「パラサイト惑星 第三部」スタンリイ・G・ワインボウム(大和田始・訳)

      第3部

 パトリシアは音もたてずにドアの外に出ると、西に折れて〈涼しい国〉に向かった。ハムはしばらくためらったものの、後に続いた。若い女性が独りでそのような旅に出るなど認めがたいことだった。彼女はハムが存在しないものとして行動していたので、彼はただ黙々と、不機嫌に、怒りを覚えつつ、数歩遅れて後を追った。
 3時間以上もの間、二人は沈むことのない太陽の陽の下を進み、ジャック・ケッチの木の不意打ちをかわしたが、行程のほとんどは、最初のドーポットが通過したあとの、まだ黴[かび]も植物もまばらな道だった。
 ハムは若い女性のもつ機敏さ、軽やかな優美さに驚かされた。彼女は現地人顔負けの確かな技量をもっていて、すいすいと歩を進めた。その時、記憶が甦った。彼女は現地人といっても間違いではなかった。パトリック・バーリンガムの娘は、金星で生まれた初めての人間の子供で、出生地は父親が設立した植民地、ヴェノーブルだった。
 教育を受けるために、8歳の子供だった彼女が地球に送りだされた時の新聞記事も思いだした。その時、彼は13歳だった。今は27歳。するとパトリシア・バーリンガムは22歳だ。
 二人の間では一言も言葉が交わされることはなかったが、ついにいらだった彼女が振り向いた。
 「よそに行って」彼女は怒りにまかせて叫んだ。
 ハムは歩みを止めた。「邪魔はしていない」
 「でもボディーガードは要らない。私はあなたよりも優秀な〈集熱[しゅうねつ]地帯人〉よ!」
 その点について、彼は異を唱えなかった。彼が黙っていると、一瞬の後、彼女は激しく言い放った。
 「ヤンキーは嫌い! ああ、嫌い、嫌い!」彼女は向きをかえて歩き出した
 その1時間後、二人は泥の噴出に見舞われた。何の前触れもなく、熱水を含んだ泥が足元から噴き上がり、草木が激しく揺れた。慌ただしく泥靴を足にくくりつけている間にも、周りの重量級の樹木はくぐもった唸りをたてて沈んでいった。ハムはまたしても彼女の技倆に舌を巻いた。パトリシアは不安定な地表面を、彼には対抗できないほどの速さで滑って行き、足をばたつかせている彼は、はるか後方に離された。
 不意に、彼女が立ち止まるのが見えた。それは泥の噴出の最中では危険なことで、何か緊急事態が発生したとしか考えられなかった。彼は急いだ。30メートルにまで近づくとその理由が判明した。右の靴の紐が切れて、彼女はなすすべもなく立ちつくしていたのだ。左足でバランスをとっているものの、残された椀状の靴はゆっくりと沈んでいた。今にも黒い泥が靴の縁を越えようとしている。
 彼女の目はハムが近づくのをとらえた。彼が大股で彼女の側に達すると、彼女は彼の意図を察して、声を発した。
 「だめよ」彼女は言った。
 ハムは注意深く身をかがめ、彼女の膝と肩のところに腕を差しこんだ。彼女の泥靴はすでに埋もれていたが、彼は自分の泥靴の縁を危険なほどに泥の表面に近づけながらも、力強くもちあげた。ごぼっという大きな音をたててパトリシアの身体は宙に浮き、彼女は彼の腕の中で身じろぎもせず、どこで陥没するかわからない泥面を彼が慎重に滑る際に、バランスを崩さないようにした。彼女は重くはなかったが、うまくいく可能性は無に等しかった。泥は椀状の靴のふちすれすれのところをかすめ、ゴロゴロと音をたてた。金星表面の重力は地球よりも少し小さいが、一週間もすると人間はそれに慣れてしまい、重さが20%少なくなることの利点をすぐに感じなくなってしまう。
 100メートルほど移動すると、足元はしっかりしてきた。ハムは彼女を降ろし、泥靴の紐をほどいた。
 「ありがとう」彼女は冷たく言った。「勇敢だったわ」
 「どういたしまして」彼はそっけなく返した。「これで一人旅をするというきみの考えも引っ込めざるをえないだろう。泥靴が両足揃っていなかったら、次に泥が噴出した時がきみの最後になる。これからは一緒に行動するだろうね?」
