(PDFバージョン:D-3projectnokoro_tanikoushuu)
ことの重大さに気づいたのは、しばらく時間がすぎてからだった。
訃報に接したときは、とてもそんなことを考えている余裕がなかった。誰もがそうだったように、ただもう慌てふためき、動揺して足が地につかない状態だった。たしかにお歳を考えれば、いつそんなことが起きても不思議ではなかった。ことに最近は会うたびごとに痩せられて、動きも落ちていたように思う。だから心の準備はできていたはずなのだが、実際には前述したとおりの体たらくだった。様々な思いが交錯して、とても冷静ではいられない。それでも少しずつ落ちつきを取りもどせたのは、多くの著作があとに残されていたせいかもしれない。人の命は有限だが、著書は時をこえて読まれつづける――この言葉が、これほどよく似合う人は他にいない。だからこそ、一人のファンとして現実とむきあうことができた。新作を眼にすることは二度とないし、その喪失感を埋めることはできそうにない。だが膨大な作品群は、何時でも何度でも読み返せるではないか。
そう考えて、自分の中で折りあいをつけたつもりだった。ところが実際には、まだ冷静になりきれていなかったようだ。そら恐ろしい事実に気づいたのは、さらに時間がすぎてからだったと思う。ちょっと待て。すると自分は、この世で唯一の存在なのか。他ならぬ小松さん本人と創作の時間を共有し、作者の一人として物語が生みだされていく瞬間に立ちあった――そんな希有ともいえる経験をした人物は、他にいないのではないか。私にとって『日本沈没 第二部』は、そのような意味を持つ物語といえる。
無論だからどうだという話ではない。厳密にいえば(そしてノンフィクションにまで範囲を広げれば)『第二部』以前にも、いくつか前例と呼べるものがある。それにプロジェクトの実行当時は、あまり特別なことだという認識はなかった。自分たちの行為が先例となって、次々に同様の企画が実現するものだと考えていた。だから空前にはなるかもしれないが、絶後にはならないはずだった。ところが実際は、こういう結果になった。期せずして私は、非常に稀な経験をさせていただいた。小松さんとおなじ目線で、次第に形をなしていく物語を見守ることになったのだ。
これは得がたい体験なのだから、記録を残しておくべきだ。それはわかっているのだが、実際には思ったほど容易ではなかった。あまりにも濃密な時間を、どう記述するべきなのか。とはいえ概略だけでも書きとどめておかないと、いずれ記憶は風化する。さらに恐ろしいのは、記憶の混乱と変質だろう。厄介なことにこの種の記録は、発信されると同時に一人歩きをはじめる。時には話に尾鰭がついて、事実とかけ離れた風聞に発展することもある。だが、躊躇は許されない。荒削りなのは承知の上で、第一歩を踏み出してみることにする。
『第二部』制作のための「D-3」プロジェクトが動きだしたのは、2003年が終わろうとするころだった。ほぼ三年ちかくにわたったプロジェクト期間のうち、最初の一年あまりは取材と基本構想の取りまとめにあてられた。私や森下一仁さんなど数人のプロジェクトチームが編成され、一か月に一度程度の割合で会合がもたれた。その体制で取材や構想会議が開かれるのだが、小松さんは一貫してチームの牽引役だった。
私にとっては、異世界を垣間見るかのような体験だった。小松さんに鼻先を掴まれ、引きまわされているのとかわらない。視野がひろがるとか、異質な体験をするといったレベルではなかった。古井戸の底に棲みついていた蛙を、いきなり宇宙空間に打ち上げたようなものだ。これはえらいことになったと思ったが、いまさら後には引けない。出来の悪い学生に逆もどりした気分で、なんとか遅れずについていった。
当時すでに七十代の前半だったにもかかわらず、小松さんの知的好奇心はいささかも衰えをみせていなかった。さすがに体力は低下していたようだが、精神的なタフさはそれを上まわっていた。かえって若い我々の方が、先に体力が底をついて動けなくなることさえあった。驚くべきことに小松さんは、その間も集中力が落ちていなかった。十時間以上も話しつづけているのに、疲労している様子をまるで見せないのだ。
