
ふたつの季節(柳ヶ瀬舞)
「好きです」
山崎が言うと私は目線をそらした。そしてボールペンで机を二回叩いた。
「もう帰りなさい」
私は相変わらず冷たい言い方しか出来ない。
通学用のバックパックは乱雑に掴まれたのだろう。ナイロン生地が荒々しく擦れる音がして、ドアは大きな音を立てて閉められた。
保健室に残されてため息をついた。またこの問題が起きた。彼女たちは安全な揺籃から私も好きだという言葉を求める。そんな答えが出てこないことを知りながら、彼女たちはほのかな期待を抱いている。そんな幼い期待を手折ることにいつも罪悪感を覚える。
「香せーんせっ」
「また寝に来たの?」
「セーリツーです。薬くださーい」
「規則正しい生活をしなさい。遅くまでゲームはしない。あと体を冷やさないように」
私は回転イスから立ち上がり棚の鍵を開けた。そして水と一緒に薬を生徒に渡す。
「薬も大事だけれど、酷いようなら病院に行きなさい」
はーいと間延びした返事をして彼女はベッドに横になった。私はベッドを囲む白いカーテンを閉めた。
二時間後彼女はさっぱりした顔をして退室した。
「香先生」
「どうしたの?」
彼女はハンカチで口元を抑えながら深刻そうな雰囲気を纏っていた。
「どうしたらいいか分からないんです」
イスに座らせ、彼女と向き合った。
仲の良いクラスメイトとの関係が上手くいっていないことに彼女は思い悩んでいた。言葉に耳を傾けて、意味を考えているふりをした。私の答えはパターン化されて、決まっている。親身になって彼女に語りかけた。
つらいと打ち明けてくれてありがとう。あなたはどうしたい? 無視されたことを無視することも大事だよ。
「先生に話を聞いてもらったら少し楽になりました」
「上手くいかなかったら、また保健室に来て」
「ありがとうございます」
「少し休んでく?」
首を横に振って、彼女は保健室を出て行った。
「香先生!」
三度、生徒が来室した。
「大きな声を出さない」
「すみません。プリントでバッサリ手のひら切っちゃった。めっちゃ血出てる。めっちゃ痛い」
「そこの水道で手を洗って。消毒するから」
「すっげーしみる。いってー」
脱脂綿で生徒の手を消毒する。
「もちょっと優しくしてー!」
「我慢しなさい。切り傷だからすぐ塞がるよ」
ガーゼを優しく傷口に当てて、テープで留めた。
「もう大丈夫。明日も血が出るようだったら病院に行きなさい」
「まじ焦った。先生愛してる!」
生徒は忙しなく出て行った。
「失礼します。今月の保健室だよりができたのでデータを持ってきました」
放課後、保健委員長はUSBを私に差し出した。
「はいはい。ありがとう」
受け取ってPCのポートに挿してざっと目を通す。
「いいんじゃないかな。いつも綺麗に作ってくれてありがとう」
「良かったです。お邪魔しました」
生徒は礼儀正しく退室した。
女子高で養護教諭を務めていると、毎日色々なことが起こり、忙しなく一日が過ぎていく。本当は高須先生と呼ばせなくてはいけないのに、いつの間にか下の名前で呼ばれていた。教師として生徒が親しみを感じてくれることは嬉しい。けれど、こそばゆさを感じるし、甘く見られているとも思う。
生徒たちが健康的に日常を送れるように見守ることが私の仕事だ。思春期という身体的、精神的に不安定な時期を上手く過ごせるようにサポートする。自分の手に余る問題だったら、病院やカウンセラーに橋渡しすることも業務の一環だ。自分が本当の意味で養護教諭に向いているとは思わない。
看護学科には進学したけれど、早々に自分は看護師には向いていないと思った。命がかかっている看護師の仕事は、どう考えても私にはできない。かといってこれから転科することも難しい。どうしたものかと思い養護教諭の資格を取得した。
子どもが、十代の多感な年ごろの少女が単純に好きとは言えない。
自分の高校時代を思い出せば、今の少女たちは真面目で、おとなしいし、聞き分けがいい。けれど、好きかと聞かれれば苦手だと答えるだろう。彼女たちの無邪気さにときどき目が眩む。これから書き加えていく余白が、未来が彼女たちにはある。自分の愚かさで大事なものを失って、そこから学ぶ権利すら彼女たちにはある。一番羨ましいと思うことは世間を知らなくて済むことだ。生きるために必要な小ずるさや浅知恵を知らない彼女たちはやはり眩しい。
私と彼女たちの間には断絶がある。いいか悪いかを別にして、大人と子どもという、年齢で線引きで出来てしまう深い溝がある。だからこそ私はこの仕事ができるし、やりがいを感じている。
「保健室の先生」は業務が好きなだけでも、子どもが好きなだけでも務まらない。生徒とほどよく距離を保ててそれでも頼られる存在でなくてはいけない。そして生徒たちからの「求愛」を上手くかわす。養護教諭はやることが多い。
「香先生」
「何?」
つい語気が荒くなった。今日の業務の終わりは見えていた。そんな中で、新しい仕事が舞い込んでくることは歓迎できない。
「忙しい時にすみません」
振り返ると山崎が立っていた。
「大丈夫だよ」
