(PDFバージョン:yokusitunouchuu_ootatadasi)
悲鳴が聞こえた。
妻の声だ。たしか今、風呂に入っていたはずだが。
また聞こえた。只事ではない。メールチェックをしていたスマートフォンを持ったまま、慌てて階段を駆け下りた。
浴室の扉が開いて、全裸の妻が廊下に立ち尽くしていた。
「何だ? どうした?」
声をかけると、妻は私に縋り付いてきた。
「痴漢か!? 誰かが覗いてたのか」
「痴漢違う! そら! ほし!」
意味もイントネーションも出鱈目なことを喚いている。
埒が明かないので浴室を覗いてみようとしたら、妻が私の服を思いきり引っぱった。
「駄目! 危ないから!」
そう言われても、確かめないわけにはいかない。妻の手を振りほどいて、浴室に入った。
脱衣場には何もないようだった。妻の着替えが篭に入っているだけだ。とすると問題は風呂場のほうか。
開け放された風呂場を覗く。もしかしたら妻の嫌いな蜘蛛が這っていたのかもと思い、天井や床、壁や窓を見回してみた。しかし、何の異常もなかった。
「……何なんだよ」
呟きながら視線は最後に浴槽に向いた。
湯が、真っ黒だった。
一瞬、妻が変な入浴剤でも入れたのかと思った。以前にも体が温まるという唐辛子入りの入浴剤を入れて湯が真っ赤に染まったことがある。まるで血の池地獄だった。最近ではそういう悪趣味な入浴剤もあるらしい。だから今度はイカ墨入りのものでも買ったのかもしれない。
自分で入れた入浴剤に驚いてたら世話ないな、と苦笑しながら湯船を覗き込む。そして、息が止まった。
湯は黒いだけではなかった。全体に光の点が浮かんでいる。
強い光、弱い光、赤い光、青い光、無数の光点が広がっていた。
そのときの感覚をどう表現すべきだろうか。一番近いのは車酔いか。見ているものと体が感じているものの違いに神経が変調を来したような、そんな感じに近い。
目の前にあるもの、それは自分がよく見知っているものだった。だが、それが何なのかすぐに思い浮かばない。こんな場所で見るべきものではないからだ。何だこれは? どうしてこんな、きらきらと光っているのだ。まるで星のように……。
星?
はっ、とした。そうだ、星だ。
思わず後退った。浴槽の中に見えるのは、夜空だ。
「なんだなんだなんだ? どうして夜空がここにあるんだ?」
問いかけても、答える者はない。妻の姿は、すでに廊下にもなかった。
思い切って、もう一度湯船に近付いてみる。空は星を湛えて広がっていた。少しずつ移動しているようだ。
やがて浴槽の端に赤く光る雲のようなものが見えはじめた。じっと全体像が見えるまで待つ。
それは光る雲を寄せ集めたものだった。赤い、まるで薔薇のような形をしている。
薔薇?
記憶に引っかかるものがあった。持っていたスマートフォンで早速検索する。
すぐに見つかった。
いっかくじゅう座ばら星雲。
液晶の表示されたその姿は、湯船の夜空に浮かぶものとまったく同じだった。
そんな、まさか。
見えているのはただの夜空ではない。どこか遠くの宇宙だ。
恐る恐る、手を伸ばした。
ちゃぽん、指先が暖かい液体に触れる感覚がある。湯は張ってあるわけか。すると宇宙は湯の表面に映っているだけなのか。それとも……。
湯船に浸けた手を、更に沈めてみる。すぐに底に当たるはずだった。だが肘まで浸けても指先に触れるものはなかった。腕のほとんどを沈めた。先は、ない。
怖い考えが浮かんだ。いっそ顔も浸けてみたらどうなるか。
取り返しの付かないことになるかもしれない。だが、そういう場面になると、危ないほうに踏み込んでしまうのが私という人間だった。子供の頃からそうやって、わざと危険なことに首を突っこんできた。もちろん、そのおかげで酷い目に遭ったり怪我もした。しかし、一度心を掴んだ好奇心は、私を離さなかった。
思い切って、顔を近付けた。そのとき、
ざあーっ、と水の流れる音がした。
見ると、傍らに服を着た妻が立っていた。その手には浴槽の栓に繋がったチェーンが握られている。
宇宙が、瞬く間に流れ落ちていった。
「おまえ、何を……!」
妻は返事をしなかった。かわりにすごい眼付きで睨んできた。私は、何も言えなくなった。
翌日、妻がリフォーム業者を呼んだ。まだ壊れてもいない浴槽は、そっくり取り替えられた。
私はなんとなく解せない気持ちを抱えたまま、リフォーム代金を支払った。
あのまま湯船に顔を突っこんでいたら、もしかしたら……そんな想像を弄びながら、いつものようにスマートフォンを操作していた。そのとき、
悲鳴が聞こえた。
妻の声だ。たしか今、トイレに入っているはずだった。
太田忠司既刊
『もっとミステリなふたり
誰が疑問符を付けたか?』