(PDFバージョン:amayadori_iinofumihiko)
俗に昔から夏の雨は馬の背を分けるといわれているものだけれど、それは現代にも当てはまることだろう。
特に最近は夕立、俄雨などとは言わずにゲリラ豪雨などと名づけられた凄まじい降雨が、局地的とはいえ、大きな被害をもたらしている。ある夏の日の昼下がりに私が遭遇したのも、その類だったのだろう。
この日私は、編集者との打ち合わせのため、神田G町を訪ねていた。出版社に直接出向いて、小一時間話し、そこを後にしたのは午後五時近い時刻であった。
ずいぶんと日は西に傾いていたものの、まだまだ野外は蒸し風呂のごとき状況を呈していた。出向いてきたときよりも、じりじりと心身を蝕む蒸し暑さが増している気がした。
心理的なものもあるのかもしれない。預けてあった原稿の返事を訊ねに行ったのであるが、これがはなはだ芳しくなかった。私よりもいくつか若いその編集者は、あれこれ作品の欠点をあげつらった後、
「というわけで、うちでは使えません」
と鉄槌を打ち下ろしたのである。
それだけでも神経のあちこちが摩耗しているのに、執拗なまでに塩を塗り込むような暑さに追い打ちをかけられ、目まいといえばそれまでではあるけれど、どこかふわふわと心と身体が、まるで水と油のように分離していくかのようだった。
しばらく町を歩いて、今後の対応を考えてみよう、などと出版社を出るときに考えたものの、この状態ではとてもままならない。憂さ晴らしに、どこぞで生ビールでも……と思う気持ちはあっても、手持ちの金ははなはだ乏しく、それもかなわないのである。
とにかく家に帰ろう。シャワーでも浴びて、考えるのはそれからだ。ふらふらと目まいをこえて発熱し、病んだときに似た曖昧模糊とした心持ちだった。とにかく帰ろう。とにかく歩いて七、八分のところにある最寄りの地下鉄の駅まで歩いて、そこからまっすぐに帰ろう。とホームシックにかかった子どものような心許なさで、足を引きずり、歩を進めていたときのことである。
ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきた。もっとも私は、それを雨粒だとは思わなかった。鳩の糞だと思った。
どんよりとうち沈んでいた私は、頭上や肩に落ちてきたそれらを鳩の糞だ、飛び交う鳩たちが私に糞を落としているのだ、鳩にも私が弱者だとわかるのだ、群れ全体で私を馬鹿にしているのだ、などと自虐的なことを考え、さらには、どこまで馬鹿にできるか、やれるものならやってみるがいいと、それに打たれつづける決心さえしたのである。
だが三十秒とかからずに、それらが雨だとわかった。私だけでなく、辺りにも落ちている。どこにもかしこにも落ちている。節分の豆まきで、大きな升をひっくり返し、大量の大豆の粒が落ちてくるかのような勢いである。音もすさまじく、当たるとほんとうに豆のように痛い。
これなら鬼でなく私のようなぼんくらでも、ジッとしていられない。辺りを見回すと、私以外のものは、すでに逃避したらしく、通行人は皆無である。脇の車道を行きすぎる車の屋根やボディに当たった雨粒が、アフリカの呪術的な太鼓のリズムのようで、取り残された私の心を不安に揺さぶる。
考えることも、かといって走るどころか歩き出すことすらできず、大量の雨粒に押し流されるようにして脇へ脇へとふらついた。そうして木ぎれが淀みに流れ着くように、脇に立っていた建物の前にたどり着いたのである。
人心地ついたとまではいかないまでも、水と油のごとく分離していたものが、じっとりと混ざり合わさって一つになるように、わずかなりとも辺りの状況が見渡せるようになまるで、一分や二分ではなかっただろう。
その間にも降りしきる雨は、苛烈を極めていた。頭上からではなく、癇癪玉のごとき勢いでアスファルトに落ちた粒が、弾けて下から襲いかかるのであった。それでもしばらくは、下から降る雨などというものがあるのだなあ……と間の抜けたことしか思い浮かばなかったのだから、愚かしさに我ながら呆れ返る。だからこそ見込まれたのだろう。目をつけられ、引きずり込まれそうになったのだ。
「どうぞ。中へ」
同じ言葉を何度となくつぶやいたはずである。ボリュームのつまみを徐々に右へ回すように聞こえた声が、私の耳に届いたのは、その何度目かだった。
