「犬と睦言」齋藤路恵(補作:岡和田晃)


(PDFバージョン:inutomutugoto_saitoumitie
 わたしは恋に落ち、わたしの母の死にかかわる。だが、それはまた別の話である。

 金曜の夜にわたしは母の夢をみていた。わたしの母はまだ存命であるが、夢の中では母は亡くなっていた。夢の中での母は、生前にわたしと険悪な関係だった。しかし、死んで亡霊となった母は聖母マリアか如来かというくらいに優しかった。わたしは口を開き、何か長い話を始めた。あるいは長い話を始めようとした。そこで目が覚めた。
 本を読みながら眠ってしまったらしい。わたしは左手の人差し指を読みかけのページに挟んだ。本を持ったままトイレに行った。トイレに行くと自然と長い息が漏れた。はいた息の分を静かに吸い込むと、わたしはトイレで読書の続きをした。トイレは静かだった。時計の秒針の音すら聞こえなかった。
 わたしがトイレから部屋に戻ると、部屋に一人の人間が立っていた。
「こんにちは。山田・田中です。未来から来ました」
 山田・田中氏はそう言って深々とお辞儀をした。腰を曲げるスピードは早く、背筋は伸びていた。頭はやや長い時間下がっていた。折り目正しい感じだった。わたしは事態が呑み込めていなかった。
 山田・田中氏は首と黒目をわずかずつずっと動かしている。こちらを見ながらどこか他の場所も見ようとしているかのようだった。意識してわたしと目を合わせようとしている。そういう努力が感じられた。
「よろしくおねがいします。この世界についていろいろ知りたいです」
「……どちらさまですか」
「未来から来ました! 山田・田中です!」
 山田・田中氏の声は大きく力強かった。一方で目が大きく開かれ、呼吸は必要以上に大きかった。
「………。どちらさまですか」
「山田・田中です」
 わたしは質問を変えることにした。
 山田・田中氏の目は大きく、息はやや荒いままだ。
「どうしてここにいるのですか?」
「いろいろな時代に興味があります。だからこの時代にもやってきました」
「この時代に興味があるのですか」
「はい! あります」
 山田・田中氏の落ち着かない感じとこちらを見ようと努力する感じは三歳の時の姪っ子のようだった。集中しなくてはならないのがわかっているが、堪えきれないのだ。通報する気にはならなかった。通報以前に脱力させられるというべきか。犬よりももっと素朴な感じ……ハムスターだろうか。動いていない鼻の頭がひくひくして見える。
「未来から来た証拠はありますか」
「証拠は何を用意すればいいですか。今用意できるものなら用意します」
 そういわれると何が未来から来た証拠になるのか思いつかなかった。
 明日の出来事は? 未来といっても相当先の未来から来たのだろう。だとすれば、そんなささいなことを知っているだろうか。逆に当たったからといって未来人である証拠にはならない。そもそも明日の出来事が当てられるかどうかを知るためには明日まで待たなくてはならない。わたしは明日まで山田・田中氏といっしょにいるのだろうか?
「なにか未来特有のものはありませんか……」
「未来特有のもの……」
 今度は山田・田中氏の口が一文字に結ばれた。視線はわたしに向いている。が、わたしを見ているわけではなかった。視線はおそらく素直に自分の記憶に向かっていた。
「何かこの時代にないものとか」
「何がこの時代にないか、わからないのです」
「そうですか……」
 わたしはまた別の切り口を探さなくてはならなかった。
「どうやってこの時代に来たのですか?」
「時間を移動してきました」
 山田・田中氏はわたしの次の返答を待っていた。期待に答えられないわたしの唇が少しのあいだ空を切った。
「そうではなくて……時間を移動する際に道具や機械は必要ではないのですか」
「あぁ……特には。もしかしたら持っているのかもしれないけれど、自分で持っていると気づいていないのかもしれません」
「そうですか……」
 今度は山田・田中氏の方から話しかけてきた。
「なにか未来について知りたいことはありますか」
「知りたいことですか。そうですね……」
「答えられる範囲でお答えします」
 山田・田中氏の目がほんの少しまるく大きくなっているような気がする。そんなに一生懸命な感じでわたしを見ないでほしい。ハムスターというよりはやはり犬だろうか。犬が期待を込めて鼻を高く持ち上げているときのあの感じ。山田・田中氏の鼻をこすると、犬の黒くしめった鼻が出てくるのではないか。わたしはまだにおいをかがれる準備はできていない……。できてはいないが、答えなくては。わたしは脳みそを雑巾のようにしぼった。
「どれくらい先の未来から来たのですか」
「とても先です。この時代とはたぶん時刻の感覚が違うので説明するのはむずかしい…。三千年か三億年くらいは先でしょうか。ぜんぜん違うかもしれません。」
「そうですか……」
 再び沈黙が現れた。山田・田中氏はわたしの次の質問を待っている。今のわたしの質問にがっかりしただろうか?
