら書いた自伝によれば)一時は「革命軍の英雄」の一人として賞賛を受ける身分だったが、一神教の原理主義(ファンダメンタリズム)一色に染まったフンタ(軍事独裁政権)とは、最初から折り合いが合わずに軍からリタイア。ヒデサトの両親のような忠実な部下たちとその家族を率いてガニメデからも離脱して、退役前に手に入れていた、この辺境のハビタットを目指して旅立った。
このハビタット自体は、〈大破壊〉直後の混乱に乗じてフンタが「接収」した数多くの私有ハビットの一つで、元は、どこかの成金商人の研究施設を兼ねた保養地だった。当初、フンタのお偉いさん方の一部は、ここをティターンズ(反乱AI)からの避難場所にするつもりでいたらしい。
だが、ティターンズが太陽系から立ち去ったことが明らかになると、エゴのアップロードを拒む保守主義者にとっては、あまりに不便な宙域にあるこのハビタットは、使い道もないまま放置されていた。ただし、金目になりそうな装飾品や、エゴ投射機や旅行者用のモーフ(義体)等、フンタが好まないハイテク施設は、ヒデサトたちが到着したときにはすでに、接収(略奪とも言う)されたか、破壊された後だった。
それでも、残り少ない生身の人生を、いにしえの「サムライ・ダマシイ」復活の夢に捧げようと決意したショダイや、ヒデサトの両親にとって、ここは、じゅうぶん理想の地に思えたことだろう。
じゅうぶんでなかったのは、彼らの寿命だ。
今から2年前、近隣のハビタットの保安部隊に、ジュウドウ及びジュウジュツの指導教官として出向中だったヒデサトの父は、新兵同士の喧嘩の仲裁に入ろうとして命を落とした。それから数ヶ月後、父の仇を討つために、その「近隣の」ハビタットに向かった母も、半年近くの時間を要する往きの航路で宙賊の襲撃に遭って最期を遂げた。重武装した敵のモーフを3体も道連れにした結果、船は奪われずに済んだのだから「名誉の戦死」だ。
ショダイは、これぞ真のサムライの死に様だと褒め称えたが、同じ年にニダイメ校長の有力候補を二人も失った心労が祟ったのか、それ以後、めっきり老け込んだ。数ヶ月前、ついに崩御あらせられ、今は校庭のブロンズ像と化している。
だから、ヒデサトとトウタが、他の若い生徒たちより優遇されて、旭ヶ丘の比較的上段に住み続けることができたのは、「サムライの死に様」を示してくれた両親のおかげと言える。
たった今、真の命を落とさずにすんだのも…。
ハビタットの装甲天井から落下してきた謎の物体は、旭ヶ丘の中央からやや上、ヒデサトの家から4段ほど下の生徒たちの住居三棟を、地響きを立てて押しつぶした。
いつのまにか警報は鳴り止んでいて、あたりには生徒の悲鳴や教師たちの怒鳴り声ばかりが木霊している。
「…Dデイだ…」
ナガヌマ先生が信じられない言葉を一言呟いて、高下駄を脱ぎすてる。ヒデサトを振り返りもせず、そのまま一直線に被災地に向かって飛び立った。
「ドゥームズ・デイ」とは、木星フンタの原理主義者たちが予言している(ヒデサトには待ち望んでいるように見える)終りの日、最後の審判の日のことだ。具体的には、ティターンズが〈大破壊〉の仕上げをしに大挙して帰ってくる日のことを指している。
信じられない。けれども、あり得る話だ、とヒデサトは思った。
人類の完全な滅亡(あるいは完全なデジタル化)を目論むような者でもなければ、誰が一体、こんな辺鄙な場所で孤立している弱小コロニーを襲うというのだ。資源と言えば「サムライ・ダマシイ=主の為には真の死すらいとわない忠義の心」しかない…いや、正確には将来それが資源になるだろうと信じる変わり者(ショダイは信用経済への進出を目論んでいた)が作ったコミューンを…。
謎の物体が落下して家屋が倒壊した辺りには、低重力用の軽素材が噴煙のように舞っている。ヒデサトは、煙の中に飛び込んでいったナガヌマの姿をすでに見失っていた。
落下地点にそびえているのは、半透明でぶよぶよとした紫色の塊だ。まるで床に落とした溶けかけのアイスクリームのような形をしていたが、高さは20メートルほどもある。ヒデサトが呆然としたまま見守るうちに、それが本当に溶け出して、物体の本体が露わになった。
それが、一見、ごくありふれた小惑星探査用のトンネル掘削機に見えたので、ヒデサトは少しほっとした。ただの掘削機にしては、何か得体の知れない機械類に覆われていたが、本体自体は直径7メートルほどの鉛色の円筒だ。少なくとも、ティターンズが使うような超テクの形跡は見当たらない…と思った瞬間、円筒の側面に長方形の真っ黒な穴が現れた。
開口部の大きさは、ただの掘削機には絶対にあり得ないほど巨大なものだ。その穴の両端に、今、かぎ爪のついた巨大な手がかけられる。
暗い穴の中から、のっそりと上半身を突きだしたのは、オウムに似た鳥類の頭をつけた裸の巨人だ。
4.
