「合格の日」飯野文彦

(PDFバージョン:goukakunohi_iinofumihiko
 午前一時近い時刻、サツキの携帯が鳴った。未登録の、覚えのない番号からだった。
 ふだんなら警戒して出ないところだけれど、一瞬、迷っただけで、
「ま、いいか。まちがいなら、まちがいって教えてあげれば」
 と軽い気持ちで、通話状態にした。さすがにこちらから声をかける気にはなれず、黙って耳に押し当てる。
「サツキ?」
 張りのある女の声だった。が、誰だかわからない。
「うん。そうだけど……」
 遠慮がちにつぶやく。
「ごめんね。こんな時間に。でもちょっと前に聞いたばかりで。合格おめでとう」
 弾む声で言われ、引きずられるように、
「ありがとう」
 と答えていた。
「やっぱりサツキは、すごいよ。第一志望だったんでしょ?」
「うん。まあ……」
「いいなあ。四月から天下のお嬢様大学の女子大生なんて」
「そんなことないって」
「ううん、すごいよ。現役で合格するなんて、まず無理だもの。ほんとにほんとーにおめでとう」
「うん、ありがとう」
「あー、うらやましいなあ」
 携帯から聞こえる声を聞きながら、サツキは考える。いったい誰だろう?
 サツキが、今日発表された第一志望の大学に受かったことを知っている。となると友だちの誰かだ。けれども、誰なのかわからない。
 あなた、誰、と訊ねる雰囲気でもなかった。
「いいなあー。それで遅くまで、達也さんとお祝いだったんでしょ」
「え、どうしてそれを?」
 坂木達也は、同じ高校の一級先輩で付き合って二年になる。現役で東大に合格してからも、いつもサツキを励ましてくれた。合格発表にもいっしょについてきてくれた。
 合格者の張り出しを見る勇気が沸かずに、校舎の隅でジッとしていたサツキに変わって、発表を見てくれたのも達也だった。
 自分のことのように喜んでくれて、家族への報告もそこそこに、二人して六本木にくりだして昼間からワインで乾杯、そして……。帰宅したのは午後十一時近くだった。
 いつもなら大目玉のところだが、ちゃんと電話を入れておいたし、何より長い間の苦労が実って、栄冠を勝ち得たのだ。父も母も苦笑いしただけで叱るどころか、おめでとうの言葉をかけてくれた。
 ありがとう、もうあたし、大人なんだから。
 シャワーを浴びて自室に戻っても、心身ともに興奮冷めやらず、ベッドの上にすわってぼんやりしていた。そのとき携帯が鳴ったのである。
「ねえ、サツキ、聞いてる?」
「え、ええ」
「もう、ぼんやりしちゃって。まあ、わかるけどね。大学には合格するし、達也さんとついに一線をこえたんだから」
「ちょっと、なぜ、知ってるの?」
「知ってるわよ。サツキ、ずっと達也さんにお預けくわせてたんでしょ。合格するまではって。でも、現金なものよね。合格したその日に初エッチなんて」
 語調がきつくなった。サツキは両足を曲げ、両手で携帯を抱え持ちながら、
「あなた、誰?」
 と訊ねた。
「何、それ?」
「でも……」
「それじゃあ、今まであたしが誰かもわからないで、話してたわけえー?」
「だって……」
「ひどーい。いくら浮かれてるからって。でも、前からそうだよね。サツキって」
 さすがにカチンと来た。
「どういう意味?」
「だってそうでしょ。達也さんとはでれでれしているくせに、女の子の友だちには、いつも恐い顔ばかり」
「いい加減なこと言わないで。いつあたしが友だちに恐い顔したの」
「今、してるでしょ?」
「それは……」
「ほらね。いつもそう。それに気がついていなかったなんて、信じられない。頭はいいかもしれないけど、性格悪すぎー」
 サツキは唇を噛んだ。よっぽど切ってしまおうと思った。けれども一方的に言われ、悔しくてできない。
 懸命に電話の相手を想像した。達也と自分がつきあっていることを知っている友だちとなると、数は限られる。誰も当てはまらない。
 合格したことは、何人かに連絡したけれども、達也といっしょだとは内緒だった。ましてはじめて結ばれたことは、とうぜんながら完全に二人だけの秘密である。それをどうして、この女は知っているのだ。
