「サブリミナルへの福音」山口優

(PDFバージョン:saburiminaruheno_yamagutiyuu
『イーリアス』の英雄は、私たちのような主観を持っていなかった。彼等は、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の〈心の空間〉も持っていなかった。私たちの主観的である意識ある心に対し、ミケーネ人のこの精神構造は、〈二分心〉と呼べる。
――ジュリアン・ジェインズ著/柴田裕之訳「神々の沈黙 ―意識の誕生と文明の興亡―」

すみずみにまで階層秩序や監視や視線や書記行為が及んで、個人の全ての身体を明白に対象とする広域的な権力の運用のなかに身動きできなくなる状態――それこそは完璧なやり方で統治される居住区の理想世界なのである。
――ミシェル・フーコー著/田村俶訳「監獄の誕生 ―監視と処罰―」

 昨今の社会状況を概観すると、東日本大震災によって引き起こされた原発事故以来、人々の放射線への恐れが連日のデモを結果し、また一方では、社会保障を目的としている、とされる消費税増税に多くの議論が費やされています。
 これらの事象に共通する因子があるとしたら、それは何でしょうか? 長年の不景気による社会不安等を挙げる人もいますし、それもまた真実です。
 ですが、私はもう一つ別の視点を考えています。すなわち、人が自分自身を支配したいと願う欲求の台頭、ではないかと。
 これ以降の話を続けるために、少しだけ、私たち人間の意識と無意識に関する基本的な事項の確認につきあってください。
 人の持つ感覚と神経系の処理、そして意識の間には、莫大な処理能力の差があります。まず、人間の感覚、つまり、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などの情報は、一一〇〇万ビット毎秒ほどの情報量を持ちます。これらの感覚情報は、一〇〇億ビット毎秒程度の処理能力を持つ神経系によって適切に処理され、四〇ビット毎秒の意識へと至ります。皆さんも内観すればよく認識できると思いますが、人間が意識的に処理できる情報量というのはほんの僅かです。たとえば、一度に人間が覚えることのできる事柄は七プラスマイナス二つ程度と言われており、ここから、人間の意識の処理能力はもっと低いはずだ、と唱える研究者もいるぐらいです。それに引き替え、人間の感覚が精緻な分解能を持つこともまた事実であり、それは人が、劣った分解能のディスプレイに違和感を覚えることからも明らかでしょう。そして、この膨大な量の感覚情報を受け取った神経系は、それを意味のあるものに処理するために、それ以上の膨大な情報処理能力を持つのです。
 意識、つまりは、私達が普段、〈わたし〉と思っている主体というものは、このように人間がその体内に抱える情報取得機構や情報処理機構に比べ、遙かに小さな量の情報しか処理しいないにもかかわらず、私達は〈わたし〉こそが自分自身の本質であると考えがちで、〈自分〉、つまり無意識も含めた全体としての人間の中枢だと思っています。分かれ道に至ったとき、どちらへ曲がるか決めるのは〈わたし〉だし、うるさいハエを払うのも〈わたし〉、難しい方程式を解くのも、スポーツで妙技を決めるのも、そして、こうして文章を書いている時に、巧い表現を思いつけるとしたら、それも〈わたし〉――そう思われています。
 ですが脳の機能を解明するためにこれまで続けられてきた研究によれば、意識の果たす役割は非常に小さく、一部の研究者は、先に挙げたどれひとつとして、〈わたし〉は介入しておらず、〈わたし〉は、〈自分〉の傍観者にすぎないのだ、と唱えています。そうではない研究者も、あらゆる行動を起こすの〈自分〉であって、〈わたし〉ではないことは認めており、〈わたし〉にはただ、〈自分〉が起こしかかったその行動を禁ずる権利が与えられているだけだ、としています。
 では意識、〈わたし〉の果たす役割は何なのか。
