「縁日」井上剛

(PDFバージョン:ennniti_inouetuyosi
 十歳ぐらいの少女が白い浴衣の右袖をたくし上げる。好奇心をいっぱいに湛えた瞳。『がんばれ』という男の声に励まされて、紙製の網をおずおずと水槽に差し入れる。
「あの子、上手に掬えるかなあ」
 固唾を呑んで見守りながら愛子が尋ねる。私は何も言わず、静かに頷き返す。
 お目当ての金魚が決まったらしく、少女は袂を押さえて、慎重に腕を動かし始めた。
 が、ほどなく少女は口をへの字に曲げる。水槽の中の網は見えないが、どうやら取り逃がしたらしい。『惜しい』と男の声がした。
 水から網を引き上げ、二度目の挑戦。今度は見事に琉金を掬い上げる。
 銀色の器に移す直前、網の上で琉金が踊った。あ、と愛子が小さな叫びを上げる。私は「しっ」とたしなめる。
 少女の獲物は無事、容器に納まった。
『ママ、見て』
 振り仰いで、世界中の幸福を独り占めしたような笑顔を見せる。傍らには母親らしい女が佇んでいて、同じような笑顔で大きく頷く。
 それに力を得たのか、少女は唇をちょっと舌で湿らせて、二匹目を狙う。
 敢えなく網は破れた。
 屋台の店主が琉金を透明な袋に入れた。
 少女は満足げな表情のまま、桃色の紐を左手に提げると、母親の腕にぶら下がるようにして腰を上げた。
「あの金魚……死ぬまで狭い水槽の中だね」
 微笑み合う二人を見て、愛子が寂しげに呟く。「そうだな」と私は曖昧な返事をした。
 テレビ画面の中の縁日の風景。浴衣姿の少女がかつての自分だと愛子は気づいていない。
 縁日からの帰り道、私の目の前で輪禍に遭遇した妻と娘。妻が亡くなり、娘の愛子が脊髄と脳の損傷で全身不随と記憶障害を蒙ったあの事故から、既に五年の歳月が流れた。
 狭い病室の中で、今年もビデオに残った金魚掬いの思い出だけが甦る。

井上剛プロフィール


井上剛既刊
『死なないで』