「犬の心臓。ブルガーコフ(分載第二回)」

犬の心臓(分載 第二回目)
ミハイル・ブルガーコフ
堀内豪 訳

 えも言われぬ美しい花々が描かれた、太くて黒いふちどりのある皿の上に、薄くスライスした鮭の切り身やうなぎのマリネがのっている。どっしりした板の上には汗をかいたチーズ、周りを雪で囲った小さな銀の桶の中にはイクラ。皿の合間に、繊細なリキュールグラスがいくつかと、それぞれ違う色のヴォトカが入ったクリスタルのびんが三本。これらすべてのものが、小さな大理石のテーブルの上におさまっているが、そのテーブルは、ガラスの光と銀の光を放つ、彫刻入りの大きな樫の食器棚のそばに、具合よく置かれている。部屋の真ん中には、白いテーブルクロスで覆われた、霊廟のようにどっしりしたテーブル、その上には二人分の食器、教皇冠のように丸められたナプキン、黒っぽい色のびんが三本。
 ジーナが蓋つきの大きな銀の深皿を運んできたが、その中では何かがぐつぐつ音を立てている。皿から漂うにおいで、犬の口の中はすぐに唾液でいっぱいになってしまった。『セミラミスの庭(訳注:バビロンの空中庭園とも呼ばれる。アッシリアの伝説上の女王セミラミスの命により造られたとされ、世界七不思議の一つ。ここでは、セミラミスの庭のように奇跡的だという意味)だ!』と犬は思い、寄せ木張りの床を棒でたたくかのように、しっぽでたたきはじめた。
 「それはこっちへ!」フィリップ・フィリッポヴィチが待ちきれんとばかりに荒っぽく指示する。「ボルメンターリ先生、お願いがあるのですが、イクラには手をつけずにいてくれませんか。それから、もし親切な助言を聞き入れたかったらですね、イギリスのではなく、ロシアの普通のヴォトカをつぎなさい」
 美男――噛みつかれた人――既に白衣を脱ぎ、上品な黒の上下を身にまとっている――は広い肩をちょっとすくめると、礼儀正しくにっこり笑い、透明なヴォトカをついだ。
 「ノヴォブラゴスロヴェンナヤですか?(訳注:一九二四年にノヴォブラゴスロヴェンナヤ通りにあった酒工場から発売された、アルコール度数の低いヴォトカのことを指すと思われる)」と彼は尋ねた。
 「おやおや、君」と主人が応じる。「これはアルコールですよ。ダーリヤ・ペトローヴナが自分でとても上手にヴォトカを作るんですよ」
 「お言葉ですが、フィリップ・フィリッポヴィチ、あれはかなりいいものだとみなが認めていますよ、三十度ですし」
 「ヴォトカはね、三十度でなく四十度以上でなければいけません。これがまず第一点」フィリップ・フィリッポヴィチが説教口調でさえぎった。「第二に、何を入れているか知れたものではないでしょう。あの人たちが何を考えつくか、あなたにわかりますか?」
 「何でもありでしょうね」噛みつかれた人がきっぱり言った。
 「私もそういう考えなんですよ」フィリップ・フィリッポヴィチはそう言い足すと、グラスの中味を一気に喉へ流し込んだ。「え……うむ……ボルメンターリ先生、お願いですから、すぐこれを食べてごらんなさい、もしお気に召さないとあればね、私は一生あなたの仇敵ですよ。〽セヴィリヤからグラナダまで~」
 フィリップ・フィリッポヴィチ自身はそう歌いながら、魚用の銀のフォークで、黒っぽい小さなパンに似た何かを取った。噛まれた人もそれに倣った。フィリップ・フィリッポヴィチの目が輝く。
 「まずいかね?」口をもぐもぐさせながらフィリップ・フィリッポヴィチは尋ねた。「まずいかね? 答えなさいよ、先生」
 「これは素晴らしいです」噛みつかれた人は腹蔵なく答えた。
 「そうでしょうな……。あのですね、イヴァン・アルノリドヴィチ、前菜に冷えたつまみを食べたりスープを飲んだりするのは、ボリシェヴィキに殺されるのを逃れた地主たちだけですよ。多少なりとも自尊心のある人間は、温かい前菜を食すのです。そして、モスクワの温かい前菜の中では、これが最高なんです。かつてはスラヴャンスキー・バザール(訳注:モスクワにあるレストランの名前)で、見事に作られていたものですよ。ほら、お食べ」
 「食堂で犬に食べ物をくれたら」と女性の声がした。「そのあとでどうやっても、ここからどかなくなりますよ」
 「いいんだよ……。かわいそうに、ずっとおなかを空かせていたんだよ」フィリップ・フィリッポヴィチがフォークの先に刺した前菜を犬にくれてやると、それは手品のような巧みさで受け取られ、そのフォークはフィリップ・フィリッポヴィチが洗い鉢の中にがちゃんと音を立てて投げ込んだ。
 それから、ザリガニのにおいのする湯気が皿から立ち上った。犬はテーブルクロスの陰に、火薬庫の番人のような様子ですわっている。一方、フィリップ・フィリッポヴィチは張りのあるナプキンの端を襟元にはさむと、次のような教えを説いた。
 「食事というのはね、イヴァン・アルノリドヴィチ、複雑なものですよ。食べるには食べ方を知らなければいけない、だがね、大多数の人はまったく食べ方を知らないんです。何を食べるかだけではなく、いつ、いかに、ということも知っていなくてはならないんです!(フィリップ・フィリッポヴィチは意味ありげにスプーンを振った。)そしてその際に何を話すかということも。そうなんですよ。ご自分の消化について心配されるなら、私から親切な助言があります。食事の時に、ボリシェヴィズムと医学の話をしないこと。それから、これは絶対に従うべきですが、食事の前にソヴィエトの新聞を読まないこと!」
 「ふむ……でも他のはないんですよ」
 「それならどんなものも読まないこと。あのね、私は研究病院で三十人の患者を観察したことがあるのですがね。どう思われますかな? 新聞を読まない患者たちはこのうえなく気分がよかった。私が『プラウダ』を読むのを意図的に強制した患者たちは――体重が減少したのです!」
 「ふむ?……」噛みつかれた人はスープとワインで顔を紅潮させながら、興味深そうに反応した。
 「それだけではない! 膝蓋腱反射の低下、食欲不振、抑鬱状態」
 「何と!……」
 「そうなんですよ。ところで、私としたことが。自分で医学の話を始めてしまった。食事を進めた方がよいでしょう」
