「天使にいたる病」片理誠

(PDFバージョン:tennsiniitaruyamai_hennrimakoto
 後背上部翼状変形症候群、というのが医師の告げた病名だった。それも典型的なね、のおまけ付き。
 ほら、ご覧なさい、とレントゲン写真の一部を指さす。
「ここ。まだ小さいですが骨格が形成されつつある。こりゃ、生えますね」
 そんな、と俺。合成革張りのスツールから思わず腰が浮き上がる。
「ただのデキモノか何かじゃないんですか。だって、こぶって言ったってまだ小さいし、動かせるわけでもないし」
 背中に手を回す。左右の肩甲骨の上の辺り。小さな丸い盛り上がりがある。感触は出来物のようだが、痛くはない。
「育ちますよ、それは。いずれ皮を突き破って出てきます」
「おえッ。ぼ、僕はスプラッターとか、そういうのが駄目なんです」
 近所の診療所の主は、はっはっは、と豊かな腹を揺らした。
「そりゃ血が苦手では医師は務まらないでしょうけど、あいにく僕はただの大学生で」
 俺は唇を尖らせる。
 やっと相手は笑い終えた。
「いや、失礼。ですがそう思い詰めることもありませんよ。近頃じゃそう珍しい病気ではない。最近は見せびらかして歩く人も多いと聞きますよ」
「僕はご免です! みっともない! こんなの、人面瘡みたいなもんじゃないですか」
「そんな不気味なもんじゃありませんよ。私の娘なんか、街でそういう人を見かけると“格好良い”なんて言ってます」
 他人事だと思って、と思って睨んでいると医者はおどけた様子で肩をすくめて見せた。
「もし気に入らなければ手術で除去することもできますので、あまりそう思い詰めずに。保険がきかないんでちょっとお高いですがね」
「手術、ですか」
「大丈夫。背中ですから、血は見ずにすみますよ」
「でも本当に何ともないんですか。だって神経まで切断してしまうわけでしょう?」
「大して難しい手術じゃありません。受ける人も多いんですよ、特に若い女性なんかは。やはり外聞が気になるようですな。まぁ一月ほど入院しなくてはなりませんので、夏休みなどのまとまった時間を利用することが多いみたいですが」
「一ヵ月も、ですか」
「手術自体は簡単なんですが、かなり深く切らなくてはなりませんので、どうしてもそのくらいの期間が必要になるんです」
 微笑みながらカルテに万年筆を軽快に走らせている。
「いずれにせよ、あなたの場合はもう少し様子を見ることにしましょう。もし痛むようであれば来てください。切開しますんで。大丈夫、こっちは保険の適用範囲ですから」