 いったい何を言えばいいのだろう。山田・田中氏は何度こういう体験があるのか知らないが、わたしは初めてなのだ。
「タイム・パラドックスは起きないのですか?」
 妙案だと思った。これはいけるのではないか。
「タイム・パラドックス?」
「タイム・パラドックスです。時間移動にともなう矛盾です」
「よくわかりません。もう少し詳しく」
 わたしの喜びが山田・田中氏にも伝わったのだろうか。こころなしか山田・田中氏の背中がいくぶん前のめりになった気がした。
「例えば、過去に行って自分の母親を殺すようなことです」
「過去に行って自分の母親を殺す」
「自分の母親を殺したら自分はどうなるのですか? いなくなるのですか?」
 山田・田中氏の視線がわたしから外れた。首をほんのわずか上に向けると、山田・田中氏の視線は虚空を漂い始めた。鼻もわずかに持ち上がる。持ち上がった鼻は天気の匂いをかぎ取ろうとする犬に似ている。
「むずかしいです。言っている意味がよくわからない……」
「ええと、自分の母親がいなくなったら、自分が生まれるはずの未来もなくなりますよね。だから自分もいなくなるのではってことなのですが」
「自分がいなくなる……」
 山田・田中氏の目と目の距離が少し縮まった。
「自分の母親を殺しても自分はいなくならないのですか」
「いなくなりません」
「いなくならないのですか? そうなのですか?」
「いなくなりません」
「そうですか」
 振り出しに戻ってしまった。行けるかもと勢い込んだぶん疲れが増したような気もする。
 再び沈黙が訪れた。わたしは再び脳を雑巾のようにしぼり始めた。
「シンポシカンですか?」
「なんですか?」
「シンポシカンです」
「シンポジカ?」
「シンポシカン」
「シンポジカン?」
「シンポシカン。言いませんか? 時間がみんな同じです。時間はみんな直線のように流れて、時間が経てばみんな同じように発達します。シンポシカンです。」
「あ、進歩史観ですか?」
「たぶんそうです。それです」
 わたしと山田・田中氏は一歩前進した。山田・田中氏は微笑んだ。ほほの力がいくらか抜けていた。おそらくにおいをかごうとする意思も少しだけ抜けている。脇に置かれたというべきか。良かった。山田・田中氏は続けた。
「わたしたちの歴史はあらゆる箇所で分岐します。その数は数え切れません。歴史は同じように流れません。無数の違った歴史が同時に存在します」
 山田・田中氏は言葉を切って、わたしを見つめた。わたしは一度視線を下に外して、言っていることを理解しようと努めた。わたしは顔をあげて山田・田中氏を見た。
「パラレル•ワールド……? 並行世界……?」
 山田・田中氏もわたしを見つめて、うなずいた。
「わたしはよくわかりません。でも、そういう言い方をしそうな気がします」
 言葉では合っているのか合っていないのかよくわからなかった。しかし、わたしから視線を外さずにうなずく山田・田中氏を見て、わたしは何かが通じているような気がした。
「わたしが過去に行って自分の母親を殺しても、現在にはなんの影響もないのですね?」
「絶対にないとは言えません。あなたのたどる分岐が影響のあるものかもしれません。それは誰にもわかりません」
 自分の肩に力が入ってくる。会話は通じている。わたしはさらに続けた。
「分岐というのは?」
 山田・田中氏はひと呼吸してから、やはりわたしの目を見てつづけた。
「分かれていることです。例えば球は無数の点の集まりです。球にいくつ点があるかは数えられない。でも分け方を決めれば、球は点にわけることもできる?」
 通じているかというように語尾があがった。まだよくわからなかったが、わかりかけている感じもする。わたしも山田・田中氏の目を見てうなずいた。