まるで、いにしえの日本人が描いたマンガの世界に、突然、放り込まれたようだった。
ショダイ校長が熱狂的な日本文化のコレクターだったので、学校の歴史館には、紙で出来た貴重な書物がいくつか展示されている。中には、ヒデサトの両親が〈大破壊〉直後の地球に潜入して、命がけで回収してきた品物もあった。マンガという特殊な絵本もその一つで、生徒たちの間では、よくコピーが回し読みされている。
今、庭付きの家四軒ほどを隔てた距離で、ヒデサトの前に出現した巨大生物は、まさにマンガに出てくるカイジュー(KAIJU)そのものだった。
身長は12メートル以上。ひょこひょこと素早い動きで辺りを見回す頭部自体は知性化動物の新鳥類(ネオ・エイヴィアン)に似ているが、首から下は、黄緑色の鱗に全身を覆われた筋骨隆々としたヒューマノイドだ。当然、ヒデサトは見たことがなかったし、生前、両親が語ってくれた武勇伝の中にも、こんな怪物は出てこなかった。
ヒデサトは、今ほど「フラット」で「ゼロ(未接続)」な自分の身を呪ったことがない。今では、擬人を含めた人類の大半にとって、「思い出す」と「メッシュを検索する」とは同義の言葉だ。だが、それを人類精神の大きな堕落と見なすこのヒノモトでは、18才になり、しかも超難関の資格試験に受からなければ、メッシュに接続することは許されないのだ。
あまりの非現実感に、逃げ出す気力さえ奪われて、ヒデサトは、ただただ正体不明のカイジューを見守るしかない。
そのカイジューは、相変わらずひょこひょこ頭を動かしながら、掘削機からますます身を乗り出すと…
そのまま、ごろんと前転して穴の中から転がり落ちた。かぎ爪のついた人類とも鳥類ともつかぬ足の裏が落ちて来て、ヒデサトの向かいの家の屋根をぐしゃりと潰す。ナガヌマ先生が、つい最近、自宅の庭で観賞用に飼い始めた飛べない鳥(こちらは知性化されていない本物の鳥類だ)が、ばたばた羽ばたきながらボンサイの木の間から飛び出すと、ヒデサトの庭に跳び込んできた。
転がり落ちるときに一瞬見えたカイジューの背中には、やはり翼らしきものはない。ただ、巨大な肩胛骨の間には、H.S.Sの日章旗に似た赤い放射線状の模様があった。ただし、そんな特徴が見えたからと言って「ゼロ」のヒデサトには意味がない…。
仰向けになったカイジューが、じたばたもがいて、さらに周囲の家屋を破壊していく。ナガヌマ先生の家と彼の自慢の日本庭園は、一瞬のうちに醜い瓦礫の山と化した。
「…なにしてる? 逃げるなら今のうちだぞ…」
どこからか聞こえてきた囁き声に、はっとして、ヒデサトは後ずさりして部屋に戻った。
勉強部屋の中にはヒデサト以外、誰もいない。すぐ耳元で囁かれたような気がしたが、今のは幻聴だったのだろうか?
いや、幻聴であれ、近所の誰かの声であれ、確かに今が、地下の気密シェルターに逃げ込むチャンスだ。あのカイジューにとって、ヒノモト印の住居などオリガミで作った家に等しいのだから…。
カミダナの前の掛台から日本刀を拾い上げると、廊下に続くドアに向かった。開閉ボタンに手をかざすと、ドアがシュッと音をたててスライドし…
ヒデサトは、ドアの前に突っ立っていた弟トウタと鉢合わせした。
5.
トウタは現在、13才。ヒノモトに移住してきたのは6才の時だ。
そのせいか、ここに来た時、すでに物心が付いていたヒデサトと違い、H.S.Sの校風にもよく適応していた。よく言えば真面目、悪く言えば杓子定規に物事を捉える質で、ときおり「外」の想い出を口にするヒデサトとは喧嘩になることも多かった。だから、旭ヶ丘に警報が鳴ったとき、弟なら当然、訓練で定められたルールにきっちり従い、とっくに地下のシェルター逃げ込んでいる…はずだとヒデサトは思っていたのだ。
最初、それが自分の弟だとは思えなかった。ヒデサトの目の前にある弟の顔が、別人のように変形していたからだ。
トウタは両目を閉じていた。だが、その閉じ方が、どうもおかしい。よく見ると、目蓋を含めて、顔全体の筋肉が弛緩して、わずかに垂れ下がっているようなのだ。
「…あいうえ…あすけて…」
ほとんど唇を開かずにそう言うと、力なく両手を前に突きだした弟が、ヒデサトに倒れかかってきた。
あわててヒデサトは抱きかかえたが、ユカタを着たトウタの背中に張り付いたものを見た途端、あやうく突き飛ばしそうになった。
「トウタ。いったい何だ、これ?」
いまや完全に脱力した弟の身体を抱きかかえたまま、ヒデサトは後ずさりして、弟を慎重にうつ伏せにする。その背中には金属製の細い触手を無数に生やした、赤ん坊の頭くらいの大きさの深紅の球体が取り憑いていた。うねうね動く触手の大半は、すでにトウタの首筋やこめかみの中に潜り込んでいる。なのに、血が一滴も流れ出ていないのが、なおさら不気味だ。
突然、トウタが、両膝を曲げて背中を丸め、亀のように縮こまって震え始めた。
「…らぁんにも…うぇない…」
そう呻くと、触手に侵食された顔を上げ、かっと見開いた目でヒデサトの方を見る。
いや、見ていない。弟の青みがかった二つの瞳は、まるで各々が別個の生命体であるかのように、別々に動いていたのだ。
弟の背中に張り付いた化け物は、武器学の授業でも見たことがないタイプのものだ。
だが、メッシュがなくても、ヒデサトには、それが何をしようしているのか見当がついた。
弟の、かけがえのない「生身の肉体」を奪うつもりだ。
6.