 彼女の声は興ざめなものだった。「木の皮で代用の靴を作れるわ」
 「現地人でも木の皮では歩けない」
 「それなら、1日でも2日でも、泥が乾くのをじっと待って、失くした靴を掘り起こすだけよ」
 彼は笑って、1万平方メートルはある泥原を指差した。「掘るって、どこを? そんなことをしていたら夏までここを抜けられないぞ」彼は反撃した。
 彼女は降参した。「またあなたの勝ちね、ヤンキー。でも〈涼しい国〉までよ。そこであなたは北に行き、わたしは南に行く」
       
 二人は歩き続けた。パトリシアはハムと同じくらい疲れを知らず、〈集熱地帯〉の事情にもはるかに通じていた。ほとんど言葉を交わすことはなかったが、彼女の最短ルートを選びとる勘の鋭さには驚かされつづけたし、目で見なくてもジャック・ケッチの木の不意打ちを感じ取っているようだった。ようやく二人が足をとめたのは、雨があがって食事をかきこむ機会が得られた時だったが、その時、彼はパトリシアに心の底から感謝することになった。
 「眠るかい?」と彼が提案すると、彼女はうなずいた。「あそこに〈友好的な木〉がある」
 彼はその木に向かって移動し、パトリシアはその後につづいた。
 突然、彼女はハムの腕を掴んだ。「これは擬態種[パリサイ]よ!」と叫んで、彼を引き戻した。
 まさにその瞬間! 偽の〈友好的な木〉は恐ろしい一撃を振りおろし、彼の顔まで数センチのところをかすめた。それは〈友好的な木〉などではなく、そっくりの偽物で、一見無害なように見せかけて獲物を近くにおびき寄せ、ナイフのように鋭い棘で殴りかかるのだ。
 ハムは息を呑んだ。「何だ、これは? 今まで見たこともないぞ」
 「擬態種よ! 見かけは〈友好的な木〉にそっくり」
 彼女は自動拳銃を取りだし、脈打つ黒い幹に弾を撃ちこんだ。黒ずんだ液体が噴きだし、弾痕のあたりはそこかしこにある黴に覆われていった。木は最後の審判をうけた。
 「ありがとう」ハムは気まずそうに言った。「命を救ってもらったようだ」
 「これでおしまい」彼女は真っ直ぐにハムを見つめた。「わかった? これでおあいこ」
 その後、二人は本物の〈友好的な木〉を見つけて眠りについた。目覚めるとまた歩き続け、そしてまた眠り、夜のない3日間を過ごした。泥の噴出は二度とはなかったが、その他の〈集熱地帯〉の恐るべき現象はすべて顔をだした。ドーポットは行く手を横切り、蛇蔓は音をたてて襲いかかり、ジャック・ケッチの木は邪悪な投縄を放ち、小さな這いまわるものが数限りなく足元にうごめき、スーツの上に落ちた。
 一本足[ユニペッド]に遭遇したこともあった。カンガルーに似た奇妙な動物で、強力な一本足で跳ねまわり、ジャングルを薙ぎ倒し、三メートルの嘴を振りかざして獲物を貫くのだ。
 ハムが最初の一発をそらすと、パトリシアは中空に飛び上がった一本足を撃ち落とし、ジャック・ケッチの木の強力な羽交い締めと容赦ない黴に対応はまかされた。
 またある時は、何か窺い知れない目的のために地面にのびていたジャック・ケッチの木の縄枝にパトリシアの両足は捕らえられた。縄の届く範囲に足を踏み入れたとたん、木はたちまち暴れだし、彼女は頭を下にして三メートルの高さの空中に吊りさげられ、ハムが苦心して縄を切って解放するまで、なすすべもなくぶら下がっていた。数回あったどの事件でも、二人のうちのどちらかが命を落としていても不思議ではなかったが、二人は協力して切りぬけた。
 ただし二人とも、冷たくよそよそしい態度を崩すことはなく、それが常態となっていた。ハムは必要がなければ若い女性に声をかけることはなく、彼女の方はごくたまに話さなければならない時には、彼の名前は用いず、ヤンキーとか密猟者と呼ぶのが常だった。それでも男は、雨が降ってバイザーを開けても安全になった短い時間に垣間見た彼女の顔のきびきびした美しさ、茶色の髪、水平に揃った灰色の瞳を思い出している自分に気づくことがあった。