 フィリップ・フィリッポヴィチが体をそらせてベルを鳴らすと、暗赤色のカーテンのところにジーナが姿を見せた。犬は白っぽくて肉厚なちょうざめのかけらをもらったのだが、これは気に入らなかった。そしてそのすぐ向こうには、血のしたたるローストビーフの厚切りを置いてもらった。それを食らってしまうと、犬は突然眠くなり、もうどんな食べ物も見たくないという気持ちになった。『変な感じだなあ』犬は重くなったまぶたを閉じながら思う。『どんな食べ物も見たくないや。ところで、食事のあとに煙草を吸うってのは馬鹿げているなあ』
 食堂には、煙草の青くて不快な煙が充満している。犬は前足の上に頭をのせて、うとうとしていた。
 「『サン・ジュリアン』はなかなかいいワインですよ」犬は夢うつつで耳にした。「ただし、現在はありませんがね」
 天井とじゅうたんによって、くぐもり和らげられた賛美歌のようなものが、上階と隣のどこかから聞こえてきた。
 フィリップ・フィリッポヴィチがベルを鳴らすと、ジーナがやってきた。
 「ジヌーシャ(訳注:ジーナの愛称)、あれはどういうことなのかね?」
 「また総会が行われたのですわ、フィリップ・フィリッポヴィチ」とジーナが答えた。
 「また!」フィリップ・フィリッポヴィチが悲しそうな声を上げた。「さあもう、こうなった以上は終わりだ! カラブーホフの家は破滅したのだ。出ていかなければならないが、どこへ行けというのか。すべては滞りなく進んでいくのだろう。まずは毎晩の歌声、それから便所のパイプが凍結、次に蒸気暖房のボイラーが破裂、などなど。カラブーホフの終焉だ!」
 「フィリップ・フィリッポヴィチが絶望していらっしゃる」ジーナは微笑みながらそう言うと、皿の山を下げていった。
 「これが絶望せずにいられますか?!」フィリップ・フィリッポヴィチは声を張り上げた。「ここがどんな建物だったか――わかってくださいよ!」
 「物事の見方がひどく暗すぎますよ、フィリップ・フィリッポヴィチ」噛みつかれた美男が反論した。「あの人たちも今は急激に変わってきましたし」
 「ボルメンターリ君は私のことを知っているでしょう? そうじゃありませんかね? 私は事実の人間、観察の人間なんです。私は根拠のない仮説の敵です。そしてこのことは、ロシアだけではなくヨーロッパでも大変よく知られている。私が何かを言う、それはつまり根底に何らかの事実があり、そこから私が結論を導き出しているということなんです。さてここに、君に向けた事実がある。この建物のコート掛けとオーヴァーシューズ用の棚です」
 「それは興味深い……」
 『オーヴァーシューズなんて、くだらない。幸せはオーヴァーシューズと関係ないのに』と犬は思った。『それにしても非凡な人物だな』
 「オーヴァーシューズ用の棚でよいかな。一九〇三年から、私はこの建物で暮らしています。そして、一九一七年の三月までの間、一度も起こらなかった。赤鉛筆で下線を引きますよ。『一度も』です! この下にある、鍵をかけていない共用扉のある正面玄関から、オーヴァーシューズが一足でもなくなるなんてことは。いいですか、ここには十二室ある、私のところでは診察をやっている。一七年四月のある日、オーヴァーシューズが全部なくなり、その中には私のが二足含まれ、杖が三本、コートと玄関番のところのサモワールもなくなった。そしてそれ以来、オーヴァーシューズ用の棚は存在するのをやめたのです。ボルメンターリ君! 私はもう蒸気暖房については言いません。言いませんよ! ひとたび社会革命となったら、暖房は必要ない、それはそれでいいでしょう。いつか暇な時間ができたら、私は脳の研究をして、この社会の混乱はすべて単なる病的な譫妄にすぎなかったと証明するつもりですがね……。だから私は言うのです。この顛末が始まってから、みなが汚いオーヴァーシューズやフェルトの長靴で大理石の階段を歩くようになったのはなぜですか? 今に至るまで、オーヴァーシューズを鍵のかかるところにしまっておかなければならず、誰かに盗まれないようにするには、さらに兵士を見張りにつけなければいけないのはなぜですか? 正面階段から、じゅうたんを外したのはなぜですか。カール・マルクスが階段にじゅうたんを敷くのを禁じているとでもいうんですか? プレチーステンカにあるカラブーホフの家の二番玄関口には板を打ち付けて、人はぐるっと回って裏庭から入らなければいけないと、カール・マルクスの本のどこかに書いてあるんですか? こんなの誰に必要なんですか? 虐げられている黒人に? あるいはポルトガルの労働者に? なぜプロレタリアは自分のオーヴァーシューズを階下に置いておくことができず、大理石を汚すのですか?」
 「しかし、フィリップ・フィリッポヴィチ、プロレタリアにはオーヴァーシューズなんぞないので……」噛みつかれた人が言いかけた。
 「とーんでもない!」雷のような声でフィリップ・フィリッポヴィチは答え、コップをワインで満たした。「ふむ……私は食後のリキュールを認めておらんのです。重苦しくなるし、肝臓に悪 影響を及ぼす……。まったくとんでもない! あの人たちは今ではオーヴァーシューズをはいているし、そのオーヴァーシューズは……私のなんですよ! 一九一七年四月十三日になくなった、まさにあのオーヴァーシューズです。誰が持ち去ったというのでしょうね? 私か? ありえない! ブルジョアのサブリンか?(フィリップ・フィリッポヴィチは天井を指差した。)そう仮定することすらばかばかしい! 製糖工場主のポーロゾフか?(フィリップ・フィリッポヴィチは横を指し示す。)ありえませんな! あの歌好きな人たちがやったのです! そうです! だが、せめてあの人たちが、階段で脱いでくれていたら!(フィリップ・フィリッポヴィチの顔が赤黒くなりはじめた。)何だって、階段の踊り場から花をなくしてしまったんですか? 電気が、私が覚えている限りでは、二十年間でつかなかったのは二回、現在では月に一回必ず消えるのはどうしてですか? ボルメンターリ先生! 統計というのは恐ろしいものですよ。君は私の最近の仕事をご存知なのだから、他の誰よりもこのことについてはよくわかっているでしょう!」
 「荒廃ですね、フィリップ・フィリッポヴィチ!」