永久とも思える長い主観時間を経た後に…。
ようやく、Dのエゴを載せたスナッチャー(身体機能簒奪ボット)が肉の身体にたどり着き、まずは目玉と耳を奪うことに成功する。
このスナッチャーは、Dたちが長い月日をかけて、ただただ、この日のゲームのためだけに開発した怪物ボットだ。開発者のUは、こいつの触手を開発するのに、エクスサージェント・ウィルスに感染する危険まで冒している。
先端がナノ・スケールのその触手が、相手のこめかみに潜り込み、眼球の眼窩から伸びた神経管をジャックする。別の触手が、目蓋や眼筋、その他、「見る」ことに必要な付属器官の機能を奪い、ここで初めて、Dのエゴは「外界」の光を取り入れて、闇色の幻覚世界から解放された。
もしDが木星フンタだったなら、「光あれ!」とでも叫んで大喜びしたことだろう。
だが、Dは年季の入ったトランスヒューマンだったので、自分の視界を構成する光のあまりの微弱さにがっかりした。
Dを載せたスナッチャーが選んだのは、ネフィリムではなく、フラットな旧式人類の身体だったのだ。
旧人類の視界は、可視域がわずか360~800ナノ・メートルの、たった4種のフォト・レセプターによって構成される。Dが、このゲームの訓練中に体験した絢爛豪華な新鳥類の視世界と比べると、三原色のくすんだ世界に思えるのも仕方がなかった。
ゲームの参加者はDを含めて5人いる。
その5人のうち、誰がネフィリムの身体を獲得するかはランダムに選ばれた。ネフィリムは、新鳥類の遺伝子を取り入れた上、低重力環境で自らを巨大化させた狂ったエクスヒューマンである。対戦相手の一人であるOがトロヤ群の闘技場で発見し、Dが購入してやったモンスターだ。
このゲームのルールは簡単で「死ぬまで互いに殺し合うこと」、ただそれだけだ。
ここで言う「死」とは、もちろん「真の死」だ。
あとにバックアップは残していないし、この義脳の中には神経状態を記録するナノボットは存在しない。皮質スタックそのものを除去してあるのだ。
従って、よほどの運に巡り会うことがなければ、この義脳が「この俺」のエゴを宿す最後の脳となり、たった今、乗っ取ったフラットな子供の身体が「この俺」最後の身体となるだろう。
スナッチャーは、脳細胞の可塑性が大きい若いフラットに取り憑くようにプログラムしてあった。だが、市販のバイオ・モーフと比べると、さすがに適合性が悪かった。フラットは、神経ネットワークの「個人差」が大きすぎるのだ。
運良くネフィリムの身体を「当てた」奴は、おそらくこの問題に苦しむことはないだろう。ゲームの参加者全員が、前もって、あの怪物の身体を実際に操る訓練が出来たのだから…。
もちろん、ゲームを諦めるのは、まだ早い。
ネフィリムの巨体は、この低重力環境では有利に見えるが、武器は自らのかぎ爪と馬鹿力のみだ。こちらは、ハビタット内にあるサムライたちの武器を自由に使えるし、まずは巨獣を倒すため、一時的に「共闘」するという手もあった。
いずれにせよ、武器を見つけて手に入れることが先決だったが、その点、Dは幸運に恵まれていたようだ。
ようやく両目を共同運動させて立体視できるようになった視界には、さきほどからずっと、キモノ姿で頭に変な布を巻き付けたフラット少年の姿が映っている。
そいつが、ついさっき、床の上に投げ捨てた物が、まさに今、Dが必要としている物だったのだ。
「カタナをよこせ!」
奪ったばかりの声帯を使って、Dは叫んだ。
7.
「かかぁ…を…おくぉへ!」
トウタが訳のわからない言葉を叫んで、身体を起こした。
「え? 何?」
かがみこんだヒデサトが、弟に顔を近づけた途端…。
もの凄い早さでトウタの右手が繰り出され、気づいた時には部屋の端まで吹っ飛ばされていた。
殴られた瞬間、ヒデサトは、ぽきりと骨が折れる、嫌な音を耳にした。
じんじんと熱を発して早くも腫れ上がりつつある頬と顎をさすってみたが、幸い、骨折はしていないようだ。だとすると、骨が折れたのはトウタの手の甲か指の骨だったのかもしれない。
涙にかすむヒデサトの視界の中で、正座したトウタが両腕をぐるぐる回し始めた。そのぎこちない動かし方は、操り人形そのものだ。
「擬人に取り憑かれる話」というのは、低学年の生徒たちの間で流行している怪談話の定番だった。それが、実際に、大事な弟の身に起きている。
今、兄を殴ったのは弟ではない。憎むべきティターンズの陰謀によって生み出され、ヒデサトたちのような本物の人類に成り代ろうとしているデジタル擬人だ。
そいつは、頭を微動だにせず目だけをぎょりと床に向けると、右手を伸ばしてヒデサトの刀を握った。ヒデサトの「ブシの命」は、紙をねじって作ったコヨリと呼ばれる紐で封印してある。正式に抜刀の許可が下りるのは、18才の成人式を経てからなのだ。刀の鍔と鞘を結んだコヨリは簡単に破けるが、ヒノモトの生徒は、それで意志の強さを試される。
だが、弟の身体を操るそいつは、何のためらいもなくコヨリを破り、鞘から刀身を抜いていく。
「やめろ!」
飛びかかろうとしたしたヒデサトは、横一線に振るわれた刀に側頭部を強打され…。
今度は自分が人形のように、首を真横に曲げた姿勢のまま、床の上に倒れ込んだ。
たちまち、視野の周りから赤黒い闇が押し寄せてきて…
あいつ、Gシューズを履いてなかったな…。
ヒデサトの思考は、そこで途切れた。
8.