山崎が求めているものを、私は与えることが出来ない。期待されても、ない袖は振れない。私に好意を寄せる生徒の求めるものを、よく知っているつもりだ。彼女たちは、何よりもまず聞いて欲しいのだ。整理のつかない、複雑で矛盾している自分の気持ちを聞いてもらいたい。そして他人に気づいてもらいたい。自分を肯定して欲しい。私は仕事でそれをしているに過ぎない。彼女たちは私に幻想を抱いているだけだ。私は決して優しい大人ではない。
山崎も夢を見ている。けれど、彼女の欲望を真っ向から否定する私の態度は、良くなかった。
「ありがとうございます」
イスから立ち上がり電気ケトルに水を注いだ。
「山崎って今年受験だよね? あまり根を詰めないようにね」
「受験はもう終わっています。昨日、推薦入試の合格通知が来ました」
「すごいね。おめでとう」
だから昨日告白しに来たのか、と納得した。
山崎の高校時代は有意義で、価値あるもので満ちていた。そんな高校時代の思い出が欲しいんだろう。のちのち辛いことがあっても、すがれるような美しい思い出が。だから私が罪の意識を抱く必要なんてない。彼女は私を賞品にして、自分の三年間を肯定したいだけだ。
山崎は長い間黙り込んでいた。電気ケトルがカチッという音を立て、湯が沸いたと知らせた。
「私は先生が好きです」
インスタントコーヒーを入れる手を休めて、山崎と向き合う。
「ありがとう。嬉しいよ。けど私は山崎を恋愛的な意味では、好きならない」
今日は、まっすぐ彼女を見つめて言った。山崎は、高校時代の最後の思い出に私に好意を伝えたいだけだ。
彼女の視線からは、力強い意志を感じた。
山崎の真剣さは可愛らしい。保健室に通い慣れた生徒。私にカウンセラー役を求める生徒。普段怪我や病気をしないので、少しのことで慌てふためく生徒。内申点を気にして委員会活動に専念する生徒。生徒たちみんなが可愛い。山崎もそのひとりなんだと思う。
「もう少しで卒業です。そしたら私は先生と対等になれます」
「だから?」
「諦めませんから」
穏やかな口調で失礼します、と一礼して彼女は保健室を退室した。
山崎は情熱的なんだな、と思った。そして一夜置いたせいか彼女の思いはとても静かで、勢い任せではなかった。
山崎はどんな大人になりたいのだろうか。騙し騙し、小手先のテクニックで生きる私は、立派な大人とは言いがたい。けれど、私はそうやって生きてきた。歳を重ねた。つまらない大人になって欲しくない。山崎の確かな熱情はもっと他に向かうべきだと思った。教師として山崎と向き合うなら、彼女は魅力的な生徒だ。
来室者カードを整理して、エクセルに入力したあと、廊下に張り出す保健室だよりを刷るために職員室に寄った。
「香先生、まだ残っていたんだ」
「それはこっちのセリフです。井田先生」
井田先生はイスを回転させながらペンを持っていた。書類仕事をやっているようだけれど、進んでいないのだろう。作業に飽きているのが、一目瞭然だ。
「香先生はまだ仕事?」
「これが終わったらゴミを捨てるだけです」
井田先生は伸びをして、息をついた。
「じゃ、一杯飲んでこう」
「仕事はいいんですか?」
「明日はテニス部の顧問で来るから、そのときやる」
さー、飲むぞー、と井田先生は意気込んだ。
私も今日は飲みたい気分だった。いちいち生徒の告白に心を揺さぶられる必要はない。告白に煩わされている自分が嫌だった。
乾杯をしてビールに口をつけた。井田先生は乾杯した途端、一気にジョッキの三分の一を空にした。彼女は酒豪だ。
「こう忙しいと嫌になるね」
「年度末に比べればまだマシですけどね」
お互い一杯目は無難に仕事の話をした。
「三年になるね」
「はい。その節はお世話になりました」
この二年、井田先生は十二月の半ばにはマメに飲みに誘ってくれる。彼女なりに、私を心配してくれているのだ。
「私ってまだ頼りなく見えますか?」
「いや、むしろ」
井田先生はハイボールに変えたが、ピッチは速いままだ。
「香先生はしっかりしている。だからこそハラハラするんだ。張り詰めた糸みたいにいつ切れてもおかしくないって」
笑おうとした。苦笑いくらいは出来るだろうと思った。結局上手く笑えなくて自分は顔の表情筋を歪ませているだけだと分かった。
井田先生とはそれ以上三年前のことは語らず、仕事についてわざとらしく話した。
「大丈夫だよ」
帰る前に井田先生は私に向かって優しく言った。
「何がですか?」
「香先生は自分を責めすぎがちだから、そんなことをしなくても大丈夫だよ」
井口先生に言われて俯(うつむ)いた。
確かに私は大丈夫だ。傷は塞がりかけている。これ以上自分が傷を引っ掻かなければ血は流れない。跡は残るけれど傷は痛まない。けれど、傷から血を流さないことも、傷が痛まないことも、私にとっては悲しいことだった。忘れてしまうことが何よりも怖かった。
この時期の三年生の授業はほとんど自習に当てられている。受験を目の前にして、一秒でも惜しい。授業は口実でしかない。安心して受験勉強に打ち込める環境を作る。それは私立高校ならではの配慮だ。
受験生活を終えた山崎はまめまめしく放課後の保健室に通ってきた。忙しいからと言って、三回に二回はすぐ追い返す。しかし、毎回邪魔扱いをしてもいけない。さじ加減は難しい。けれど、場数を踏んでしまったせいか、どう対応すればいいかだけはハッキリと分かっていた。
