(PDFバージョン:koyuki_iinofumihiko)
小雪がひとりになって、二十年近い歳月が過ぎた。幸い、すべての段取りを夫が済ませてから逝ったため、生きていく上で不自由はない。これから安心して三十年、否、四十年は生きられる。何か不都合が生じたら、月に一度様子をうかがいに来る弁護士に告げれば、解決できる。
見晴らしの良い個室を与えられていた。三度食事を与えられ、入浴も週に三度できる。もっとも食事はきちんと取っていたけれど、入浴のほうは週に一度入れば良いほうだ。というのも三ヶ月前までの話である。三ヶ月前、新たに小雪の担当になった看護師は、若い生意気な女だった。
担当になって三日と経たないうちに、検温をしなかった小雪にむかって、
「あなただけの面倒を見ているんじゃないですからね」
と文句を言った。それ以来、入浴を止めただけでなく、糞尿の始末も自分ではしていない。
「自分でできるんだから、自分でしたほうが自分のためにもなる」
自分と言う言葉を何度も言いながら、医師が説明したとき、小雪は言った。
「あの看護師さんはぜったいにわたしの担当から外さないでくださいね」
面会に来た弁護士にも、同じことをお願いした。
「そろそろお風呂に入ったほうが良いですよ」
わずかな間にげっそりと痩せた看護師が遠慮がちに言うこともあったが、笑顔で無視した。
医師が新たな看護師を誘って、小雪の病室にやって来たのは、昨日のことである。
「××さんは退職することになりました。それなら仕方がないでしょう」
「そうね」
小雪は笑った。おかしかったからだ。あの看護師は、これで逃れられると思っている。ところが逆だ。いよいよ、堕とせる。面倒を見てくれている間なら仕方がないけれども、それをやめるというのなら、遠慮はいらない。
「小雪さん、よろしくお願いします」
新しく来た看護師は、初老の女だった。たっぷり言い含められてきたのだろう。心の中ではいざしらず、表面上はすこぶる丁重に節してくれる。
それで充分だ。小雪は深々と頭を下げ、そして言った。
「お風呂に入っていいかしら。いえ、だいじょうぶ、ひとりで全部できますから。それから××さん、もう出て行ったんですか?」
「いえ、まだ……」
医師は顔をしかめて言った。
「それならお礼を言いたいんです。ちょっと部屋に来てもらうだけで良いんですけど」
「しかし、本人が何というか」
「わかりました。××先生にお願いするように……」
小雪が弁護士の名前を持ち出すと、医師はあわてて言った。
「わかりました。後で来るように言います」
「それなら、きれいになっておかなくちゃ」
入浴を済ませて病室に戻ると、シーツや布団カバーが新しくなっていた。布団も変えたらしい。ふわふわと寝心地が良い。
ぼんやり天井に浮かぶ般若の面を見ていると、退職するという看護師が来た。新しい看護師といっしょだった。
「すみません。ジュースが飲みたいんですけれど、買ってきてくれます。おつりはいりませんから」
一万円札をさしだし、新しい看護師にお願いした。
二人きりになると、若い看護師は何も言わずうつむいている。三ヶ月前に出会った頃の肌の張りもなければ、勝ち気さも見られない。わずかな間に何歳も歳を取り、精気を抜かれたかのようだった。
「でも、これからなのよ」
小雪はベッドの上で、身体を起こしながら言った。看護師は顔を上げて、小雪を見た。目があったとたん、小雪は意識を飛ばした。眼球から矢を放つ要領である。
はじめて出会う者に放っても、まず跳ね返されてしまう。けれども三ヶ月に渡って、馴染んできた看護師には、しっかりと突き刺さった。ほんとうは一ヶ月ほど前に放っても、充分に刺さると確信していたけれど、担当の看護師が腑抜けになってしまっては困るので、泳がせていたのである。