 ついにその日が来て、西方から風が吹きつけてきた。おかげで冷たい風を吸えるようになり、二人にはまるで天国の空気のように思われた。それは下降風、惑星の凍りついた半球から吹く風、氷の壁の向こうから冷気を引きこむ風だった。試しにねじくれた雑草の表面をしごいてみたが、黴の生える速度は遅く、まばらで、勇気づけられた。彼らは〈涼しい国〉に近づいていた。
 〈友好的な木〉が見つかって、二人の心は軽くなった。もう一日の行程を行けば高地にたどりつき、フードをはずして、黴の心配をすることなく歩けるようになるだろう。25度を大きく下まわると黴は増殖することができないからだ。
 ハムが先に目を覚ました。しばらくの間、彼は声を出さず若い女性を眺めやり、木の枝が愛情のこもった腕のように彼女を包んでいる様子を見て微笑んだ。もちろん木の枝が食欲を覚えていなかったからだが、それは優しさのように思われた。彼の微笑みは少し悲しみの方へ傾いた。というのも〈永遠の大山脈[グレーター・エターニティ]〉を越えようとする彼女の非常識な決意をくじくことができなければ、〈涼しい国〉に到着することは別れを意味することが判っていたからだ。
 ハムはため息をつき、彼女との間の枝に下がっている自分の荷物に手を伸ばした。そのとき突然、彼は怒りと驚きの叫びを発した。
 クシクティルの莢[ポッド]! トランスキンの袋には裂け目があり、クシクティルは無くなっていた。
 その叫び声に驚いて、パトリシアは目を覚ました。その時ハムは、彼女の顔の奥に、皮肉で、あざ笑うような笑みを感じとった。
 「私のクシクティル! どこにいった?」彼は大声を出した。
 彼女は下を指差した。背の低い草の間に、黴のわずかな盛りあがりがあった。
 「あそこ」彼女は冷めたく言った。「あそこよ、密猟者」
 「きみは――」彼は怒りで喉を詰まらせた
 「そう、あなたが寝ている間に袋に切れめを入れた。英国領で盗んだ富を密輸することはできないのよ」
 ハムは顔が蒼ざめ、言葉を失った。「なんてやつだ!」ついに声を振り絞った。「あれは私が手に入れた全財産なんだ!」
 「でも、盗まれたものだわ」彼女は陽気なそぶりで指摘すると、可憐な足をゆらした。
 怒りに駆られて彼は身体を震わせた。彼はパトリシアを睨みつけた。半透明のトランスキンを光が通りぬけ、彼女の身体と丸みを帯びた細い脚の輪郭がうっすらと浮かんだ。「殺してやる!」感情を押さえた声が発せられた。
 ハムの手はひきつり、若い女は軽やかに笑った。絶望のうめきをあげながら、彼は荷物を肩にかけて、地面に飛び降りた。
 「こんなことになるのなら――おまえは山の中で死んでしまえばばよかった」彼は暗鬱にそう言って、西に向かって重い足を運んだ。
 100メートル離れたところで彼女の声が聞こえた。
 「ヤンキー! ちょっと待って!」
 彼は立ち止まることも、振り返ることもなく、歩きつづけた。
        
 半時間後、丘の上から振り返ったハムは、自分を追ってきている彼女の姿を目にとめた。彼は前を向いて先を急いだ。道は上り坂になり、彼の体力は彼女のスピードと技術を凌駕し始めた。
 次にちらりと振り返った時、彼女はかなり後方の揺れうごく点になっていた。疲れはててはいるものの執念で足を運んでいるのだろうと彼は思った。その姿に彼は眉をしかめた。泥の噴出に見舞われたら、必要不可欠な泥靴が欠けているのだから、為すすべがないのではないか、という考えが頭に浮かんだのだ。
 だがすぐに、泥の噴出がおきる地域ははるか彼方に去り、ここは〈永遠の山脈〉の麓[ふもと]だということに気づいた。ただ、いずれにせよ、関わりのないことだと判断して、彼は暗い気持ちになった。
