「コルヌコピア2」山口優

(PDFバージョン:korunukopia2_yamagutiyuu
前作「コルヌコピア」

「しかし、おかしなことも起こるもんだな。ちゃんと調整してるはずのあそこの測定器があんなにエラーデータを出すとは……。これがもしまっとうなデータだったら、世紀の大発見だったところだが。君もいい論文が書けたろうにな」
 戸惑いと同情が半々ぐらいの面持ちで、私の指導教官が言う。
「けど、感心したよ。ちゃんとエラーデータだと証明できたのは、君のお陰だ」
 たぶん、私が執念深く別の時点での結果と照らし合わせ、あのデータが「あり得ない」ことをきちんと証明する能力があったこと、そして、あのままの「すばらしい」データで論文を書いてしまう誘惑を断ち切ったことを褒めてくれているのだろう。だが、それは当然のことだ。私は真摯に物理を探求する学生なのだから。
「恐縮です」
 私は一礼して、教官の居室を辞した。
 大学を出ると、正門の前でピアが待っていた。茶系統のセーターにスカート、黒いパンストにローファーという出で立ち。相変わらず、アイドルでないことが不思議なような愛らしさで、門を行き来する学生たちの注目を集めていた。特に男子は、たっぷり三秒は見返してから去って行く。きっと、どんな男を待っているのかと心中穏やかではないだろう。
 安心してくれ、コイツが待ち合わせてるのは女だよ。
 私は奇妙な皮肉を感じながら、ちらりとそう思った。
「よ」
 短く言って、肘から上だけ簡単に手を挙げる。ピアはにっこりと満面に笑みを浮かべた。相変わらずあざといが、だんだん慣れてきた。
 しかし、コイツを見ていると「眼福」という言葉の意味をかみしめることができる、といつも再認識させられるのは間違いない。
「お待ちしてました! 遅かったじゃないですか」
「あなたの仕事の尻ぬぐいよ。教官が『ただのエラー』と思い込んでくれてよかった」
「……喜んでくれると思ったのに……」
 拗ねたような口調で言う。口までとがらせて。
 おいおい。これじゃ私は恋人のプレゼントを無碍にした男みたいじゃないか。
 ある意味では、まったく誘惑に駆られるプレゼントだった。私があのままピアに宇宙を元に戻すことを頼んでいなければ、冗談でなく私はノーベル賞でももらえたかもしれない。既存の理論を覆す宇宙の様相を発見した者として。
 バストサイズや彼氏がどうこうというレベルじゃない。
「……でも、もう一度この四次元時空ディリクレ・ブレーンのパラメータを変えることをご希望でしたら、いつでもそうしますよ?」
 懲りない奴だ。そして満面の笑み。
「それはもう結構」
「えー。じゃあ、何をお望みですか? ね? 遠慮なく言ってくださいね?」
 こら。私の腕にしがみつくな。胸を当てるな。周りの男の視線が痛いじゃないか。くそ。こういうとき嫉妬されるのは絶対にピアであって私じゃないんだ。
「……また思いついたら言ってあげる」
 私はうんざりした口調で言って、ピアの腕をふりほどく。コイツにとっては、私達生物の食欲・睡眠欲・性欲なんかと同じように、誰かの望みを適えることが本能なのだと、だんだん分かってきた。私が何も望みを言わないのは、何も食べないのと同じようなものか。或いは、ずっとご無沙汰なのと。
 ま、それは辛いだろうな。
 でももう少し我慢してくれ。私は普通の宇宙で生きたいんだ。なんとはなしに言った願いが、とんでもない結果を生んでは困る。
「それにしても」
 コイツのあざとさにひきずられてうっかり願い事を言わないうちに、話題を変える。
「Dブレーンがこの宇宙って理解は、あなたを造ったような進んだ文明でも一緒なの? 今の理論物理学も結構いい線行ってるのね」
 ブレーン理論がご専門の先生を一人二人思い浮かべながら、聞いてみる。
「一緒……? まあ、ある意味ではそうですけど」
 ピアは困ったような顔になり、若干首をかしげる。そんな仕草もやっぱり……認めたくはないが、かわいい。
「あたしは、あたしが訪れる宇宙の知的生命体が、その時代の時点で使っている範囲の用語と理論の枠組みで説明してますので……。たとえば、あなたの惑星でも、中世と呼ばれる時代の欧州と呼ばれる場所を訪れていたなら、さしずめ、『私は天界から来た天使で、自由に神の力を行使できる』とでも説明したでしょうか……。あたしが、あなたに出会ったときに、『あたしはコルヌコピア・タイプのロボットで、ホログラフィック回路を実装した高次ブレーンを余次元に待機させていて、そこから何でも取り出せるし、この宇宙というディリクレ・ブレーンの上の事象を何でも意のままに操れる』と説明したのは、つまりはそういうことです。神がどうとか言うのと、ブレーンがどうとか言うのは、あたしからすればあんまり違いはないです。もちろん、文明が発展するにつれて、だんだん説明に使える用語や理論の枠組みは増えていきますけどね」
「それって……」
 表面上はそこで絶句しただけだったが、そのとき私はかなりショックを受けていた。ピアはそれを敏感に感じ取ったのだろう。
「あ……あの。でも、方向性は間違ってないです! 正しい方向に進んでると思いますよ?」
 とりなすようなピアの口調が憎い。
「……先に帰ってて」
 私は言って、すたすたと別の道を歩き出す。