矢を受けた看護師は、死人のごとき硬直した顔で、小雪を見つめる。小雪は笑顔で肯いた。
「ええ、そう。でも、すべてはあなたがわたしに生意気な態度を取ったからなのよ。わかっているわね?」
看護師の瞳からぽろりと涙がこぼれた。
「あらあら、もう遅いわ。さあいらっしゃい。そして……」
小雪が看護師の身体に向かって、さようならと言ったとき、新しい看護師がジュースを手に戻ってきた。
ジュースだけでなく釣りを小雪に返した。
「いいのよ。とっておいて」
「いいえ。とんでもありません」
「お願い。わたしの気持ちだから」
「それなら……小雪さん、お花はお好きですか?」
「ええ」
「それなら、このお金で、毎日、お花を買ってきますわ。それでいいかしら?」
小雪は笑顔で、ありがとうと礼を言った。今後しばらくは快適に過ごせそうだ。少なくとも表面上は……。
新しい看護師と看護師だった抜け殻が病室を出て行った。
「ここは……」
おびえた声がした。小雪はベッドに仰向けになって天井を見た。般若の面の横に、新たに看護師だった女の顔が浮かんでいる。
「どうして……」
「ほかの人のように、すぐにわたしの中へとも思ったけれど、あなた、糞生意気だったでしょ。だからしばらく晒し者にするの。もっとも誰も気づかないでしょうけど」
「何をしたの?」
「あなたが悪いのよ。わたしに生意気な態度を見せるから」
「ごまかさないで。なぜこんなことができるのかって訊いているんでしょ」
声を荒らげた。小雪は般若を見た。般若が女に襲いかかり、女を黙らせたとき、開いた窓越しに悲鳴が聞こえてきた。
「××さんが、××さんが」
小雪はベッドから起き上がり、窓辺に立った。建物の前のコンクリートに、遺体があった。白目を剥き、手足を無様に曲げて死んでいる。即死。否、すでに死んでおり、亡骸が建物から落下したに過ぎない。
ベッドに戻った小雪は、生意気な女の粛正は般若に任せ、静かに目を閉じた。心の中に作られた彼女専用のエレベーターに乗り込み、地下四階のボタンを押した。
最下階のそこには、コンクリートで覆われた牢獄がある。冷たく薄暗く、じめじめした場所だ。エレベーターの扉が開くと、静まりかえっていた室内がにわかにざわめいた。
「小雪様。どうかお許しを」
「小雪様。なにとぞご慈悲を」
手首足首を鎖で縛られ、首輪でつながれた輩どもが哀れな声を上げた。
彼、彼女らは知っているのだ。小雪がここを訪ねてくるとき、新たな囚人がやってくる。けれどもすでにこの地下牢獄は満員だ。新しい者を入れる代わりに、誰かを解放しなければならない。
「ああ、心の底から悔いています。どうか、どうか、お許しください」
通っていた小学校の三年四年時の担任だった男だ。小雪が自分の素性を知り、はじめてこの牢獄に閉じ込めた人物である。それ以後、ここに来てここから出て行った者も多いというのに、男は依然としてここにいる。
そろそろ、いいかしら。と思った刹那、男から受けた仕打ちが脳裏によみがえる。
――××、臭いぞ。風呂に入ってるのか。まったく、貧乏人の娘は頭も顔も悪いが、何より匂いでわかる。
駆け寄りざま、男に足蹴りを喰らわせた。
「あれが、教師のいう言葉? それもクラスメート前で」
「もうしわけありませんでした。けれども四十年近くも懺悔をつづけております。もうそろそろお許ししていただいても……」
その男をやり過ごし、歩いた。牢獄内にはずらりと罪人が並んでいる。皆、心底悔い改めて、許しを請うてくる。小雪はやり過ごし、やがていちばん左奥にいる男の前で足を止めた。ほかの連中と違い、唯一懺悔もしなければ許しを請いもしない。
暗闇に膝を抱えて坐り、無言で小雪を見上げている。
「あなた、元気? また痩せたんじゃない?」
小雪が声をかけても、押し黙ったままだ。
「どうしたの。まだご機嫌斜め?」
「黙れ。魔女」