 「違います」フィリップ・フィリッポヴィチはきわめて自信たっぷりに異議を唱えた。「違います。イヴァン・アルノリドヴィチ君、その言葉そのものの使用を控えなさい。それは幻覚、幻影、見せかけなのです!」フィリップ・フィリッポヴィチが短い指を広げると、亀に似たその二つの影がテーブルクロスの上でうごめきはじめた。「君の言う『荒廃』とは何ですか? 杖を持ったばあさんですか? ガラスを全部割ってランプを全部消した魔女ですか?(訳注:一九二十年代に上演されたヴァレーリー・ヤズヴィツキーの戯曲『悪いのは誰か?(『荒廃』)にラズルーハ(荒廃)という名の魔女が登場し、プロレタリア一家の生活を邪魔する。教授はこのことを指しているのだと思われる。)そんなのはまったく存在しないのです。その言葉で君は何を言いたいのですか?」フィリップ・フィリッポヴィチは、食器棚の隣で逆さまにぶらさがっている厚紙製の気の毒な鴨に向かって激怒しながら問いかけ、鴨の代わりに自分で返答した。「それはこういうこと。もし私が、手術をする代わりに、毎晩自分のアパートで合唱するようになったら、私のところに荒廃がやってくる。もし私が手洗いに行って、こんな言い方で申し訳ないが、便器の外に小便をしはじめ、ジーナとダーリヤ・ペトローヴナも同様のことをするようになると、手洗いで荒廃が始まる。つまり、荒廃は便所の中にあるのではなく、頭の中にあるのだ。だからあのバリトンたちが『荒廃を打ち負かせ!』と叫ぶ時、私は笑うのです。(フィリップ・フィリッポヴィチの顔があまりにもゆがんだので、噛みつかれた人は口をぽかんと開けたほどだった。)誓って言いますが、私には滑稽だ! これはつまり、あの人たちは各々、自分の後頭部を叩かなければならんということだからね! そして自分の中から世界革命、エンゲルス、ニコライ・ロマーノフ、虐げられたマレー人などといった幻覚を叩き出し、物置小屋の清潔、つまり自分の直接の仕事だが、これを心がければ、荒廃は自ら消えてなくなるのです。二神に仕えるなかれ! 路面電車の線路を掃除するのと、ぼろを着たスペインの乞食たちの将来を何とかしてやるのとを、同時にするなんて不可能です! これは誰にもできるはずがないのですよ、先生、その上そもそも、ヨーロッパ人より二百年ほど発展が遅れていて、今に至ってもまだ、自分のズボンのボタンをとめるのが覚束ない人たちに、できるわけがないんです!」
 フィリップ・フィリッポヴィチは激しい興奮状態になった。鷲鼻の穴がふくらむ。ごちそうで力を蓄えた彼は、古代の預言者のようにがなり立て、その頭は銀色に光り輝く。
 うつらうつらしている犬には、教授の言葉が低い地鳴りのように聞こえた。馬鹿みたいな黄色い目をしたふくろうが夢の中で飛び回ったり、あるいは汚れた白い帽子をかぶったコックのいやらしい面、あるいはランプの傘から来るこうこうとした電灯の光で照らし出された、フィリップ・フィリッポヴィチの張りのある片ひげ、あるいは眠そうな橇が、きしむ音を立てて消えていったりした。一方、犬の胃の中では、くだかれたローストビーフが液体の中を漂いながら煮込まれていた。
 『この人は集会でお金を稼げるだろうな』犬はぼんやりと夢想した。『第一級のやり手だ。とはいえ、この人には見たところ、金は腐るほどあるみたいだ……』
 「巡査!」フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。「巡査ですよ!」――『うぐう、ぐう、ぐう!』何か泡のようなものたちが犬の脳の中ではじけた……。「巡査! これしかありません! そして、バッジをつけていようが、赤い帽子をかぶっていようが、そんなことはまったくどうでもよい。各人の隣に巡査をつけて、その巡査に我が国の市民が歌を歌いたくなるのを抑えさせるようにするのです。君は、荒廃、とおっしゃいますが! いいですか、先生、この建物においては何も良い方には変わらないのです、ええ、他のどの建物でも。あの歌い手たちが静かにならないうちはね! あの人たちがコンサートをやめてさえくれれば、状況は自ら良い方に変わるのです!」
 「反革命的なことをおっしゃいますね、フィリップ・フィリッポヴィチ」噛みつかれた人が冗談めかして言った。「誰かに聞かれたら大変ですよ!」
 「何も危険なことなんかないですよ!」フィリップ・フィリッポヴィチが激しく言い返す。「反革命でも何でもない! ところで、この言葉も私にはまったく我慢できないものなんです! その下に何が隠されているのか、まったくわからない! わかりませんね! だから私は言うのです。私の言葉の中にはその反革命なんてものは何もない、とね。私の言葉の中には、良識と人生経験があるだけです……」
 ここでフィリップ・フィリッポヴィチは、折り込まれた輝くナプキンの端を襟元から外して丸めると、飲みかけの赤ワインが入ったコップの隣に置いた。噛まれた人がすぐに立ち上がって『Mersi』と礼を言った。
 「待ってください、先生」ズボンのポケットから財布を取り出しながら、フィリップ・フィリッポヴィチが呼び止めた。彼は目を細めて白い札を数え、噛まれた人にこう言いながら渡した。「イヴァン・アルノリドヴィチ、本日は四十ルーブルです。どうぞ!」
 犬に苦しめられた人は丁寧に礼を言うと、赤くなりながら上着のポケットに金をしまった。
 「今晩は御用はないですね、フィリップ・フィリッポヴィチ?」と彼は尋ねた。
 「ないです、ありがとうね、君。今日はもう何もしないでおきましょう。第一に、うさぎは死んでしまったし、第二に、今日はボリショイ劇場で『アイーダ』があるんですよ。私は長いこと聞いてませんが。大好きなんですよ……。覚えてますかね、デュエット……。タラ、ラ、リン……」
 「間に合うのですか、フィリップ・フィリッポヴィチ?」医者が敬意をもって尋ねた。
 「どこへも急がない者は、どこへでも間に合うんですよ」主人は諭すように説明する。「もちろん、もし私が自分の本分に従事するかわりに、あちこちの会議を飛び回ったり、ナイチンゲールみたいに一日中ピーチクパーチクやりはじめたら、どこへも間に合わないでしょうな」ポケットの中のフィリップ・フィリッポヴィチの指の下で、リピーター付き懐中時計が妙なる音を奏で始めた。「八時になったところ……。二幕目までには着くでしょう……。私は分業の支持者でしてね。ボリショイでは歌ってもらいましょう、私は手術をしますから。これはよいことですし、どんな荒廃もありません……。さて、イヴァン・アルノリドヴィチ、君はそれでも、注意深く目を配っていてくれたまえね。ちょうどよい死人があったら、すぐに台から培養液に入れて、私のところへ!」
