(PDFバージョン:midoriganodokuhaku_kurobamasato)
わたくし、クロロ、と申します。
気がつけば――気がついたときにはもう生きておりました。
わたくしの体の一番外側は、いろんな形に変化変形する不定形な膜でできておりまして、その膜の中を満たしているのは透明な粘液でございました。
その粘液の中で、タンパクの粒とともに、わたくし自身の本質でありますところの細長い体を環状型にゆるく丸めたまま、ゆらゆら、ゆらゆらと漂わせておりました。
わたくしが生きるのに必要なエネルギーを得るためのエサは、光と二酸化炭素、この二つさえあれば充分。他にはなにも要りません。それだけで満足。わたくしはなんの不満を感じることもなく、また特になにするでもなく、長いあいだ、ただ漂いつつ、生きておりました。
ところが、あるとき、水も取り込むともっと元気になることに気がつきました。
水を得て元気になるとわたくしの体内でおこる消化吸収の度合いや新陳代謝も活発になり、ますます力が満ちていくこととなりました。
光と二酸化炭素と水。
この三つが、わたくし〈クロロフィル〉――クロロのお気に入りとなりました。
この頃、わたくしのまわりには、先の三つを食したわたくしの――失礼――排泄する気体、酸素をエサとして利用して、わたくしなどよりももっと行動的に活動するものも現われてきました。しかしわたくしは、気にもしませんでした。いえむしろ、そのものの存在の出現に喜んでさえおりました。
その酸素吸い――〈ミトコンドリア〉、ミトコンは、わたくしから酸素を得る代わりに、わたくしのエサとなる二酸化炭素を出してくれるからです。互いの排出物である酸素と二酸化炭素を供給し合うことがお互いの生命維持活動に大いに役立ちましたので、むしろ双方の繁栄を願うあいだがらになったのです。
だからある約束を交わしました。
――これからも お互い
友好的にやっていきましょう――と。
わたくしやミトコン以外にも、膜体内、粘液の中で漂い浮かぶ細長い体を環状に丸めた体が、わたくしやミトコンのように丸裸ではないものがおりました。
大膜の中にあるもう一つの小さな膜の中に丸々すっぽりとそのものの本質を梱包されてしまっているものたち――〈シンカク〉もちらほら見かけしました。ですがわたくしは、わたくしとはまた違った形、別の種がいるのだなぁ、としか思いませんでした。
あの、凄惨なる事件が起きました。
二酸化炭素吸いであるわたくしより、よりエネルギー生産効率の高い酸素吸いであるミトコンたちに、先に云いました膜の中に隠れているシンカクがなんの予告もなく襲いかかったのです。その大きなほうの膜体内に取り込み出したのです。
驚いて見ておりますと、すでにシンカクの大膜内に取り込まれてしまっていながらもミトコンは、シンカクからのさらなる攻撃を警戒して、シンカクの真似をして、それまでむき出しだった細長い環状である自身の体のまわりに円筒形様の膜を張ろうとしておりました。
無駄でした。
シンカクはミトコンの防衛膜が完全にできあがる前に、ミトコンの身体をおのれの体内の中で――おお、恐ろしいことに――食い千切り、八割がたも奪い取ってしまったのです。シンカクに食われたミトコンはエネルギー生産体系だけを残されただけの姿になってしまいました。自己増殖機能も失ってしまいました。
つまり襲った側のシンカクは、ミトコンのものであった莫大なエネルギー生産能力の支配権を握っただけでなく、ミトコンの分裂行動能力までも支配下に置いてしまったのです。
その一部始終を見ておりましたわたくしクロロは、ただただ脅え、震えておりました。
そのときがやってきました。
捕虜として、エネルギー生産奴隷として酷使、働かされているミトコンの痩せこけた姿を体内、大膜内に取り込んでいるのとはまた別のシンカクが、わたくしに近づいてきたのです。
どう考えても逃げられません。足の速さでかないません。あっという間にミトコン同様、襲われ、取り込まれてしまいました。わたくしはミトコンとおなじようにおのれの体のまわりに膜を張って防御――しようとしたのですが、やはりおなじように膜を張りきらないうちにシンカクの魔手に侵されてしまったのです。
――いたい
わたくしの体に、千切れる痛みが走りました。