「あ、あの……!」
「邪魔だって言ってんの! 先に帰れ!」
 怒鳴りつける。ピアは見るからにしょぼくれて、それでも頷いた。
「それが、あなたの願いなら……」
 願いを叶えているというのに、あまり嬉しそうではない。だがそんなことは、そのときの私にはどうでもよかった。
 ピアは黙って交差点を渡り、地下鉄の駅へ向かっていく。その捨てられた子犬のような後ろ姿を睨むように一瞥し、あの愛らしい少女のなりで一人は危険かも、とちらりと思ったが、すぐに、いっそ下種な男にでもひっかけられて遊ばれて捨てられろと思う。
 私は交差点で左に曲がった進路のまま、早足でずんずん歩く。
 無性にむかついた。あんな何も考えてないようなガキに、私が一生懸命学んでいる最中のことを、一生を捧げて追究したいと希(ルビ:こいねが)っていることを馬鹿にされたように感じていた。
 だが、実際の所、そうなのかもしれない。
 そう思うと急に虚無感に駆られる。
 なんだ、私の志なんて、結局その程度のものかよ。
 親からは、理系ならせめて医者になれと言われていた。最近は諦めたようだが、今でも私を見ると残念な顔をする。何がいけないのだ、と思っていた。留学で海外に行くとあたりまえのように女子も物理をやっているのに。心から楽しそうに。自分の道を疑うことなく。
 ちぇ。
 小さく舌打ちした。
 いつの間にか私は公園に入り込んでいる。春には桜で有名になる、ちょっと広めの、高台の上の公園だ。木々は比較的鬱蒼と茂っており、薄暗い雰囲気だ。いつもは地下鉄を利用して通学している。この公園も不案内なわけではないはずだが、薄暗い中で訪れたのはほぼ初めてで、刹那に地理感覚を失う。
「あれ……」
 戸惑いの声を漏らし、ますますイラついてくる。それが募って、砂利を思い切り足先で蹴っ飛ばす。
 そのとき。
「いってーな!」
 いらだつような声に私はびくりとした。若い男の二人組。彼等に真っ向から私の蹴った砂利が当たってしまったようだ。まるで散弾銃のごとく。
「ご、ごめんなさい!」
 私は小声で言って、その場をすり抜けようとした。こういう場面は苦手だ。予測不能な事態に陥るとまともに対応できない自分の神経系の構造を呪う。だが、現実の時間は自分に都合良くゆったりとは流れてくれない。
「待てよ、おい。無視すんな」
 男の一人が私の手首を掴む。腕を捻り上げられ、間近に顔を覗かれる。
「お、ちょっとかわいいじゃん」
 もう一人の男が脳天気に言った。
「おい、ちょっとつきあえよ。そうしたら許してやる」
 なんだこのベタな反応は。私の冷静な部分はそう突っ込んだが、現実的な部分はこれが最悪の事態であることをよく理解していた。
「や、やめてよ……」
 なんでもっと気の利いたことを言えない。再び自分を呪うが、人間の性格がそう簡単に変えられるわけでもなく、かつ、ピンチになったからといって簡単に火事場のなんとやらでこういう輩をふりほどくほどに力が強くなるわけでもない。
「……」
 結局私は睨む以外になすすべもなく――。自分の運命を呪いながらこれから起こるであろう事態が最悪の予想からは外れていることを願うしかない、と思った時。
「おめでとうございます!」
 私の抱える問題を全く無視したような、あっけらかんとした声が背後から響いた。
「あなたは一分の一の確率であたしに選ばれました。願いを叶えてアンケートに答えるだけ!」
 私は思わず振り向く。男に腕を掴まれたまま。
「ピ……ピア……?」
 ピアが私を見上げていた。帰れと言ったのに、ついてきたのか。あり得ないぐらいの美少女は、にっこりと微笑んだ。
「願いは、承りました」
 私が何も言わないうちに、ピアは言葉を紡ぐ。そして、私を掴む男の手にそっと、触れた。目を丸くするもう一人の男にも。
 その瞬間。
二人の男の姿がゆらめいた。徐々に私の視界から消えていく。さながら幽霊が消えていくように。私を掴む男の手もだんだん透明化していき、触れているという感覚も失われていく。そして、たっぷり一〇秒経った頃には、すっかり二人の存在は消えて無くなっていた。
「何を……したの?」
「局所的にこの四次元時空Dブレーンを分裂させました。彼等がいる世界と、私とあなたがいる世界に」
「つまり……どういうこと?」
「無関係になったのです、あなたと、あの二人は。この四次元時空と垂直の方向に、ほんの数ミリの距離ですが、もはや重力を除く相互作用はあの二人とあなたとの間には起こりません」
 明白に断言する。それから、急に不安そうになった。
「ち、違いましたか? あたし、あなたの表情から、やっとあなたの願いが読み取れるようになってきたんです。だから、さっき、あなたは彼等との相互作用を断ち切りたいと思っていると……思ったのですが……?」
 私は、ちょっと表情を緩めた。――だから、私についてきたのか。私の言葉ではなく、表情から読み取った願いをきいて。
「そうね」
「じゃあ、アンケートのお答えは……?」
 上目遣いに私を見つめる。
「③よ。ずっと居て欲しい」
 花が咲いたように微笑むピア。その笑みには相変わらずあざとさを感じるのに、なぜだかそれも許せるような気がしてきた。

山口優プロフィール


山口優既刊
『シンギュラリティ・コンクェスト
女神の誓約(ちかひ)』