 「ご心配なく、フィリップ・フィリッポヴィチ。病理解剖学者たちが約束してくれましたから」
 「素晴らしい。では、我々はしばらくの間、この野良の神経衰弱患者を観察して、きれいに洗ってやろうかね。この子の脇腹が早くよくなるといいね……」
 『俺のことを気にかけてくれている』と犬は思った。『とってもいい人なんだな。俺はこの人が誰だか知ってるぞ! この人は犬のおとぎ話に出てくる親切な魔法使い、魔術師、魔導師なんだ……。だって、これが全部夢の中で見たことだなんてありえないよな? ひょっとして夢だったら?(犬は夢うつつの中でぶるっと震えた。)目が覚めたら……何もない。絹の傘のランプも、暖かさも、おなかいっぱいもない。また門口から始まって、狂ったような寒さ、凍ったアスファルト、飢え、悪い人々……。食堂、雪……。ああ、どんなにつらいだろう!……』

 しかし、そういうことは何も起こらなかった。悪い夢のように溶けてなくなったのは門口の方で、もう戻ってくることはなかった。
 どうやら、荒廃というのはそんなに恐ろしいものではないらしい! 荒廃にもかかわらず、一日に二回、窓枠の下にある灰色のアコーディオンのような暖房装置は熱で満たされ、暖かさは波になって住居全体に広がる。
 犬が、犬の一番の当たり券を引き当てたことはまったく明らかである。犬の目は、今では少なくとも一日に二回、プレチーステンカの賢者に向けた感謝の涙でいっぱいになる。そのうえ、居間兼応接室の戸棚の間にあるすべての姿見に、幸運な美犬の姿が映し出される。
 『俺はハンサムなんだ。もしかして、身分を隠して暮らしている、犬の王子様なのかも』鏡の奥を歩き回っている、満ち足りた顔をしたコーヒー色のむく犬を見ながら、犬は考えた。『俺のばあさんがニューファンドランドと過ちを犯したなんて、大いにありうるぞ。おっ、俺の顔には白いぶちがあるな。これはどこから来たんだろうな。フィリップ・フィリッポヴィチは素晴らしい趣味のお方だから、最初に行き会った野良犬を連れ帰るなんてことはしないんだ……』
 外で腹をすかしていた、ここ一ヶ月半と同じだけのものを、犬は一週間でたいらげた。しかし、もちろん、同じなのは重量だけである。フィリップ・フィリッポヴィチのところの食べ物の質については言うまでもない。ダーリヤ・ペトローヴナが毎日、スモレンスク市場で十八コペイカの屑肉の山を買っているということを考慮に入れないとしても、お上品なジーナの抗議にもかかわらず犬も同席している、食堂での晩の七時の食事について触れるだけで十分だ。この食事の時、フィリップ・フィリッポヴィチはついに神という称号を受け取った。犬は後ろ足で立ち、上着を噛む。犬はフィリップ・フィリッポヴィチのベルの音を覚え――よく響かせて鋭く短く、いかにも主人らしい押し方で二回――、主人を出迎えるために玄関までわんわん言いながら飛んでいく。無数の雪片をきらめかせた銀狐の毛皮を着た主人は、みかん、葉巻、香水、レモン、ベンジン、オーデコロン、ラシャのにおいをさせながら、あわただしく入ってくる。そしてその声は号令ラッパのように、住まい全体に響き渡る。
 「お馬鹿さん、どうしてふくろうをぼろぼろにしたかね? 気にさわることでもされたのか? されたの? おまえに聞いているんだよ。どうしてメーチニコフ教授(訳注:イリヤ・メーチニコフ。ロシアの生物学者。)を割ってしまったの?」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、この子、せめて一回だけでも鞭でお仕置きするべきですわ」ジーナがぷんぷんしながら言う。「そうでないと、全然きかない子になってしまいます。御覧になってください、この子が先生のオーヴァーシューズにしたことを」
 「誰のことも鞭打ってはいけないのだ」フィリップ・フィリッポヴィチは平静を失った。「これはしっかり覚えておきなさい! 人や動物に影響を及ぼせるのは教えさとすことだけなんです! 今日は肉をくれてやったかね?」
 「ああ、この子、家中を食い尽くしたのですよ! お尋ねになるまでもないでしょう、フィリップ・フィリッポヴィチ? 私、この子のおなかが破裂しないのが不思議で!」
 「まあ、好きなだけ食べさせてやりなさい!……ふくろうがどんな邪魔をしたっていうんだい? この乱暴者!」
 「くーん!」ごますり犬は鼻を鳴らし、足を伸ばして腹這いになった。
 それから犬は襟首をつかまれ、大騒ぎしながら応接室を通って書斎へとひきずってこられた。犬は小さく鳴いたり、うなったり、じゅうたんにしがみついたり、サーカスのようにおしりで移動したりした。書斎の真ん中のじゅうたんの上には、ガラスの目をしたふくろうが横たわっているが、その腹は引き裂かれ、そこからナフタリンのにおいのする赤い布切れか何かが飛び出している。机の上には、粉々になった肖像の破片が散乱している。
 「わざと片付けないでおきましたの。先生に御覧になっていただこうと思って」ジーナがひどく悲しそうに報告する。「だって、机の上に飛び乗ったんですよ、なんてこんちくしょうなの! そしてふくろうのしっぽを、ガッて! わたしが我に返った時には、ふくろうをすっかりずたずたにしてしまってあったのです。この子の鼻面をふくろうに押し付けてやってくださいな、フィリップ・フィリッポヴィチ、物を台無しにしたのをわからせるために」
 それから、うおーんという長い鳴き声が始まった。じゅうたんにひっついていた犬は、ふくろうに押し付けられるために引っ張られたが、その際、犬は悲しみの涙をあふれさせてこう思った。『ぶってください、でもこの家から追い出すのだけはやめて!』
 「ふくろうは今日、剥製師に出そう。その他に、これ、八ルーブルと十六コペイカ、路面電車代だが、ミュール(訳注:百貨店の名前)に行って、この子に鎖付きのよい首輪を買ってきておくれ」