見えない糸を顎に結びつけられて、引っぱられるように顔を上げた。一メートルと離れていないところに、若い女が立っていた。痩せた体躯を白いワンピースで隠した、美しい女であった。
黒い艶やかな髪はまっすぐに肩まで伸び、ワンピースよりも白い素肌と見事なコントラストを描いている。何より化粧気はないものの、日本人形のような端正な表情に惹かれ、返す言葉もなく、無遠慮にじっと見つめていた。彼女が恥ずかしそうにうつむき、やっとそれに気づいたほどである。
「失礼。つい……」
いえ、とつぶやき、顔をあげた女は、やわらかな微笑みを浮かべながら言った。
「そこでは雨が飛びますから、どうぞ中へ」
「はあ、いえ……」
四十近い歳でありながら人見知りの激しい私のことだ。ふだんだったら十中八九以上の確率で断っていたところである。それなのに、あまりの雨の激しさもあったものの、それ以上にやはり相手に惹かれたとしか思えない。
激しい雨がベールとなって、辺りを閉ざしてしまい、狭く薄暗い空間に女と二人だけにされた。二つの黄身が入った卵をごく稀に目にするが、あれと同様、巨大な卵の分厚い殻の内部に、女と二人で閉じ込められてしまったのかような錯覚を覚えたらしい。不可思議な親密さを感じた私は、女の好意に甘え、
「それなら……」
とうながされるまま、扉の中に歩を進めたのである。
◇ ◇
「どうぞ。これでお拭きください」
女は一枚のタオルを私にさしだした。
「いえ、ハンカチを持っていますから」
「いいえ、どうぞ」
私に近づき、息がかかるほどの近さで、微笑みながら言われ、断り切れなかった。にわかに喉が渇き、どうも、と切り出した言葉も喉にひっかかってしまい、代わりに会釈して、受け取ったのだった。
それで頭部を拭っていると女がつぶやいた。
「すごい雨……」
私の脇に寄りそいながらも、両手を腹の前でやわらかく握りしめ、窓から外を見ている。私は外ではなく、このときとばかりに女の横顔に目を向けた。
二十歳前後だろうか。今どきの娘とは思えない清楚な輝きを秘めている。辺りの薄暗さが影響しているのか、みずみずしい若さあふれる輝きとはちがう。ある種、陰にこもった清楚な美しさといったら、はなはだ抽象的になってしまうけれど、かの大正ロマンの具現者竹久夢二が描いた女に通じる儚さを感じる。
わずかな間に鼓動が高鳴っていた。ぐいと抱きしめれば、そのまま枯れ枝のように折れてしまいそうな女から、ますます目が離せなくなった。
「いいのよ」
女は外を見たままつぶやいた。言葉の意味がわからずに黙っていると、女はゆっくりと向き直り、澄んだ瞳をまっすぐ私に向けながら、
「いいのよ。好きにして」
と外の雨音にかき消されそうながらも、はっきりと口にしたのだった。
「そんな――」
いよいよ、喉の渇きが募った。降りしきる雨を両手ですくって、ごくごくと飲み干したいほどだった。否、それらがアルコールだったら、喉だけではなく心の渇きも癒され、少しは気の利いた台詞を返せたかもしれない。
「誰でもってわけじゃないんです。窓からあなたを見て、あなたのような人だったら……と思って……」
女は私を見つめたまま、両手を背中に回した。ワンピースの襟が広がった。背中からもどした手で、さらに広げると、かすかな衣擦れの音を残して、ワンピースが消えた。間近に立っていたためにそう感じたのだが、足元に落ちたのだった。
一歩後ずさって、ワンピースから足を抜いた女は、両手を左右に下げて、私を見つめる。すべてが見えるように、わざと距離を取ったのだと私にもわかった。それに逆らう術など私にはなかった。またしても見えない糸で操られるように、頭部を上下に動かし、舐めるように白い裸体に視線を這わせる。
透き通るような白い裸体は、私の摩耗しささくれ立った神経でさえ、惹きつける魅力をもっていた。見ているだけで、気持ちが甘くねちっこくとろとろととろけてしまうかのようだった。
胸元にほくろがあった。小さな三角形を描くように三つ。その下のもぎたての果実のような乳房の先には、桜色の乳首が。さらにその下の……。いつしか思いが募り、夢中で目で犯していた。見ているというよりも眼球が蛸の吸盤となって裸体に吸いつき、じゅくじゅくと粘液を擦りつけながら移動していく。