 しばらくの間、ハムは川に並行して進んだ。間違いなく〈冥界の火の河[プレゲトーン]〉の名もない支流であった。これまでのところ、川を渡る必要はなかった。本来、金星のすべての水流は氷の壁に発し、黄昏地帯をよぎり、灼熱の半球に向かうものであり、それゆえ、彼等の進路と交差することはなかったのだ。
 しかし、平らな台地に到達し、北に向きを変えれば、川とぶつかることになるだろう。丸太をかけるか、条件が良くて川幅が狭ければ、〈友好的な木〉の枝を利用して渡らねばならない。水に足を踏み入れることは死を意味する。川には獰猛[どうもう]な牙を持った生き物が巣食っているのだ。
 ハムは平らな台地の端のところで、一度、惨憺[さんたん]たる事件に巻きこまれたことがあった。ジャック・ケッチの木の作った空地をじりじりと進んでいたときだった。突然、白い腐敗物が盛り上がり、樹木もジャングルの壁も巨大なドーポットの塊に飲みこまれたのだった。
 その怪物と、絡まって通りぬけられない植物の間に挟まれてしまい、できることはたった一つしかなかった。彼はすばやく火炎弾銃をとりだし、この怪物に向かって恐るべき轟音の火炎を放った。その火炎は何トンもの汚物を燃やしつくし、あとに残されたのは残骸の上で這いずり貪る小さな断片だけだった。
 火炎弾は、いつものことながら、武器の銃身に罅[ひび]をいれた。彼は銃身を交換する40分の作業――生粋の〈集熱地帯人〉ならそれほど時間はかからない――に取りかかりながら、ため息をついた。その火炎弾のコストはアメリカ通貨で15ドルにもなるのだ。爆発をおこす安物のダイヤが10ドル、銃身が5ドル。クシクティルを確保しているのであれば、何ほどのこともないのだが、今では懐にひびく。残っていた銃身が最後の一つであることに気づいて、彼はまたため息をついた。これからの旅では、すべてを倹約せざるをえない。
 ハムはついに平らな台地に到着した。〈集熱地帯〉の獰猛な捕食性の植物は影をひそめ、移動する能力のない本物の植物が現れ始め、涼しい下降風が顔にふきかかった。
 彼がいるのは、いわば高地の谷間だった。右手には〈小永遠山脈〉の灰色の峰々があり、その先には〈エロティア〉がある。左手には壮大できらびやかな城壁のように〈大山脈〉の広大な傾斜面が連なり、その頂きは上方2万メートルで雲に隠されていた。
 目の前には峨々たる〈狂人峠〉の登り口、両側には圧倒的な高峰があった。峠の高度は8000メートルだが、山脈の高さはさらに1万6000メートルもある。この嶮しい岩の裂け目を徒歩で渡った男がいた――パトリック・バーリンガムである――その道を彼の娘が辿ろうとしている。
 前方に影のカーテンのように見えるのは薄暮[はくぼ]地帯の夜側の淵である。この止むことのない嵐の領域で、絶えることのない雷光がいつ果てるともなく燦[きら]めくのをハムは目にした。ここで氷の障壁が〈永遠の山脈〉の山稜と交差し、冷たい下降風は圧倒的な山脈に当たって押し上げられ、暖かい上昇風ともみあい、果てしない嵐を生みだしている。それは金星以外の星では見られないような嵐であった。〈冥界の火の河〉の源流はその奥のどこかにあるはずだ。
 ハムは荒々しく壮大なパノラマを見わたした。明日、というより休息の後には、北に進路を変える。パトリシアは南に向かい、間違いなく〈狂人峠〉のどこかで死ぬだろう。一瞬、奇妙にも心痛む感情におそわれて、ハムは苦々しく眉をしかめた。
 死なせてやろう、プライドが高すぎてアメリカの入植地からのロケットを使おうとせず、一人で峠を越えようとするほどの愚か者なのだから。自業自得だ。気にすることもない。気を静めようとしながら、彼は寝る支度をした。〈友好的な木〉の上ではなく、はるかに友好的な種類の本物の植物の上で、しかも贅沢にもバイザーを開いたままで眠るのだ。