ふむ、試し切りしてみるつもりだったのに…。
Dは、床の上で昏倒しているフラット少年を見下ろしながら立ち上がり、刀剣をもう一振りして鞘の部分を投げ捨てた。どうやら、フラットの脊髄に潜り込んだ触手たちは、Dの『義脳』の運動野と宿主の体性運動神経を、うまく繋いでくれたようだった。
抜き身にした刀身はギラギラと光り輝き、持ち上げて目の前にかざしてみると、鏡のように周りの光景を反射した。その中には、手に入れたばかりの新しい自分の顔も映っている。これが「この俺」の最後の顔か。なかなか生きがよさそうだ。足元で気を失っている少年とそっくりなので、おそらく兄弟なのだろう。
そして、これが「この俺」の最後の武器か。
Dは、両手で刀剣の柄を握りしめ、VR訓練でやった通りに「上段の構え」を取ってみた。
確かに見栄えはいいが、これが本当に「武器」と言えるかどうかは心許ない。実世界では、銃器を持たない敵との接近戦という特殊な状況下でしか使えない、ただのファッション・アイテムと見なされるのがオチだろう。
やはり、切れ味は試しておくべきか。
刀を高く振り上げたまま、床に倒れた子供を見下ろしたとき、Dの脳裏に、
『…若かりし日のような、あのみずみずしい肉体で…』
そんな奇妙なフレーズが浮かび上がった。どこで聞いたセリフだろうか?
メッシュとの接続を絶ち、世話焼きAI(ミューズ)も傍らにいない今、Dの記憶は、怖くなるほど曖昧で不確かなものと化していた。いまや、「この俺」もまた、フラットでゼロなのだ。
だが、それは、「この俺」たち全員が自ら望んだことだ、とDは思った。
何もかもを脱ぎ捨てて、最後の戦い(ゲーム)の激しく燃ゆる炎の中で「真の死」を迎えること。本当のゼロ、夢を決して見ることのない完璧な虚無へと帰ること…。
一言で言えば、激しく燃え尽きたいのだ、「この俺」たちは。
Dは、少年のことは忘れてしまい、障子と真っ黒なガラス戸が開け放たれた窓を抜け、おのれの最後の闘技場へ足を踏み出した。
すると、いきなり、すぐ目の前の住宅地に立ち上る白い噴煙の中に、対戦者たちの姿が見えた。
まずは、ネフィリム。ほんの10メートル先で仰向けに横たわり、まるで生まれたての赤ん坊のように(…そんなものを見なくなって、もう何年たつだろう?)手足をばたつかせて、辺りに土煙を立てている。
でも、この赤ん坊は体長12・5メートルもある。
そう思った瞬間、Dは自分のエゴが急速に縮められ、ちっぽけな小人の身体の中に押し込められたような恐怖を味わった。
だが、久しぶりに味わうこの恐怖はDにとって快感でもあった。ドキドキしてワクワクする。
そう、これこそ「この俺」たちが求めていた「真の死」の快感なのだ。
9.
まさか、こいつ、早々と別の対戦相手に仕留められたんじゃなかろうな?
ネフィリムは、プレイヤー共通の弱点である『義脳』ユニットを下にして、一見、もがき苦しんでいるようにも見えた。自分の体重で自分の『義脳』を押し潰してしまった可能性もなくはないが、そう思わせる戦略かもしれない。
気にはなったが、Dはまず、ネフィリム以外のプレイヤーの立ち位置を確認することにした。
ネフィリムがまき散らす粉塵のせいでよく見えないが、辺りには、残骸の下敷きになった子供たちの微かなうめき声や泣き声以外、人の気配はほとんどない。どうやら、この規格外の化け物をゲームに投入したのが図に当たったらしい。原住民のフラットどもは、こいつをティターンズのバイオ兵器と勘違いして、パニックに陥った非知性化種のネズミみたいに、あわてて地下の巣穴に逃げ込んだに違いない。サムライ気取りで、いきがってはいるが、所詮は、ティターンズを心の底から畏れているフンタと同類の田舎者たちだ。本物の「ブシドウ」を、これから「この俺」たちが見せてやる。
目蓋の筋肉を調節し、煙の中を透かし見ると、ネフィリムの巨体を間に挟むようにして、スロープ状の住宅地の屋根の上に佇んでいる二つの人影に焦点が合った。冷静に巨獣を見守るその姿は、まず間違いなく、「この俺」の対戦相手たちである。
Dの左前方の二階屋の屋根に立っているのは、赤いキモノ(たしかジュバンとか言うナイトウェア)を着た黒髪の少女だ。先端に刀が着いた自分の背丈の倍はあるような長い棒状の武器を持っている。どんなタイプのフラットに取り憑くかはスナッチャーのAIまかせだったので、見かけだけでは、こいつが誰なのかは分からない。