「つづけてください」
 山田・田中氏はうなずくと短く息をはいて吸った。
「あなたが家を右脚から出るか左脚から出るかで何か影響が出るかもしれない。あなたが食事を一分早くとることであなたは死ぬかもしれない。あなたが右脚から家を出たことで、戦争が起こらなくなるかもしれない。分岐はどこにあるかわかりません。多すぎてたどることはできません」
 うまく自分の言葉でまとめられないが、言っていることはわかる。わたしはあごを大きく二回振った。
「過去に戻って働きかけたとしても、それが今の自分に影響を及ぼす過去なのかはわかりません。もしかしたら、違う可能性をたどったわたしには影響を及ぼすかもしれない。また、今の自分に影響を及ぼす可能性もないとはいえない」
 わたしは大きく息を吸って、ゆっくりと鼻からはいた。ようやく話がわかってきた。
「未来のわたしにも過去のことはわからないのですね?」
「今のわたしが未来のことがわからないように、今のわたしは過去のわたしについてわかりません」
 山田・田中氏は言葉を続けた。
「わたしが今日やっていることは、将来役に立つかもしれない。でも、役に立たないかもしれない。過去の自分も、自分の母親も同じことです」
 ようやくわかりあえたという感じがした。指をはさんだままの本にだいぶ汗が染みこんでいることに気がついた。わたしは、今度は長くゆっくりと口から息をはき、また長くゆっくりと鼻と口で息を吸い込んだ。
「ありがとう。ようやくわかりました」
「ありがとうございます。うれしいです」
 山田・田中氏も返した。山田・田中氏の肩と腕はさらに力が抜けている。腕は胸のわきから少し離れてすらいる。
「なんだか運命論みたいです。わたしたちがどの分岐をたどるかはあらかじめ決まっているのでしょうか」
自分が少し首をかしげているのがわかった。
「それはわかりません。本当は分岐と分岐の比較はできません」
 山田・田中氏もまねをするように首をかしげた。
「それはそうですね」
 気まずさを感じない沈黙ができた。さっき会ったばかりの得体の知れぬ人、とも思ったが、もう抵抗できなかった。山田・田中氏は会話を通して犬ではなくなった。少なくとも人なつこい見知らぬ犬から、仲良しの近所の飼い犬くらいには変化した。これ以上緊張は維持できない。
「そちらに座ります?」
 わたしは床に置いてあるビーズクッションを勧めた。
「ありがとうございます」
 山田・田中氏は再び深々とお辞儀をした。背筋はピンと伸び、またいささか緊張が戻ってきたようにも見えた。
「お気になさらず」
 わたしは肩の力が抜け、腕が自然にクッションの方を指した。
 山田・田中氏はクッションに腰を下ろそうとして、しゃがみこんだところで動きを止めた。左手を床についている。
「座り方に決まりはありますか?」
 山田・田中氏の眉間に少しだけ力が入ったようだ。上がった犬鼻にも力がほんの少し伝わっている感じがする。
「ありません。お好きなように」
 わたしの口角がまた少し上がる。山田・田中氏は上目づかいで天井の方を見たあと、そろそろとお尻をクッション乗せた。山田・田中氏は体育座りのような体勢で座ったが、背筋がシャンと伸びていた。
「失礼します」
 わたしはそう言って山田・田中氏の隣に腰を下ろした。脚は伸ばした。クッションからわたしが転がっていたときのぬくもりはすでに消えていた。かといって冷たいわけでもなく、昨夜から人がのっていないかのような常温だった。
 わたしが山田・田中氏の方を見ると、山田・田中氏と目があった。わたしは山田・田中氏に聞いてみた。
「どの時代にもいけるのですか」
「だいたいどの時代でもいけます」
「いけない時代もありますか」