「何学部に進学するの?」
差し出したコーヒーは湯気を立てている。寒いのだろうか。山崎はカップを握ってはいたけれど、口を付けない。
山崎の進学先は名の知れている私立大学だ。彼女は頭のいい、優秀な生徒だと思っていた。進学先は予想を裏切らなかった。
「法学部に進んで、弁護士を目指します」
彼女は静かに語り始めた。淡々とした口調で、熱っぽくならないように話す努力をしていた。子どもじみた夢だと侮られたくなかったのだろう。
今の社会は、差別と偏見のせいで、多くの人たちが苦しんでいる。自分には救えない。けれど、助けることは出来る。苦しんでいるなら手助けをしたい。
歳に似合わず、地に足が着いた具体的な夢だった。私が看護師になろうとしたのは、食いっぱぐれないと思ったからだ。人の命を救う手助けをしたいなんて、高い志はなかった。
「山崎なら素敵な弁護士になると思う」
確信があった。山崎の思いの強さはよく知っている。
※
去年の秋山崎とその友人が保健室に訪ねてきた。山崎の友人は何かに怯えていた。緊張感を解こうとコーヒーを勧めた。
「たぶん今はコーヒーを飲まない方がいいと思います」
山崎の言葉で私は「問題」は何か悟った。彼女の友人は俯いたまま黙っていた。
「じゃあカモミールティーなら飲める?」
友人は泣き腫らした目を伏せたまま頷いた。
何はともあれ待つことが大事だ。ふたりはしばらく黙ったままだった。私は、窓の外を眺めてやり過ごした
「大事なことだから」
山崎は友人に優しく促した。せっついているわけでも、急かすわけでもなかった。
「香先生なら大丈夫だよ」
嬉しかったけれど、聞こえないふりをした。彼女たちは、今言いづらいことを切り出そうとしている。この「問題」を切り出すことは勇気がいる。たぶん大人の女性ですら言い出しにくい。
「妊娠したかもしれません」
山崎の友人がようやく口を開いた。すぐに反応してはいけない。驚きを見せず、何度か頷き、目線を合わせる。
「打ち明けにくいことを言ってくれてありがとう。彼女の言う通り、とても大事なことだね」
目線は決して外してはいけない。動揺もしてはいけない。あなたのことを思っている。心配している。そう思わせなくてはいけない。
一呼吸置いて、彼女に問いかけた。
「まず、なんで妊娠したって思ったのか、教えてくれる?」
山崎の友人は堰を切ったように喋り始めた。彼女は混乱していて、話の脈絡はないに等しかった。私は根気強く聞き、頷いた。頭では冷静に話を整理していた。
SNSで成人男性と知り合ってホテルに行った。そこで行為に至ったが相手は避妊をしていなかったことに気づいた。そう簡単に妊娠しないだろうと高を括っていたけれど、生理が来なくて焦っている。
彼女の言いたかったのは、そういうことだ。
「そういう状況で、生理が来ないって不安だよね」
山崎の友人は、激しく泣き出した。箱ティッシュを差し出すと、彼女はより一層荒々しく泣き始めた。
「生理周期は安定しているほう?」
「はい」
彼女は携帯電話を見せた。生理周期を記録できるアプリ画面が映し出されている。確かに予定より六日ほど遅れていた。まだ六日遅れか、と安心した。月経の予定誤差は七日から十日ある。ストレスを感じたり、体調不良が続くと周期は簡単に変わる。山崎の友人は相当なストレスを感じているのかもしれない、と思った。
「もう少しだけ待ってみようか。まだ妊娠しているかは分からない。あと四日待っても生理が来ないようだったら、病院に行こうね。もし妊娠してたらお母さんにも伝えよう」
お母さんという言葉で彼女は体を固くした。携帯電話を取り上げられることが、怖いのだろう。
「私からお母さんに伝えることは、絶対にしないよ。でも、大変なことがあなたの体の中で起こっているかもしれない。その場合は、伝えることが大事なる」
思いやりを持って、テンプレートの答えを与えた。たぶん彼女は納得していない。女子高生が女子高生として生き抜くためには、情報戦で勝つ必要がある。携帯電話は女子高生のライフラインだ。なければ死を意味する。
「写真とかは取られなかった?」
首を横に振ったので少し安心できた。未成年を食い散らかすだけ食い散らかし、それでも飽き足らず、骨の髄までしゃぶる下劣で、悪辣な大人もいる。
「不安なのはすごく分かる。あと四日だけ待ってみようね。四日待っても来なかったら、もう一度ここに来て」
彼女は一回だけ頷き、ティッシュで鼻をかんだ。山崎は友人の背中を撫でてから、帰ろう、と立ち上がった。
「話を聞いてくれて、ありがとうございました」
山崎は礼を言い、友人もならって私に頭を下げた。
「いいのいいの。ゆっくり休んでね」
友人が先に保健室を出て、山崎も退室しようとした。
「コーヒーが今の状況に良くないって、どうして知っていたの?」
妊娠中のカフェイン接種は厳禁だ。コーヒーを飲むなんてもっての外だ。
「中学生の頃、義理の母が妊娠したときに知りました」