右側の屋根で、長さの違う二本の刀剣を両腕を開いて構えているのは、性別不明の大人の男、あるいは背の高い子供だった。長い金髪が少し乱れて胸元まで垂れている。こいつも見た目だけでは誰だか不明だ。
残る一人の居場所は掴めなかったが、この連中、互いににらみ合うだけで、まだゲームを始めていないらしい。
いくら、住民の大半が臆病なフラット少年ばかりのハビタットでも、空気漏出の危険がないと知って落ち着けば、まともな武器を持った大人の警備兵やら傭兵やらが、ゲームの邪魔をしにくるだろう。もちろん、立ち向かって、できるだけ大勢のフラットたちを道連れにする気でいたが、今手にしている武器では、その夢は叶うまい。
そうなる前に、「この俺」たちの間で決着をつけねばならない。
「おれはDだ! 共闘の申し入れをする! まずは、このでかぶつの息の根を止めよう」
二階のベランダの上から、プレイヤーたちに、そう呼びかけた。呼吸を司る自律神経の一部を乗っ取ったので、発声はかなりうまくなっている。
ほんのわずかな沈黙の後、
「俺はA! 共闘に同意する!」
少女=Aが、女の声でそう応じて、ナギナタ(Dは今、その名称を思い出した)の刃先を前に突きだして身構えた。
「ほぉれは…K!…どーいふる」
サムライ=Kが不明瞭にかすれた声で、あとに続く。どうやら、奴は、不随意神経の支配に失敗し、乗っ取った相手の呼吸に合わせて声を出しているらしい。ずる賢いKにしては、珍しい失敗なので、ボットの方に何か不調でもあったのだろう。
「よし、今いる位地から、一斉に飛びかかるぞ!」
そう叫ぶと、Dは、少し助走をつけるために後ずさった。
どこに狙いをつけるべきかは、皆、わかってる。ネフィリムには、ハンデとして、心臓の上を覆うぶ厚い大胸筋の一部に軟弱な部位を作ってあったのだ。
「いくぞ!」
まずは、巨獣の腹の辺りを目標に定めて、ベランダに備え付けてあったジャンピング・ボードを強く蹴る。視野の両端には、2人の共闘者が屋根から飛び立つ姿が映っている。
低重力環境での空中戦は、VRで何度もシミュレーション済みだった。だが、空中に勢いよく飛び立ったDは、すぐさま、その勢いが強すぎて、高く飛翔しすぎている自分に気がついた。あっと言う間に、廃墟に埋まったネフィリムの異類種ハイブリッドの足の上を飛び越えて…いや、このままだと、ひとっ飛びで、巨獣の胸に飛びつけそうだ…
と思った瞬間、ネフィリムが腹筋を使って、驚くべき速さで身を起こし、左腕を振り下ろして蠅のようにサムライ=Kを地面に叩きつけ、右腕のかぎ爪で、少女=Aの身体を文字通り鷲づかみした。
巨獣を操っているのが誰にせよ、そいつは、敵がジャンプする、この瞬間を待っていたのだ。
Dの旧人類の視界の中では、勝ち誇って吠えるネフィリムのオウム頭が急速に拡大されていく。それを止める術はDにはなかった。
新鳥類のかっと開かれた嘴には、先端が鋭く研ぎ澄まされた無数の「人間の歯」が並んでいるのが見えた。
10.
ネフィリムが、その見かけ通りの狂ったエクスヒューマンだったなら、Dはその嘴で捕らえられ、そのまま噛み砕かれつつ丸呑みにされていたことだろう。
だが、幸いなことに、この化け物を操る『義脳』の主には、「人喰い」を試すほどの冒険心は無かったようだ。そいつは、嘴でDの身体をついばむ代りに、少女=Dを握りしめたままの腕をもう一度、素早く振るってDをボールのように打ち返すことを選択したのだ。
巨獣の怪力によって弾き返されたDの身体は、飛んで来たときよりもはるかに高い放物線を描いて落下して、住宅前の庭木の中に突入した。針金の巻かれた枝を何本も折りながらボンサイの木々を抜け、家主が描いたマンダラ模様を台無しにしながら砂紋の上を転がると、石を積んでできたオブジェにぶち当たって…ようやく止まった。
『義脳』ユニットは無事だったが、少年の身体中から一斉に、「修復が必要な箇所を知らせる信号」が押し寄せてきた。
急いでDは、全ての「痛み」の信号を遮断した。わざさわざ知らせてもらう必要はない。体中のあちこちの骨が折れてることは、視覚だけを使っても確認できた。