「よくわかりません。本当は私が知らないだけで、いけない時代はないのかもしれません」
「例えばどんな時代にいけませんか?」
「宇宙の始まりや宇宙の終わりです」
「なるほど。宇宙の始まりにはいけませんか」
「いけるのかもしれません。でも、宇宙の始まりまでさかのぼると自分の身体が壊れてしまいそうな気がします」
「それはそうですね」
 わたしの目元と口元は自然とゆるんだ。が、山田・田中氏の口元はむしろ硬さを増して横一文字にひろがった。山田・田中氏の視線は自らのつま先の方に向いている。
「宇宙の始まりを見る可能性はとても低い。でも本当にゼロかはわかりません。無数の分岐があります。だから自分が想像する程度の分岐などとうに実在しているのではないかと思います」
 山田・田中氏の声がいくぶん低くなったように感じた。低くなったというよりはむしろいくぶん重くなったというべきか。気のせいかもしれないが。黒い犬鼻は動かない。わたしはこころもち高い声でリズムをつけるように言った。
「クロノサイドというのを思い出しました」
「……なんですか?」
 山田・田中氏は首をひねって、つま先からわたしの顔に視線を移した。背中は正面を向いたままだ。背筋が伸びている。山田・田中氏は背筋をまっすぐ伸ばしたまま、少しだけ背中を前に倒している。ひざにもたれるかどうかの中間地点に背中があるようにも見える。わたしは口と鼻から軽く息を吸って、短くはききった。
「昔読んだ小説です。男は浮気した妻を殺そうと、過去に行きます。行った先の過去で妻の祖父を殺します。しかし、現在に戻ってきても妻には何の影響も出ないのです」
 山田・田中氏は軽くあごをひいてうなずくとまた元の位置に戻した。首を動かしたにもかかわらず、目と鼻はまったく動いたように感じられなかった。固い芯で固定されているようだった。わたしは話を続けた。
「不思議に思った男は過去の有名人をつぎつぎと殺します。でも、やっぱり何の影響も出ない。というのは、男は自分の過去にしか行けなかったのです。その世界では誰もが他人の過去に行くことはできない。エレベーターのチューブかスパゲッティのようなものです。未来にも過去にも行けるけれど、永遠に自分の過去と未来の上下動を続けるのです。けっして他人の過去とはまじわらない」
「まじわらないのですか。まじわらないのですね」
 山田・田中氏の目がほんの少し大きくまるくなって、すぐに元に戻った。
「ええ。過去はそれぞれの人物固有のものであり、自分の過去に干渉しても他の人の過去には干渉することはできない、という話です」
「わたしの旅も同じようなものです。わたしが出会った人の記録はわたしにしか残りません」
 山田・田中氏の唇のあいだからわずかに四角い前歯が見えた。
「それで、クロノサイドというのは?」
 山田・田中氏はそう続けながら首を左肩の方にいくぶん傾けた。
「自分の過去を破壊した男は自分の存在自体を失っていくのです。自分を失った男は最後には分岐と分岐の間をさまよう幽霊になってしまいます。クロノサイド、時間死です。」
「興味深い神話ですね」
 山田・田中氏は大きくまばたきをした。まばたきをしたまぶたは一度通常より大きく開き、そのあと通常より瞳をおおう位置で停止した。
「神話というか……まあ、個人の作り話です」
「幽霊になった男は他人の人生に会えるのですか?」
 言い終えた山田・田中氏の唇は口角だけがこわばった感じで持ち上がっている。
「それはたしか無理だった気がします、残念ながら。」
「残念ですね」
 山田・田中氏の唇は先ほどよりもなめらかなカーブになっている。唇全体がどこか先ほどよりくつろいでいる。わたしはつづける。
