「揚羽蝶が砕けた夜」渡邊利道(画・小珠泰之介)(補作:岡和田晃)

(紹介文PDFバージョン:agehachoushoukai_okawadaakira
 第2期『エクリプス・フェイズ』シェアードワールド小説企画の第3弾は、渡邊利道の小説「揚羽蝶が砕けた夜」である。
 『エクリプス・フェイズ』には「月のエゴ・ハンター」という人気キャラクターがいる(「Role&Roll」誌Vol.92に訳載)。「ロスト」と呼ばれる世代に属する彼らは、超技術をもって人為的な促成を強いられた子どもたちのことで、その多くは発狂するか、あるいは自死を余儀なくされた。しかし、生き残った少数の者のうち、自分はいったい何者であるのかを探り、ひいては世界の神秘を解き明かすため、あてのない旅路に出るという選択をした者もまた存在したのである。
 自らが狂気の縁をさまよっていることを自覚しながら、フューチュラという特殊な義体を身にまとい、超能力を駆使して未来を拓く彼らの姿は――クリストファー・ノーランが監督した映画『ダークナイト』に登場する「ポスト9・11」のダークヒーローたちとも共振を見せ――『エクリプス・フェイズ』宇宙にいっそうのアクチュアリティをもたらしている。
 今回お披露目する「揚羽蝶が砕けた夜」は、ずばり、この「ロスト」の内面に焦点を当てた作品だ。読み手を心地よく眩惑させる舞台描写はJ・G・バラードの諸作を彷彿させるが、機械化された「内宇宙(イナー・スペース)」の表現とも言うべき精密な描写の妙、随所に仕掛けられた「現実」と「虚構」および「生」と「死」を対照させるギミックを堪能してほしい。「ロスト」の在り方を想像することは、あなたの『エクリプス・フェイズ』宇宙にいっそうの深みをもたらすことだろう。そして、タイトルにも掲げられた「揚羽蝶」が意味するものは……? じっくりと再読を重ね、散りばめられた世界の破片を、あなたなりに繋ぎ合わせてみてほしい。ラストの一行は、豹頭の英雄グインの道に続くものか? それともアナキン・スカイウォーカーが陥った奈落を示しているのか? なお、舞台となるハビタットの設定等には、作者が独自に想像力を膨らませた部分がある。

 渡邊利道は「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞、その後、立て続けに「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞、評論執筆と小説実作を併行して手がける才人である。とりわけ「エヌ氏」(『原色の想像力3』、東京創元社に収録予定)は、「スタニスワフ・レム「エフ氏」をヒントに周到に組み立てられた完成度の高い短編。超越者ふたりのバトルを(まったくそう見えない典雅なスタイルで)美しく描く。(大森望)」、「レムの作品に想を得たというが、ここまで見事に換骨奪胎されていては文句はない。(日下三蔵)」、「語りのダイナミックレンジを抑え、その幅の中で魅惑的な謎、底の見えない感情の動き、頽廃的なニュアンスなどなどをニュアンスゆたかに出し入れして読者をつかまえる。全体のちょうど折り返しの位置に置かれた一撃、その後の超めくるめく展開さえ抑制のうちに収める腕前は大したものだ。(飛浩隆)」と、選考委員の絶賛を集めた。本作は受賞第一作にあたる。筆者はアマチュア時代から渡邊利道の小説を愛読してきたが、本作は「エヌ氏」の系譜に連なるものながら、ともすれば同作以上に、渡邊利道の“ひと皮剥けた”新境地を示す快作と言ってよいだろう。(岡和田晃)


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 どこから歩いてきたのか、少年には記憶がなかった。
 遠くからささやかなざわめきを連れて波が少年の素足を洗う。どうして靴を履いていないのか、そんなこともわからないし、そもそもそれを疑問に思うための中心が、彼の魂(エゴ)には備わっていなかった。
