(PDFバージョン:sakuranohanasakukoro_takahasikiriya)
薄紅色の桜の花は、どれもひかえめに下を向いて咲きます。やわらかな花びらはすきとおるほど薄く、近くで見るとほとんどもう真っ白なのでした。
緑色の羽のメジロが、くちばしの先を花心の奥にさしこみました。
「ああ、甘い。この季節だけのごちそうだ」
つぶやいて、次の花にうつります。
メジロは、次々と、花の蜜を飲みました。その間、花びらの一枚も、こぼれることはありません。
スズメだったら、桜の花ごとがつがつとついばむでしょう。だから、スズメが甘い蜜のごちそうをいただいたあとには、桜の花が柄ごとぼとり、ぼとりと地面に落ちています。メジロは、そんな下品な食べ方はしないのでした。
メジロは、枝の先で、ふと立ち止まり、下を見下ろしました。
キツネが一匹、桜の木を見上げていました。手も足も細くやせていて、しっぽの毛がところどころ抜け落ちています。
キツネの金色の目が、きらりと光り、メジロは、ぶるっと体をふるわせました。
次の日も、その次の日もキツネは、桜の木の下にきていました。
ひらり、ひらりと、桜の花びらが舞い始めました。
キツネが、桜の木を見上げました。
「メジロさん。おたずねします。わたしの友達を知りませんか?」
突然声をかけられてメジロは、びっくりしました。でも礼儀正しい問いかけだったので、礼儀正しく答えました。
「いいえ、知りません」
キツネがためいきをついたように見えました。メジロはあわてて、一言つけくわえました。
「お友達がどうかしたんですか?」
キツネは、顔を上げました。
「この桜の花がさくころ、また会おうって約束したんです」
どこか遠くを見るような目で、
「もう、いないのかもしれませんね」
おだやかな口調でしたが、声には悲しみがにじみでていました。
メジロは、あたりを見まわしました。キツネとメジロのほかには誰もいません。ただ桜の花が、甘い蜜をたたえて、さいているばかりです。
何か言ってあげたいと思いましたが、なんと声をかけていいのかわかりません。
キツネが腰を上げました。あばらが浮き出たやせた体です。
桜の花をおしむように見上げて、キツネは、メジロにたずねました。
「そちらも何か、おさがしですか?」
メジロは首をかしげましたが、すぐにはっと思い当りました。桜の花のひとつひとつをのぞきこむように、くちばしをさしこんで蜜を飲んでいたのが、何か探しているように見えたのでしょう。
メジロは、桜の花の柄を、くちばしでくわえてひっぱりました。
柄ごと、花がぼとりと地面に落ちました。
キツネは、不思議そうに落ちた花を見ています。
「キツネさん、桜の蜜をのんだことがありますか?」
「いいえ。いちども」
メジロは、一段下の枝にとびうつりました。
「それじゃあ、その桜の花を食べてごらんなさい。甘い蜜があじわえますよ」
キツネは、ちょっとだけ首をのばし、桜の花に鼻を近づけ、においをかぎました。それから、ぱくりと口をあけ、桜を食べました。
メジロは、じっとキツネの顔を見ていました。
キツネは、目を閉じました。
「ああ、本当だ。ほんのり甘い」
メジロは、うれしくなって、羽をふるわせました。
地面に落ちるのは、あわい紅色の花びらばかりで、蜜の入った花ごと落ちることはなく、キツネが背伸びしても桜の花まではとどきません。
もちろん、桜の花をひとつふたつ食べても、キツネの腹が満たされることはないでしょう。でも、甘くかぐわしい蜜は、ほんの少しのなぐさめにはなるかもしれません。
メジロは、ふたつ、みっつと桜の花を落としました。
ぱくり、ぱくりとキツネが食べます。
毎日、キツネは桜の木の下にやってきました。たえまなく舞い落ちる桜の花びらの下、やせたキツネは、かろやかにおどるようにはねまわりました。
