「夜道で」飯野文彦

(PDFバージョン:yomitide_iinofumihiko
 夜道を歩いていると、子どもが泣いていた。
 私は子どもから四、五メートル離れたところで足を止めた。しばらくじっとしていた。子どもは泣きやまない。
 声を限りに大泣きしているわけではない。うずくまって、頭を深く垂れ、顔を両手でおおっている。小さな肩が震えている。しくしくと小さく喉を鳴らして、泣いているのだった。
 幾つくらいだろう。ずいぶんと小さな身体だった。隠すようにうずくまっているのと、辺りは暗くてぼんやりとしているので、どんな服を着ているのかわからない。
 数十メートル離れた場所に外灯があるのだが、その明かり自体、薄ぼんやりと弱々しく揺れ動き、わずかしか届いていない。そのうえ、子どもがいるのは光が直接届かない奥まった場所である。
 いくら目を懲らしても、それ以上はっきりと見えず、次第に私は焦れた。神経がざわりざわりと不協和音をあげはじめたのだった。
 そのざわめきが、私の気持ちを起こした。私は、どうしてここにいるのだ。いったい全体、ここはどこなのだ。
 子どもから視線を逸らして、辺りを見た。まっすぐに伸びた道だった。幅は三メートル程度か。舗装されている。車一台通り過ぎることはできるだろうけれど、対向車が来たら、とてもとてもかわせない。
 車道の両わきには、無機質なコンクリートの壁が延々とつづいていた。高さは四メートル近くあった。その向こうがどうなっているのか、まったく覗けない。
 外灯は、さっきも言ったように、離れた場所に一本見えるだけだ。どうやらコンクリートの壁におおわれたその道は、なだらかなカーブを描いている様子である。そのために、それ以外の外灯が死角になって見えないのだ、と私は想像した。
 曇っているらしい。空はどす黒く墨を流したようで、月も星も見えない。じっとりと蒸し暑い気候だった。梅雨時か、と思った。その刹那、私は自分に呆れ、苦笑しようとしたが失敗した。ただ顔が歪に強張っただけで、締めつけられた喉から声は出なかった。ここがどこである以前に、今がどんな季節なのかさえ忘れている。
 おそらくどこかで飲んで、アルコールと引き替えに記憶を置き忘れたのだった。したがって何も覚えてなくて、ある意味とうぜんである。もし記憶を取りもどしたかったら、アルコールが抜け出るのを待つしかない。
 それにしても変だ。酩酊もなければ、不快も感じていない。どんな風だと言われれば、気怠さの中でぼんやりまどろんでいる。立っているというよりは、生暖かい夏の、夜の海に、浮き輪にすっぽりと身体を入れて、浮かんでいる。ふわりふわりというより、ぶらりぶらりという感じで、海の中に立っている感じである。
 ああ、わかった。これは夢だ。と、思ったそばから、ちがうとわかっていた。残念ながら夢ではない。夢だったら、何も考えずに、なるがままにすればいい。泣いている子どもを蹴り上げても、引きずり起こして殴りつけてもいい。壁に頭から激突してもいいし、闇雲に夜道を疾走してもいい。何をしても、ノープロブレムである。
 けれどもこれは夢ではない。それらを一つでもしたら、他人か自分を傷つけてしまう。社会的規範に反してしまう。それならどうすれば良い。社会的規範に則れというのなら、やるべき事は見えてくる。子どもに声をかけてやることである。
 ――どうしたの、こんな時間に一人で?
 かける言葉を考えたとたん、勝手に脳裏に答えが浮かんだ。
 ――わからない。
 ――わからないって、どういうこと?
 ――どうしてここにいるのか、わからないんだよ。
 ――困ったな。お父さんか、お母さんは?
 ――知らない。
 ――おいおい、知らないことはないだろう。君の名前は? いくつ?
 ――わからない。
 ――おいおい、君は。
 馬鹿なのか、とまでは、いくら脳内のシミュレーションでも言えない。ところが子どものほうが容赦がない。
 ――それはおじさんのことでしょ。
 ぴしゃりと冷水をぶちまけられた気がした。まさしくその通りだ。私が子どもにぶつけた質問を私自身が受けていたら、まったく同じ答えしかできない。となると、馬鹿なのは子どもではなく私のほうか。
 別に希代の天才とまではいかないだろうが、人並み以下ではないだろう。この歳まで、何とか人並みに自立して生活してきたのだから、人並みか、うまくすればそれ以上のはずだ。
 ――人並みか、それ以上の人が、何も思い出せないって、変じゃないの?
