(PDFバージョン:happi-fyu-nituite_hennrimakoto)
しばらく前に新聞のコラムで「ハッピー・フュー」という言葉を目にしました。ハッピー・フューとは、「少数の幸福な人々」という意味。
『本が売れなくなったと言われて久しいが、元々本というのは「ハッピー・フュー」のためのものなのだから、これが本来の姿なのである』、というのがそのコラムの主張だったように記憶しています。
確かに一理はあります。印刷技術が確立する以前、書物というのはほんの一部の知識階級のためのものでした。当時は一文字一文字、本から本へ、手作業で書き写していたのです。
印刷技術が誕生した後も、何しろ文字が読めなければ中身が分からないのですから、識字率の低い時代、本はやはり普通の庶民からは縁遠い存在だったわけです。当時、本は贅沢品で、高価でもあったことでしょう。それは間違いなく「ハッピー・フュー」のためのものでした。「分かる人、理解できる人だけが楽しめばよい」という存在だった。
ほとんどの人が読み書きができ、書店に行けば簡単に本を購入することができるようになった現在、それでも本は再び「ハッピー・フュー」のものになろうとしている、というのは何とも皮肉な話のように思えます。昔に比べれば格段に安価にもなったでしょうに。内容だって日々進化を遂げていて、ずっと面白くなっているはずです。なのになぜ、本は読まれなくなってしまったのでしょうか?
技術革新は出版の分野だけに起こったわけではありませんでした。TVやラジオ、映画、インターネット、コンピュータゲーム、携帯電話、等々。今や世に娯楽は溢れんばかり。もはや本だけが夢の世界だった時代は終りました。
今の人は読もうと思えばいつでも本を読める環境にあります。でも読まない。読めないのではなく、読まない。ゲームで遊んだり、友人や恋人と携帯電話で話したり、メールをしあったりする方が楽しい、ということなのでしょう。TVアニメや映画なら見ているだけで勝手にストーリーが入ってくるというのに、何が悲しゅうて一文字ずつ自力で読まなきゃならない本なんぞに手を出さなくてはならないのか、と彼らは思ってしまっているのです。
本の持つ本当の魅力を知っているごく一部の人々、「ハッピー・フュー」。居心地の良かったかつての居場所に今、書籍は回帰しようとしているのかもしれません。
読みたくない、と言っている人に何も無理してまで読んでもらうことなどないのではないか。携帯電話でのやりとりや、TVや映画鑑賞、ゲームなどが好きな人は、そちらを楽しめばよい。本は、読書の楽しみを知っているほんの一部のエリート層、知識階級、「ハッピー・フュー」のためだけに存続し続ければそれでよいのだ、というのは確かに一つの意見ではあります。
でも本当にそれでいいのでしょうか。いや、この際、他の文学ジャンルについては言いますまい。SFはそれでいいのか、と私は問いたい。なぜなら私個人は、そうではないはずだ、と思っているからです。
確かに個々の作品ごとの戦略というのは、もちろんあって然るべきで、ヘビーなマニア向けのSFも存在しなくてはならないでしょう。SFの品揃えはできうる限り豊富であるべきです。
しかしながら、ここで考えたいのはSFの全体について。本当にごく一部のマニア向けに細々と書くようになってしまって良いのでしょうか?