 春の日差しが降り注ぐオープンテラスでフローズン・アイス・ココアをストローで「ちぅうう」と吸いながら、アキが小首を傾げた。
「こーはいじょーぶ……何だっけ?」
「天使病だよ、早い話が天使病! くそう!」
 苦々しげにブレンド・コーヒーをすする。この店で一番安いメニューだが、それでも七百二十円もするのだ、これ。
 くり色のショートカットが揺れる。
「なーんで? どーして怒ってるわけ? 格好良いじゃない。昔だったら聖人に祭り上げられてたよ、きっと」
 俺は背中を叩く。
「格好良くなんかあるもんか。こんなの邪魔なだけだよ。だって背中に翼なんか生えたって飛べるようになるわけでも奇跡を起こせるようになるわけでもないんだよ? せいぜい団扇か日傘の代わりになるくらいだ。かさばるったらないってのに」
 後背上部翼状変形症候群、いわゆる「天使病」。簡単に言うと、「背中から翼が生えてくる病気」だ。原因はまだ分かっていない。伝染性はないらしいのだが、それもまだ完全に証明されたわけではない。
「医者は手術で取れるって言ってたけど、ネットで調べてみたら、これが馬鹿高いんだ。保険が適用されないからさ、全額負担なんだよ。またバイト代が吹っ飛んじゃう。馬鹿みたい」
 今でも既にコンビニとスーパーマーケットの二つを掛け持ちしているのだ。これ以上ということになったら、大学に行く暇がなくなってしまう。大学に未練などはないが、アキと会う機会が減るのは痛い。
 彼女の存在こそが俺にとっては全てだった。才能もなく、夢もない。こんなつまんない俺が毎日を生き甲斐を持って楽しく過ごせるのも、アキがいてくれるからだ。彼女には世界的なダンサーになるという夢がある。才能もある。そして俺はそんなアキを精一杯応援するのだ。それで十分充実した人生を送れるのだから、俺も幸せだ。
 アキの夢には金がかかる。半年前にもニューヨークへの留学費をカンパしたし、月々のレッスン料やらプロダクションへの登録料やらですっからかんの彼女のためにデート代は全額受け持つのはもちろん、服代もほとんどは俺が払っている。彼女にはいつも綺麗でいてもらいたい。オーディションにみすぼらしい恰好で出かけていくアキなんて見たくないのだ。
 俺のどうでもいい手術のために使う金なんて、本当ならびた一文もないのだ。だが俺がみっともない恰好をすれば、一緒にいる彼女にまで迷惑がかかってしまう。
 取る必要なんてないよ、と彼女は笑う。
「最近じゃダミーの翼をくっつけている人もいるらしいよ」
「ニュースで見た。赤だの青だのの派手な翼。でもあれもコスプレだからだよね。いざとなったら脱げるからさ。でもこっちはそうはいかない」
 白いテーブルに肘を突き、両手を組み合わせる。
「まったく、何だってこんなことが……」
 天使病の原因はまったくの謎だ。そもそも生物学的な進化の観点から見たら、こんなことはあり得ないのだという。
 だいたい翼が生えた程度では人は飛べない。人一人を浮かそうと思ったらとてつもない量の筋肉が必要になるのだから。
 アキも小難しそうに眉をひそめている。
「色んな学者が色んなことを言っているよねー。人類のアーキタイプに霊的な変化が起きたんじゃないかとか、救世主を求める人々の願望がそのように宇宙を観測し始めたのだとか、神学者の中には善と悪、天使と悪魔の最終戦争、ハルマゲドンが近いんじゃないかって言う人もいるけど」
「春巻丼なら好きなんだけどな」
 俺は笑いかける。
「天使と悪魔なんて、俺には関係ないよ」
「洋一【よういち】はなんでそんなに自分の翼を嫌がるの?」
 コーヒーカップの中を覗き込む。
「だって白いとは限らないだろ。灰色だったりしたら嫌じゃないか、なんか、自分の心が汚れているみたいで」
「別に翼の色がその人の心の色だなんて、証明されたわけじゃないわ。そもそもそんなの、誰にも証明しようがないじゃない」
「でも、みんなそう言っているよ。翼が白くないのは心が汚れているからだって」
「もしどうしても気に入らないのなら、脱色して染めちゃえばいいのよ。それこそ赤や青に」
 ため息が漏れた。
「……天使の翼が生えるとは限らない。噂で聞いたんだけど、中にはコウモリの、つまり悪魔の翼が生える人もいるんだとか」
 アキは何も言わなかった。黙って自分のアイス・ココアを「ズズズ……ゴゴゴ」と吸っている。空になったようだ。
 俺は、ふ、と微笑む。
「そんなのが生えたら隠しようがない。自分の魂は穢れてござい、と言って回るようなものだ。嫌だよ、そんなの。近所中から白い目で見られるんだぜ。家族だって何と言われるか。それに……そんな男と一緒にいたら、アキにまで迷惑がかかっちゃう」
 数秒の沈黙の後、アキは笑ってくれた。
「でも最悪、手術できるんだから。今から気に病んでもしかたがないよ」
「そりゃそうだけどさ」
 自分の、ボロボロにすり切れたスニーカーを見つめる。
「アキの夢も応援したいしさ」
「……ありがと、洋一」

 支払いをすませて大学へと向かう。日差しがかなり強くなってきた。もうすぐ夏だ。
 眩い光の中で、アキは天使のように輝いていた。後ろ手を組んで、数歩前をゆく。
「次の留学は明後日だっけ?」
「うん。洋一がカンパしてくれたおかげで、どうにか行けそうだよ。いつもありがとね、洋一」
 俺の呼びかけに彼女が振り返る。
 いいんだよ、そんなの、と俺は手を振った。
「こっちは好きこのんで応援してんだからさ。それより、今度はシドニーか。競争も厳しいんだろ?」
「たぶんね」
「またしばらく会えなくなるなぁ」
「すぐだよ……一ヵ月なんて」
 彼女は遠くを見つめる。
 だがこの時、俺は妙なものに気付いた。
 彼女のミニスカートの裾から何かが出ている。黒くて鞭のように細長く、先端が鏃【やじり】のようになっている。
 変なアクセサリーをつけてるな、と俺はいぶかしむ。俺が買ったものではなかった。
 だが大して気には留めなかった。
 アキだってアクセサリーぐらい、たまには自腹で買うこともあるだろう。あまり趣味が良いとは思えないが、ま、こういうのは本人の自由だ。男が口出しすることじゃない。
 でもなぜだろう。ふと、次に会う時、この尻尾は消えているんじゃないか、という予感がした。
「大丈夫だよ」
 数歩先からアキの声がする。
「洋一の翼は絶対に、必ず、間違いなく、雪のように真っ白だよ。保証する。あたしには分かるんだ」
 俺の方に向き直り、微笑みかけてくれる。天使のような笑顔で。

片理誠プロフィール


片理誠既刊
『Type:STEELY タイプ・スティーリィ (上)』
『Type:STEELY タイプ・スティーリィ (下)』