その時、一瞬だけ見せた山崎の表情をよく覚えている。山崎は事もなげに笑って見せた。その笑みからは、彼女なりの苦労と、優しさを垣間見た。
後日、山崎と山その友人に、廊下ですれ違った。彼女たちは楽しそうに笑いながら教室を移動していた。妊娠していなくてよかった。単純にそう思った。
※
「先生?」
山崎に現実に呼び戻されて、机から視線を上げた。
「先生は恋人とかいるんですか?」
核心を突いた質問がとうとう投げかけられたと思って、山崎を見つめてほほ笑んだ。ほほ笑むことしかしなかった。
「そうやって……」
いつまで私を子ども扱いするんですか、と消え入る声で山崎は言った。
子ども扱いしているつもりはまったくなかった。むしろ大人として山崎に対応していた。大人はずるい生き物だ。この世にありもしない物を、あるように思わせる。物事を荒立てないために、方便も嘘も必要だ。これ以上の好意は、迷惑だと暗に伝えた。
いなされたと思ったのか、山崎は私をにらんだ。
「それでも諦めませんから」
バックパックを掴んで山崎は保健室を出た。
山崎は思ったよりも手強い。彼女は私の嘘も方便も壊すつもりなのだ、と思い知った。
二学期が無事終わり、冬休みを迎えることができた。
毎日通勤する必要もなり、帰省する予定もない。十分眠ることが出来て、丁寧に食事を作る時間が持てることに安堵した。たまに友人から連絡が来るけれど、ひとりの時間を満喫していた。
誰かと過ごすよりもひとりでいる方が気楽だ。友達がまったくいないわけではない。この歳になると大抵の友人は結婚して子どもがいる。距離は当たり前にできてしまう。ぽつぽついる独身の友人は年末に忙しく仕事をしている。その合間に旅行に出たり、遊んだりしている。実家に帰れば、小言の豪雨に見舞われることは分かっていた。分かりきっているので、帰るつもりはさらさらない。パートナーもおらず、穏やかな時間を過ごせるのは自分の部屋だけだ。
部屋は好きなものだけで満たしている。座り心地の良いソファを置いて、贅沢して買った香水瓶を棚に飾り、お気に入りの本を見えるように置いている。
そんな部屋を見渡して、隅々まで綺麗にしようと思い立った。窓ガラスを拭き、いつの間に溜まってしまったホコリを取り除いて、着ない服を整理しよう。百円均一で道具を買って、丁寧に掃除をし始めた。
綺麗になっていく部屋を見渡して、充実感を覚えた。ガラスは光って、ホコリで気を揉む必要はない。ベッドの下の服をすべて出して仕分けする頃には、掃除が楽しみになっていた。
引き出しの間からスプーンが出てきた。浮かれ気分は一瞬で萎えた。スプーンをシンクに持って行かなくては。けれど、動けない。指先でスプーンを撫でることしかできなかった。
あの頃、ベッドは単純に寝るためだけの場所ではなかった。互いに雑誌や本を読み、同じ映画を観て、触れ合うための場所だった。一日の疲れを労わり、気兼ねなく下らない話をするための大事なエリア。スプーンはかつて重要だった場所に落ちていた。
※
繭子と私は大学で出会った。彼女もまた看護学科に在籍していた。最初から仲が良かったわけではない。繭子はインカレサークルで楽しそうに過ごしていた。看護学科はまだまだ女子が多い。彼女は他校の男子学生とテニスを楽しんで、肌をほんのりと焼いていた。
私は単純に成績が悪かった。やることなすこと人一倍時間がかったし、実技では失敗ばかりだった。いっそ大学を辞めてしまおうかと思った頃、教室で繭子と隣同士になった。あの時起こったことが私を変えた。
「ボレーして!」
授業中机に突っ伏して、居眠りしていた繭子の寝言が教室に響いた。
学生も、先生すら呆気に取られ、数秒間教室の空気は固まった。顔を勢いよく上げた繭子も同じだった。寝言を言った張本人も、何が起きたか理解していなかった。
「テニスに夢中になるのもいいですが、同じくらい講義にも集中してください」
先生は気まずさを隠す咳をして、講義に戻った。しかし教室はざわめいていた。忍び笑いと小さなざわめきが起こり、繭子はおどけるように頭をかいた。
私は肩を震わせた。繭子が講義を邪魔して苛立ったわけではない。この状況が面白くて、声を出して笑いたかったからだ。
彼女の寝言で悩みは吹き飛んだ。成績が悪いことも、実習での失敗も、どうでもよくなった。講義中に寝言を叫ぶ人間もいるのだから、私もなるようになるだろう。繭子もおかしかったけれど、笑って済ませるべき人間は自分だったと知った。
講義が終わると、繭子は不機嫌そうに口調で私に声をかけてきた。
「ノート貸して」
「別に金城を笑ったわけじゃない」
私は言い訳をしながらノートを渡した。
「じゃ、何?」
「自分が悩んでいることなんてたいしたことないって思った。だから、ありがとう」
繭子は、なんでお礼を言われているか分からないようだった。けれど、笑われているわけではないと分かってホッとしたようだった。
それから繭子とつるむようになり、私をテニスサークルに誘った。運動神経が人並以下だと自覚していたので、入会を渋った。けれど、繭子は根気強かった。結局私はテニスサークルに入り、普通の、忙しいけれど、楽しい大学生活を送った。
学業の方は相変わらず振るわなかった。けれど繭子やサークル仲間がいつも助けてくれた。