女にもそれが伝わったらしい。見られているだけだというのに、息づかいが荒くなっている。虚ろに目を細め、切なそうに肩や腰をふるわせる。さらに、
「来て……」
と震える声で求めた。
高鳴る鼓動が激しくリズムを刻んだ。火に油を注ぐがごとく、外から響く雨音が欲情を駆り立てる。私は完全に日常から逸脱していた。わずかなズレだった物が、いつしかずるりと滑り、押し出され、妖しくも狂おしい二人きりの空間に閉じ込められていたのだった。
自らシャツのボタンに手をかけ、脱ぎ去ろうとした。一つ一つ外すのさえもどかしく、引きちぎってしまいたい衝動に駆られる。実際にそうしようと、一つ大きくすうっと息を吸ったとき、わずかに理性がもどり、静けさに鼓膜が押しつけられた。
高らかなリズムが止まっている。しんと静まり返っているのである。何が起こったかわからず、均衡の崩れた天秤を担がされた思いで、ぐらりと傾くように視線を窓に向けた。
雨が止んでいた。つい今し方まで嵐のごとく叩きつけていたものが、降り出した唐突さと同じくらい出し抜けに上がり、あまつさえ明るささえ増している。窓の外の景色が、きらきらと浮かびあがり、建物の高い場所にある別の窓から、室内にさーっと光の筋が射し込んでくる有り様である。
光の筋をたどるように視線をもどした私は、建物の屋根が抜けて、溜まっていた大量の雨水をまともに浴びた心持ちに襲われた。目の前に立っていた女の身体に日が当たっている。その部分から、煙が立ち上り、見る見る無残に皮膚が焼け爛れていくのであった。
「来て……来てええ」
声色さえも苦しげに地の底から響いてくるかのようだ。身体だけではなく、端正な顔さえも焼け焦げ、それでも私をじっと見つめながら、来てええと呻き、両手を伸ばす。一歩足を踏み出された瞬間、私はじっとしていられず、全身濡れ鼠になった犬のように大きくぶるぶるぶるるッと震わせた。
「井之さんじゃないですか」
声がした。沈んでいた沼から顔を出し、付着した泥を振り払うように顔をあげた私の目の前に男が立っている。先ほど打ち合わせをして、原稿を没にした編集者だった。打ち合わせにでも出掛けるのか、上着とカバンを手に持っている。
「どうしたんですか。こんなところに突っ立って」
彼に言われ、私は辺りを見回し、自分が歩道に突っ立っていることに気づいた。先ほどにわかに雨に降られたその場所である。
そう、ここで降られて、たまらず脇の建物に身を寄せ、雨宿りしていたら、その建物の中から女が――。
動揺して頭に浮かんだままを、たどたどしいながらも言葉にしていたらしい。
「建物って、どこの?」
編集者が言った。
「どこって、あの雨だ。すぐここの……」
つぶやきながら脇の建物を指さした。
「まさか。ここは見ての通り、入れませんよ」
古びた石造りの大仰な建物は、入り口が板で打ち付けられている。窓も同様だったが、そこから煤が噴き出したように、黒く汚れている。
「半年ほど前、火事になったんです。古くからの喫茶店で、ここの爺さんの入れるコーヒーは絶品だった。大学生の孫娘がバイトでウエートレスをしてたんだけど、とってもかわいかったのに……」
私はやめろーと叫びこそしなかったものの、耳を押さえた。彼は上着を腕に抱え、取りだした携帯を操作している。何をしてるんだ何をしようとしてるんだ……胸騒ぎに襲われながらも、瘡蓋を剥ぎたくなるに似た好奇心に逆らえず、耳から手を離した。
「ほら、この子です」
彼は携帯の画面を私に見せた。そこに映った女を見た刹那、私はその場から走りだしていた。空気が粘着性を帯びて私を捕らえ、引き戻そうとしているかのようだった。引き戻されたら、どうなる。否、あの時、雨が止まなかったら、一体どうなっていたのか。
激しいクラクションにはっと我に返り顔を上げた。赤信号の横断歩道を渡ろうとしていた。運転手の罵声を浴びながら、歩道まで後ずさると、全身の毛穴から一気に汗が噴き出した。たまらず手に握りしめていたタオルで、首すじを拭った。
「痛ッ」
ごわごわッとした感触に、思わず手にしたそれを見た。タオルではない。焼けこげた皮膚の断片だった。生焼けになった部分に、黒い点が小さな三角を形づくっている。
(了)
飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』