 翌日、幅広の光り輝く首輪が犬にはめられた。鏡を見た最初の瞬間、犬はたいそう落胆し、しっぽを後ろ足の間に巻き込んで風呂場へ逃げ込んだ。長持か箱にこすりつけたらこれは外れるんじゃないかと考えながら。だが、まもなく犬は、自分が単なる馬鹿であったことを理解したのだった。ジーナが犬に鎖をつけて散歩に出かけた。オブーホフ横町では、犬は恥ずかしさで顔から火が出そうな思いをしながら、囚人のように歩いた、が、プレチーステンカを通り過ぎ、キリスト大聖堂まで来た時、首輪が世間において意味するものを大変よく理解したのである。行きあうすべての犬の目に、激しい羨望が見てとれ、ミョールトヴィ横町では、しっぽを切られた、ひょろ長い脚の雑種犬に、『旦那の糞犬』、『手下』と罵られた。路面電車のレールを横切った時には、警察官が満足そうに敬意を込めて首輪を眺めたし、帰ってきた時には前代未聞の出来事が起きた。玄関番のフョードルが自らの手で正面玄関の扉を開け、シャーリクを通したのである。その際、ジーナにこう言った。
 「まあ、なんとふわふわの犬をフィリップ・フィリッポヴィチは手に入れなさったことかねえ。それにびっくりするほど太っている」
 「もちろんよ。六匹分の量を平らげるんですもの」厳しい寒さに頬を赤くし、美しくなったジーナが説明した。
 『首輪ってのは書類かばんと同じなんだな』心の中で洒落てみた犬は、尻をふりながら旦那然として二階へ向かった。
 首輪の真価を認めた犬は、それまで入ることを絶対に禁じられていた、天国の主要な場所を初めて訪問した。それは料理婦ダーリヤ・ペトローヴナの帝国である。この住まい全体も、ダーリヤ・ペトローヴナの帝国内のわずかな空間ほどの価値もない。どんな日でも、黒くて上がタイル貼りになったこんろの上で、炎が威勢のいい音を立てて燃えさかっている。天火が時々ぱちぱちと鳴る。赤黒い炎柱の間で、ダーリヤ・ペトローヴナの顔が、永遠の業火と満たされぬ情熱のためにほてっている。その顔はてかてかして油っぽい。流行の髪型の耳のところと、金髪を団子にまとめた後頭部では、二十二個の模造ダイヤが光っている。壁の掛け釘には金色の鍋がいくつも掛かっていて、台所全体が様々なにおいを立て、蓋をした容器の中が、煮えたぎり、シューシュー音を立てる。
 「あっちへお行き!」ダーリヤ・ペトローヴナが大声でわめき始めた。「出ていきな、野良のスリめ! ここにはあんたの用事はないの、火かき棒でなぐるよ……」
 『何言ってんのだ! 何で吠えるのさ?』犬はかわいらしく目を細めた。『俺がどんなスリだっていうんだ? 首輪に気づいてないのか?』そして犬は扉のすきまに顔をさしこみ、そこをすり抜けて出ていった。
 犬のシャーリクは人の心をとらえる、何らかの秘密を持っていた。二日後にはもう、炭かごの隣に横たわって、ダーリヤ・ペトローヴナの仕事ぶりを見ていた。彼女は、鋭く細いナイフでいたいけなエゾライチョウたちの頭と足を切り離すと、怒り狂った死刑執行人のように骨から肉をはがし、鳥の内臓を引っ張り出し、肉ひき器の中で何かを回す。シャーリクはその間、エゾライチョウの頭をずたずたに引き裂く。ダーリヤ・ペトローヴナはふやけたパンのかけらを牛乳の入った椀から取り出すと、まな板の上でひき肉と混ぜ、それにクリームをかけ塩をふり、まな板の上でカツレツの形に整える。こんろの上は火事のようにごうごううなり、フライパンの上はぐつぐついって、ぶくぶく泡立ち、跳ねる。天火の扉は轟音とともに跳ね開き、恐ろしい地獄をあらわにする。煮えたぎり、流れ出し……。
 夕方、石の口はその火を消し、台所の窓の白い目隠しカーテンの上には、濃く重々しいプレチーステンカの夜が、たった一つの星を伴ってたたずんでいた。台所の床は湿っていて、鍋が神秘的にぼうっと光り、テーブルの上には消防士の帽子がある。シャーリクは暖かいこんろ台の上で門前のライオンのように寝そべっていたが、好奇心から片耳を持ち上げ、幅広の革ベルトをしめた黒い口ひげの興奮した男が、ジーナとダーリヤ・ペトローヴナの部屋の半開きになった扉の向こうで、ダーリヤ・ペトローヴナを抱きしめているのを見ていた。彼女の顔は、おしろいを塗った、死人のように白い鼻以外、全体が苦悶と情熱に燃えていた。扉の隙間から差す光が口ひげの男の肖像写真に当たっていて、そこには復活祭の花飾りがぶら下がっている。
 「悪魔がとりついたみたい」薄暗がりの中でダーリヤ・ペトローヴナがつぶやく。「やめて。もうジーナが来るよ。どうしたのさ、あんたもすっかり若返らされたの?」
 「俺たちにはそんなもん必要ないだろ」自分をうまく抑えることができず、かすれた声で黒ひげは答えた。「どこまでおまえさんは情熱的なんだ……」
 夜には、プレチーステンカの星は厚いカーテンの向こうに姿を消し、そしてもし、ボリショイ劇場で『アイーダ』がなく、全ロシア外科学会の会議がなければ、神は肘掛け椅子におさまる。天井下の灯りはなく、机の上の緑色のランプだけが灯っている。シャーリクは暗がりのじゅうたんの上に寝そべり、恐ろしい仕事を目を離さずにじっと見ている。ガラス容器の中で、気味の悪い、つんとするにおいの濁った液体につかっているのは、人間の脳である。肘のところまでむきだしにされた神の手には、赤茶色のゴム手袋がはめられ、そのすべりやすく感覚の鈍い指が脳のしわの中でうごめく。時折、神は小さな光るメスを手にし、黄色くて弾力のある脳を静かに切る。
 「〽ナイルの聖なる岸へ~(訳注:ヴェルディ作曲『アイーダ』より)」神は唇を噛みしめながら、ボリショイ劇場の金色のホールを思い出しつつ、静かに口ずさむ。このころ、暖房用の管は最高に暖まっている。暖かさは管から天井に上り、そこから部屋じゅうに行き渡り、犬の毛皮の中で、まだフィリップ・フィリッポヴィチ自身の手で梳き出されていない、しかしもう破滅するしか道のない最後の一匹のノミが、生気を取り戻す。じゅうたんは住居内の音を聞こえなくしている。それから遠くで、玄関扉の音がする。
『ジンカ(訳注:ジーナの愛称。やや見下している感じが加わる)が映画に行ったのだ』と犬は思った。『帰ってきたら、晩飯ってことだ。晩飯は叩いた仔牛肉に違いない』