桜の花がもう残りわずかになったある日。
「メジロさん、ありがとう」
キツネに言われて、メジロは、照れながら答えました。
「いいえ、どういたしまして。キツネさん、また来年、桜の花がさくころ、ここで会いましょう」
キツネの目がすうっと細くなり、大きな口でにっこり笑ったように見えました。
「そうしましょう。桜の花がさくころに」
「ええ、きっと」
メジロは、もう一言「わたしたちは友達ですよね」と付けくわえたかったのですが、はずかしくて言えませんでした。
そのとき、強い風がふいて、桜の花びらの最後のひとひらまで、ふきとばしてしまいました。
やがて緑の新芽がのびはじめました。
夏の日差しをあびて、桜の木は、いっぱいに葉を茂らせました。
秋風が吹くようになると、桜の葉は、赤く色づいてきました。
そして長い冬の間、桜の木はすっかり葉を落として、じっと待っていました。
春が来るのを。
花芽がふくらみ、薄紅色のつぼみが、少しずつ開いていきます。
おだやかに晴れた日、桜は、一輪目の花をさかせました。
また桜の花がさいたのです。
その枝には、あのメジロがいました。
メジロは、まだつぼみが目立つ枝をながめながら、目を細めました。
「ようやく咲いた。キツネさんとの約束のときがきた」
枝をつたって、開いた花に近づくと、ほのかに甘い香りがしました。
まだキツネは来ていません。
メジロは、桜の花にそっとくちばしをさしこんで蜜を飲みました。
次の日も、次の日も、キツネは来ませんでした。
桜の木の枝から枝へ、飛びうつりながら、メジロはキツネを待っていました。
とうとうある日、桜の木の下に、黄色いけものが近づきました。
はっとしてメジロは、目を向けましたが、あのキツネよりずっと若い、違うキツネです。
若いキツネは、はらはらと舞い落ちてきた花びらを、めずらしいもののように見上げています。
メジロは、思い切って、キツネに呼びかけてみました。
「キツネさん、ちょっとおたずねします」
キツネはくりくりと丸い目を、メジロに向けました。急に話しかけられて、びっくりしているようです。
メジロは、もう一段、下の枝にうつってからたずねました。
「わたしの友達を知りませんか?」
若いキツネは、ほんのちょっとだけ、首をかしげました。
「いいえ、知りません」
「桜の花がさくころ、会おうって約束したんですが」
あのキツネは、やせて、しっぽもばさばさ、ずいぶん年をとっているように見えました。もうどこかで死んでしまったのかもしれません。
メジロを見上げて、若いキツネは、丸い目をまたたきました。もう一度首をかしげ、それから、きちんと座り直して口を開きました。
「お友達と会えるといいですね」
しずんだ心が、ぽっとあたたかくなるような言葉です。
メジロは、思い立って、桜の花の枝をくちばしでつまみました。柄ごと、花がぽとりと地面に落ちました。
「キツネさん、よかったら、その花を食べてみてください。甘い蜜が入っていますよ」
若いキツネは、目をかがやかせ、花に近づきました。あのキツネがそうしたように、鼻先でにおいをかいでいます。
「ぼくの友達は、桜の花をおいしい、おいしいって食べてくれたんです」
メジロの言葉に、若いキツネは口を開き、桜の花をぱくっと食べました。
味わうようにかんで飲みこみ、ゆっくりと顔をほころばせました。
「本当だ。甘い」
メジロは、ぷるっと羽をふるわせて、
「そうでしょう、そうでしょう」
と、また桜の花をつついて下に落としました。
見上げるキツネのしっぽが、ふわりとゆれました。
キツネは、桜の花が地面につく前に、ぱくりと口で受け止めました。
「キツネさん、お上手ですね」
メジロは、枝から枝へとびうつり、花を落としました。
若いキツネは、おどるように身軽に、花を受け止めるのでした。
次の日も、次の日もキツネはやってきました。