 ただ波打ち際をとぼとぼと歩いていた。
 この海には水平線がない。ゆっくり傾斜して、一部は雲に隠れて空の向こうにまで続く。慣れない目で見ればどうしてこんなに大量の水が頭上にあって落ちてこないのか不安になるところだが、少年は何も感じていない。
 せりあがった海から、ゆるやかな風が降りてくる。波がゆっくり右に揺れ、ちいさな白い線状を作っている。風には強い潮のにおいが混じっている。だが、そのにおいもまた、彼は感じとっていなかった。
 感覚を認識する中心が、彼の魂には欠けていたのだ。
 少年には名前もなかった。彼の内部はからっぽだったので、とくに他者と自己を隔てるための指標を必要としないのだ。
 昼下がりの白い浜辺には、少年の他に人影はない。ただ明るく、波と風の音だけに浸されている。
 一羽の海鳥が、薄い雲の間からから滑り降りてきて、一気に少年の視界を横切り、ほとんどその身体に接する距離でまた上昇して視界の外に消えた。
 空間を切り裂くその素早い動きに、少年ははじめて外界からの刺激に反応し、びくっとして立ち止まった。さっきまではシンクロしていた波の力が小さなくるぶしを押したので、少しよろめくようになって、一、二歩砂浜へ踏み出す。
 夢から覚めたような表情を浮かべ、少年は周囲の風景を見回した。
 そして自分自身の身体を見る。
 素裸に外套を一枚くるまっているだけの簡素ないでたちだった。どういう仕組みになっているのか、外套は外光を透過させ、その内部を周囲の視線から隠すようになっている。もっとも砂浜には少年の他、何者の目も存在しないのだが。
 やせっぽちの身体。手足は長く、指先も長く、つるんとした皮膚はきれいに手入れされた潤いのある美しさで、外套もまだ真新しいもののようだったが、自分がそれらをどこで与えられたのか、まったく思い出せなかった。どこから歩いてきたのかも、どこへ行こうとしているのかも、何ひとつ見当がつかない。
 とつぜんどこからともなく舞い降りてきたこの《自分》という不思議な奥行きを持った感覚に、少年はうまく適応できないでいた。
 波の音と、潮のにおいに気づく。
 透明な水に落とした一滴のインクのように、少年は《自分》という感覚が世界を塗りかえていくのを、めくるめくような心地で受けとめている。
 海があり、砂浜があり、そして反対側には森があった。
 服はどこも濡れていないので、きっと自分は森からきたに違いない。
 裸足のまま、少年は森に向かって歩きはじめた。
 砂浜を抜けると、裸足はすぐに痛みはじめたが、かまわずに歩いた。
 それほど、昼なお暗いと表現するのが似つかわしい森の道は、青と白の単純なコントラストであった浜辺と違い、複雑に絡みあった異種異様の生命たちが犇めいて美しかった。
 通せんぼするみたいに道を塞ぐ樹木や巨岩を淡々と取り除き、少年はゆっくり森に分け入っていく。鬱蒼と茂る樹々には長い蔓が垂れ、幹には少年には個体識別が難しいさまざまな小動物たちが現れては消える。不規則に地面からはみだした巨大な根が罠のように行く先々にひろがっているのをあるときはくぐり、あるときは乗り越えて進む。頭上高く折り重なった枝葉にできた隙間から、細い柱のような光が射す。
 道は川のように曲がりくねって、樹々に遮られ視界は悪い。暗い森の奥へ、歩きながらこのままどこに連れられていくのか、しだいに少年の心に暗い影が落ちてくる。
 森の奥に、きっと《自分》のことを知っている《誰か》がいるに違いないと思ったのは間違いだったのだろうか。
 知らず急ぎ足になる。さまざまな障害物と格闘しながら、やや上向きの傾斜になっている悪路を行くうちに、しだいに息が切れはじめる。海から渡ってくる風は樹々に遮られてここまでは届かない。すっかり汗みずくになって、道の端の半ば土に埋まったままのひときわ巨大な岩塊に身体をもたせかけて足をとめた。岩はしっかり少年の体重を支えて微動だにしない。
 座ってしまうともう立ち上がれないような気がして、中腰の姿勢のままべったり上半身をすべらかな岩の肌に密着させて目を閉じた。