 人間の神経系、という巨大な情報処理機構は、殆どが、ロボットに実装されたプログラムの如く、定められ、固定化された処理の集まりです。歩行や跳躍等の基本的な動きは勿論、スポーツにおける複雑な動きさえ、繰り返した練習によって神経系にできあがったプログラムがそれを動かしています。文章を書く、という高度(に思える)作業すら、今まで脳内に蓄えた知識や知見等を検索し、適切に選び出し、それを腕と指に伝える、という一連の作業にすぎません。その中で、意識が何ら貢献していないとしたら、それは何に貢献しているのか。
 意識、つまり〈わたし〉は、過去の経験から未来をシミュレートするためにあります。複雑な状況に置かれたとき参照されるべき、過去に起こった状況を、自分がどう対処して切り抜けてきたか、という膨大な事例集。そして、更に今の複雑な状況に対処し得、生き残れたとしたら、それを『AをしたらBになった』という、細部をそぎ落としたシンプルな概念にまとめ、記憶し、未来の複雑な状況に備えておくための装置。それは、私達の人生の記録であり、他者とは異なる者として自分をアイデンティファイするものに他なりません。だからこそ、意識は、〈わたし〉なのです。禁止原理を支持していない研究者は、それが意識の全てだと唱えますし、禁止原理を支持する研究者も、意識の重要な役割はそれだと指摘しています。
 冒頭の第一の引用は、かつて世界がそれほど複雑ではなかった頃、ホメロスに謳われた『イーリアス』のミケーネ人たちの時代、つまり紀元前一〇〇〇年より前には、人々は意識のような、自分を内観でき、未来をシミュレートできる機構を持たず、右脳の直観、古代の人々は神々の声と表現していたそれに従って生きていた、と言います(その状態を『二分心』と言います)。そして、紀元前一〇〇〇年を境に世界的な天変地異が起こり、人々は従来より遙かに複雑な状況に対処するために、意識を持つに至ったのだと。
 ところが、この引用の書物の著者、ジュリアン・ジェインズの仕事を引き継いだ研究によれば、その後、中世の一時期、人は再び意識を持たなくなったらしいのです。確かに中世には、封建主義の下に人々の役割は完全に規定され、それを逸脱するような複雑な状況は生まれず、従って意識は必要とされなかったのかも知れません。しかしその後、ルネッサンス以降、再び人々は意識を持つようになった、とされています。
 さて、冒頭の第二の引用は、そうして、人が再び意識を持つに至った以降の権力の、個人への介入の仕方について唱えています(ミシェル・フーコー自身は二分心や意識と無意識の関係を踏まえて論じているわけではありませんが)。私の解釈では、人が意識を持つ前は、人には〈わたし〉というものがなく、従って、人への刑罰や、人を権力の下に服従させる方法も、身体等の外面に限定されていました。ところが、人の内面、意識が確固としたものになった後には、権力の掌握の仕方は、人の内面、精神的な刑罰へと至り、人を服従させるやり方も、明示的な権力ではなく、訓練・規律といった形で人に植え付けられ、人が自分自身を内面から縛るものへと変化してきました。ここでいう内面とは、意識であるよりも無意識であると言えるでしょう。なぜなら、訓練や規律というものは、意識せずとも自然に身体が動くように、さながらスポーツの練習のごとく人の身体にプログラムを施すものだからです。それは同時に、人の身体を、意識させずに隅々にまで渡って支配することでもある、というのが、第二の引用の、私なりの解釈です。
 こうした権力は、しばしば、『生権力(バイオパワー)』と呼ばれ、人を上から押さえつけるのではなく、人の身体を生物学的に支配する新しい権力の形だと見なされていますが、それは、言わば、人の無意識の領域への介入のように、私には思えます。身体への外面的な刑罰やそれを通じた服従の強制は、〈自分〉と〈わたし〉(その頃には区別はなかったかもしれませんが)を含む、人体全体へ向けた刑罰なのに対し、生権力は、〈わたし〉と、〈わたし〉ではない〈自分〉を巧妙に区別し、〈わたし〉ではない〈自分〉を支配下に置くことによって、間接的に〈わたし〉を支配しようとする機構なのではないかと。
 しかし、そのような機構に、人は反発します。一九六〇年代に、いわゆる『サブリミナル広告』がアメリカで流行したことがあります。サブリミナル――人が意識できない閾値下の認識、つまりは〈わたし〉ではない〈自分〉へ働きかけ、購買行動を起こさせるような広告を忍び込ませる、というやり方です。サブリミナル広告は猛烈な反対運動を巻き起こし、禁止されました。これなどは、人が無意識を通じた外部からの支配に対して、いかに過敏に反応するかを示しているように思えます。
