「ズッシーは三途の川の夢をみるか」図子慧

(PDFバージョン:sannzunokawanoyume_zusikei
 先日、NHKクローズアップ現代の特集は、「天国からの“お迎え”」だった。
 最近のNHKは、大介護時代を目前に、孤立死、墓、とテレビとしては未踏の分野に分けいっている。
 お迎え特集というからには、狩野芳崖の慈母観音図でもでるのかと思ったが、そういう方向の話ではなく、家族や医療関係者のアンケートをもとにした、医療や看取りの場における「”お迎え”の効用」の真面目なドキュメンタリーであった。
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 お迎えは説明するまでもないが、亡くなる間際に、死んだ身内や親しい人々がおとずれて、迎えにきてくれるという幻影である。
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 わたしも、母を看取ったときに経験した。
 母が亡くなる三日前の深夜だった。午前二時ごろ、ふと目をさますと、病室のなかが妙に明るかった。みれば、ほとんど昏睡状態だった母が、むっくり起きあがって、壁にむかって話しかけていたのである。にこにこしながら、「遠路はるばるありがとうございます」と礼をいう姿に、一体なにがおきたのかとあわてた。
 わたしは、病室に古い読書用スタンドを持ちこんで隅のほうで使っていたのだが、そのライトがベッドまで移動している。オレンジがかった光が煌々と壁をてらして、白い壁が温かみのある光につつまれて輝いていた。意識のなかった母がどうやって読書灯を持ってきてつけたのか、見当もつかなかった。
 わたしは驚きながらも、(ほんとうにだれかきているんちゃうか)と、一時間ばかり壁に目をこらしていた。
 だが、なにもみえないまま、母が疲れてきたようだったのでなだめて眠らせた。
 あとで母方の親戚に聞いたところ、母が挨拶した人は、みな亡くなっている方々だとわかった。母方や父方の親戚、とくに親しげに呼びかけていたのは、東京から駆けつけた父のイトコだった。おばによれば、「自分の結婚式のときのことを思いだしたんじゃないかね」ということだった。
 それにしては、存命の方がひとりもいなかったのは不思議だと思ったが、”お迎え”はそういうものらしい。
 翌日から母は完全に意識がなくなり、三日後の未明に逝った。
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 クローズアップ現代によれば、人が臨死に近づくと、脳の側頭葉の死ぬ準備をする回路、いわゆる臨死回路のスイッチがはいって、死んだ親しい人たちが呼びかけ、美しい光景がみえるようになるそうである。
 しかし、生きている人がお迎えに混ざらない理由は、番組中では説明されなかった。
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この現象は、日経サイエンス2011年3月号の「幻覚剤を医療に」でも取りあげられている。
 幻覚剤を末期癌の患者に使うことは、有意義な効果がある、とする記事内容である。
 ようするに、末期の患者にみられる”お迎え”現象や、あの世にいってきた経験を、幻覚剤によって人工的に引きおこす方法なのだ。実験のあと、多くの被験者たちは、実験前より死をおそれなくなり、自分の人生をポジティブにとらえるようなったそうである。
 日本で実施するには法制度をクリアせねばならず、難しいだろうが、高齢化がのっぴきならないことになれば、ひょっとしないこともない。
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 臨死回路があるのは、脳の側頭葉、大脳辺縁系の領域で、ここが活性化されると、幻覚や神秘体験、宇宙との一体感が得られることが知られている。
 通常の生活で、この部分を活性化する方法は、ひとつは幻覚剤を使うこと。もうひとつは、生命の危機的状況。
 修験道や修行によって、肉体を極限まで追いこむことで、身体はかぎりなく死に近づく。すると、この領域が活性化されて、脳が人を苦痛から解放して意識を天国に送りこむ。
 いうまでもなく、死を迎える肉体が安らげるように、ということで、”最期のとき”用の仕掛けが用意されているのである。肉体ってやつはすごいですよ。
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 しかし、”お迎え”というのはそうした脳生理学上の現象なのだろうか?
 母の看取りをしたあと、わたしは、長いこと、あの夜はきっとだれかきていたにちがいない、と信じていた。自分がみえなかっただけだと。
 だが何十年かたって、母を迎えにきたのは亡くなった人ではないと気がついた。ようやく認める気になったのだ。
 母が「はるばるありがとうございました」と礼をいった一人は、父のイトコで父の親友だった人だと聞いた。東京に住んでいたが、早く亡くなったらしい。わたしはその人の名前が家で口にされるのを聞いたことがない。母が挨拶していた幻の親族たちも、父方の親族のほうが多かった。
 そう、母は過去にもどっていたのだ。結婚式の当日に。
 ”お迎え”で母を迎えにきたのは、亡くなった人々ではなく、母の記憶のなかでもっとも幸せに輝いた一日だったのだ。そこに母は還っていったのである。
 父は新郎として母の傍らにいたはずだ。父も迎えにきたのである。
 幸福だった時間に、人はもう一度、戻ることができるのだ。
 わたしは天国も地獄も信じてないのだが、『死』の先にそういうところはないのだとわかって、ちょっとほっとした。幸せだった日々に戻れるのが『死』なら、こんなに心安らぐことはない。
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 とはいえ、謎はのこる。
 病室に付き添ってくれた親戚の方々も、両親の結婚式に招かれていたわけである。あの夜、わたしはずっと母の挨拶を聞きながら、知ってる名前がでてくるのを待ったのだ。しかし、ただのひとりもでてこなかった。
 遠方でも存命の親族はいる。母が結婚式の記憶のなかにいたのなら、生きておられる方がひとりぐらい名前がでてきてもよさそうなのだが……。
 そこのところは、やっぱり謎のままだ。

・狩野芳崖
『慈母観音図』(東京芸大所蔵)
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=1368

・日経サイエンス  2011年3月号
「幻覚剤を医療に」
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1103/201103_080.html

・クローズアップ現代(2012年8月29日(水)放送)
 天国からの“お迎え”
 ~穏やかな看取り(みとり)とは~
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3238.html

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『晩夏』