たとえばある日の会合は、午後三時ごろからはじまった。この日は取材の予定を入れておらず、チーム内部の討議に集中するはずだった。すでに取材を開始してから、半年がすぎていた。その間に物語の基本構想についても並行して討議を重ねていたから、大雑把な方向性くらいは明らかになると考えていた。ところが時間がすぎても、一向にまとまる気配がない。小松さんの話が脱線に次ぐ脱線で、本筋から離れる一方なのだ。では退屈かというと、そんなことはない。無類に面白く、知的好奇心を刺激してくれる。このときまでに我々は、小松さんの話を聞く術を身につけていた。慣れてしまえば、特に困難なことはない。時間を気にせず心を開放して、流れこんでくる情報を受け入れればいいのだ。身構えることはない。地球物理学や海洋工学、さらにはジャガイモの花やラオスの煙管など話題は多岐にわたる。小松さんは難解な専門用語を使うことなく、我々のレベルにあわせて解説してくれた。最初のころと違って、苦労してついていくという感覚はない。小松さんのペースにあわせてしまえば、心地よく時を過ごすことができる。
その日もそうだった。午後から夕食をはさんで真夜中ちかくまで、小松さんの解説を拝聴していた。ときおり小松さんに質問される以外は、ただ話を聞くだけでよかった。結論らしきものは出なかったが、なんとなく得をした気分になっていた。とはいえ終電の時刻が近いことでもあるし、今夜はそろそろお開きかと思った時だった。ほろ酔い機嫌の小松さんが、皆に酒をすすめはじめた。ようやくエンジンがかかって、構想の取りまとめに入ったらしい。だが話のペースは、まったく変わらない。あいかわらず脱線をくり返しながら、少しずつ本質に近づいていく。そして明け方が近づくころ、突如それまでの成果を無視するかのようなアイディアが飛びだした。日本列島の沈没が原因となって次の氷河期がはじまるという『第二部』の基本構想は、このようにして決まった。
その一方で、取材も精力的におこなわれた。こちらから話を聞きにいくこともあったし、小松さんの東京事務所であるイオに先生を招いてレクチャーをお願いしたこともあった。またストーリーの構成上、重要な大道具となる施設を見学にいったこともあった。その準備段階から、小松さんは陣頭で指揮を取られた。緻密な物語を構築するには何が必要か、そのためにはどこへ行って誰に何を聞けばいいのか。さらには参考となる施設や組織なども、過不足なくピックアップされた。
驚くべきことに小松さんは、そのすべてと人的なつながりがあった。直接の面識はなくても、紹介してくれる人なら容易にみつけることができた。人脈の広がりがどの程度のものなのか、想像することさえ困難なほどだ。決して誇張ではなく、日本中の学者や研究者とアクセスが可能ではないだろうか。しかも我々の取材申し込みが、断られたことは一度もなかった。「小松左京の取材」というだけで、どの取材相手も快諾してくださった。実績の積み重ねによる信頼感が、相手を安心させているのだろう。
そして取材の現場でも、小松さんは座をリードしていた。漠然と予想していたとおり、小松さんはどの学問分野でも専門家と対等に議論ができた。さすがに我々を相手にしているときと違って、縦横無尽に話しつづけることはない。取材相手の好奇心をかきたてて、興味深い話題を引き出すことに成功していた。小松さんのたくみな誘導に乗せられて、相手の方が次第に身を乗りだしてくるのがわかる。そしてとっておきの情報を披露してくれるのだが、残念なことにオフレコの話題も多かった。
それでようやく、事情がわかった。相手が取材を断らないはずだ。これほど濃密な時間を共有する機会など、そう多くはないはずだ。事前にそのことを知らなかったとしても、予感があったと考えてよさそうだ。小松さんなら自分の専門分野の面白さを熟知した上で、それを引き出してくれるのではないか。
そのようにして取材は進められ、大まかな物語の骨格は出来上がった。そして充分な準備期間のあと、実際の執筆にとりかかった。この段階になると小松さんは、いっさい口出しをされなかった。だから物語の展開に瑕疵があるとすれば、それは私の責任ということになる。