 ざわめきは引いて、ただみずからの荒くなった息の音と、どくんどくんと胸を叩く鼓動だけが聞こえた。ぎゅっとつむった瞼の裏にちらちら細かい光が点滅している。何が起こっているのかさっぱりわからないが、どうするすべもなくしばらくじっとしていると、次第に鼓動は収まってくる。ゆっくり息を整えて、目を開けると、森は少年が苦しい思いをする前とまったく変わりばえのしない様子で、退屈そうにたたずんでいるように見える。
 海と同じだ、と少年は思い、そして《自分》という感覚がやってくる以前には、海や空や、この森と同じように、表面的な複雑さの違いはあっても、単純に、ただそこに在るものの一部としてみずからも存在していたのではないか、と考えた。
 その頬をかすめて、何かが目の前を横切っていった。
 少年はその小さな生きもののことを知らなかったが、それは一匹の蝶だった。黄色い翅に黒い扇状にひろがる模様が鮮やかだ。
 ひらひら舞うように上下しながら飛んでいる。
 これまで見たどんなものとも違う複雑で突飛な動きに、少年が「これは何だろう?」とこのときはじめて目の前の事象に対する明確な疑問を抱くと、とつぜん視界に二重写しになった半透明で奥行きのある空間が立ち上がった。それと同時に今度は頭のなかに直接響く声が、いま自分が見ている小さな飛行体が、火星で繁殖している地球原産の揚羽蝶であると告げた。半透明の空間がいくつかに細かく分かれて背景を異にする揚羽蝶の映像がいくつか眼前に展開する。

 とつぜん告げられた情報に対して連鎖式に疑問が浮かぶ。すると瞬時に、ここが太陽-火星ラグランジュ点L1に存在する、地球ときわめて近似した環境が人工的に実現されているシリンダー型コロニーのハビタットであること、人間の発生した地球という惑星をのぞいて宇宙空間は本来人間が生存するのに適した環境ではないことなどが、やはり分岐した画面に文章としてあらわれた。地球のそれの映像と、いましがた目にした蝶の動きは少し違っていて、そのふと浮かんだ疑問とも言えないような軽い不審にも、このハビタットの構造上地球とは重力や気圧などに相違があるためだと回答が与えられる。
 疑問にはすぐに回答がつく仕組み――メッシュと支援AI(ミューズ)による拡張現実(AR)を用いた情報提供と説明がついていた――は、しかしその回答そのものが次の疑問を誘発してしまうので、ラグランジュ点だとかハビタットだとか、さまざまなわけのわからない言葉が乱れ飛ぶ情報の、それらすべてに好奇心を抱くには事態の急変が激しすぎた。流れ込み増殖する膨大な情報に少年は圧倒されていった。
 ようやくできあがりつつあった《自分》という感覚を中心とする世界受容の象徴的秩序が動揺し、強烈な眩暈とともにくずおれる。意識を失う直前に彼が感覚したのは、むせかえるような植物の湿ったにおいと、雑草の葉先が皮膚を擦るくすぐったいような痛みだけだった。

 目を覚ますと、眩しいほどの光が部屋に氾濫していた。
 半身を起こして周囲を見渡す。
 狭い部屋の隅、簡素なベッドに少年は横たえられていた。薄い掛け布団が薄い胸を滑って腹の上に溜まる。外套は脱がされて、少年はまったくの素裸になっていた。
 部屋の中央には低いテーブルがあり、清潔な白いクロスがかかって、知らない大振りの花が活けてある。と、メッシュが立ち上がってそれはひまわりであると示した。
 ハッとして、少年はみずからが失神した状況を思い出したのだが、同時に、砂浜で《自分》という感覚が降りてきたとき以前の記憶は戻ってこないことをいぶかしんだ。しかし、どれだけ疑問に思ってもそれについてはミューズは何も教えてくれなかった。
[[お気づきになりましたか。良かった]]
 艶のある声が頭のなかに直接流れた。
 頭のなかに声が流れるのはもう慣れたが、メッシュは[[良かった]]などとは言わない。
「え?」思わず声を出して少年は声の主を目で探す。
[[お体の具合はいかがですか?]]