「ねえ、聞いてる?」
 甲高い声がサツキの耳をつんざいた。言い返す言葉も見つからないうちに、相手は一方的に話しつづける。
「達也さん、二年もお預けされたんだよ。年頃の男の子が、そんなに長く待てるとでも思ってたわけ?」
「そんなのあなたに関係ないでしょ」
「関係おおありよ。この二年の間、誰が達也さんの性欲処理を担当してきたと思ってるののよお」
 殴られた衝撃を胸に受けた。そんな馬鹿なことがあるわけがない。たしかに待たせたのは事実だが、達也が別の女とそんなことをしているなんて――。
「嘘つき!」
 サツキは怒鳴った。それがきっかけとなって胸につかえていたものが流れ出るように、
「達也は、そんな人じゃないわ」
「達也だって。呼び捨て……。完全にカノジョ気取り」
 女は鼻でせせら笑った。
「ほんとうのことだもの。あなたなんかにとやかく言われる筋合いはないでしょ」
「哀れなもんね。お勉強はできても、そっちのほうは、ぜんぜん奥手ってわけ。ふん、かまととぶるのも、いい加減にして。今日だっていちいち『明かりを消して』からはじまって『それはいや』だの『そんなことできない』ばかり。まったく何様のつもりいぃ」
 衝動的に電源を切った。携帯をベッドに投げる。
 なぜ――。どうして――。
 携帯が鳴った。ディスプレイに映る番号は、見覚えのない先ほどの番号だった。
「いやッ!」
 掛け布団を上に押しつけた。くぐもった着メロはなかなか鳴りやまない。たまらず携帯を取り出すなり、通話にし、すぐに切った。
 ふたたびかかってくる前に、達也の携帯に電話した。すでに眠ったのか。通じずに、留守電になった。
 ――ごめん、こんな時間に。これを聞いたら、すぐ電話して。お願い。
 そう吹きこもうと思ったけれど、発信音の前に電話を切った。
 三秒と間を置かず、着メロが鳴った。達也か、と思ったものの、そこに表示されたのは、あの女の番号である。
 じっと携帯を見つめた。留守電設定にしておけばよかったと思っても遅い。いや、そんなことをしたら、一方的に吹きこまれてしまう。着信拒否の設定をしよう。そう思って、いったん通話状態にして、すぐに切ろうとしたとき、
「達也の急所は、後ろの穴よ」
 と女の叫ぶ声が聞こえた。
 くらくらと目まいを覚えた。指先が震えて、携帯を持っているだけで精いっぱいだった。追い打ちをかけるように、携帯から金切り声が響いてくる。
「おちんちん扱きながら、舐めてあげると、子供みたいにひぃひぃ喜ぶんだか――」
「やめて」
 携帯を耳に当て、
「いいかげんなことばかり、言わないで。達也はそんな人じゃない」
「あんたが知らないだけよ。かっこうつけてるけど、本当はマザコンで、どうしょうもない甘えんぼなんだから。あんたみたいな面白味のない女と、なぜ付き合う気になったか知ってる?」
 サツキが黙っていると、女はあざ笑い、
「おっぱいよ。おっぱい。あんた、年のわりにデカパイでしょ。達也って、巨乳マニアだから」
「嘘よ。達也はあたしの――」
 言葉がつづかなかった。これ見よがしに、
「何? その後は?」
 と女が訊ねる。
 達也は自分のどこを好いてくれたのだろう。バスケットボール部のエースで、頭も良くて、かっこも良い。女の子たちのあこがれの的だった達也のほうから声をかけてきた。
 自慢ではないけれど、サツキももてるほうだ。小学校時代から告白、ラブレターの途切れたことはない。しかし一切、無視した。嘘偽りでなく、男に興味がなかったのだ。しかし達也はちがった。
 すべてをそなえた理想の男性に見えた。そうか、自分がそれまで男の子たちを一切無視していたのは、達也と会うためだったんだ。と信じたほどである。
 達也に求められたことはある。自分もそうなってもいいと思っていた。けれども、いったんそうなると、達也しか見えなくなりそうで恐かった。だから今日まで我慢し、そしてついに結ばれた。
 大学合格しあこがれの人とついに結ばれたのだ。最高の一日だったはずなのに、最後にこんなことになるなんて――。