――

 そしてこの恐ろしい日、既に朝からシャーリクは嫌な予感がした。そのせいで、朝ごはん――椀に半分のからす麦のおかゆと、昨日の羊の骨――の時、急にふさぎ込んでしまい、食欲もないまま食べ終えた。つまらなそうに応接室へ歩いていき、そこで自分の鏡像に向かって軽く鳴いてみた。だが、ジーナに並木道へと散歩に連れて行ってもらったあとの日中は、いつも通りの日になった。今日は診察がない、なぜなら周知のとおり、火曜日は診察のない日だからであり、神は机の上に色とりどりの絵が描かれた厚い本を何冊か広げて、書斎に座っていた。午後の食事を待つ。今日の主菜は、台所で確認したところによると七面鳥だ、と思うと、犬は少し元気づいた。廊下を歩いている時、フィリップ・フィリッポヴィチの書斎で、電話が嫌な感じで唐突に鳴り出したのを犬は耳にした。フィリップ・フィリッポヴィチは受話器を取ると、じっと聞き入り、そして急に興奮しだした。
 「お見事!」そう言う声が聞こえた。「今すぐ持ってきてください、今すぐ!」
 教授はそわそわしはじめ、ベルを鳴らすと、入ってきたジーナに急いで食事を出すようにと命じた。
 「食事だ! 食事! 食事!」
 食堂ではすぐに皿がかちゃかちゃいいはじめた。ジーナは走り出し、台所からは、まだ七面鳥ができていないのに、とダーリヤ・ペトローヴナがぐちぐち言うのが聞こえた。犬はまた不安を感じた。
 『家の中にごたごたがあるのは嫌いだ』と犬は思った……。そして、犬がこう思った時、ごたごたは、よりいっそう不快な様相を帯びた。これは何よりもまず、以前噛みつかれたボルメンターリ医師が現れたせいである。彼は悪臭のするトランクを持ってきていて、コートすら脱がずに、そのトランクを持って廊下を通り、診察室へと一目散に向かった。かつて一度もなかったことなのだが、フィリップ・フィリッポヴィチは飲みかけのコーヒーカップを放り出し、これもまたかつて一度もなかったことなのだが、ボルメンターリ医師を出迎えるために走り出ていった。
 「いつ死んだ?」教授が大声で言う。
 「三時間前です」雪に覆われた帽子をとらずに、トランクの掛け金を外しながら、ボルメンターリは答えた。
 『一体誰が死んだのだろう?』不機嫌に不満げに犬は思い、足下をうろうろした。『みんながばたばたしているのって、我慢できないや』
 「足下からどきなさい! 早く、早く、早く!」フィリップ・フィリッポヴィチが四方八方に向かって叫び、ありとあらゆるベルを鳴らしはじめたように犬には思われた。
 ジーナが走ってやってきた。
 「ジーナ! 電話番はダーリヤ・ペトローヴナに任せて、誰の診察も受け付けないで! おまえさんが必要なんだ。ボルメンターリ先生、お願いですから、早く、早く、早く!」
 『俺には気に入らない。気に入らない』犬はむっとして顔をしかめると、家の中をうろつきはじめた。せわしなさはすべて、診察室に集中しているのである。ジーナが意外なことに、死者に着せる服に似た白衣で現れ、診察室を飛び出して台所に行き、また戻ってきた。
 『何か食いに行くか。あんな人たち関係ないし』犬がそう決めたところで、突然思いがけないことが起こった。
 「シャーリクには何もやるな!」診察室から命令が響いた。
 「見張っていろってことかしら」
 「閉じ込めるんだ!」
 そしてシャーリクはおびき寄せられ、風呂場に閉じ込められた。
 『野蛮だ』とシャーリクは薄暗い風呂場の中で思った。『ほんとに馬鹿げている……』
 そして風呂場の中で十五分ほど、奇妙な気持ちで過ごした。それは憎しみだったり、何か気分が落ち込む感じだったりした。すべてがつまらなくて、よくわからない……。
 『いいだろう、明日、新しいオーヴァーシューズを手にされるんだな、尊敬すべきフィリップ・フィリッポヴィチ』と犬は思った。『既に二足買い足させてやったが、さらにもう一足買わせてやる。今後、犬を閉じ込めないようにな』
 だが突然、怒りに満ちた思いはなくなった。突如はっきりと、ごく若い頃の断片が、なぜだか思い出されたのである。プレオブラジェンスカヤ関所近くの、日当たりのよい広大な中庭、ガラスびんの中には太陽のかけら、砕けたれんが、自由気ままな浮浪犬たち。
 『いや、とんでもない、どんなに自由になれるとしても、ここから出ていかないぞ。なぜ嘘をつくかといえば……』鼻息を立てながら、犬は悲しく思った。『なじんでしまったからさ。俺は旦那様の犬で、知的な生き物で、より良い暮らしを知ってしまった。それに、自由って何なのさ? そんなの、幻影、幻覚、見せかけ……。あの不幸な民主主義者たちのたわごとなんだ……』
 それから風呂場の薄暗がりが恐ろしくなり、犬は吠え出して、扉に飛びつくとひっかきはじめた。
 『うーうーう!』樽の中に向けているかのような、くぐもったその声は、住居全体に響き渡った。
 『ふくろうをまたぼろぼろにしてやる』怒り狂って、しかし力なく、犬は思った。そのあと、疲れてしばらく横になり、次に立ち上がった時には、毛が突然逆立ち、なぜか浴槽の中に、気味の悪い狼の目が見えたような気がした……。
 そして苦悶のさなかに扉が開かれた。犬は体をぶるぶるさせてから外に出ると、不機嫌な様子で台所へ行こうとしたが、ジーナが首輪をしっかりつかんで診察室へ引っ張っていった。犬の心臓の下をうすら寒さが駆け抜けた。
 『俺に何の用事があるんだろう?』犬は訝しんだ。『脇腹はよくなったのに。さっぱりわけがわからん』
 そして、つるつるの板張りの床の上を滑るように歩きはじめ、かくして診察室へ連れてこられた。診察室では、今までに見たことのないような照明で、すぐに度肝を抜かれた。天井の下の白色電球は、目に痛いほどに輝いている。白い光の中には神官が立ち、ナイルの聖なる岸に関する、鼻歌を歌っている。かすかなにおいだけで、それがフィリップ・フィリッポヴィチであるとわかった。その切り整えられた白髪は、総主教の帽子のような白い手術帽の下に隠れている。神官は全身白づくめで、その白の上にエピタラヒリ(訳注:正教会の祭司服の一つ)のように、幅の狭いゴムのエプロンをつけている。手には黒い手袋。