「保健室の先生を目指したら?」
二年生に上がる時、繭子は私に助言をした。
「高須はいつも丁寧だし、周りをよく見ていると思うよ。看護師になるだけが道じゃないし」
繭子が親身になってくれるのが、嬉しかった。迷いは晴れて、看護師とは別の道を選んだ。
繭子はお調子者だけれど、同時に真剣だった。楽しむことも悲しむことも全力で、一所懸命だった。そんな繭子は眩しくて、私はいつも目を細めて彼女を見つめていた。
大学卒業間近に、賃貸物件の冊子と真剣に向き合っていた。
「まだー?」
「まだ」
私と繭子は、ルームシェアをすることを決めた。お互い就職先が決まったはいいが、新卒の養護教諭と看護師の手取りは、たかが知れている。一緒に住めば安く上がるからと、繭子を口説いた。やましい気持ちは確かにあった。一緒にいたい。卒業して、繭子との距離ができてしまうのが単純に嫌だった。
繭子は特に悩む様子もなく、あっさり同居を承諾した。
けれど、物件探しは思ったより難航し、数週間悩まされた。合間を縫って冊子を読み、不動産屋に足を運んだ。
「この家賃設定で、2DKのアパートを探すのがこんなに難しいとは思わなかった」
私は、自分の見通しの甘さを悔いた。
「1DKでいいよ」
「はあ? ベッドふたつ置いたら、スペースなくなるじゃん」
「ちょっとこっち来て」
「何?」
「いいから」
繭子の隣に座ると、腕を引っ張られた。反射的に向き合うと、繭子の顔が近づいた。何が起きているか分からない内に、私たちのくちびるは重なった。
「こういうことだから、ベッドはひとつでいい」
頭の中が白になった私を無視して、繭子は目を背けた。嬉しくなる前に驚いた。別に繭子が誰を好きになろうとどうでもよかった。ただ近くにいられればよかった。それ以上望むことはワガママだと思った。
繭子の長い髪から覗く白い耳が赤かった。一瞬のキスより、赤く染まった耳殻が私を説き伏せた。
「うん。そうだね」
それしか言えなかった。けれど、それで十分だと思った。
部屋が見つかって、少しずつ家具や家電を買った。最初に買った物は、ベッドだった。さすがに、ふたりで床に眠るわけにはいかない。
「一緒に眠るなんて変な感じ」
「私は寝言を叫ばないか心配」
お互い静かに笑った。
きちんと繭子に触れたかった。けれど、私は衝動を懸命に隠した。欲望を感じる自分は浅ましいと思った。同時に拒絶されることが怖かった。
繭子が寝返りを打ったのを感じて、私も体をねじって繭子を見た。熱っぽい繭子の視線が私を捉えていた。触れるなら今しかない。
目を閉じて、一瞬だけ繭子のくちびるに自分のくちびるを重ねた。私にとって精一杯のキスだった。動揺を悟られないようにすぐに反対側を向いた。
「おやすみ、香」
初めて繭子に名前を呼ばれた。涙ぐむ以外出来ることなはない。呼吸は浅くなって苦しかった。生きてきた中でこれほど幸せを感じたことはなかった。幸福で溺れ死ぬかと思った。
繭子と私はいつもベッド上でアイスを食べていた。夏はガリガリ君やスイカバーを齧り、冬はハーゲンダッツやバンホーテンのカップアイスをひとつのスプーンで分け合った。ベッドの上でアイスを食べるなんて行儀が悪いと思った。けれど、ふたり分の荷物を詰めた部屋にソファを置く余裕はなかった。
セックスはそんなにしなかった。絶頂を感じれば終わってしまう。私たちは終わりを惜しんだ。繭子にずっと触れて、繭子をもっと身近に感じたかった。単純な欲望が満たされない方が気持ち良く、繭子と過ごしていると感じられた。私たちの欲望は性欲より卑しく幼い欲望だった。同時に、これ程貴重な欲望もないと思えた。
就職して一年目は目まぐるしく過ぎ、二年目も同様だった。三年目になって少し余裕ができて、夏に北海道に二泊三日の旅行をした。四年目は完全に落ち着き平穏だった。
ときどきサークル仲間に会って社会人の辛さを打ち明けあった。大学時代と変わらず何とかなるでしょ、と互いに励まし合った。
繭子と一緒に住んでいることは知れ渡っていた。友達同士、仲が良くていいことじゃないかと思われていた。不満はあったけれど、そう思わせておけば物事が丸く収まることは分かっていた。
「別れたい」
一緒に住むようになって四年目の十二月初め、繭子から別れを切り出された。奇しくもベッドの上でニュースをぼんやりと見ている時だった。
慌ててベッドから立ち上がり、繭子を見つめた。
「ごめん」
繭子は気まずそうに目線をそらしていた。
「私を見て」
彼女は床を見つめたままだった。
「私を見て!」
とにかく繭子が私を見てから、話をしたかった。でも私を見つめようとしなかった。苛立って繭子の顔を両手で包み、私の方を向かせた。
「ごめんなさい」
繭子は泣いていた。なぜ泣いているのか理解できなかった。なぜ謝れたのか分からなかった。
分かったのは、彼女の心が、もうこのベッドにないことだけ。
恋をした。その人との子どもが欲しい、と繭子は言った。相手は大学時代のサークル仲間で、私と繭子の関係を知っている。彼と結婚したい。
事実はそれだけだった。けれど繭子はひとつひとつ慎重に言葉を選んで話した。黙ったり、言葉につかえたりしながら、丁寧に話した。