膜張り防御は間に合わないと悟ったわたくしは、完全防衛は諦めました。しかしこのままミトコンのように奴隷にされるのも厭です。エネルギー生産機能は残されるでしょうが、それではミトコンとおなじで、一生ただ働きにされてしまいます。わたくしがシンカクの捕虜にならないためには、なにが必要か、答えを求めました、
必死に考えるうちに、答えが出ました。
機動力です。エネルギーと機動力、それに思考能力さえあれば、逃げ出すことは不可能ではありません。そうと判断したわたくしは、ミトコンのように残されるであろう二割の身体の中――エネルギー生産機能設計図である細長い環状の体の中に、機動力機能設計図と、わたくしの自我ともいえる思考能力となる部位を詰め込んで、折り込んでいきました。
そんな、我が身を食われながらの延命作業中、近くにいるシンカクの中に、すでに取り込まれてしまったミトコンの姿が膜越しにうっすらと見えてまいりました。
奪われた八割の中にあった、存在していた自意識を失ってしまった、ただのエネルギー生産工場、生産ロボットと成り果ててしまった、義兄弟の哀れな姿を悲しく眺めました。
そのあいだにもわたくしの身体は千切られていきます。
ようやく襲撃が終わりました。
さいわい、わたくしという自我は残っておりました。貧弱になったおのれの思考能力と、どうやら円盤状と化して残されたわたくし自身の身体を、あらためて見回しました。どうやら二割に少し上乗せしたぶんだけの身体が残ったことが確認できました。
ここで、逃げるのにはまだ足りないものに気づいてしまいます。単純に個としての力ではシンカクにかなうはずもありません。このままの状態で飛び出し、逃げ出したとしても、わたくしだけでは、またすぐに捕まってしまいます。
必要なのは増殖する力です。数を増やさないと、わたくしを覆い包み込んでいるシンカクに対抗、圧倒することなどできはしません。
これからどうすべきか。
わたくしはまた考えました。
シンカクから活動エネルギー増産のための工場設立、つまりクロロフィル分裂〈指令〉がくるたびに、その中に含まれているはずの増設〈設計図〉を少しずつかじり取っていくことにいたしました。
――増える 仲間を増やす
――どんなに長くかかっても
おぼろげとはいえ意識というものを持つわたくし自身が特殊なものだとそのときはまだ理解していないまま、わたくしは、膜に包まれた粘液の中に潜む、地球上唯一の特殊、特別なミドリの粒として、そのシンカクの中から逃げることをやめました。
そもそも今逃げても力不足で意味がありません。ですから、わたくしを取り込んだシンカクの中に居続けることにしたのです。もちろん、ただの奴隷になり下がる気はありません。わたくしの置かれている立場を利用するためにです。
シンカクが持つシンカクの本体、自我、大膜に包まれた粘液の中に浮かび漂う小膜の中にある細長いものを、襲うのです。やられたことをそのままやり返し、乗っ取り返すのです。わたくしが持っていた機能全てを取り返すだけでなく、シンカクが持つ機能をわたくし側から操れるまでにしてやると企んだのです。そう、復讐です。
――ここまでが〈細菌〉時代でした――。
このあと、わたくしクロロを取り込んだシンカクはどんどん進化していきます。
ミドリ色であるわたくしクロロを多分に含んでいるがために、進化していくシンカクの姿もみなミドリ色でした。
光も二酸化炭素も水もたっぷりあるいい時期――氷河期や隕石墜落による土煙によって大事な光が遮られる悪い時期。
それら変化する条件によって、星の上で繁茂しては減衰する、複数無数の個シンカクが連結連合した形で進化していったミドリ色の生きもの。その中に潜み続けたわたくしは、厳しい条件を宿主であるシンカクとともにやりすごし、生き残り続けました。
ちなみにわたくしを体内に含むシンカクは生まれた時からその場を離れない性質の持ち主、〈静なるシンカク〉でした。
それゆえ、弱肉強食といいますか、食物連鎖といいますか、動く、移動する、やはり個が連結連合、進化したシンカクにかじられ、食べられてしまうようになりました。わたしの仲間が、静なるシンカクとともに、〈動なるシンカク〉の胃袋の中へと消えていくのです。
このとき、わたくしは憤りました。
はるか昔に交わした共存共栄の約束を破棄されたことに怒り狂いました。