 きょろきょろするまでもなく、おだやかな笑みをたたえた人物が、反対側の部屋の隅から彼を見つめていた。背後にドアがあった。
 記憶にある限りで最初に出会った人間で、自分とはずいぶん見た目が違う。メッシュがすみやかに大人と子供の違い、そして男性と女性の違いについての情報を提供する。
 つまり微笑んでいるのは、大人の女性だ。
「あ……」
 みじかく意味にならない声を出したきり絶句してしまう。女性のほうはまったく気にする様子はなく、微笑んだままで少年を見つめている。
 少年は彼女がとても美しい女性であると、それは誰に教えられるまでもなく理解していた。メッシュは性的関係全般についてごくあっさりと彼に情報を提供し、その内容がほとんど理性的に理解できているとも思えないのに、自然に身体が反応して頭に血が上り、頬が赤くなるのを感じる。
[[落ち着かれたみたいですね]]
 途方もない時間に感じられるほんの数瞬が過ぎて、女性はそう言い、ついっと部屋を出て行ってしまった。
 少年は大きく息をつく。
 ぜんぜん落ち着いてなんかいやしないと思う。
 ドアの開く音がして、女性がトレイに湯気を立てた皿を乗せて部屋に入ってくる。
「ありがとうございます」
[[どういたしまして]]
 ベッドから降りて、裸なのにいまさら驚き、ベッドから薄い布団をはぎとって身体に巻きつけ、テーブルに用意された席につく。
[[スープです。大丈夫だと思うけど、胃に優しいものから、ね]]
 頷いて匙で掬い、口に含む。ゆっくりと塩の利いた味わいが身体を充たしていく。
 少年は、ああ、と声にならない吐息を漏らした。がつがつ夢中になって掬って、飲み、皿に何もなくなってしまってはじめて顔を上げて女性を見た。
 女性は優しい微笑みを浮かべて彼を見つめ返す。
[[とりあえず、いまはこれだけで。もう少し休んで、ね]]
 皿を下げ、椅子から立って少年を促しベッドに戻らせると、そそくさと部屋を出て行った。
 身体に巻きつけた布団にくるまり直して、何かを考える暇もなく、少年はふたたび眠りに落ちた。
 次に目覚めたときにはすっかり日は落ちて、透明な夜の空気が部屋を浸していた。
 半身を起こすと、寝汗で少し身体がひんやりする。
 さっきスープを飲むときに座った椅子に、あの外套がきちんと畳んで置いてあった。外套はカメレオン・クロークと呼ばれる特殊な装備なのだと、メッシュを通して知らされる。どういう経緯でそんなものを着ることになったのだろう? 
 何も思い出せない。というよりもむしろ、どこかで思い出すのを怖がっている自分がいるのに少年はうっすら気づいていた。
[[誰か、いますか?]]
 心のなかで相手に言葉を伝えるのは、そうしようと強く意識すれば大して難しくはなかった。むしろあの女性に何と呼びかければよいのか、適切な言葉を選ぶほうに難儀し、結局曖昧な呼びかけを選んだ。
[[はい。もうすっかりいいのですか?]]
 女性が即答する。まるで話しかけられるのを待ち構えていたかのようなスピードだ。うなずくと、女性はその部屋を出て現在彼女のいる場所までの順路をメッシュを通じて示し、少年は急いで外套——カメレオン・クロークを身にまとい部屋を出た。

 ドーム状の屋根のついたテラスに、彼女は一人で、中央に置かれた円テーブルの横に、椅子に座りもせずにひっそりと立ち、彼を待っていた。
 屋根には巨大な満月が架かっていた。クレーターの跡さえくっきりと見える真っ青な月。太陽から掠めとった青白い炎が水のように室を充たして、透明な夜の空気をほの明るく感じさせる、非現実的な灯り。
[[はい。もちろんこれは本物の月ではありません]]
 彼女は、テラスに迷い込むように入ってきた少年を促して椅子に座らせると、自分はやはり立ったままで、微笑みながらゆっくり語りだす。
 とても、とても長い物語を。

[[この天井はスクリーンになっていて、往年の地球の夜空を再現した映像の月が浮かんでいるのです。
 海と砂浜と森、そしていくばくかの岩地で構成されたこのハビタットは、あの《大破壊》以前の時代、宇宙開発が順風満帆の希望に満ちあふれていた時代の盛期に、ごく限られた人間たちのための秘密のリゾートとして建設されたものでした。この家の持ち主は火星で大立物とされている、あるいはいまや伝説の大立物であったとある富豪です。彼を含めたごく少数の愛好家によって、地球の自然にあたう限り近い環境の再現を目論んで、このハビタットは建設されました。