 噛みつかれた人も主教の帽子をかぶっていた。長いテーブルが鎮座していて、きらめく脚のついた小さな四角いものがその脇に置かれている。
 犬はここで、何よりも噛みつかれた人を、何よりも今日の彼の目のゆえに憎んだ。いつもは大胆で率直だが、今日は犬の目を逃れてあちこちを泳いでいる。緊張し不自然で、その奥深くには、まぎれもない犯罪ではないが、よくない忌まわしいことが隠れている。犬は暗い顔でじろっと彼を見ると、すみっこへ行った。
 「首輪を、ジーナ」フィリップ・フィリッポヴィチが抑えた声で言った。「ただ、不安にさせないように」
 ジーナの目が一瞬のうちに、噛みつかれた人と同じ、嫌な感じの目になった。ジーナは犬に近づき、いかにもわざとらしくなでた。犬は憂鬱そうに軽蔑の目で彼女を見た。
 『何なのさ、あなたがた三人は。俺を好きなようにするがいいさ……。ただ、恥ずかしく思えよ……。俺が何をされるのか知っていたらなあ……』
 ジーナが首輪を外すと、犬は頭を振って、ふんと鼻を鳴らした。噛みつかれた人が犬の前に来ると、そこからいやな、ぼうっとさせられるようなにおいが漂ってきた。
 『ふん、いまいましい……。何だって俺はこんなにぼうっとして、怖がっているんだろう?』犬は思い、噛みつかれた人のところから後ずさりした。
 「早く、先生」フィリップ・フィリッポヴィチがもどかしそうに言った。
 空気中に強烈な甘いにおいがした。噛みつかれた人は犬からいやらしい警戒の目を外さないまま、背中の後ろにあった右手を前に出し、犬の鼻に湿った綿を素早く押しつけた。シャーリクは呆気にとられ、頭が少しくらくらしたが、まだ跳びすさることはできた。噛みつかれた人は犬の背後に跳び移ると、突然、犬の鼻面全体を綿でふさいだ。すぐに息が苦しくなったが、犬はもう一度振り払うことができた。『悪党め……何のために?』という思いが頭の中にちらっと浮かんだ。そして再び顔をふさがれた。その時、思いがけないことに、診察室の真ん中に湖が現れ、湖上のボートには、とても陽気な、あの世の、いまだかつて見たことのないピンク色の犬たちがいる。足から骨がなくなり、ぐにゃりと曲がった。
 「台へ!」どこかから快活な声で、フィリップ・フィリッポヴィチの言葉が発せられ、それはオレンジ色の流れの中に広がっていった。恐怖は消え、喜びにとってかわった。意識が遠のきつつある犬は、噛みつかれた人のことが大好きだと、二秒ほど思う。それから全世界は天地がひっくり返り、腹の下に冷たいけれども心地よい手があるのも感じられた。それから――何もなくなった。
 ――
 幅の狭い手術台の上に、体を伸ばした犬のシャーリクが横たわり、その頭は白い防水布の枕の上に、力なくあずけられている。腹の毛は刈られ、今は、ボルメンターリ医師が息も絶え絶えになりながら大急ぎで、毛の中にバリカンを突っ込んでシャーリクの頭を刈っている。フィリップ・フィリッポヴィチは手術台の端に両手をつき、自分の眼鏡の金縁のように輝く目でこの処置を見守り、興奮気味に言う。
 「イヴァン・アルノリドヴィチ、一番大事な瞬間は、私がトルコ鞍(訳注:下垂体が入っている頭蓋底のくぼみ)に入る時なんです。直ちにね、お願いですから、下垂体を渡してください、すぐに縫えるように。もしそこで出血が始まったら、時間を無駄にするし、犬を失うことになる。とはいえ、この子には何のチャンスもないのですがね」教授は黙り込み、あざ笑うかのように目を細めて、眠っている犬の半開きの目をのぞきこみ、言葉を継いだ。「でもね、この子をかわいそうに思いますよ。この子に情が移ってしまったのでね」
 この時、教授は不運な犬シャーリクの困難な偉業を祝福するかのように両手を上げていた。黒いゴム手袋に塵一つつかないように努めていたのである。
 刈られた毛の下から、犬の白っぽい皮膚がきらきら光るように顔を見せ始めた。ボルメンターリはバリカンを脇へ投げ捨てると、かみそりを構えた。ぐったりした小さな頭に石けんを塗り、そり始める。刃の下ではじょりじょりと大きな音がして、ところどころで血がにじむ。頭をそり終えると、噛みつかれた人はベンジンをひたした綿球でそれをふき、それから、毛をそり落とされた犬の腹を伸ばして、息をはあはあさせながら言った。『準備完了です』。
 ジーナが流し台の水栓を開けると、ボルメンターリは手を洗いに飛んでいった。ジーナが彼の手の上にガラスびんのアルコールを注ぐ。
 「私は下がってもよろしいですか、フィリップ・フィリッポヴィチ?」ジーナが、毛をそられた犬の頭を横目でこわごわと見ながら尋ねた。
 「よろしい」
 ジーナは姿を消した。ボルメンターリはさらに続けてせかせかと動きまわりはじめた。薄いガーゼをシャーリクの頭のまわりに置いていくと、枕の上に出現したのは、誰も見たことのないようなつるつるの犬の頭蓋と奇妙なひげもじゃの顔だった。
 その時、神官がかすかに動いた。姿勢を正して犬の頭を見ると、言った。
 「さあ、神よ、祝福を。メス!」
 ボルメンターリが器具台の上に積み重ねられた光る器具の山から、丸みを帯びた小さいメスを取り上げ、神官に手渡した。それから、神官と同じ黒い手袋をはめた。
 「眠っているか?」とフィリップ・フィリッポヴィチが尋ねた。
 「よく眠っています」
 フィリップ・フィリッポヴィチは歯をくいしばり、目には鋭く刺すような光を帯び、そしてメスを振るって、シャーリクの腹のねらった通りの場所に長い切開創を作っていった。皮膚はすぐに口を開け、そこから血液が四方八方に飛び散った。ボルメンターリが肉食獣のように飛びついて、シャーリクの切開創を丸めたガーゼで押さえ、それから角砂糖ばさみのような小さなもので切開創の端を押さえていくと、出血は止まった。ボルメンターリの額から玉のような汗がふきでる。フィリップ・フィリッポヴィチが二つ目の切開を行い、二人してシャーリクの体を鉤やはさみや、留め金のようなもので裂き始める。血がにじみ出ているピンク色や黄色の組織が飛び出した。フィリップ・フィリッポヴィチは体内でメスを動かしていたが、それから叫んだ。『はさみ!』