痛覚信号を遮断したせいで、体性感覚(エゴの居場所の感覚)がずれている気はしたが、何とか少年の顔を上げ、少年の目でネフィリムの姿を探す。
いた。巨体のせいで近くに見えるが、距離はここから60メートルほど先だ。
ぐったりしたままの少女=Aを玩具の人形のように握りしめたまま、モンスターが立ち上がる。オウム頭をひょこひょこと素早く左右に動かすと、突然、ぴたりと動きを止めた。巨獣の顔は、まっすぐ、「この俺」の方に向けられている。
逃げる暇さえなかったか。だが、たとえ、この身体をまだ動かせたとしても、あの新鳥類の目から逃れるのは難しかっただろう。奴の可視域は旧人類の倍近くあり、人間の発する熱を探知するのも容易いからだ。
ネフィリムが軽く一跳びすると、次の瞬間にはもう…
すぐ目の前の二階屋の向こうから、こちらを見下ろしていた。
「あっと言う間に、決着がついちまったな。おい商売人、おまえが焦ってゲーム開始を早めたからだぞ」
甲高く割れてはいるが明瞭な声でそう言うと、屋根の上に赤い少女をうつ伏せに置き、その背中にかぎ爪を突き刺した。大量の肉ごと『義脳』ユニットを抉り取ると、それをDがいる日本庭園に無造作に投げ入れる。
ぶざまな格好で横たわったまま動けないでいるDの傍らの砂場に、少女の背中の肉に張り付いたままのAの『義脳』ユニットが、どさりと落ちた。飛び散った血しぶきがDが操る少年の顔に、びしゃりとかかる。
「すまないが俺の代りに、そいつのキル・スイッチを入れてくれないか? この手じゃ大きすぎて…」
そこで、急にネフィリムは、鳥類の首をほとんど真後ろにねじ曲げて、
「ようK! 生きてたか。ちょうどいい。しばらく、俺と共闘しないか? 残りの連中を片付けてから、2人でゆっくり、決着をつけよう」
すると、Dからは見えない巨獣の背後から、
「…どぉーいしゅる…」
不明瞭なサムライ=Kの声が聞こえた。
「俺が寝ていた瓦礫の下に、エンジニアの身体が埋まっているはずだ。そいつのキル・スイッチを入れてくれ」
エンジニアというのは、Uのことだ。工学者として長い間、ハイパーコープのスキンセティックに潜り込ませていたアルファ・フォーク(オリジナルの正確なコピー)で、俺たちが載っているスナッチャーズを発明したのはUである。もともと、戦闘経験値が一番低い奴だったが、開始早々、ゲームを脱落していたとは意外だった。よっぽど、運が悪かったのだろう。
ということは、ネフィリムを操っている『義脳』の主は、海王星トロヤ群から来たOということになる。そもそも、ネフィリムを発見し、こいつをゲームに参加させようと提案したのが、このOだった。他のプレイヤー同様、こいつも「この俺」のアルファ・フォークの一人だったが、あまりにも長い間、僻地の小惑星を渡り歩いていたせいで、ベイパー(欠陥コピー)なみに狂ってる。
Dのすぐ側で少女の肉塊の中に埋もれているAは、ガニメデの首都リバティで、長年、バイオ保守主義者たちの目を欺き続けてきたスパイ・フォークだ。巨獣「ネフィリム」の名付け親でもあった。
O、U、A、そしてK…このゲームの対戦相手は全てオリジナルである「この俺」、ゴーシ・オクダのアルファ・フォークだ。奴らは皆、かつて「この俺」が、富豪だった親父の下で働いていた頃に、太陽系の各地にスパイとして送り込んでおいたフォークだったが、今ではアルファとは言えないほどのオリジナルの「個性」を備えている。 中には、Oのように、自分こそがオリジナルだと主張するほど狂ってる奴もいる。
「おい商売人、まだAのキル・スイッチを入れてないのか?」
ネフィリムが、轟くような声でそう言って、少女の無惨な死体が血を流している二階の屋根に足をかけて身を乗り出した。
キル・スイッチとは、義脳完全焼却プログラムを発動させるスイッチで、『義脳』ユニットの隠し蓋の中にある。だが、わざわざ外からボタンを押さなくても、「心の中」で長めの暗号を唱えれば、自動的に発動するようにもプログラムされていた。
Dは、いっそのこと、それを発動させようか、と考えた。ゲームを全く楽しめなかったのは無念すぎるが、これ以上、このベイパーに馬鹿にされ続けるのは、耐えられない。
ところが、肝心のその暗号を、Dは正確に思い出せない。いつもなら、すぐさま親切に教えてくれるミューズが、そばにいなかったからだ。
11.