「ちょっと、聞いてるの。あんたの魅力はその大きなおっぱいだけなのよ」
「ちがう。そんなんじゃない」
「それなら、思いだしてごらんなさいよ。今日、××ホテルのベッドで、達也がどれだけあなたのおっぱいばかり愛撫したか」
 相手はホテルの名前まで知っている。そして、どんな行為を行ったかまで知っている。
「警察に通報するわ」
「警察? 何を?」
「盗撮してたんでしょ」
「ふん、ばかばかしい。そんなことするわけないでしょ」
「それならなぜ、そんなことまで知ってるのよ。盗撮してなければ、知ってるわけないでしょ」
 叫ぶうちに、サツキはピンと来た。盗撮だけでなく、サツキ自身の携帯か、それとも達也のものかはわからないけれど、携帯の番号を盗み見て、そして嫌がらせの電話をしているのだ。大学を受かったことも、盗撮といっしょに会話を盗聴していたのだ。
「××ホテルといえば一流よ。そこでこんなことが行われたなんて、重大な問題でしょ。警察に通報すれば、すぐにあなたなんか探し当てられる」
「じゃあ、すれば? いいわよ。全部証言してあげる。あなたが大きなおっぱいを吸われて、乳首をピンと立たせたり、のけ反っていたことも、ぜーんぶ……」
「やめて!」
 両手の耳を押さえた。携帯を持っていたため、女の笑い声が聞こえ、あわてて切って、放り出す。
「やめて。もうやめてやめてええ」
 涙がぽろぽろと流れた。ティッシュで拭く気にもなれず、両手で耳を押さえたまま首を横に振った。弾みで胸が揺れ、女の卑猥な言葉とともに、達也の感触がよみがえり、全身を凍りつかせる。
「サツキ? サツキちゃん?」
 扉の外から母親の声がした。ベッドの上から飛び跳ねて、扉を開け、母親に抱きつきたかった。しかしできなかった。自分はもう子供ではない……。
「どうかしたの?」
 母親が言った。
「ううん、何でもない。ちょっと……。もうだいじょうぶ」
「でも……」
「ごめんね。いろいろあって、興奮したみたい。もう平気だから」
「わかったわ。温かくして寝るのよ」
 母親が寝室へ戻っていくのが、気配でわかった。
「母さん……」
 つぶやいたとき、またしても携帯が鳴った。見ると、またあの番号からだ。
 サイフォンのコーヒーのようにこみあげる苛立ちや不安や恐怖をすべて持ちあげ、サイフォンごと叩き割るように、サツキは携帯を手にした。
 このままでは馬鹿にされるだけだ。毅然とした態度に出よう。すぐに通報すると宣言して電話を切り、その後、すぐに一一〇番してやる。
「つけあがらせて、たまるもんですか」
 通話状態にした。ひと息吸ってから、きっぱりと言おうとしたとき、
「ごめん、こんな時間に」
 携帯から聞こえた声を耳にした途端、サツキの張りつめた神経の糸が一気にゆるんだ。
「達也……どうして……?」
「さっき、電話くれた?」
「ええ、でも……」
「ごめん。寝てたんだ。でも今、ちょっと、あって……起きた」
 声を聞きながらも、ディスプレイを確認する。あの番号からにまちがいない。
「今日は、ほんとうにおめでとう。もしよかったら、明日。もう今日だけど、またいっしょに……」
「ねえ。どうして?」
 サツキは達也の言葉を中断させ、
「どうして、この番号なの?」
「この番号って?」
「今、達也が電話している携帯、誰の?」
「誰のって、ぼくのに決まってるじゃないか」
「達也のって……」
「あ、ちょっと待って」
 数秒後、達也は、
「ごめん、これ。おふくろのだった。おふくろのヤツ、真似してぼくと同じ携帯つかってんだ。ぼくがちょっとシャワーを浴びてる間に、ぼくの部屋に置き忘れたらしい。まったくしょうがないな」
 照れたように笑う達也の言葉を聞きながら、半ば無意識のうちに、サツキは口走っていた。
「達也の部屋で、何してたの?」
「何って……」
 言葉に詰まった達也の向こうから、わざとらしく女の声が聞こえてくる。
「達也さん、ママ眠れないの。もう一回、ママを慰めて――!」

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』