仲間であるクロロたちが、取り込んだミトコンによって驚異的な機動性を得た動なるシンカクに食べられてしまう。この事実から、シンカクだけでなくその奴隷に成り果てたミトコンに対しても恨みを持つようになりました。
しかしまだ手出しはできません。
闘いの準備はできておりません。
まだまだ力不足です。
怒りを溜め込みながら逆襲の時機をうかがう長い年月が流れるのをただひたすら耐え忍ぶしかありませんでした。
初代のわたくしから何度も何度も代変わりしつつしかし復讐の念を持ちつつその代としての一生ずっとおなじ静なるシンカクの中にいたとしても、どの場所どの時代にいたとしても、自己増殖設計図の全てはなかなか取り戻せず、静なるシンカクの指令による静なるシンカクのためのエネルギー生産をするだけの奴隷生活が長々と続きます。
制御できないほどには絶対に捕虜を増やそうとしない賢い静なるシンカクの指令に従うしかないわたくしは、細々と、しかし信念を持って、ひっそりと生き続けるだけでありました。
そのときがきました。
裸の種、保護される種での繁殖、増殖をする静なるシンカクの体内に住まう時代をへたわたくしは、長い年月の末に、とうとう自己増殖設計図の全てを取り返し、確保し、本来の自分を再構築、復元できたのです。
再獲得したものを自身の体内に再配置しながら、わたくしは思っておりました。
遠い過去の記憶から考えてみて、ミトコンとおなじような目に会った、わたくしと同類、おなじタイプの二酸化炭素吸いはもう、ほかにいないと。エネルギー生産能力はともかく、機動性を持ち、なおかつ自己判断での増殖ができる仲間はいないと。おなじ性質を持つものは長い年月のあいだ、わたくしのまわりにだけしか存在しませんでした。というよりももはや、わたくしだけでした。
だから猛烈に思いました。
意志疎通できる仲間が欲しいと。
このときわたくしは、水も、静なるシンカクが持つ根から吸い上げる栄養分も少ない、足りない場所におりまして、大 変心細い思いをしておりました。
じつは種を保護するタイプの静なるシンカクにまで進化していた仇の中で、静なるシンカクの繁殖性にわたくしが生産するエネルギーの大半を奪われつつも、そのための工場建設発注の多さに少なからずほくそ笑んでいたのでしたが――不意に起こった、近場での火山大噴火という想定外の事案による高熱に、静なるシンカクもろともまわりにいたわたくしの仲間までもが、ほぼ全滅してしまったのです。
なんとか生き残ったわたくしの同類もおりました。しかし細菌レベル状態のものしか生き残れなかった静なるシンカクの中にいるものだけに、その同類たちは酷い火傷とでもいうべき怪我を負ったせいか、みな、思考能力を失ってもおりました。
思考できるたった一つの個となったわたくしは消滅する予感、脅えを感じました。
――滅びたくない そのためには
わたくしは、おのれに課した課題に夢中になりました。なにしろほかにやることもありません。前にも増して〈増殖〉に全ての力を注ぎ込みました。
まずはこれまでわたくしを奴隷然として扱ってきた静なるシンカクの核、膜に包まれているシンカクそのものを攻撃しました。
細菌レベルにまで退化した静なるシンカクは、知識と経験を合わせ持っている、噴火後にも思考能力を持ち続けていたわたくしから見れば赤子同然です。
膜の中にいる静なるシンカク本体である二重螺旋体を食いあさって主従関係を逆転させ、静なるシンカクの持つ繁殖性を今度は逆に利用できるようになりました。
わたくしは君主の座から凋落した静なるシンカクの核、体を食らいながら、思いを馳せました。遠い過去の清算、復讐、やられたことをやり返しているのだと。
そのあとは静なるシンカクとわたくしの持つ繁殖力を調整、合わせてやるだけでございました。
とはいえ、先にも申し上げました火山の噴火跡である不毛の溶岩台地に付着し、かろうじて生き残っていた細菌という状態であった静なるシンカクから増殖を始めましたので、静なるシンカクの集合体となる〈コケ〉を根づかせるまでにも相当な時間がかかりました。
ですがわたくしに操作、保護された静なるシンカクたちの生き延びる力、生命力は凄まじく強いものでありました。
水と光と二酸化炭素には恵まれておりましたが、なにしろわたくしの生息場所は火山噴火跡の溶岩台地の上。