 あの《大破壊》以後の混乱のなか、彼らの多くは破滅の憂き目に遭い、生き残った者たちももはやレジャーに関心を抱く時代ではなくなっていきました。この計画に参加した多くの富豪たちにとって、おおよそはこのハビタットはおおっぴらにできない娯楽のための秘密の場所でしたが、そのバックグラウンドである《大破壊》以前の繁栄がすべて失われたとき、このコロニーは一度ほぼ廃墟となったのです。
 この家の持ち主であり、私の主人でもある「彼」にとっても、この地は人には言えない、ひそやかな楽しみのための場所ではありましたが、内実は他の者とはいささか異なっていました。
 彼は生体保守主義者であり、孤立主義者でした。
 その当時にあってさえ実質的な不死が実現していたにもかかわらず、彼は自身の魂(エゴ)のバックアップをとることを拒否して、およそ不合理なまでに、そう、現在の地球にもほとんど存在しないような豊かな自然の楽園建設に血道を上げ、そこに外界から遮断された領域を確保すると、ほとんどすべての係累や浮世のしがらみを断ちきって引きこもるために、このハビタットを選んでいたのです。
 そう、それゆえに、彼はこの土地の富豪たちのなかで、唯一人《大破壊》からの深刻な影響を免れた人物だったのです。
 彼は失われた《自然》という夢に取り憑かれていました。この土地で暮す最後の期間、彼はつねづね「死は自然が用意してくれたもっとも偉大なる慰めである」と語っていたものです。そこには彼のなかで若い頃に胸を焦がした宇宙への希望や、あるいはもっと遠くへという意志が失われ、かわりに彼が生涯をかけて逃れだしてきた地球への強烈な回帰願望が芽生えていたのです。
 もちろんここは虚像の地球です。《大破壊》で地球が取り返しのつかない環境に変貌してしまったこととは関係なく、そもそも《大破壊》のずっと以前に長年の宇宙暮らしで彼の身体はすっかり変容してしまっていました。
 このハビタットの重力は地球よりも遥かに弱い火星並みの0.6Gに設定されていますし、地球時間に準じる二十四時間での昼夜の変更は存在しますが、太陽光をミラーによって調整し気温変化をごく緩やかなものにとどめ、苛酷な夏冬はほぼ存在しない自然環境を保つように建造されました。彼はそれを、他の共同運営者たちの方針に妥協したのだと強弁していましたが、できるだけ持って生まれた生身の肉体を維持しようと腐心していた彼こそが、誰よりも脆弱な身体を持っていたことは否定しがたい事実だったはずです。
 私は、彼が身の回りの世話と、弱っていくみずからの身体を介護させるために製作されたポッドです。ポッドとは低廉な労働のために促成された生体義体にAIなどを入れたものですが、私は通常のポッドに比較して、ややスペックは高めに設定されてあります。身体の弱った無聊の老人である彼の介護の他に、この家の管理もまた私の仕事としてすべて任されていたからです。彼の指示はとてもシンプルなものでした。
 すなわち、この家を、外界から隔絶された永遠の終の住処とすることです。もちろんこの〈永遠〉とは比喩なのですが、彼はみずからの死後もこの家が維持されることを望み、私に何人たりとも彼の眠りを妨げるものがないよう、すべてを管理維持する役を担わせたのです。本来この家の管理だけであれば義体を交換したほうが合理的なのですが、彼が私にこの姿のままでここにとどまるように望んだのでした。おそらく、衰弱した彼にとって、私は彼の親族のような存在になっていたのでないかと思います。そして、私は主人からの命令に背くことは決してできません。
 幸い、《大破壊》を経てこのハビタットの共同運営者たちのほとんどは消え去ってしまいました。いま現在このコロニーに存在しているのは、ごく少数の住民たちの名残りと、つい最近いくつかの記録を辿って現れた惑星連合系のいくつかのシンクタンクが新たに設立した研究所群です。