 器具が、噛みつかれた人の手の中で、奇術師の手の中にあるかのようにきらめいた。フィリップ・フィリッポヴィチの手が奥まで入り込み、何度かひねるような動きを見せたあと、何かの切れ端がくっついたシャーリクの精巣を引っぱり出した。熱意と興奮で汗まみれのボルメンターリがガラスびんの方へ飛んでいき、そこから別の、湿ってだらんとした精巣を取り出した。教授と助手の手の中で、短くて湿った張りのある糸が飛び跳ね、くねる。曲がった針が固定器具に当たり、小刻みな音を立てはじめる。精巣はシャーリクのものがあった場所に縫い付けられた。神官は切開創から頭をもたげ、そこにガーゼの固まりを当ててから命じた。
 「縫合、先生、すぐに皮膚を!」
 それから、丸くて白い壁時計に目をやった。
 「十四分経過です」歯を閉じたままボルメンターリはそう口にすると、張りのない皮膚に曲がった針を突き刺した。
 それから二人とも、急いでいる殺人者のようにそわそわし始めた。
 「メス!」フィリップ・フィリッポヴィチが叫ぶ。メスがまるで自ら飛び移ったかのように手の中へおさまり、そのあと、フィリップ・フィリッポヴィチの顔は恐ろしくなった。磁器や金の歯冠をむきだしにし、シャーリクの額へ一気に赤い冠を授ける。毛をそられた皮膚は戦利品の頭皮のようにはがされ、頭蓋骨があらわになった。フィリップ・フィリッポヴィチが叫ぶ。
 「穿孔器!」
 ボルメンターリが光り輝くハンドル錐を手渡した。唇をかみしめながら、フィリップ・フィリッポヴィチがシャーリクの頭蓋骨に錐を突き刺し、一センチ間隔で小さな穴を開けていくと、その穴は頭蓋骨上を一周して円になった。穴一つにつき五秒とかからなかった。それから不思議な形の鋸の、その先端を最初の穴に差し込み、婦人用裁縫箱に透かし彫りを施しているかのように、挽いて行く。頭蓋骨は小さくきしむ音を立て、揺れた。約三分後、シャーリクの頭蓋骨のふたが外された。
 そしてシャーリクの脳の円蓋があらわになった――灰色で、青みがかった筋と赤みがかった斑点がある。フィリップ・フィリッポヴィチは膜にはさみを突き刺し、切り取る。一度、血がピュッと噴き出し、かろうじて教授の目には入らなかったものの、帽子にかかった。鑷子を手にしたボルメンターリが虎のように飛びかかり、押さえて止める。ボルメンターリのかく汗は筋を成して流れ、その顔はふくれてまだらになった。その目はフィリップ・フィリッポヴィチの手と、器具台の上の皿の間を行ったり来たりする。フィリップ・フィリッポヴィチはというと、まったく恐ろしい状態になった。鼻からは息が音を立てて噴き出し、歯はむきだしになり、歯茎まで見える。彼は脳から膜をはぎとると、ふたを外された杯から大脳両半球を引っぱり出しつつ、どこか奥深くへと進んでいった。と、その時、ボルメンターリが青ざめ、片手でシャーリクの胸を押さえ、かすれぎみの声で言った。
 「脈拍が急低下しています……」
 フィリップ・フィリッポヴィチは野獣のように彼の方を振り向き、何事かをつぶやくと、さらに奥へと突き進んでいった。ボルメンターリはガラスのアンプルをポキッと割ると注射器で吸い上げ、シャーリクの心臓のあたりにだまし討ちのように突き刺した。
 「トルコ鞍に向かう」フィリップ・フィリッポヴィチはうんうん言いながら、血まみれですべりやすい手袋の手で、シャーリクの灰黄色の脳を頭から引き出した。彼がちらりとシャーリクの顔を横目で見やると、ボルメンターリがすぐに、黄色い液体の入った二本目のアンプルを割り、長い注射器の中に吸い上げた。
 「心臓にですか?」と遠慮がちに尋ねる。
 「今さら何の質問ですか?!」教授がかりかりしながら大声を上げた。「どっちにしろ、この子は君の手の中で、もう五回は死んでますよ。注射して! まったく考えられん!」教授の顔はその際、啓示を受けた略奪者のようになった。
 ボルメンターリ医師は勢いをつけて素早く、犬の心臓に針を突き刺した。
 「生きてはいますが、かろうじてといったところです」と遠慮がちにつぶやく。
 「そのことについて話し合っている暇はないんです、生きていようがいまいが」恐ろしい形相のフィリップ・フィリッポヴィチがかすれた声で言う。「私はトルコ鞍のところに来ているんですよ! どのみち死ぬんだ……まったく……〽聖なる岸へ……下垂体を!」
 ボルメンターリがガラスびんを手渡したが、その中では糸のようなものにぶらさがった白い固まりが、液体の中を揺れ動いている。『この方に並ぶ者はヨーロッパにいないのだ……。神かけて!』ボルメンターリはぼんやりとそう思った。フィリップ・フィリッポヴィチは片手で、揺れている固まりを取り出し、別の手ではさみを使い、口を開けた左右脳半球間の奥深くのどこかで、同じようなものを切り取った。シャーリクの固まりを彼は皿の上に放り出し、新しい方を糸のようなものと一緒に脳の中へ置き、まさに奇跡のように繊細かつ柔軟になった自らの短い指で、琥珀色の糸を使って巧みにそこへ巻き付けた。そのあと頭部から、伸張器のようなものや鑷子を外し、脳を骨の杯の中にしまい込み、背中を反らすと、既にいくらか落ち着いた調子で尋ねた。
 「死んだね、もちろん?」
 「微弱脈です」とボルメンターリが答えた。
 「もっとアドレナリンを!」
 教授は膜を脳に掛け、切り取った頭蓋骨を位置が合うように置き、頭皮をかぶせると大声で言った。
 「縫合!」
 ボルメンターリは三本の針を駄目にしつつ、五分ほどで頭部の縫合を終えた。
 枕の上にあるのは、血の彩りを背景にし、頭に環状の傷を持つ、生気のない死にかけたシャーリクの顔だった。フィリップ・フィリッポヴィチは、満腹した吸血鬼のように、既に完全にそこから離れ、片方の手袋を外して、その中にある汗で湿った粉を煙のように舞わせながら振り落とし、もう片方をはぎ取って床の上に投げ捨てると、壁のボタンを押した。ジーナが敷居のところに現れたが、シャーリクと血を見ないように顔をそむけた。
 神官は白い粉だらけの手で、血に染まった修道帽を外すと、叫んだ。
 「私に煙草をすぐ、ジーナ。新しい下着と風呂も!」
 彼は手術台の端にあごをのせ、二本の指で犬の右まぶたを開き、明らかに死にかけている目をのぞきこんで、言った。
 「ちくしょう。死んでいない! まあどちらにしろ死ぬんだが。ああ、ボルメンターリ先生、犬がかわいそうですよ! かわいい子だった。ずる賢かったですがね」