繭子ことが、もう分からなかった。彼女が恋をしたことも、子どもを欲しがっていたことも、サークル仲間に裏切られてことも、無断で関係を打ち明けていたことも、結婚したかったことも、私は何ひとつ知らなかった。
最初は呆然とするしかなった。繭子の話を一方的に聞くことしかできなかった。
その後、目眩を起こすほどの怒りに襲われた。
お皿もグラスも割った。壁にも穴があいた。投げられるものは全部投げた。壊せるものはすべて壊した。一番酷かったことは、私が繭子を手酷く抱いたことだった。彼女は顔を苦痛で歪めながらも耐えた。まるでセックスは自分に課せられた罰であると言いたげに、ひとつの呻き声も上げなかった。
こんなことをしたかったんじゃない。罰なんて与えたくない。私は繭子を大事に、大切にしたかった。ぞんざいに、乱雑に触れたいなんて一度も思ったことはない。けれど、もうそんな触れ方しか出来なかった。
ベッドは冷え切って、今までとは違うものになった。
クリスマス直前に私は力尽きた。二週間荒むだけ荒んで、何も出来なくなった。動けなくなった私を、繭子はすまなそうに見ていた。彼女は私に、心の底から同情していた。けれど、優しい言葉はかけず、困ったように下を向いて長い睫毛を震わせていた。
クリスマスは部屋で過ごすことに耐えられず、終電ぎりぎりまで外で過ごした。帰ると、繭子は料理を作って私を待っていた。
ラザニア、レタスが山盛りのサラダ、店で買ったチキン、ふたりが好きだった白のスパークリングワイン。繭子は豪華な食事を用意していた。けれど、ラザニアは冷えてチーズは固まり、サラダも放置されたせいでしなびて、チキンは表面に油が浮いていた。ワインを入れたシャンパンクーラーの氷は、ほとんど溶けて水になっていた。
繭子が詫びの意味を込めて丁寧に作り、準備した食卓は悲惨だった。そしてもう終わりなのだと悟った。彼女に愛されないことは、我慢できない。けれど、愛する繭子にみじめになって欲しくなかった。私は意地になったように、冷めきった料理を食べた。
「いいよ。もういい」
投げやりで諦めたような言い方だった。私は繭子に優しい言葉すらかけることが出来なくなっていた。
切り出されて、別れるまでたった2週間だった。けれど、その時間は付き合っていた4年より長く感じた。
※
撫でられたスプーンは自分の体温のせいで生ぬるくなった。このスプーンは荒れに荒れた頃に投げられ、落ちて、忘れ去られたものだろう。今ここにスプーンはあるが、互いの口に運んで、舌に触れ、唾液が絡んだものではなかった。ステンレスで出来た、ただの食器だ。
ソファも食器もテーブルも新しく買った。けれど、ベッドだけはそのままにしていた。
ベッドは処分するには大きすぎて手間がかかる。そんなことは言い訳だと知っている。
ささやかな歓びに満ちた日々も、苦いだけの痛々しい記憶も、すべてベッドが覚えている。私は終わってしまった愛を捨てられない。最初は祈りのつもりだった。やっぱりダメだった、香が好きだよ。困った顔で再び繭子が現れてくれればいい。けれど、そんなことは起こらないと知っていた。結局そんなベッドで眠ることは、自分を呪うだけだと分かった。しかし自分を呪ってもベッドだけは捨てられなかった。
ぼんやりと過ごしていると、冬休みが終わった。一、二年生は通常通り登校しているけれど、三年生は自由登校なので生徒の数が少なく感じた。相変わらず忙しいことは忙しい。やることがあるのは救いだ。仕事は悩みを忘れさせてくれる。
「香先生」
ドアの方を振り向くと、井田先生が立っていた。
「何か御用ですか?」
「コーヒー飲みに来た」
「職員室でも飲めるでしょうに」
井田先生は曖昧に笑っていた。私は腰を上げ、ケトルに水を溜めた。
繭子と別れた三年前の冬休み明け、私は猛烈に仕事をしていた。する必要のない業務を抱え込み、こなすことにムキになっていた。そして二月に文字通り倒れ、三週間の休養を医者から言い渡された。
その穴埋めをしてくれたのが井田先生だ。年度末で忙しいのに私の仕事を肩代わりしてくれた。私が無駄に引き受けた業務も、井田先生は効率的に処理して、きっちりと年度を締めた。
井田先生のほほ笑みは、私を諫めるためだと気づいた。
「クマができてる。ちゃんと寝てる?」
「睡眠時間は確保してます」
私に触れようと、井田先生は腕を伸ばした。彼女の手のひらに頬を寄せた。井田先生に嘘をつく必要はない。
「いい兆候だね」
「無意味な抵抗はしない方がいいでしょう」
久しぶりに他人の温もりに触れた。緊張して、ささくれ立った気持ちが、触れられた皮膚から、井田先生の手のひらへ吸い取られていくようだ。井田先生に愛される人は幸せだろうなと思いながら、掌の上で自分の顔を転がした。ガタッという音に驚いて、反射的に井田先生から離れた。
分かりやすく困惑している山崎がいた。
私と井田先生が、逢瀬を楽しんでいるように見えたのかもしれない。私は冷ややかに山崎を見つめた。密会を邪魔された女性は、他人に非情だ。私はそんな女のように振る舞った。井田先生には申し訳ないけれど厄介事を処理するにはいい機会だった。