あたたかい日が続き、桜の花はあっというまに満開になり、はらはらと散り始めました。
ふぶきのように舞い落ちる花びらの中、キツネがメジロを見上げます。
「メジロさん、もうすぐおしまいですね。また来年、桜の花がさくころに、会いませんか?」
花びらが、後から後から、舞いおりていきます。
メジロは、こみあげてくる気持ちをおさえて、こたえました。
「ええ、桜の花がさくころに。きっと」
そして、今度はためらわずにつづけて言いました。
「わたしたちは、友達ですよね」
キツネは一瞬、きょとんとした顔をして、それから、にっこりと笑みをうかべました。
「ええ、もちろん」
風が最後の花びらをふきとばしていきました。
緑の葉がしげる夏になり、さわやかな秋とりんとつめたい冬が過ぎて、また次の春がやってきました。
ほころびかけた桜のつぼみを、毎日見上げているけものがいました。
あの若いキツネです。
花が咲き、枝が少しずつ薄紅色にそまっていくのを、キツネは毎日見上げていました。
メジロがやってくるのを待っているのです。
ちらと、枝を走るかげが見えましたが、メジロではありませんでした。
キツネは、辛抱強く、毎日、桜の木の下に通いました。
桜が開いて、二日経ち、三日過ぎると、花びらがひらりひらりと落ちてくるようになりました。もちろん、花がぽとりと落ちてくることはありません。
桜の花を見上げるキツネを、木の上から呼び止めるものがいました。
「キツネさん、いったい何をさがしているんですか?」
声をかけてきたのは、小さなヤマネでした。鼻先のひげをひくひくと動かしています。
キツネは、前足をそろえてすわりました。
「友達をさがしてるんです。ぼくの友達を知りませんか?」
ヤマネは、きょろきょろとあたりを見まわしてから小さな声でこたえました。
「知りません」
「そうですか。ありがとう」
きつねは、立ち上がろうとして、ふとつぶやきました。
「ヤマネさんも蜜を飲むのかな」
かさかさっと枝をつたう音がしました。
キツネが見上げると、さっきより一段下の枝にヤマネがいました。
「キツネさんも蜜を飲みに来たんですか?」
「いいえ。ぼくはとどかないから」
キツネが返事しおえないうちに、ヤマネが歯でくわえて、桜の花を落としました。
「よかったら、どうぞ」
キツネは、落ちた桜の花と、枝のヤマネを交互に見ました。
やっぱりヤマネも、桜の蜜を飲んでいたのです。キツネは、小さな友達のことを思い出して、胸が熱くなりました。
「ありがとう」
キツネはぱくりと花を食べました。
なつかしい味がしました。メジロのように花の蜜だけを飲めば、きっとさぞかし甘いのでしょう。
でも桜の花ごと食べると、ほろにがい青草のような、しぶい、にがい味がしました。ほんの一瞬かすかな甘みがあるだけで、それほどおいしいものではありません。
キツネは、桜の花をごくりと飲みこんで、枝の上のヤマネを見上げました。
「うん、甘い!」
キツネの言葉に、小さなヤマネは、顔をぱっとかがやかせました。
それから、桜の花がさいている間、ヤマネとキツネは、毎日、桜の木にやってきました。 桜の花びらが、ふぶきのように舞い散っていきました。地面はもう、一面、薄紅色にそまっています。
キツネは、ヤマネを見上げて言いました。
「ヤマネさん。また桜の花さくころに会いましょう」
小さなヤマネは、顔をかがやかせ、しっぽをいっぱいにふくらませました。
「ええ。そうしましょう。きっと、きっと」
「きっと、きっとね」
キツネがくりかえします。
ヤマネは、小さな手を組み、うっとりと夢見るように言いました。
「桜の花さくころに」
優しくなでるような風に、最後まで枝の先に残った花びらが、はらり、はらりと舞いおりていきました。
了
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