「講談はおもろいでー!」田中啓文

(PDFバージョン:koudannhaomoroide_tanakahirofumi
 最近、落語は東西ともに大ブームになってるし、浪曲もかなりのファンを獲得しているが、なにか忘れちゃいませんか。そう、講談である。講談はおもろおまっせー。私は大好きです。たとえば現在落語家はたぶん東京に約四百五十人、関西に約二百三十人だが、講談師はたぶん東京に約六十人、関西に約十五人である。どうです、この差。たしかに今、落語ブームかもしれないが、同じぐらいの伝統があり、同じ「語り物」である講談がこれほどまで格差をつけられるのはおかしい。講談の会に行くと、客はたいがい年寄りで、しかもめちゃ少ない。東京のことはよく知らないが、関西ではそんな感じ。たぶん東京もさほどかわるまい。どうして若い客が来ないのか。これがよくわからない。繰り返すが、講談はおもろおまっせー。感動も人情も笑いも涙も全部詰まっている。ストレートな「ええ話」やただただかっこいい英雄譚もあるが、ブラックなもの、ピカレスクなども多いし、正直言って「話の宝庫」である。ストーリーテラーとしての側面もある我々小説家にとって、学ぶべきは落語ではなく講談だと思う。だって、考えてもみてください。昔は講談は娯楽の花形だった。今はそんなことは難しくなってしまったが、かつては「続き読み」ということが行われていて、たとえば正月元日に一席目を読みはじめ、お話が盛り上がった一番いいところで、ポーンと張り扇を入れて、
「このあとどうなりますか、続きはまた明晩」
 こうして客を引きつけ、また明晩また明晩と引っ張って引っ張って、最終話は大晦日なのである。どれだけ長いねん。もちろん演る側にもたいへんな腕が必要である。あきれるほど長い物語なので、派手なエピソードもあれば、どうしてもダレる部分もある。それをちゃんとおもしろく聴かせて客を毎晩きっちり堪能させねばならんのである。「太平記」「太閤記」「難波戦記」「浪花侠客伝」「天保力士伝」……どれも物語の面白さがぎゅーっと詰まった続き読みのものばかりである。「忠臣蔵」(赤穂義士伝)などはおそらく一年間毎晩やっても終わらないぐらいの分量がある。本伝(刃傷から討ち入りまでの本筋ストーリー)、銘々伝(四十七士それぞれのエピソード。大石内蔵助、堀部安兵衛といった人気のある義士はひとりだけで一カ月ぐらい持つほど)、外伝(四十七士以外の忠臣蔵を彩る人々のエピソード。これまた無数)……とあるのだからいつまでたっても終わらない。そのうえときには新作も付け加わる。かくいう私も、旭堂南湖さんと忠臣蔵の講談会を連続でやっていて、それは南湖さんが、古典の忠臣蔵と私が書いた新作忠臣蔵を一席ずつやるのです(大阪千日前の徳徳亭でやってます。来てください)。えーと、思わず宣伝を入れてしまった。どこまで書いたっけ。そうそう、続き読みである。関西では、一年は無理としても一カ月とか十日間の続き読みが行われているので、興味を持たれたかたはぜひ来てください。私も以前、ある続き読みの会で、めちゃめちゃいいところで、
「このあとどうなりますか、また明晩」
 と言われて呆然とし、なんとかして翌日来られないかと予定をアレコレしたが無理だとわかり、話の続きが気になって気になって、あまりのことに爪を噛み、髪の毛を掻きむしり、涙を流したことがある。一緒に行った友人は、忙しいなかスケジュール調整して翌日も行ったのである。それぐらい講談には魅力があるのです。
 かつては町内に一軒かならず講釈場があると言われていたほど流行した講談だが、今でもその面白さはまったく失われていない。若者やこどもが聴いてもぜったいに面白いことは保証する。機会があればぜひ講談会に足を運んでほしい。テレビなどでは途端に魅力が半減するのは落語と同じである。「講釈師見てきたような嘘をつき」というが、史実を改変し、おもしろければなんでもありとばかりにエンターテインメントに邁進する講談は、SFのように想像力の限りを尽くした「おもしろ法螺話」なのであります。

田中啓文プロフィール


田中啓文既刊
『茶坊主漫遊記』