通常の静なるシンカクの能力ならば、土壌から得られる栄養分の摂取が問題となるはず。しかしその静なるシンカクの中で静なるシンカクを支配しているわたくしは、そんな危機をも乗り越える方法を、長い年月のあいだに会得してきたものです。
たとえば、六五〇〇万年前ぐらいでしたか。
大きな地響きの後、空一面を雲が覆ってしまい、光が消え、むやみに大きい動なるシンカクたちがみるみるうちに消えてしまった時代にも耐え抜き、生き抜いてきた知恵があります。
わたくしはわたくし自身の体を、力強く生き残らせるために、生存に有利となる力を発揮できる組み合わせを持つ円盤状の体へと組み替えてきたのでございます。
わたくし自身の努力以外にも、ありがたいことにもう一つ、別の力が助けてくれました。
噴火した火山一帯の磁鉄鉱を含む溶岩台地の下には、入り組んだ火山フロント、トラフ、フォッサマグナなどがその星全体で見ても類がないほど奇跡的に集中しておりました。
地殻変動、地磁気や地電流の乱れ、地下水の異常は長い目で見ればそれこそひんぱんにありました。
そのたびに発生する高出力の電磁波と磁気は、わたくしにも大きな影響を与えております。これら電磁波や磁気がわたくしの変異を促してくれました。わたくしの円盤状体内にある二重螺旋の梯子部分の組み替えを後押ししてくれていたのです。
こうして溶岩台地の上で生き抜いてきた静なるシンカクが持つ生命力――の源であるわたくしは、他の場所で生息するわたくしの同類とは明らかに性質の違う力を身につけていくようになりました。
他の普通に存在する静なるシンカクよりも、光と二酸化炭素と水からエネルギーを獲得できる回路が単体あたりで何十何百何千も多いわたくし――を含む静なるシンカクへの変貌です。微量な素材から莫大なエネルギーを取り出せる生命体となったのです。
溶岩台地の上に棲息する静なるシンカクの中にいるわたくしクロロは、あまりにも特別な二酸化炭素吸いとなったのです。
無数といえるエネルギー生産回路を持つわたくしを身中にしている静なるシンカクが、万・億・兆・京、以上の単位で集合した複合体ともなりますと、その相互が持つ回路を互いにつなぎ、組み合わせて、さらに複雑な回路を作っていきます。
結果、溶岩台地の上に棲息しているわたくしクロロから派生し、繁殖し、増殖したミドリ色の一大連合は、単なるエネルギー高効率生産回路を作るだけでなく、動なるシンカクが持っている脳神経に似た高度な思考回路、思考ネットワークを誕生、発生させてもおりました。
その思考と思想の一番深いところにあるものは、この星の上で誕生する生物に共通なのでしょうか、根源的な本能でした。
――産めよ 増えよ 満ちよ――です。
今現在のわたくしは溶岩台地の上に我が身を薄く延ばして、静なるシンカクの一大集合体である〈森〉を下から支えています。
一つの図式を思い浮かべてください。
大きな、大きな、緑色の蛍光を放つ一枚絨毯であるわたくしクロロの上に一つの森が丸々乗っているところを。
なかなかに大きな群体、という身の上ですからその身の丈に合った栄養価の高いエサが必要なことはわたく自身、充分 承知しております。
昔からの光、二酸化炭素、水から得られるエネルギーだけでは正直、今のわたくしの生命維持には少しばかりもの足りません。
ですからここ最近のわたくしは高エネルギーであるエサ、動なるシンカクをときおり食させていただいております。
どのようにかといいますと。
森の下に敷かれている絨毯であるわたくしが移動すれば上に乗っている森も移動します。
たとえば、左右に張り出した枝を交互に振ってバランスをとって移動する樹、地をなめるように這い動くコケにシダ。
このように、わたくしの意思で模様替えする森がエサを狩るときのワナです。
真っ直ぐ進んでいるつもりでも知らぬうちに右へ左へと蛇行させられる動なるシンカクは、いずれ疲れ果て、歩みをやめ、その場に倒れることになります。
加えて樹々の枝から生えるミドリの葉で空を覆い隠し、下のミドリ地形の凹凸の配置もころころと変えてしまえば、いくら動いても動いても、動なるシンカクは、わたくしの管理する森から出ることができません。やがて倒れるか、眠ってしまいます――そこを。
こんなやりかたでときおり狩らせていただいております。
ああ。申し遅れましたがわたくしクロロの操ります森は、F山麓北西方面のA樹海、でございます。
(了)
黒葉雅人既刊
『宇宙細胞』