 自分の名前を呼ぶ声で目が覚めた。平らな台地を見渡すと、ちょうど分水嶺の上に頭をだしたパトリシアに目がとまった。どうやって跡をつけてきたのだろうと一瞬、彼は不思議に思った。草木が動き回り、足跡がたちまちかき消されるこの土地で、それはなかなかの手柄だった。しばらくして、ハムは火炎弾銃の爆裂のことを思いだした。閃光と轟音は何キロも先に届き、彼女はそれを見たか聞いたかしたに違いなかった。
 彼女が不安げにあたりを見まわしているのが見えた。
 「ハム!」また彼女は叫んだ――ヤンキーでも密猟者でもなく「ハム!」だった。
 気がふさぎ、声をあげないでいると、彼女はまた名を呼んだ。今度は褐色の引きしまった顔が見えた。彼女はトランスキンのフードを下げていた。彼女はまた声をあげ、元気なくわずかに肩をおとし、分水嶺にそって南に向きを変えた。彼女が離れていくのを見ても、ハムは鬱屈として声をあげなかった。森に隠されて彼女の姿が見えなくなると、彼は道を下り、ゆっくりと北に曲がった。
 足どりは重く、遅々として進まなかった。まるで目に見えない弾力のある接着剤に足が引っ張られているかのようだった。瞼[まぶた]には彼女の不安げな顔がうかび、耳には絶望的な叫びの記憶が響いていた。彼女は死に向かって進んでいるのだとハムは確信していた。あんな仕打ちを受けたのに、それでも彼は、パトリシアには死んでもらいたくなかった。彼女は充実した生活を送っており、自信にあふれていて、とても若く、何よりも、死なせるにはあまりにも愛らしかった。
 確かに、彼女は傲慢[ごうまん]で、悪辣で、自己中心的な悪魔で、水晶のようにクールで、無愛想だったが――瞳は灰色で、髪は褐色で、勇敢でもあった。とうとう彼は、憤りのうめき声をあげると、重い歩みを止め、踵を返して、猛烈なといっていいスピードで南に向かって駆けだした。
           
 〈集熱地帯〉で鍛えられた者にとっては、この地で若い女性の跡を追うことは、たやすいことだった。この〈涼しい国〉では踏みつけられた植物が元に戻る速度は遅く、そこここで、彼女が通った道を示す足跡や折れた小枝が目にとまった。彼女が木の枝を利用して川を渡った場所も、足を止めて食事をした場所も見つかった。
 しかし次第に引き離されているようだった。彼女の技術とスピードがハムを上回っており、足跡は着実に新しくなくなっていった。とうとう彼は足を止めて休憩した。平らな台地は壮大な〈永遠の山脈〉に向かってせり上がり始めており、昇り坂でなら彼女に追いつけるだろう。そこで彼はトランスキンを脱ぎ、その下に着ているパンツとシャツだけという贅沢な姿で、しばらく眠った。ここではそれで安全なのだった。永遠の下降風が、常に〈集熱地帯〉に向かって吹いているので、浮遊する黴の胞子は飛ばされ、動物の毛に付着して持ちこまれたものも最初の涼しい風でたちまち死滅する。〈涼しい国〉のまともな植物が彼の身体を攻撃することはないだろう。
 彼は5時間眠った。旅の次の「日」は、この国のもう一つの顔をみせた。山麓の生物は平らな台地に比べるとまばらになった。植生はもはやジャングルではないが、森であり、地球外の森であり、樹木に似た植物の幹は150メートルも立ちのぼり、樹葉ではなく花のようなものを広げている。〈集熱地帯〉を思いおこさせるものは、時折見かけるジャック・ケッチの木だけだった。
 さらに進むと、森の木はまばらになっていった。大きな岩の露頭や、何ひとつ生えていない巨大な赤い崖があらわれた。時おり、この惑星で唯一の空中生物、灰色の蛾のようなダスターの大群に遭遇した。鷹と同じくらいの大きさだが、叩くと砕け散るほどにもろい。高速で飛び回り、時には、小さな芋虫のようなものを捕えるために地表近くまで下降し、不思議な鈴のような音をたてる。そして、実際には4万5千メートルも離れているのだが、まるで頭の上にあるかのように、〈永遠の山脈〉がぼんやりとかすみ、その頂きは上空2万メートルに巻きおこる雲に隠されていた。