「でも、男は同じように時間死した別の男と知り合うのです」
 山田・田中氏は大きく一度まばたきした。その後さらにもう一度素早くまばたきをした。
「そうなのですか?」
「そうなのです」
「……二人は友達に?」
 友達になるのだろうか、小説にはそこまで書いていなかった。
「友達になると思います。世界でたった二人の仲間ですから」
 山田・田中氏の唇が小刻みにふるえて息が漏れた。山田・田中氏はおかしそうに笑った。
「……それは、そうですね」
 山田・田中氏は一度ひざに完全に体をもたせかけてから、体を起こした。再び背筋の伸びた折り目正しい体育座りになった。山田・田中氏の目が細くなり、唇はなめらかな弧を描いた。山田・田中氏は言った。
「私は私が想像したことはどこかで本当に起きているのではないか、と思うことがあります」
 わたしは答えた。
「この時代の言葉ではよく似た発音をします。新しいものを産み出すという意味の言葉は架空のことがらを思い浮かべるという意味の言葉とよく似た発音をします。産み出すことも思い浮かべることもどちらも ソ ウ ゾ ウ と発音します」
「聞いたことがある気もします。二つは関係あるのですか」
「たぶん関係はないと思いますが……。調べないとわかりません」
「そうですか。ところで、宇宙の始まりを見たいと思いますか」
 山田・田中氏は目をまるく大きく見開くと、一度ゆっくりと閉じた。閉じたかと思うとまたゆっくりと開いた。開いたまぶたは瞳の半分くらいのところで一度とまった。そしてさらにゆっくりと持ち上がって再び大きく見開かれたかのように見えた。
 山田・田中氏の唇も同様に大きく開いたかと思うと、少し開いたままの状態でいったん止まった。それから唇もゆっくりと閉じた。閉じられた唇の口角は耳に向かって大きく持ち上げられていた。しかし目尻にしわはできず、眉も弧を描かなかった。山田・田中氏はわたしのにおいをかいでいる。犬ではなく人間のかぎ方で。音をたてることもなく、とても静かに。
「それは……見られるものなら」
 山田・田中氏はゆっくりとまぶたを閉じて開いた。
「そうですか」
 まぶたを開いた後の目尻には少しだけしわがよっている。ほお骨の上、りんかくの外側の方に少し赤みがさしている。
 わたしもゆっくりとまばたきをした。わたしのまぶたは重い。わたしは目を閉じたままでいたい衝動にかられる。指先に熱がこもる。気持ちが先に進む。わたしは息を吸ってはいた。深呼吸をするつもりだったが、失敗した。わたしは目を開く。わたしは山田・田中氏を見る。山田・田中氏の目がわたしの目を見ている。山田・田中氏の黒目はわたしの知っている人たちより少し大きい。だから目がまるく見開かれるのがわかるのだろうか。山田・田中氏の黒目の中にわたしがいるはずだ。でも、わたしはそれを見分けることができない。

 わたしはこのあと自分の名前を名乗り、彼女の話を聞く。わたしは、わたしの話をして、二人で昨日の残りの麻婆春雨を食べる。食事代に小さな金のかけらを渡され、ちょっと困る。二人でベッドに入り、眠る。わたしは彼女と恋におち、二人で一つのワンピースを着まわすようになる。ワンピースを買うかキャミソールを買うかでケンカをする。わたしは二人の世界の違いに悩み、それでも二人で銀河をめぐる冒険をし、二人でとある惑星の盛衰にかかわり、わたしの母の誕生にかかわり、そしてわたしは不幸な死を遂げる。
 わたしはわたしの不幸な死を見て、右手の指で唇を押える。指は小刻みなリズムで震えている。口を押えようとしてまず鼻から息が漏れる。ついで口の両脇から息が漏れる。わたしはもう堪えることができない。口元がゆるむ。

齋藤路恵プロフィール


齋藤路恵 協力作品
『ラビットホール・ドロップス』