ネフィリムが、庭園の前の道路に降り立ってかがみ込み、ボンサイの木々の間から、その巨大なオウム頭を覗かせた。
「おやおや、ヒドい有様じゃないか?」
巨獣にぽきぽきと折られたボンサイの枝を見て、皮肉なもんだな、とDは思う。彼が操る少年の身体を傷つけて、たくさんの骨を砕いたそのボンサイは、Dの父親が〈大破壊〉の30年も前に莫大な富を築くきっかけとなった「ミニチュア・ツリー」だったからだ。
どんな微重力の中でも地球の木としての形を保ち、設定以上の大きさには育たない。それでいて、高さ何十メートルもある大木と同じだけの酸素を作ってくれる魔法のボンサイ…。ナノテクが本格的にブレイク・スルーすると、たちまち時代遅れになって、今ではめったに見かけなくなったが、ここには、それが大量に存在している。
当然だ。そもそも、このハビタットは、「この俺」の親父が所有していた研究開発施設だったのだから…。
この自殺ゲームは、復讐も兼ねている。
「おまえの考えてることは、よくわかる。俺はおまえのオリジナルだからな。心配するな、ゲームが終わったら、できるだけ大勢のフラットどもを道連れにして、親父のかたきを…」
そのとき、ネフィリムの左目に棒状の何かが突き立った。2秒後には、その額にも…
誰かが、Dがいる庭園に建つ二階屋の屋根から、矢を放っているのだ。
傷ついた目を押さえて、ネフィリムが立ち上がる。
「頭じゃない! 左胸の印を狙え!」
Dは、思わず、そう叫んだが、すぐさま、叫んだことを後悔した。
ネフィリムが左手を持ち上げて、胸の弱点を覆い隠してしまったからだ。
と、そのとき、ネフィリムの巨体の背後から、小さな人影が水平に刀剣を構えたまま飛んできて、巨獣の左腕をスッパリと断ち切った。その人影は、そのまま、ボンサイの木々を飛び越し、Dのいる庭に前転しながら着地する。サムライ=Kだ。
肘の上あたりの切断面から大量の血を吹き出しながら、ネフィリムが、鼓膜が破れそうな甲高い悲鳴を上げて後ずさりする。後ろの二階屋の庭木に足を取られて、そのまま仰向けに倒れ込もうとした、その瞬間…
巨獣の胸に描かれた小さな赤丸、ハンディキャップの弱点部分に、みごとに矢が突き刺さった。
ネフィリムが残った右手を胸に当て、後ろの家を破壊しながら尻餅をついて座り込む。そのまま、がっくりとオウム頭をうな垂れて沈黙した。もう死んでいる。ネフィリムの『義脳』のキル・スイッチは、暗号ではなく、胸の弱点と連動するようにプログラムされていたからだ。
Dの近くで立ち上がったサムライ=Kが顔を上げて、Dには見えない位地にいる誰かに、
「おわえは…られぇら?」
そう問いかけた。
「そこを動かないで、ナガヌマ先生」
二階の屋根の上にいる何者かは、おそらくサムライ=Kにボウ・ガンを向けているのだろう。
Kが操る金髪のサムライは、右手に刀剣を構えていたが、左腕は肩から脱臼しているようで、ぶらりと下に垂れ下がっていた。
その顔には何の表情も浮かんでいなかったが、DにはKの感情が読めた。Kは、Dの対戦相手の中でも一番の強敵になるだろうと予想していたアルファ・フォークだ。究極主義者(アルティメット)の部隊に入隊して、数多くの死線をくぐり抜けてきた経歴を持つ。
「ころ…りぃぐりぃんぎょうめ」
この肉人形め。サムライ=Kは膝を曲げると、まっすぐ垂直ジャンプした。
「やめろ!」
Dの頭上で、少年の声が叫んだ数秒後…
どさりと二階のベランダから音がして、額を長い矢で貫かれたサムライ=Kの身体が落ちて来た。
続いて、ふわりとDのすぐ目の前に降り立ったのは…
背中に、誰の『義脳』も張り付いてないフラットの少年だった。ベルトで肩にかけて背負っていのは、矢筒だろうか? その手に持っているのは、ほとんど子供の背丈と同じほど長い弦を持つ、信じられないほど原始的な弓だった。こんなもので、あのネフィリムを…
「トウタ!」
頭に布を巻き付けた少年が、そう叫びながら振り返り、Dにかがみこんで抱き起こす。間違いない。Dがこの目と身体を得た部屋にいた、あの少年だ。その顔は涙でびしょびしょに濡れている。
「気をつけろ!」
Dは、少年に教えてやった。
背後で、額に矢を突き立てたままのサムライ=Kが、ゆっくりと立ち上がろうとしていたからだ。
12.
トウタの身体を抱きかかえたままヒデサトが振り向くと、ついさっき、彼が心ならずも射殺してしまったはずの剣道師範が、ゆっくりと立ち上がり、片手で握った「ヨシミツ」を振り上げていた。
ここまでか。対決しようにも、ヒデサトの「ブシの命」は、どこにも見当たらない。擬人に取り憑かれたトウタが、どこかでそれを失くしていたのだ。
妙に冷静な気分で、ヒデサトは目を閉じる。教師たちの言う「サトリ」の境地とは、これかもしれない。自らの手であのカイジューを倒せたという満足感もある。少なくとも、サムライとして死ねるのは有り難かった。「ブシドウ」とは、きっと、こうした満足感の中で真の死を迎えることなのだろう。父も母も、きっとこんな喜ばしい瞬間の中で…
…いっこうにその瞬間が訪れないので、ヒデサトは目を開いた。
不思議なことに、刀を高く振り上げたままの姿勢でナガヌマ先生の身体が硬直している。まるで、いきなり、誰かに時間を止められたかのようだった。
「おっと、そこの小僧。動くなよ」
どこかで聞いた覚えがある囁き声が、すぐ耳元でした。
庭の中を見回してみるが、ここには自分たち兄弟と、立ったまま凍り付いているナガヌマ先生、それに、同級生たちの憧れの的だったシズカ・ゴゼンの…いや、誰も見当たらない。
「どこを見てる? おれは、ここだよ」