 ――変なもんか。機械じゃないんだから、ど忘れすることは誰にでもある。そもそもこうして、きちんと思考しているじゃないか。これこそ私が人並みの人間である証明になる。人間は考える葦と言われるじゃないか。考えることが人間を人間たらしめている。つまり私は――。
 考えるのをやめた。ついつい額が熱くなっていた。何をむきになっているのだ。落ちつけ。無知な子どもの言葉など、真に受けずにやり過ごす余裕を持て。それが大人だ。私は大人だ。だから、できる。
「そう、私は大人だ」
 喉でつぶやくことに成功した。おかげでガムを噛むようにねちっと思考が動いた。子どもが泣いていたら、心配してやるのが、大人だ。とりあえず、私のことは良い。子どもの心配をしてやることが先である。
「君」
 声を外に出した。一度目は変化なかったけれど、二度、三度とくりかえすと私の声も大きくなったらしい。
 子どもが泣くのをやめた。といっても声と、肩の揺れが止まっただけで、顔を上げようとしない。じっとうつむいたままだった。
「おじさんの声が聞こえるね?」
 同じように、二度、三度訊ねると、うつむいたままだったけれども、子どもの首が縦に揺れる。
「どうして、泣いてるんだい?」
 くりかえし訊ねても、子どもは答えなかった。むしろ、身体が小さく固まっていく。
「困ったな。迷子になったから泣いているのかい?」
 少年の首が横に振れるのがわかった。
「それなら、怪我でもしたのかい?」
 またしても横に揺れる。
「それなら、何か恐い目にでもあったんだな」
 小さな肩がぴくっと震え、首が縦に動いた。
「どんな恐い目にあったんだい?」
 子どもの動きが止まった。
「安心していいよ。おじさんは悪い人じゃない。おじさんがいるから、もう恐いことなんてないんだから」
 子どもの首がはげしく横に動いた。
「どうしたんだい? それじゃまるでおじさんが恐いみたいじゃないか」
 私が苦笑まじりに言うと、少年の首は大きく縦に動いた。いくら相手が子どもとはいえ、カチンと来た。心配してやっているのに、大人の私をからかうつもりか。
「おじさんのどこが恐いんだい?」
 辛抱強く、二度、三度、四度訊ねたが、子どもは答えない。
「言いなさい。言わないと、おじさんだって、怒るよ」
 怒鳴りつけた。さすがに子どもは、うずくまったまま身体全体をブルルッと震わせた。
 まだまだ幼い子どもなのだ。大人に怒鳴られたら恐い。しかし私がそうする前から、子どもは恐がって泣いていたのである。
 矛盾する。訳がわからない。子どもだから、理屈でなく、ただ見知らぬ私が歩いてくるのを見て、知らない人だから恐くて泣いているのか。
「だって、おじさんは……」
 気がついたら子どもがつぶやいていた。
「え、おじさんが、どうかしたのかい?」
「おじさんは……」
 喉をしゃくりいちだんと泣き出した。泣く子相手に、理論も会話も成立しない。
「ごめん、謝るよ。だから顔を上げてごらん」
「いやだ」
「そんなこと言わないで」
 私は努めて甘ったるい声で言い、子どもに近づいた。すぐ近くまで行って、同じようにしゃがみこみ、同じ目線になろうと思ったためだ。ところが、私が近づくのを感じ取ったらしい子どもが叫んだのだった。
「来ないで」
「何だと」
「こっちへ来ないで」
「いい加減になさい。なぜ、おじさんがそんなに恐いんだ。おじさんが何をした? 何もしてないじゃないか?」
「だって……」
「だって、何だ?」
「おじさん、顔がないから」
「顔が?」
 少年の後頭部が縦に動く。私はわけがわからず、さらに訊ねた。
「どういうことか、しっかり話なさい。話さないと、無理やり起こして、話させるぞ」
「やめて。ぼくは父さんのところにお弁当を届けに来て、帰ろうとしただけだ。そうしたら、顔のないおじさんが向こうから歩いてきたから、恐くて、恐くて……」
「顔のないおじさんって……」
 ばかばかしいと思いながらも、私は神経がささくれ立ち、じっとしていられず、両手で自分の顔にふれた。目がなかった。鼻がなかった。口もなかったのである。
「こ、これは――」
 のっぺらぼうだ。と、すべてがわかった。目の前にうずくまっているのは、幼い頃の私だ。
 私の父は、この壁の向こうにある郵便局の本局に勤めていた。今日は夜勤で、いつも出かける時に弁当を持っていくのだが、母親が手間取り間に合わなかった。だから私が父のところに届けに行った。
 ――悪いな、妖彦。恐くなかったか?