 ここでまた、跡をたどるのは難しくなった。パトリシアが頻繁に裸岩を登りこえていたからだ。しかし、少しずつ足跡は新しくなり、彼の力強さが再びものをいうようになってきた。その時、彼女の姿が目にとまった。木々が密生する狭い峡谷の両側の、巨大な断層崖の下だった。
 彼女はまず圧倒的な断崖に目をやり、次に岩の裂け目を見た。明らかに、それが障壁をよじ登るための手段を提供しているのか、それとも障害物を迂回する必要があるのかと思案しているようだった。彼と同じように、彼女もトランスキンを脱ぎ捨て、〈涼しい国〉にふさわしい普通のシャツと短いズボンを身につけていた。とはいえ、地球の基準ではとうてい涼しいとは言えないのだが。彼女はまるで古代のペリオン山の山腹に住む美しい森の精霊のようだと彼は思った。
 彼女が峡谷に入っていくのを見て、彼は急いだ。「パット!」と彼は叫んだ。姓ではなく名前を口にしたのはそれが初めてだった。峡谷の通廊に入って30メートルのところでハムは彼女に追いついた。
 「あなたなの!」あえぎ声で彼女は言った。疲れている様子だった。何時間も息をきらして急いできたのだろうが、目には訴えかける輝きがあった。「あなたはとっくに――あなたを探していたのよ」
 ハムの顔には彼女の輝きに対応するものはなかった。「聴くんだ、パット・バーリンガム」彼は冷たく言った。「君の行く末を心配する必要など無いのだが、それでも、君が死に向かって進んでいくのは見ていられない。頑固でどうしようもないが、それでも君は女だ。〈エロティア〉に連れて行くぞ」
 訴えかける輝きは消えていた。「本気で言ってるの、密猟者? 父はここを横断した。わたしにもできる」
 「君の父上が横断したのは確か真夏の頃だった。今日はもう夏至だ。君の足で〈狂人峠〉を越えるには5日、120時間以上はかかり、その頃にはもう冬に入りかけて、ここの経度では嵐の領域に近づいているだろう。気違いじみている」
 彼女は顔を赤らめた。「峠は十分な高度があるから、上昇風は吹かない。暖かくなる」
 「暖かい! そう――暖かくて雷が鳴るのだ」彼は口をつぐんだ。かすかに雷の響きが峡谷を伝っていった。「あれに耳をすませ。5日のうちにはあれが真上を通過する」彼は上方の草木ひとつない斜面に手を向けた。「金星の生命でさえあそこには足がかりを得られていない――それとも、避雷針を作れるほどの銅を手に入れたと思っているのか? 君が正しいのかもしれないが」
 怒りが燃え上がった。「あなたより雷の方がまし!」パトリシアは吐き捨てるように言ったが、そのあと急に穏やかになった。「あなたを呼び戻そうとしたのよ」打って変わった様子で彼女は言った。
 「私を笑いものにするためか」彼は辛辣に言い返した。
 「ちがう、謝りたかった。それに――」
 「謝罪はいらない」
 「でも伝えたかった――」
 「心配無用だ」彼はそっけなく言った。「きみの後悔に興味はない。災いはもう過ぎた」彼は眉をしかめ、冷たく彼女を見降ろした。
 パトリシアは気弱に言った。「でも――」
 何かが砕けるようなゴボゴボという音が彼女の声をさえぎり、彼女は悲鳴を上げた。巨大なドーポットが眼前に現れ、峡谷の壁から壁までを1・5メートルの高さで埋めつくし、押し寄せてきた。このような恐ろしい事態は〈涼しい国〉ではごく稀だが、規模は大きなものになる。というのも〈集熱地帯〉では食料が豊富なため、次々に分裂するからだ。それにしても今回のものは巨大で、河馬[ビヒーモス]と呼ぶにふさわしく、吐き気を催し悪臭を放つ腐敗物が何トンも、狭い道にせり上がった。二人は離れ離れにされそうになった。
 ハムは火炎弾銃を抜いて構えたが、パトリシアはその腕を抑えた。
 「だめ、だめよ!」彼女は叫んだ。「近すぎる! 飛び散るわ!」

        第4部に続く