がさがさと音のした方向に目を向けると、斜めに倒れたボンサイの木の枝の一本に、一羽のキジ鳥(たぶん、ナカムラ先生が最近、飼い始めた奴だ)が留まっているのが見えた。まさか、と思って、よく見てみると…
キジの胸に、ぽっかりと空洞が開いている。いや、それよりも異常なのは、その胸の両脇に、畳まれた翼以外に、もう二本の小さな腕が生えていることだった。その小さな腕のうちの一本が、これまた小さなピストルを構えて、まっすぐヒデサトに狙いを付けている。
「おい小僧。大事な弟の命を助けたかったら、おれの言う通りにしろ」
間違いなく、ヒデサトの耳元で囁く声の主は、そのキジもどきだった。
「おまえは何者だ?」
ヒデサトが抱きかかえてるトウタ…いや、トウタの中の擬人が尋ねた。
鳥が答える。
「こんな糞田舎まで、はるばる、おまえさんを捕まえに来たハンターさ。逮捕させてもらうぞ、ツヨシ・オクダ。…さ、小僧。その自殺テロ野郎から、さっさと離れて立ちなさい」
訳もわからず、ヒデサトが傷だらけのトウタの身体を慎重に横たえると、
「人違いだ。この俺の名前はゴーシ。ツヨシというのは、一年も前に死んだ親父の名前だ」
擬人が弟の声で、そう抗議した。だが、囁き声は鼻で笑った。
「ふん、哀れな奴らだ。自分たちの記憶を書き替えたんだな。残念ながら、ツヨシ・オクダに息子はいない。おまえらは皆、一人残らず、自殺する何年も前にツヨシ爺さんが作ったアルファ・フォークのなれの果ての不良品(ベイパー)なのさ。ちなみに教えてやるが、俺の雇い主は、爺さんの遺言執行人だ。爺さんの望みは、完璧に自殺することだった。おまえらみたいな、はぐれフォークを一人残らず道連れにしてな…」
擬人が沈黙すると、キジもどきは、赤い仮面のような肉腫が垂れた顔をヒデサトに向け、
「小僧、そこで凍らせてあるサムライが持ってるのは単繊維ブレードだな?」
そう聞いてくる。たしかに「ヨシミツ」は、このヒノモトでは、師範クラス以上の大人しか帯刀できない単分子繊維刀だ。ヒデサトが頷くと、
「それをサムライから取り上げろ。そのテロリストを背中から剥がす方法を教えてやる」
囁き声でそう命じた。この状況は理解不能だったが、弟が助かるならと、ヒデサトは鳥の言うことに従った。
「嘘つき鳥め! テロリスト呼ばわりしやがって。自殺しに来たことは認めるが、不死を拒否してバックアップも取ってないここのフラットどもだって、自殺者みたいなもんだろう。10分かけて自殺するのと、百年かけて自殺するのと、おまえ達、不死者にとってどう違う?」
「まったく…口の達者なかすみ野郎(ベイパー)だな。自殺衝動と一緒に、想像力のなさまで、オリジナルから引き継いだらしい。知ってるか? 最近、おまえらみたいな自殺テロリスト向けのVR地獄ができたんだ。そこじゃ、改心するまで主観時間で何百年も、いろんな拷問を味わえるって話だぞ。そこで、10分と百年の違いを学んでみるか?」
その脅しが効いたのか、テロリストは沈黙し、それきりトウタの口も動かなくなった。
ようやく、ヒデサトが硬直したナガヌマ先生の手から刀をもぎ取ることに成功すると、まず、キジもどきは剣道師範の背中に張り付いた化け物を殺すための手順を教えた。ヒデサトがそれをやり遂げると、今度は弟に取り憑いている「テロリスト」を剥がす手順を教えてくれる。無数の触手を一本一本、切り離す、根気が必要な作業だった。
途中、ヒデサトが「こいつは何者なの?」と尋ねると、
「不死が退屈だと思い込むほど、想像力のない不適応者だ。エゴのデジタル化が始まった頃には、すでに歳を食いすぎてた古老だよ」
と冷たく答えた。
ヒデサトが赤い球体を外し終えると、
「それを、こっちに持ってきてくれ」
その言葉に従って、おそるおそる近づくと、金属製の小さな手に持っていたピストルを胸の空洞の中に仕舞い込み、両手を差し出して擬人の『脳』を受け取った。
「そいつをどうするつもりなの?」
ヒデサトが尋ねると、
「遺言執行人の前で焼却するのさ。でないと報酬がもらえんからな」
「弟は本当に助かるの?」
続けてそう尋ねると、鳥は大きく翼を広げながら、
「助かるさ。ただし、急いでナノ治療器に入れれば、だがな」
囁くと同時に羽ばたいて、空中に舞い上がった。
「そんなもの、ここには…」
騙されたことにようやく気付いて、飛びかかろうとしたが、もう遅かった。あっと言う間に、ヒデサトがジャンプしても手の届かない高さまで遠ざかっていく。
「悪霊め!」
くやし涙を流しながら、空を見上げてヒデサトは叫んだが、奴の声はまだ耳元でする。
「悪霊か…神話や宗教、都市伝説を信じてた旧人類の言葉だな」
はるか頭上では、にせもの鳥がその場に留まったまま、あり得ない角度で羽根を畳み込こんでいく。
「いいか、よく覚えておけ。信じるだけの時代は終わったんだよ。今は…神話や伝説の中で生きる時代だ」
長い首を、まっすぐ垂直に伸ばしたそいつの姿は、もはや鳥には見えなかった。
「じゃあな、小僧。外の世界で、また会おう」
旧人類の少年にそう言い残すと、大昔のロケットみたいな形に変身し終えたトランスヒューマンは、狙い定めて放った矢のように…
まっすぐドームの天井に向かって飛び去った。
(終り)
Ecllipse Phase は、Posthuman Studios LLC の登録商標です。
本作品はクリエイティブ・コモンズ
『表示 – 非営利 – 継承 3.0 Unported』
ライセンスのもとに作成されています。
ライセンスの詳細については、以下をご覧下さい。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/
浦浜圭一郎既刊
『Domesday』