男の言葉が牢獄に響いた。一瞬にして辺りが静まりかえった。小雪は近くに落ちていた鉄棒を拾い上げ、男を滅多打ちにした。男はうめき声を上げるものの、弱音を吐くこともなく項垂れ、動かなくなった。
「あなたにするわ」
鉄棒を投げ捨て、小雪は言った。辺りの囚人から、落胆の声があがった。
「そんな――」
「わたしほど懺悔しているのもはいません。どうか、このわたしを……」
見ると、それは中学の同級生だった。
――小雪って、臭い。獣の臭いがする。
小雪はその女に近づき訊ねた。
「まだ、わたしは臭うかしら?」
「とんでもありません。私のまったくの勘違いでした」
「あら、そんなことないの。母さんも同じ匂いがしてたから」
「そんな、とんでもありません……」
涙を流して懺悔する女をやり過ごし、打擲した男のところへ戻った。男の頭をつかんで身体を引き起こす。股間に手を伸ばし、陰茎を扱いた。
「決心がついたわ。わたしだっていつまでも若くはないんだから」
羽織ってきたガウンを脱ぎ捨てる。下には何も身につけていない。尻を突き出し、陰茎を自らの股間に埋めた。
「痛いけど、がまんするから。あなたも協力して」
唇を噛みしめながらも、小雪は尻を前後に揺すった。
「ふっ。不感症のくせに」
男がつぶやいた。小雪は股間に力を込めた。男の目蓋が極限まで開き、開いた唇の両端が裂けて血が流れた。全身を感電したかのごとく震わせ、悲痛な慟哭が響めく。
万力のごとく締めつけ、陰茎の先からどろりと液体が絞り出されたのを感じ、小雪は男から離れた。振り返りもせずガウンを身にまといながら、
「解放」
と言い放った。落胆の声が渦を巻く中、かつて夫だった男が牢獄から消えた。深海のごとき重苦しさをやり過ごし、小雪はエレベーターに乗った。
目を開けると、室内に新しい看護師がいた。
「ごめんなさい。起こしちゃいました」
「いいえ。平気よ」
「検温してもいいですか?」
「もちろん」
小雪は笑顔で体温計を受け取り、脇の下に入れた。
「あら、すごい染み。雨漏りでしょうか」
小雪の視線に引きずられるように天井を見上げた看護師が言った。
「どうかしら……」
「すぐに言って、直してもらいますね」
「ううん、いいの。このままで」
「でも、不気味じゃありません」
「そうかしら?」
「そうですよ。ほら、あの染みなんて、なんだか般若のお面みたい。それに……」
小雪は看護師の言葉を待ったが、それっきり黙ってしまった。
「それに?」
小雪はうながした。
「いえ、すみません。私、ぼんやりしてて」
「言って。言いなさい」
言わないと、あなたも――。
「××さんに似てるなんて、つい。不謹慎ですね。あんなことがあったばかりなのに」
ピピピと体温計が鳴った。小雪は笑顔で差し出した。
「ごめんなさいね。へんなことを言ったりして」
看護師は頭を下げた。
「ううん。ありがとう。あなたみたいな人に来てほしかったの。天井のあれも、あのままで良いの」
もうすぐ、一つは消えるから。残ったほうは……あれは消してもだめ。またすぐに浮かんでくる。説明してもわかってもらえないでしょうけれど、水面を覗けば、顔が映るでしょ。その映った顔だけ消すなんて、できないじゃない。それと同じで……。
「きゃっ」
看護師が悲鳴をあげていた。
「どうかしたの?」
「いいえ、何でもありません」
看護師はあわててうつむき、体温計をしまった。
「何かあったら、遠慮なく呼んでくださいね」
声も、表情もこわばっている。天井の染みを見たときと同じ顔つきだとわかり、小雪は少々残念な気がした。
「せっかく、いい人が来てくれたと思ったのに。子供のこともあるから……」
小雪は腹部に手を当てた。早くも固くなってせり上がってきている。(了)
飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』