(PDFバージョン:komatusakyousiwosinonnde_kawamatatiaki)
一九六九年、九州で開催されたSF大会(Qコン)でのこと。当時学生だった私は、一の日会の連中と一緒に、一足早く会場の日田温泉に乗り込んでいた。ところが、大会前夜、台風か何か影響で、ゲスト作家の多くが途中足止め。そんな荒天をモノともせず、一人、タクシーを飛ばして駆けつけてきたのが、小松左京氏だった。
『復活の日』『日本アパッチ族』……さらに『果しなき流れの果に』など、巨編、話題作を連発していた小松さん。そんな氏が演壇に登り、講演をはじめた。
「……実は今、ある出版社で、非常に大きな構想の作品を準備中である。そのアイデアというのは……」と切り出して、その頃、最新の学説であったプレートテクトニクスを解説し、「これを基に、数万年かかる地殻変動を加速してやることで、日本列島を太平洋に沈め、結果、祖国を失った日本人が、どのように民族的文化的同一性を保っていけるかを探る思考実験を目指す……」といった内容を熱っぽく訴えたものである。
言うまでもなく、ここから生まれたのが『日本地没』であり、我々は、図らずも、その孵化段階に立ち会う幸運を得たのだ。
それから十年ほど後の話。高千穂遙が、一緒にハワイへ行かないかと誘ってきた。なんでも、ガラパゴス取材からもどってくる小松さんが彼に「セブンスターが切れたから買って届けてくれ」と頼んだらしい。こりゃ面白いというので、永井豪さんや中島梓さんも一緒にワイキキへ出かけ、現地で御大を出迎え。
すると、いきなり、「よし、麻雀やろう」となって、ハイアット・リージェンシーの客室に雀卓を据え、連夜の対局。昼間、みんなで地元の映画館へ出かけて「エイリアン」を観たり……。
ちょうどその頃、私は、はじめての新書書き下ろし『海神の逆襲(コマンド・タンガロア)』を執筆中で、南洋の神々についての資料を集めていた。その話をすると、「それじゃあ」とイースト・ウェスト・センター内の民俗学博物館に案内してくれ、あれこれ、蘊蓄と示唆を与えてくれた。忘れがたい思い出である。
とはいえ、すべてが愉快な話ばかりではない。ある日、何かの集まりの後、作家クラブの何人かで銀座の雀荘へ繰り込んだ。たまたま二抜けで休憩中だった小松さん、「おい、腹減った。俺がおごるから、鰻重食おう」ということで、特上を人数分注文。
小松さんは、届いた鰻重をさっさと食べ終えるやいなや、「そうだ。これから、ちょっと人に会わなきゃならんので、先に失礼する」と、そそくさ帰ってしまったのだ。
結局、残った面子で、場代を含め、小松さんの分を支払うハメに。うーむ……。
おまけのエピソードを、もうひとつ。ある時期、私は、「麻丘ちあき」というペンネームを使い、〈月刊スターログ〉や〈劇画アリス〉に連載ページを持ち、SFマガジンなどでも各種レビューを書いていた。この「麻丘ちあき」は、女子高生という設定。お察しの方もあろうが、橋本治の「桃尻娘」に触発されてのものである。
そして、しばらく後、あるパーティの席上で、小松さんにつかまった。
「マタちゃん、知ってるか? あんたと同じ名前で、イキのいい評論家が出てきたぞ。なんでも女子高生らしい。うかうかしてると、追い抜かれるぞ」とかなんとか。
バレたら、ただじゃ済まなさそうなので、私は、慌てて、麻丘ちあきを「受験準備のため」と称して引退させた。危ないところだった。