屈辱を感じたのだろう。山崎はくちびるを噛みしめ俯いた。そしてそのまま走り出した。廊下に激しい足音が響く。
「誤解させちゃったかなあ」
井田先生は肩をすくめた。
「よかったんじゃないんですか」
「そう」
「それより私に構いすぎると、恋人がヤキモチを焼くのでは?」
「あの子は、私の愛を信じてるから」
「ノロケとかウザいんで、コーヒーは職員室で飲んでください」
「つれなーい」
井田先生を保健室から追い出すと、廊下にピンクのウサギのキーホルダーが落ちているのを見つけた。
山崎は問い詰めてくるかもしれない。面倒事はさらに厄介になっただけかもしれないと思った。
「バッグのチャームを落としちゃったみたいで」
山崎は案の定、翌日保健室に現れた。
「うん。これかな?」
引き出しからピンク色のウサギを取り出し、山崎に渡した。
「こんなの言い訳だって、先生は分かっているでしょう」
私は黙っていた。
「井田先生とお付き合いしているんですか?」
「どうだろうね」
「私は香先生が好きなんです」
「だから?」
「……だから、私を好きになってください」
山崎の切実さは可愛いなと思った。だから私も誠実に答えなくてはいけないと思った。
「私はね、山崎が思うような人間じゃないし、山崎に好意を向けられるほど立派でもない」
淡々と言葉を続ける。
「君は私に夢を見ているだけだよ。冷静になれば、他の人間の方が魅力的に見えると思う」
山崎は私をにらみつけ、手を上げた。
「そんな冷静さなんて、クソ食らえ」
頬がしびれて、熱い。不意の平手打ちのせいで、口の粘膜が切れたようだ。血の味がする。
「満足した?」
頬はきっと赤くなっているだろう。けれど、痛がっている場合ではなかった。
山崎は私の言葉で、我に返ったようだ。自分のしたことの意味を知って目が潤んでいる。
「もう帰りなさい」
そう言うと、山崎は弾かれるように出て行った。
山崎は賢い生徒だ。自分の気持ちが拙いことを知っているだろう。
時には、私が感情のはけ口になることも大事だ。迷惑な話だけれど、それも仕事の一環なのかもしれない。痛む頬にそっと手を寄せた。女子校で先生をやっていると、損な役回りばかりさせられている。けれど、彼女たちはそうやって大人になっていく。
仕事帰りに井田先生を、飲みに誘った。私の赤いだろう頬を見て、ほほ笑んだ。
「誤解を招いたかな?」
「今度こそ諦めてくれるでしょう」
井田先生に山崎のことはひと言も漏らしていない。養護教諭には守秘義務がある。けれど、勘のいい井田先生だ。女子校。卒業が近づいている。普段から好感を持たれている教師。この三つが揃えば何が起こるか、よく知っているだろう。
「井田先生はどうしているんですか?」
井田先生はきっと生徒から引っ張りだこだろう。この学校で一番綺麗で、格好よく、凛々しい。けれど、生徒の好意を前にしても、決して動揺しない。
「一概には言えないよ。もう少し場数を踏めばいいんじゃない?」
私はため息をついた。井田先生のようには振る舞えない。私が納得できない表情をしていたのか、井田先生は言葉を続ける。
「彼女たちをひとりの人間として見ればいいんだよ。香先生は大人気ないところがあるから」
「よく分かりません」
「少女とは言っても生徒は大人で、ひとりの女だから」
井田先生は諭してきたが、実感は湧かない。山崎が生々しい女には見えなかった。大人にも見えなかった。おもちゃを買ってもらえないとただ駄々をこねる小さな子どもにしか見えなかった。
憮然として枝豆を口にした。塩が傷口を刺激して、顔をしかめた。
卒業式は目の前だった。生徒たちは浮足立ち、教師も含め学校にいる人間は寛容になる。
何人かの生徒から好意を伝えられ、私は誠実に応えた。彼女たちは聞き分けがよかった。自分の気持ちを押し付けるようなことは決してしなかった。一種の通過儀礼だ。
山崎はあれ以来保健室には現れていない。山崎は、感情的になることをよしとしないタイプの生徒だ。きっと自分の行為を恥じているのだろう。
身勝手だけれど、少しだけ寂しいと感じた。鬱陶しく付きまとっていた山崎を構うことは嫌いではなかった。久しぶりに会った親戚の子どもが可愛いと感じるように、山崎は愛らしい生徒だった。私に不必要な好意さえ持たなければ、贔屓(ひいき)していたのかもしれない。
卒業式を控え嵐の前のように静かだ。年度末は必ず忙しくなる。とりあえず卒業式が終わるまでは、と教師たちは自分にも言い聞かせている。束の間の平穏な日々に私も甘えている。
柔らかい日差しのおかげで保健室は暖かかった。PC画面をぼんやりと見ていると、三人の生徒が保健室に駆け込んできた。
「香先生!」
普段は聞かない慌てふためく生徒の声に私はイスから立ち上がった。
「どうしたの?」
「三年生が、体育館の壇上に上がる階段を、踏み外して……」
息を切らしながら生徒は説明した。
「山崎先輩が、答辞を読む練習をしていて、」
私は体を固くした。そして一気に疲労を感じてデスクに手をついて、ため息を吐いた。あの子は私を振り回すために、この学校にいるのかもしれない。
「分かった。とにかく行くよ」