 しかし、現状、〈わたし〉は、〈わたし〉ではない〈自分〉の領域に、権力の助けなしには到達できません。〈自分〉でありながら、〈わたし〉ではなく、〈わたし〉には手が届かない領域。放射線は、それを認識させる顕著な例です。放射線による人体の損傷は、まず〈わたし〉には、認識できません。しかし、人の身体、つまり〈自分〉には認識できないかというと、それは違います。人体には、放射線による遺伝子の損傷を自動的に補修するプログラムが備わっています。つまり〈自分〉には認識できている。その意味で、放射線は、〈わたし〉には分からないが、〈自分〉には分かる事象の一例であると言えるでしょう。そして、〈自分〉だけでなく、権力にも、それは分かっている。多くの科学的な知見や計測手段が集積する場所である権力は、〈自分〉だけが理解しているはずの、放射線の損傷のレベルを把握している。そして、(一部の人の認識では)それを、隠している。つまりは、権力は、〈わたし〉にも分からない〈自分〉のことを分かっている、と思われがちであり、しかもそれを独占している(と一部では思われている)ということです。これと同じ文脈で、社会保障、つまりは医療による人体の保全も、〈わたし〉にはなかなか認識できないが、権力には掌握可能な〈自分〉の領域の事柄と言えるでしょう。膨大な資金を必要とする設備や人材、それらがあってはじめて、〈自分〉のことが〈わたし〉には分かる。だがそうした理解は、通常、社会保障費の分配や医療インフラの整備という、権力の貢献、権力から与えられる形でしか〈わたし〉には手が届かない。そのもどかしさが、〈わたし〉をして、社会保障を常に重大な問題として意識させるのかもしれません。
 直戴に言えば、〈わたし〉は、権力、もっと詳しく言えば、『生権力』から、〈自分〉の支配権を取り戻したいのではないかと思います。その潜在的な欲求が、原発や社会保障の議論となって現れているのかもしれない、というのが、私の主張です。尤も〈わたし〉が〈自分〉を支配している、ということそのものが幻想なので、それは〈自分〉を通じた〈わたし〉への間接支配を撥ね除けたいのだ、と言い換えてもよいかもしれません。しかし、〈わたし〉という機構そのものが備える、〈わたし〉が〈自分〉を支配しているのだという幻想こそが、人をして紀元前一〇〇〇年以降の複雑な状況を生き延びさせたという主張を勘案すれば、その幻想を大切にしたいという考えが私にはあります。よって、実際には、『奪い取る』、のだけれども、敢えて、『取り戻す』と表現したい。いずれにせよ、それが今、権力によって保持され、〈わたし〉は持っていない、というのは確かであり、私にはそれに伴う葛藤も明白であるように思えます。
〈わたし〉ではない〈自分〉の領域、つまりサブリミナルへの支配権を巡るこうした葛藤は、どうすれば解消可能なのでしょう。永遠にそれは不可能で、ずっと葛藤し続けなければならないのでしょうか。
 或いは、『二分心』の時代に立ち戻り、葛藤の源となる、意識即ち〈わたし〉を無くすことが、その解なのでしょうか。確かに、〈わたし〉そのものが無くなれば、〈自分〉の支配を巡る葛藤も存在しなくなり、平安が訪れるでしょう。そもそも、〈わたし〉の存在自体、紀元前一〇〇〇年の、今までに無い複雑な状況への対処を強制された結果生まれたのだとしたら、〈わたし〉そのものが、人類がストレスを感じている結果に他ならないのかもしれません。だとすれば、〈わたし〉は必要ないのでしょうか。
 それは違う、と私は考えます。なぜなら、急速に発展を続ける人類社会において、〈わたし〉を放棄することは、人類全体が、より複雑な状況に対応することを放棄することに他ならないからです。例え、〈わたし〉がいなくなった後も、生権力を引き継いだ何らかの自動システムによって、人類社会全体が調和の取れたものになったとしても、人類社会の外から、何らかの致命的な異変が襲ってこないとも限らない。そのとき、その自動システムが適切な対処方法を考え得たとしても、それは、本当に、人類にとって適切な方法になっているのでしょうか。そのような不安を抱えたまま、〈わたし〉が眠りにつくことは、真の安寧とは程遠いでしょう。