 あなたは、私の分析が正しければここから海岸線を三十キロ離れた岬に存在する、そういった研究所のひとつからやってきたのでしょう。あなたの義体はフューチュラと呼ばれる特殊なもので、かつて月で実施されたある計画に関わるものです。岬の研究所で何があったか詳しくは知りませんが、おそらくはその計画がここで場を移して継続していたのではないかと推測できます。メッシュを走査してみたところ、あなたがこの森の中に足を踏み入れるおよそ四十時間ほど前に、研究所に大規模な事故が発生したらしきデータ上の痕跡がありました。
 さて、私の、この家の事情についてお教えできる情報はすべて提供しました。今度はあなたがこの森に足を踏み入れた経緯をうかがいましょう]]

 長い、長い物語だった。
 言葉を切ると、彼女は少年をじっと見つめる。その瞳はあくまでおだやかで、早く話せと催促するような気配はない。
 めくるめくような話だった。あらゆる現在の関係を断ち切って、みずからの過去の郷愁にひきこもり、永遠の死を実現しようと考えた富豪の物語は、すべての過去の記憶を失って、現在だけしかない新しい生を開始しようとしている少年には、あまりに遠い世界の話に違いなかったが、しかし言いしれない深淵を覗き込んでいるような心地に眩暈がしそうだった。
 幻惑から意識を引き離し、自分がこの森に足を踏み入れた経緯——と自問してみても、海につきはなされて、そこに森があったからだとでも言うよりほか、説明のしようがなかった。むしろ、目の前にいる女性、本人の言葉によれば労働用ポッド――促成された生体義体にAI、ひょっとすると人間の魂(エゴ)が――埋め込まれた自由を持たない存在であるらしい彼女のほうが、自分よりも知っている、知りうることは多いのではないだろうか。
 ……そういったさまざまな物思いは外には漏らさず、少年は押し黙って彼女のことを見ていた。贋物の月の光が、白い肌をいっそう白く冴え冴えと見せている。その唇に浮かぶ微笑が不意に動いて、空中を長い指が滑った。
 と、テーブルに小さな泡の浮かぶ透明な液体に充たされた透明なクリスタル・グラスが現れた。
 仮想現実上に浮かんだキーボートを打って彼女がどこからか用意したものだった。
[[どうぞ、お飲みなさい。気を楽にして、ゆっくり思い出せばいいわ]]
 とにかく、何でもいいから彼女の言葉に反応しなければならないような気がして、少年はグラスをとって、一気に飲み干した。
 味もわからない。
[[わからないよ……自分でも、わからない……]]
 そして呟く。
[[覚えていないんだ。何も]]
 本当のことなのに、まるで嘘をついているみたいに顔が赤くなる。
 この感情の揺らぎ、押し寄せる圧力は何だろう? いま飲んだこの液体のせいだろうか。
 堪らなくなって目を閉じる。と、彼女がテーブルに置いていた彼の手の上に、みずからのてのひらを重ねる。
[[いいわ]]
 吐息が彼の前髪に触れる。甘い香り。
 そのままもう片方の手を少年の項に添えて、柔らかく抱き寄せる。
[[動かないでね]]
 優しく言う。その指先が不意に割れて、尖端が鋭利な線状になっている微細な金属が数本現れ、少年の後頭部と脊髄のあいだに射し込まれた。

[[あなたのエゴからデータを読むの。ラインを作ってあなたにも共有できるようにね、さあ、記憶を開放して]]
 そんな言葉よりも何よりも、鼻孔をいっぱいにする甘い香りに陶然として、抵抗する気持ちなど欠片もなかった。そして溶暗。
 失われた生の断片、情報、記憶、何と呼んでもいい。
 それは映画のように、場面をシークエンスに組んで理解可能なかたちで見ることができるというものではなかった。ただ、一塊の情景と圧縮された高密度の感情が、前触れもなく少年の《自分》を、電撃のように貫いたのだった。
 意味は一瞬で駆け抜けていった。
 数年ほど前多くの子どもたちが、大掛かりな実験によって成長を加速させられ、破綻したのだった。
 専用義体の促成栽培と同時に、魂(エゴ)も、加速された仮想現実の中で強制的に成熟を強いられた。その技術の中にはティターンズ由来とされるナノテク素材も含まれており、超能力(Async)を発現させたが、その代わり、彼らの多くが発狂し、暴走して死んだ。生き残った者のほとんどは処分されたが、ごく一部の能力の高いものは自力で脱出し、また実験に参加した研究者や企業には、その成果の残り滓からでも何か得られるものはないかと、それらの子どもたちを秘密裏に保護、隔離して実験を続けようとする者もあった。少年はそうして回収された一人で、深い眠りについたままで、このハビタットに連れてこられたのだった。しかし、さして長くはかからずにふたたび実験は破綻。暴走した素体によって破壊された施設から、彼はさまよいだしてそのまま歩きに歩いた。くりかえされた殺戮と破壊の記憶からも逃げようと、彼は実験によって得られた精神能力によって自分自身の記憶とその能力を封印し、真っ白な状態になって海辺を歩いていたのだった。