私は迷うことなく走り出した。先生早すぎ、待って、という生徒の声が背後から聞こえたけれど、気に留めることは出来ない。全力で体育館まで走った。
山崎の怪我はそれほど深刻なものではなかった。捻挫で全治三週間。一週間ほど松葉杖を突かなくてはならないけれど、大事には至らなかった。
体育館で山崎は、生徒や教師に囲まれて、申し訳なさそうな顔をしていた。心配させないように強がっていた。けれど、無理やりに作った笑顔は、苦痛を際立たせるだけで、胸が締めつけられた。
応急処置をして、車を持っている先生に病院に運ぶようにお願いした。体育館から保健室、保健室から職員室。あちこち走り回った。病院に向けて車が学校から出ると、一気に疲労を感じてぐったりとした。
「香先生」
「怪我の調子はどう?」
保健室に山崎が現れることにもう驚きはなかった。
「おかげさまで昨日松葉杖を病院に返しました。本当にご心配をおかけしました」
「山崎は最後まで活きがいいんだから。おとなしくとっとと卒業しなさい」
山崎は吹き出して笑った。
「何がおかしいの」
「香先生の本音を初めて聞いた気がします」
山崎はおかしそうに無邪気に笑っている。
「やっぱり、すごく好きだなあ」
うん、好き、と山崎は独り言つ。
「何度言っても私の答えは変わらないよ」
「先生も誰かをすごく好きになったこと、あるでしょ」
私は押し黙った。
「先生はときど悲しそうに見えたんです。いつも優しいし、思いやりに満ちた先生だと思っていました。けど、それだけじゃない。とても寂しそうに見えたんだ」
黙ったまま、私は山崎を見つめた。
ただのカンだと思いたかった。けれど、そうじゃないとは分かっていた。山崎は私を理解しようと努力していた。
「そんな先生を抱きしめて、髪を撫でたかった。卒業すれば、私はもう大人で、先生を抱きとめられると思ったんです」
山崎は恥ずかしそうに私から目をそらしながら言葉を続ける。
「先生は私を生徒としてしか見てくれないし、分かろうとしてくれなかった。それが悔しくて、殴ってしまいました」
ごめんなさい、消え入る声で言って、私に頭を下げた。
私はイスから腰を上げて山崎の前に立った。
「ごめん」
山崎と向き合った。
「恋愛はもういいんだ。私は彼女を愛していた。それだけで十分なんだ」
私の言葉を聞くと、山崎はしゃくり上げて泣き始めた。
「なんで、泣くの?」
「失ってしまったことはとても寂しいのに先生が泣かないから。代わりに私が泣いているんです」
繭子を愛していた。
私の人生を変えた繭子を大事にしたかった。大切にしたかった。離れたとしても、彼女は私を変えた重要な人間だった。だからこそ本当は、酷いことをしたくなかった。
駄々をこねたのは山崎ではなく、私だった。長い間依怙地になって変わることを拒んでいた。受け入れようとしなかった。ひとりきりになることが怖かった。
山崎のように繭子の前で泣ければよかったのに。心がもう私の近くにないことが悲しいと、寂しいと言って泣けばよかった。
「ありがとう」
私がそう言っても山崎は泣き止まない。
私の代わりに泣く山崎を抱きしめる愚かさと勇気があればいいと思った。体面を気にせず、愛おしいという気持ちだけで彼女を包みこむことができたら幸せだろうと思った。
けれど、出来なかった。大人だからじゃない。私はずるい人間だから愚かにはなれない。そして掛け値なしの勇気ももう残っていなかった。
「大丈夫だよ」
山崎に向かって言った。山崎が気にすることではない。それと同時に、私はもう大丈夫だと思った。
山崎が好きだ。抱きしめることは出来ないけれど、山崎の涙だけで十分だった。涙の意味は愛だと知った。涙は私の虚ろな心を満たす。
私たちは長い間保健室で佇んでいた。
渡り廊下に地理の先生が立っていた。老教師である彼は桜を見つめていた。
「卒業式日和ですね」
「生徒は我々のことなんてすぐ忘れて大人になる。まったく冗談じゃない」
「同感です」
私も桜を見つめて苦笑いをした。先生は愚痴をこぼして満足したのか体育館の方へ大股で歩いて行った。
山崎はいつか私を忘れて幸せになるだろう。私は山崎にとって過去の記憶になるだろう。私は二度と山崎のように情熱的に人間から思われることはない。そして私も誰かを強く思うこともない。けれど、愛されないことが不思議と寂しいと思わなかった。
冬に大事なふたりの女を失った。ひとりは私が愛した女で、ひとりは私を愛した女だ。愛は確かにあった。その中で私は息をして、揺蕩(たゆた)った。その記憶以上に大事なものはない。私は愛の中で生きたことを、二度と忘れない。
だから寂しいままでもいい。
「何してんの?」
井田先生が歩み寄ってきた。
「桜を見て感傷に浸っていたんです」
「卒業式だからねえ」
「ええ」
私は涙ぐんだ。井田先生は気づいていたのか、わざとらしく伸びをして歩き出した。
「そろそろ式が始まるよ。行こう」
私は頷いて歩き始めた。
「今度引越しするんです」
「年度末に大変だねえ」
井田先生と、肩ひじを張らない話をしながら体育館へ向かう。
冬が終われば春になる。季節の移り変わりはとても美しい。
〈了〉