 ――平気だよ。
 ――気をつけて帰るんだよ。
 ――はい。
 父に見送られて裏門から出た。正直、恐かった。郵便局の裏門から大通りに出るまで、しばらくは壁に囲まれた道を歩かなければならない。昼間ならまだしも、人通りのとだえた夜はそうでなくても不気味で、神経が過敏になっていた。
 とにかく大通りまで出ようと、かけだそうとしたとき、前から人が歩いてきた。大人の人だった。外灯に照らされたその人の顔には、何もなかったのである。
「ということは」
 今の私は、あのとき出会ったのっぺらぼうということになる。さて困った。どういう加減か知らないけれど、成人した私は記憶だけでなく目や鼻や口を失ってしまった。これでは生きていけない。記憶はおいおいもどるとしても、顔がなければ、一刻も生きていくことはできない。
 どうしよう、どうすればいい。
 足元にぽっかり穴が空き、奈落に落ちていく恐怖に襲われた。ぶるぶるっと全身を揺すって、足掻こうとした。するとあっさり、解決が見えた。
 私に顔がなくてとうぜんだ。私は一人しかいない。顔も一つしかない。その一つしかない顔を、幼い子どもだった私がもっているのだから、私の分はなくて、とうぜんである。それなら――。
「返せ」
 私は子どもに近づき、腕をつかんだ。
「痛い。放して」
「だめだ。顔を返せ」
 もう一方の手で、子どもの髪をつかみ、ぐいと引き上げた。私の顔がそこにあった。
「やっぱり、私の顔を盗んだな」
「盗んでないよ。これはぼくの顔だ」
 返す言葉がなかった。子供の言う通りだ。顔をなくしたのは私のほうで、子どものせいじゃない。
 どういう加減か、時空が乱れて私は、私が子どもだったあの晩に迷い込んでしまった。そのために顔を失った。元の世界に帰るには、子どもから顔を譲り受けるしかない。
「顔をくれ。頼む」
「いやだよ」
「いいんだ。おまえはもう大人になったんだ。だから、もう顔がなくても良い。ほんとうに顔が必要なのは、大人になった私のほうだ」
 正論だが、子どもにわかるわけがない。泣きながら厭がるばかりだ。こうなったら大人の特権を使うまでだ。
「黙って、寄こせ」
 私は力ずくで、子どもの顔から目を鼻を口を奪い取り、自分の顔に押しつけた。
「返して。ぼくの顔を」
 くぐもった声で叫ぶ子どもを、蹴飛ばし、私はその場から走り去った。無我夢中で走った。ひたすらひたすら走ったのである。
 息が上がり、気分が悪くなった。たまらず、近くにあった電柱にもたれ、吐いた。
 会社の帰り、同期の男と居酒屋へくりだした。私も相手も荒れた。別の同期のヤツが、私たちを差し置いて、部長に昇進したからだ。
「何で、あいつが」
「まったくだ」
 二軒、三軒と飲み、それでも終電間近の電車に間に合ったらしい。
 自宅からほど近い児童公園の脇である。電車を降りたものの、酔ってこれからまだ電車に乗るものと勘違いして、訳もわからず走っていたらしい。その挙げ句が、この始末だ。
「ったく。これもあいつのせいだ。あんな愚図が、何が部長だ。人の顔をつぶしやがって」
 吐き捨てながら、歩き出したとき、どこからか子どもの泣き声がした。
 見ると児童公園の入り口のところに、子どもがうずくまっている。泣き声はその子どものものだった。
 厭な気がした。無視して帰ろうとしたのだったが、脇を過ぎようとしたとき、
「待て」
 と子どもが怒鳴った。
 反射的に立ち止まり、そちらを見た。子どもは首をがっくり垂れたまま、立ち上がり、
「顔をつぶしたのは、おまえだ」
 と叫ぶなり、ネズミを追う猫のごとき勢いで、私に飛びつき、私の顔を――。(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』