(PDFバージョン:futtousuruuchuu_yasugimasayosi)
冬の近づきを知らせる冷たい風が吹き抜け、赤い陽射しが窓に差し込む夕暮れ時、気がついたら妻が蒸発していた。
私は白い蒸気となって消えかける妻を逃すまいと、慌ててキッチンにあった大型のゴミ袋でその蒸気をかき集めた。しかし、一枚ではとても足りない。収納棚にしまってあったありったけのゴミ袋を取り出し、妻が座っていたイス周辺の空気をすべて袋に詰め込み、抜けないようガムテープでしっかり密封した。
ぱんぱんに膨れ上がったゴミ袋は百個以上にもなって積みあがった。私はそれを眺めながら途方に暮れた。どうすればいい。どうすれば蒸発した妻を取り戻せる。
こんな状態では元に戻せても生きているわけがないというのはなしだ。蒸発すること自体あり得ないことなのだから、常識に当てはめて考えるほうがおかしい。私は生き返らせることができると信じたい。
とにかく気体になった妻を戻す方法である。
私はかつて学校で習ったことを思い出した。
昇華した蒸気は冷やせば液体になる。その液体を凍らせれば固体になる。状態変化だ。固体にできたらといって人間に戻るのかという疑問はさておく。ゴミ袋に詰めた状態ではいつか抜けてしまうだろう。ひとまず保存しやすい方法を考えなければならなかった。
私は図書館に行って学生向けの化学実験が記されている本を探した。やがて気体を液体にする方法が書かれた本を見つけ、そこにある必要なものを買いに出かけた。ドライアイスやエタノール、それから耐寒性に優れたタイプのポリタンクを仕入れた。
しかし、準備をしながら、いくつもの問題が私の頭に浮かんでいた。たとえばドライアイスを使えばマイナス七十度以下まで冷却できるとはいえ、すべての気体を液体にできるとは限らず、気体になった妻を液体にできるかどうかわからなかった。またもし液体にできたとしても、保存するには液体を注入したポリタンクごと冷却しておかなければならない。家にそんな馬鹿でかい冷凍庫はなかった。
困った私は学校で理科を教えている知人に相談したり、業務用の冷凍倉庫を扱っている会社にその倉庫を借りられないか問い合わせた。
そうしているうちに、人間が蒸発してしまうこの現象が世界各地で発生していることを知った。私のように自分の妻が蒸発したケースもあれば、夫、息子、娘、知人や友人、上司に部下、一家がまるごと蒸発したこともあったらしい。しかも私と同じく目の前で蒸発した人間の気体を集めて持っている者も中にはいるという。
報告があっても信じにくい出来事ながら政府は早々に対応した。なにせこないだ首相が国会で予算審議中に蒸発してしまったのである。それはテレビ中継もされていた。
やがて冷凍倉庫は政府から通達を受けた自治体が用意してくれた。気体になった人間の凝結温度についても、世界中の様々な人が調べ、ドライアイス程度の冷却で液体になることがまもなく判明した。
私はさっそくゴミ袋の気体を液体にしていった。だけど、学校でやるような実験とは分量が違うので大変な作業になった。それでも根気よく妻を液体にしていった。
しかし、すべてを液体にすると、二十リットルのポリタンクが三つにもなってしまった。これはおかしい。あの細身な妻の体重が六十キログラムもあるわけがなかった。
「それはあんた、奥さんがいた周辺の大気も一緒に集めてしまったからだよ」と、相談した理科教師の知人が言った。「つまりその液体は純粋な奥さんではないということさ。一緒くたにした大気の一部も混ざっているんだ」
「どうすれば純粋な妻を取り出せる」
「難しいな。覆水盆に返らずって言うだろう? 人間の精製方法はまだ見つかっていない。構造が複雑なんだよ。方法が発見されるまでは液体で保存するしかないだろうな。コールドスリープさせておけ。蒸発した人間の生死はわからないが、生きているなら俺たちより長生きするかもよ」
知人はそう言って笑った。
その知人は翌日、蒸発したと聞いた。
さまざまな人々が蒸発して消えていった。