“「ハッピー・フュー」の元に帰った”と言えば聞こえも良いですが、早い話がこれは“その他の娯楽に負けた”ということです。少数の幸福な人々の元に「帰った」のではなく、「追いやられた」ということです。負けた? SFが? その他の娯楽に? およそこの世の中にそんなふざけた話があっても良いものでしょうか? 否! 良いはずがありません。栄光あるSFがかかる屈辱に甘んじていていいはずがないのです。
現に、映画やアニメ、ゲームの世界ではSFは花盛り! ヒット作のほとんどは広義のSFじゃないですか。SFやファンタジー、オカルトなどの要素が全く入っていない作品なんて、どれだけあります? 探そうと思ったって見つけだすのに苦労するほどです。これらのジャンルではSFは我が世の春を謳歌している。なのになぜ、本の世界でだけは「これが本来の姿なのだ」などとうそぶいていなくてはならないんですか? 表現方法が違うだけで、内包する要素は全て共通じゃないですか。同じ血が通っているのです。SFは決して否定などされていません。我々は世間から沢山のヒントをもらっているはずなんです。それに気づき、活かすことさえできれば、道はきっと開かれる。
言うまでもなく今は不況で、苦しいのはSFだけでもなければ出版業界だけでもありません。ですが我々に期待されているのは縮小再生産ではないはず。道は険しいでしょうが、やり方しだいではまだまだいくらだってチャンスは生まれると思います。
面白い娯楽は増えました。けれど人間というのは貪欲なもので、もっと面白いものはないか、もっと楽しいことはないか、と常に飢えています。その欲望に果てなどない。小説でなければ、SFでなければ、できないことは沢山あります。本にはシンプルな強みがあるのです。
文字を使えば様々なイメージを喚起することができます。百人の読者がいたら百通りのビジョンがあるはずで、映像と違って文字はその邪魔をしません。しかもそこではビジュアルやサウンドだけでなく、温度や質感、味や匂い、いいやそれどころか心の移ろいや人情の機微といった人間の内面すらも描き出すことが可能。人類が長い年月をかけて開発しひたすらに改良を続けてきた「言葉」というツールは、手軽でありながらもオールマイティ。抜群の使い勝手を誇り、そんじょそこらの最先端技術など及びもつかないほどの圧倒的な高機能と高性能を備えています。
確かに自力で文字を追わない限り物語は進みませんが、その「控え目さ」は短所であると同時に長所でもあります。自分のライフスタイルに会わせて、自分のペースで物語を楽しむことができるわけですから。映画やアニメ、ゲームなどの世界でSFに触れ、SFと親しんだ人の中には、もうそろそろちょっと落ち着いた楽しみ方もしてみたいな、と思われる方もいるはずで、小説としてのSFはその受け皿としての役目も果たせるんじゃないかと考えています。
私たちにはもう、星新一さんも、小松左京さんもおりません。時代の先端を次々に切り開いて、魅力溢れる様々な光景を手品のような鮮やかな手腕で披露してくださった偉大な魔術師たち。彼らは忽然と、あるいは颯爽と、ステージからその姿を消してしまわれました。でも私たちはその後ろ姿を見ていたはずで、ステージにはトランプやステッキといった道具もちゃんと残されてます。「さぁ、勇気を振り絞れ。ステージに立って、万人に向かって仕事をするんだ」という声が今にも天井裏から聞こえてきそうです。
「novel(小説)」は元々は「新しい」という意味の言葉でした。ましてやその最先端であるべきSFが、古臭い、後ろ向きなことを言っていてどうする、と思います。未来は常に新しい。だからSFも常に新しくなければならないはず。SF小説の世界にも「ハッピー・フュー」は確実に存在していることと思います。でも私たちが彼らのためだけに創作をすることはないでしょう。なぜなら、彼らがそれを許さないからです。そんなことをしたら、「SFってもっと雄大なものじゃなかったんですか? もっと自由なものじゃなかったんですか? いつからこんな窮屈でせせこましいものに成り下がってしまったんですか?」と怒られてしまいます。彼らがSF作家に望んでいるのは後ろを向くことではなく、前を向いて時代を切り開いてゆくこと。彼らが我々の背中を叩く時、それは「こっちに振り返ってくれ」という合図ではなく、「ほら、もっと先へ行け。もっと遠くへ、もっと速く、もっと高く」という鼓舞であるはず。その期待に応えるためにも、我々は全力で駆けなくてはなりません、偉大な先達がかつてそうされていたように。後ろを振り返ることもなく、居心地の良い場所に留まることもなく、ただただ先へ。その先にあるステージに、我々は立ち続けるのです。
片理誠既刊
『エンドレス・ガーデン
ロジカル・ミステリー・ツアーへ君と』