〈自分〉の支配権に悩む〈わたし〉としての人類は、〈わたし〉を放棄するよりも寧ろ、もっと高度な認識能力を手に入れるべき段階に来ているのではないかと考えます。三〇〇〇年前に『二分心』を持っていた人類が、従来よりも遙かに複雑な状況に至って〈わたし〉を獲得したが如く。それは、『二分心』の時代に〈わたし〉を産んだような、純粋な精神のあり方の変容にはならないでしょう。急速に発展していく現代社会において、生物学的或いは心理学的な変化を待っているわけにはいかない。おそらくは科学技術の力によって、それは為されることになるでしょう。
 思うに、科学技術そのものが、意識の所産、意識の持つ機構を外部化したものとも言えるのではないでしょうか。意識とは、先程述べたとおり、過去の経験から未来をシミュレートし、未来の状況に適応する装置と捉えることが可能です。これは、もっと一般的に言えば、現実の経験から抽象的な概念を抽出し、更にその概念を現実に適用する営みと言えるでしょう。現実の経験から抽象的な概念を抽出すること、その概念を現実へ適用すること、それらこそが、『科学』と『技術』それぞれの本質です。科学によって抽象化され、一般化された概念は、広汎な現実に技術として適用されます。そこで再び課題が出現すれば、それに対処するために新しい現実の経験が科学され、更に広汎な現実に適応し得る概念が得られることでしょう。そうやって、科学と技術のサイクルはその最も初期――おそらくは意識が誕生したとされる三〇〇〇年前から、徐々に、徐々に、加速度を増しつつ発展してきたのだろうと私は思っています。さながら、利率はそれなりにあるものの、開設時預金額は僅かしかない銀行口座の残高の如く。その発展は、初期には微々たる速度しか持ちませんが、後になればなるほど、その速度は顕著に増大していきます。今、私達が目にしているのはこうした幾何級数的な発展の最終段階なのではないでしょうか。
 意識、すなわち〈わたし〉の所産である科学技術によって、私達は今まで理解し得なかった神経系の複雑な機構への理解を進め、自分の神経系や、更にそれを超えたより詳細な身体の情報を得る手段を手にしようとしています。一〇〇〇京フロップスの演算力があれば、感情や情動を含む脳の活動の全てがシミュレーションできると言われており、現在のままのスーパーコンピュータの進歩が続くならば、それはおそらく一〇年後のことになるでしょう。これは、それまでに積み重ねられてきた脳の機能の観察という現実の経験を抽象化する営みに他なりません。類い希な演算能力によって脳の科学が進展すれば、脳という現実への働きかけの技術も向上していくでしょう。現在も急速に発展しつつある、神経系の信号を詳細に読み取るデバイスは、その頃には神経細胞の発火をより精緻に、個別の細胞レベルで把握することを人類に可能とさせるかもしれません。そして、こうした加速度的な発展は、脳に限定されるものではないはずです。並行して、生物学とナノテクノロジーの融合による、人体内の諸生理機構のリアルタイムの把握も進んでいくとすれば、これらの研究の進展は、個人的なレベルで人に自分のサブリミナルに何が起こっているかをほぼ完全に認識させ得るでしょう。毎秒四〇ビットと毎秒一〇〇億ビットのギャップを超えて、〈わたし〉に、〈自分〉が認識し得ていることを、自由に意識させることを可能とする、とも言えます。
 そのときこそ、〈わたし〉は、『生権力』から〈自分〉の支配権を取り戻し、古代にも、ルネッサンス以降の現代にも得られなかった、真の安寧を得ることができるのではないでしょうか。

(参考文献)
・ジュリアン・ジェインズ著/柴田裕之訳「神々の沈黙 ―意識の誕生と文明の興亡―」
・ミシェル・フーコー著/田村俶訳「監獄の誕生 ―監視と処罰―」
・レイ・カーツワイル著/井上健監訳「ポスト・ヒューマン誕生」
・トール・ノーレットランダーシュ著/柴田裕之訳「ユーザーイリュージョン―意識という幻想」
・前野隆司著「脳はなぜ『心』を作ったのか―『私』の謎を解く受動意識仮説」

山口優プロフィール


山口優既刊
『シンギュラリティ・コンクェスト
女神の誓約(ちかひ)』