 そしてあの明るい真昼に、《自分》という中心点を得、新しい世界に生まれた。
 忘却は、少年が世界を《自分》を中心として構成するために必須の状態であった。ちょうど位取り記数法におけるプレースホルダとしてのゼロのように、そこに意味(=情報/記憶)が充填されていないことで、現在の少年の人格は可能となっていた。
 しかしそれは一挙に破壊された。
 回復された記憶と、封印が解かれたエネルギーによって脳に尋常ではない負担がかかり、眼底の毛細血管が破裂して少年の目がまっ赤に染まる。
 同時に暴力的なエネルギーはラインを通じて彼女の電脳を直撃し、一瞬で失神状態に陥った。彼女によって管理されていたテラスのみならずこの屋敷そのものの機能も全停止して、スクリーンの贋物の月光が消え、夜空に浮かぶ真っ赤な火星が出現する。
 少年は、血の涙を流している。
 おもむろに、少年は彼女のてのひらから手を外す。
 拍子でテーブルの上のグラスが床に落ち、クリスタル・ガラスが砕けて散った。
 少年は、すでにあの新しい《自分》を失っていた。しかし、メッシュを通してあの夜から何が起こったのかはすべて把握している。
 うつむいた彼の顔に、何か面白い遊びを発見したような表情が浮かんだ。
 そして、床のうえに散らばったガラスの欠片を見つめ、彼は手を触れずに意志の力で虚空に浮遊させると、何か抽象的な模様のかたちに配列していく。
 それは揚羽蝶だった。
 新しい《自分》を得た少年が、はじめて外界への興味を誘われた揚羽蝶の幻影。
「うーん……」
 空気をふるわせて、心の中ではない声で彼女が呻く。
 同時に虚空の揚羽蝶は砕けて消えた。
「大丈夫?」
 自分が気絶させてしまった女性に、できるだけ優しく響くように少年は声をかける。
[[……はい。問題ありません。すべての機能は回復しました]]
 心の中の声に戻って、彼女がキッパリ答えると同時に、家の機能も復活する。
[[よかった]]
 少年は微笑み、彼女の瞳を見つめる。
 さりげなく手を触れ、その記憶から少年の過去の情報を消去し、同時に二度と彼の出自に関心を抱かないように細工を施す。
 これでよし、と少年は彼女に聞かれないようにひとりごちた。
 すべてをなかったことにして、新しい《自分》で生きていくことは、どうやら不可能だったらしい。みずから不死を捨て、永遠の終の住処を作り出したこの家の主人のかわりに、過去を捨てた《自分》であったならば、あるいはこの家に住み続けることも可能だったかもしれない。
 しかし俺は思い出してしまった。
 ならば、もはやこれからの目的ははっきりしている。俺をこの世界に産み落とした連中に、俺が生きていることを知らしめてやらなければならない。
 彼女は、このハビタットには、まだ俺が逃げ出した研究所のほかにもいくつかの施設があり、コロニー外との定期連絡船もあるようだと言っていた。おそらくはどうにかして――火星を経由することになるかもしれないが――俺たちが作り出されたという本物の月へ行く手段も手に入るはずだ。
 少年はふたたび彼女の頬に手を触れる。今度は家の機能が停止しないように眠らせ、テラスの施錠だけを開放する。
 女性の身体を椅子に座らせ、少年はしずかに離れた。
 少しだけ彼女を見つめる。
 このひとと一緒に永遠の現在を生きられたとしたら――
 しかし、唇に苦い笑みを浮かべ、彼は小さく首を振る。
 そして、踵を返すと、あとは一切かまわず、夜の闇へと身を躍らせていった。
 目指すは、本物の月。

(おわり)



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ライセンスの詳細については、以下をご覧下さい。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/

渡邊利道プロフィール
小珠泰之介プロフィール