(PDFバージョン:panntuto_yasugimasayosi)
母さんが顔色を変えてぼくの部屋に入ってきた。
「これ、何」
怒りに震える声でそう言いながら、手につまんだ小さなパンツをぼくに見せた。
レースが施され、ピンクの花柄が散りばめられたかわいらしいパンツだった。当然女性用である。正確にはショーツというべきか。母さんのショーツでないことは間違いない。
ベッドに寝転がってコミックを読んでいたぼくは答えた。
「知らない」
「ウソ言いなさい」と、母さんは決め付けた口調で言った。
「知らないものは知らないよ。どこにあったんだよ」
「風呂場よ。どこからこんなものを持ってきたの」
「だから知らないって」
「あんたが知らなかったら誰が知ってるのよ!」
ぼくは一人っ子で、中学三年生だった。父さんは普段から異性や恋愛について一言も語らない堅物だったし、年頃としてはそんなものに興味を持つとしたらぼくだけと思ったのだろう。
確かに興味はある。たとえばこの横になっているベッドの下を探られたらとてもまずい。ひょっとしたら母さんはそのことを知って、こうやってぼくを問い詰めてきたのかもしれない。
しかしだ。ぼくは大人向けの怪しい店に出入りしたことは一度もない。ましてや下着泥棒なんか絶対にしてない。
でも、母さんの目は疑いに満ちていた。自分の息子が汚らわしい存在になってしまったことに対する軽蔑と悲しみを瞳にたたえた。
ちょっと待てよ。ふざけるな。
ぼくは怒鳴った。
「いい加減にしろよ、知らないって言っているだろう!」
「あんたに決まってるでしょ! 正直に言いなさい!」
そこからは近所にまで聞こえる怒鳴り合いの大喧嘩になった。
それ以降、母さんとは口を利かなくなった。
ところが、ショーツだけに終わらなかった。
今度は髪の毛だった。
茶色の長い髪の毛。
ぼくはスポーツ刈りで父さんの髪はもう薄い。母さんは黒くてパーマをかけているのでこんな髪質はしていない。
その髪の毛を母さんはリビングで見つけた。
だけど、母さんはその原因をぼくにあるとは考えなかった。
確かにぼくは女の子にもてない。嫌われてはいないと思うけど、会話も滅多にしなければ、バレンタインデーに母さん以外からチョコレートをもらったことも過去一度だってない。そんなぼくが家に女の子を連れ込むなんてあり得なかった。
母さんはそのことをしっかり理解していた。ぼくを下着泥棒か何かと勘違いしたりはしたけども、そこは親としてぼくのことをわかっていた。
結果、疑いと怒りの矛先は、父さんに向いた。
でも、ぼくにしたらあの父さんが、若い女性を家に招きいれたとはとても信じられなかった。
父さんは男前とは言いがたく、どちらかといえば真面目で面白みの欠片もない容姿で、とても浮気をするような性格とも思えなかった。たとえ浮気しようとしても相手してくれる女性がいるのだろうか。ぼくには想像できなかった。
それでも母さんは父さんを疑った。
父さんは最初は身に覚えがないと困惑し、戸惑い、やがて母さんのしつこさと決めつけに怒り、最後はぼくと一緒だった。大喧嘩である。そのうえ母さんはショーツの一件も父さんのせいにしたことから油を注ぐことになった。
ぼくは父さんと母さんが喧嘩をするところを初めて見た。元々はそれほど平穏な家庭だったのだ。それがショーツ一枚と髪の毛一本で修羅場と化したのである。
しかも夫婦喧嘩は泥沼に陥った。
それまで同じ部屋で寝ていたのに、別々の部屋で布団を敷くようになり、父さんが仕事から帰ってきても母さんは夕飯を作ろうともしなかった。いわゆる家庭内別居である。
顔を合わすたびに喧嘩をし、父さんは飲まなかった酒に手を出すようになり、母さんはいつも怒るか泣くかしていた。
やがて離婚の話が出た。ただ父さんが浮気を認めてないことから裁判沙汰になりそうだった。
すぐに離婚にならなかったのは、ぼくがもうすぐ高校受験があったからである。それが終わってから裁判所に調停を求めるつもりらしい。
もう悪夢だった。
ところが、その悪夢はある日、唐突に終わった。
朝、母さんが止まった洗濯機から洗濯物を取り出しているときだった。
ぼくは隣の洗面台で歯を磨いていた。
「あ、しまった」と、母さんが不機嫌そうに言った。
ぼくが見ると、ぼろぼろになった紙切れを母さんは持って、顔をしかめていた。ポケットにメモ用紙か何かを入れたまま洗濯してしまったのだろう。
でも、母さんは首をひねった。何かわからないらしい。ぼくも紙切れをポケットに入れた記憶はないので心当たりはなかった。父さんの洗濯物はもとよりここには入っていない。
紙切れを見つめる母さんの表情が一変した。なぜか目を見張り、息を呑んだ。
何だろうと思ったぼくは、紙切れをのぞき込んだ。
学生証らしかった。その文字が見えた。ただしぼくの学校の学生証ではなく、近くの高校の学生証だった。
小さな白黒の写真があったけど、ぬれた紙屑がへばりついて顔はよくわからなかった。しかし、名前はインクがにじみながらも読み取れた。「笹山真美」と印字してある。
女の子の名前にもかかわらず、一瞬、自分の名前かと思ってしまった。
ぼくの名前は「笹山真雄」なのだ。
すると、父さんと母さんの家庭内別居はその日に終わった。
離婚の話も最初からなかったように立ち消えした。
このあとも、女性物の下着や生理用品が家の中で見つかることが何度もあったけど、母さんは誰も咎めることはなかった。
むしろそんな発見を楽しそうに父さんに報告した。
父さんはそれを微笑ましい表情で聞いていた。
まるで我が家に家族が増えたかのようだった。
ぼくもあまり戸惑うことなく受け入れていた。
母さんが教えてくれたのだ。
ぼくには姉がいたのである。
生まれる前にこの世を去った、たった一人の姉が。
(了)
八杉将司既刊
『光を忘れた星で』