その現象に怯えるひともいれば、理不尽だと怒るひともいた。親しいひとたちがいなくなって悲しむひともたくさんいた。でも、うらやむひともいたり、待ち望むひともいた。
どうせ蒸発するならと思ったのか自殺者が減った。殺人事件も少なくなったという。やけっぱちになった犯罪が一時的に増えたけども、最近は減少傾向だそうだ。
仕事を辞めて旅行に出たり、趣味に興じるひとたちが増加し、離婚が減り、家出人が何年かぶりに帰ってきたという話もちらほら聞いた。
私は妻が戻る方法を探した。
私たちに子供はなく、二人の両親はすでに他界していた。私にとって家族は妻だけだった。どうしても妻に帰ってきて欲しい。先に逝くにはまだ早過ぎる。
しかし、妻を取り戻すには人間の精製技術というこれまでにない発明が必要だったし、もし精製が可能になったとしてもその生死はわからず、その前に私自身が蒸発してしまうかもしれなかった。
蒸発は人間だけに留まらなかった。
飼っていた犬や猫が蒸発し出したらしい。動物園やサファリパークの動物たちも次々に空気中に霧散していったそうだ。
季節が過ぎると蛙の鳴き声が聞こえなくなり、セミの声も途絶え、秋の涼しげな虫の音も耳にしなくなった。
私は冷凍倉庫に行った。
妻を詰めたポリタンクをすべて外に持ち出した。
雲がほとんどなくよく晴れた青空を仰いだ。陽射しが冷凍されたポリタンクに当たる。
今日、政府から発表があった。
水星が蒸発したらしい。薄いガス雲になってしまったそうだ。金星も蒸発しかけているという。数週間中には水星と同じようになるらしい。そして、順番からして次は地球だろうということだった。順番どおりでなくとも地球の蒸発は時間の問題に思われた。
私はポリタンクの蓋を取った。持ち上げて傾かせる。丸い口から液体が勢いよくほとばしり出ると、地面に落ちて飛沫を散らした。
流れ出る液体から白い蒸気が立ち昇っていく。待ちわびていたかのように妻は蒸発していった。
別にこんなことをしなくても、いずれ地球ごと蒸発してしまうだろうとは思った。だけど、せっかく誰よりも早く蒸発したのに、私の我がままでポリタンクに閉じ込めておくのは忍びなかった。
一個目のポリタンクの中身をすべて流し出し、二個目のポリタンクに取り掛かった。
どこかの学者がこの現象について仮説だがと前置きして説明をしていた。
宇宙の七割以上を占めるダークエネルギーが、極局所的に急激な斥力異常を起こして、人間などの物質を分子レベルにまで分解してしまったとかどうとか。
難しい説明だったが、私は自分なりに理解した。
宇宙は沸騰しているのだ。おそらくずっと前から。
水は沸騰すると蒸気になる。しかし、沸騰したからといってその熱湯がすべて時間差なく蒸気になることはない。表面から少しずつ気体になっていく。その気体になる場所と時間は誰も予測できない。それが今、我々が生きている場所で起きているのだろうと。
それをSF好きの知人に話したら、それはおかしい、宇宙はむしろ冷却に向かっているのであって、エントロピーだの熱力学の法則だの云々と難しい言葉を並べて反論していたが。
どうであれ、事実蒸発が起きているのである。そう遠くない将来、太陽も昇華し、それどころか銀河系の星々も消えるだろう。果ては宇宙だって蒸発してしまうに違いない。
すべてが蒸発して、一緒くたになり、一つになってしまうのだ。
二個目のポリタンクも空にした。一個目のポリタンクの液体はすでに残らず気化していた。最後のポリタンクに手を伸ばす。
何もかもが蒸発してしまったら、そこからまた何かが始まるのかもしれない。この宇宙だって蒸発し切った何もかもがごちゃ混ぜになったところから生まれたのである。
私たちはその繰り返しの中にいるだけなのだ。たぶん。
最後のポリタンクから液体が流れ出していく。
少し置いていたのでいくらか温まっていたのだろう。流すはたから大量の蒸気が沸き立った。
私は、その蒸気に包まれながら、自分も一緒に蒸発していくのを感じていた。
(了)
八杉将司既刊
『Delivery』