「わたしが…」飯野文彦

(PDFバージョン:watasiga_iinofumihiko
 彼がはじめてわたしの部屋を訪ねてきたのは、一年と少しばかり前、去年の桜が散りかけた頃のことだった。当のわたしはというと、花見とはまったく無縁の生活を送っていた。
 それより半年ほど前から、やっとこのこと採用されたファーストフード店で、パートをしていた。

 ――あなたは、調理だけを担当して。
 面接を受けたとき、マネージャーに言われた。それが採用の条件だった。客前には出せない容姿の女、それがわたし。差別だと騒いでも、一銭にもならない。かえって惨めさを増すだけだ。経験上、嫌というほど知っている。

 調理を担当をしても、ヘマばかりで、パートの時間は削減された。当然のごとく、給金も減る。元より生活はそれ以上切りつめられないレベルまで下げていたため、どうやってやりくりしていくかばかりが、重くのしかかっていた。
 別の働き口を増やすか。少しばかり景気が良くなったと世間では言っているけれど、わたしのように学歴も技能も持たず、何より醜い女は、やすやすと仕事など見つからない。それ以前に仕事を増やしたら、身体が持たない。
 子どもの頃から決して丈夫ではなかった。ファーストフード店の仕事だけでも、アパートに戻ると、小槌で全身をくまなく叩かれたようで、何もできず、ひたすら回復を願って、横になるしかなかった。
 あの晩も、そうだった。片づけものをしなくては、風呂にも入らなくては、と頭で思いつつも、どうにもこうにも疲れは痛みとなって身動きできず、横たわっていたのだった。
 気配を感じたのは、寝入ってどれくらい経ったころだろうか。はじめに気づいたのは、臭いだった。汗臭い。自分のものとはちがう。男の臭いだとわかった。汗、体臭、生臭さ。男というよりも〈雄〉に近い、動物じみた臭いだった。
 ぼんやりとした頭で恥じ、苦笑に近い感情が浮かんだ。性夢を見たと思ったのだ。ところがそんな風にして、わたしのこころと身体が、わずかにゆるんだ隙に、染み入るかのように、重圧を感じた。
 あまりにとつぜんだったために訳がわからず、幼い頃、友だちの家にお泊まりに行ったとき、ふざけっ子をして敷き布団をかぶせられたときのことが、唐突にほかの記憶を除けて、浮かびあがってきた。
 そうじゃない、これは敷き布団なんかじゃない、生身の――。
 ずぶ濡れとなった子犬のごとく、わたしの貧弱な身体が、ぶるぶるッと震えた。ハッと目を見開いた。室内はまっ暗で何も見えない。
「シッ。静かに」
 それが彼の最初の言葉だった。
 わずかな間に、わたしの心身は、凄まじい勢いで固まり、凍りついた。物盗りだ、押し入り強盗だ。
 神経質で戸締まりには、ことのほか気をつかう性格だったのに、玄関はまだしも、窓のほうは確認しなかった。締めたまま出かけたのだから、開いているはずがないと思いこみ、カーテンを開けることさえ、久しくしていなかった。
 狙われたのだ。狙いをつけられて、こっそりと窓の鍵を開けられ、忍びこまれた。横たわる氷像のごとくなりながら、切なさに胸が裂かれた。なぜ、よりによって、わたしのような貧乏人のところに押し入るのだ。
 世間には数限りなく金持ちがいる。すぐ隣に大家の家があるではないか。その向こうには、西洋のお城と見まちがうほどの凝った豪邸があるではないか。その斜め前には、いつも高級車が止まっているマンションもあるではないか。それなのになぜ。
 恐くて怖ろしくて、悔しくて無念で、わずかに凍りつかず残っていた神経をすべて自分の心中に向けていた。そのため、何が起こっているのか気がつくのに、しばらく時間がかかった。
 掛け布団が退けられ、寝間着の前ボタンを外された。ごつごつとした手がわたしの胸に触れた刹那、爆破のスイッチを押されて、わたしの身体は粉々になった。
 叫び声も悲鳴も出せない。呻くことすらできなかった。砕けた身体は、次の瞬間にはふたたび引き寄せられ、硬く凝り固まっていた。
「物盗りではありません。ただ、あなたを」
 彼の声は蜜を含んだように甘く、わたしの耳に流れこんだ。だからといって、誰とも知らない男に不法に侵入されて、警戒を解けるはずもない。このような状況に追い込まれなくても、同様である。なにしろずっとずっと昔、わたしは世間、特に男に対して警戒を解く鍵をなくしている。

 まったく男を知らないわけではない。十五年あまり前、当時勤めていた会社の上司に、酔って、犯された。
 ――おまえみたいなブス、相手にしてもらえるだけ、ありがたいと思え。
 次の日、訴えますと告げると、顔をしかめて、三万円、わたしの前に投げ出した。わたしがもう一度、訴えます、と言うと、
 ――そうすればいいだろう。恥をかくのは、お前のほうだ。いや、俺か。いくら据え膳だったからって、こんな醜女とやったなんて疑いをかけられたら。
 とあざ笑われた。

「ほしいのは、あなただけです」
 何度目かにつぶやいた言葉が、耳からではなく、首すじの皮膚から糸電話のように神経に響き、伝わってきた。
 歪んで別の意味になっているのだろう。わたしに言う言葉ではない。わたしが言われる言葉ではない。まちがっている。そうだ、彼はまちがって、この部屋に忍びこんだのだ。誰か可愛い別の女の部屋を探り当てた気になって、まちがい、わたしのところへ来てしまったのだ。
 気づいて、あなたはまちがってる。告げようとした。喉が締めつけられて、言葉は出ないままだった。
 カーテンの閉まった狭い室内だった。建てられてからゆうに四十年をこえる二階建てアパートは、六畳間に三畳ほどの板の間の台所、狭い風呂とトイレだけだった。
 二階の隅の部屋に、わたしは住んでいる。ほかの住民との接触はなかった。ときどき外階段で見かけても、言葉の通じないアジア人ばかりだった。笑顔で挨拶されても、わたしのほうから顔を背けるうちに、相手もそうするようになって久しい。
 床をどんどんと叩いても、助けになど来ない。彼らはそれ以上の奇声や騒ぎを、四六時中たてている。慣れないうちは、耳栓をしたものだが、そうしなくても眠られるようになって、これまた久しかった。
「ああうッ」
 女の声がした。まただ。またどこぞの部屋で獣のごとく乳繰り合っている。ぴくぴくッと、身体が震えた。心臓がどきんと脈を打ち、脳に電気を送ったのと相まって、またしても女の声がする。
 通販で買った安い布団に横たわりながらも、床が抜けて奈落に落ちていく。声はわたしのものだった。彼に抱かれ、むき出しとなった乳房を吸われて、わたしの口から声が洩れている。
 あなたは誰かとまちがえている。重大なまちがいを犯している。後悔する前に教えなくてはならない。このままつづけていたら、あなたはまちがいなく後悔する。わたしを抱こうとしたことを、このうえなく後悔する。そうなる前に――。
「ああッ、いい」
 奈落の底に打ちつけられた。暗闇の中、身体が勝手にのけ反った。理性は壊れた。わたしのせいではなく、破壊されていた。
 そう、わたしのせいではない。わたしはあくまで、まちがいを告げようと思ったのだ。まちがえた彼が悪い。いくら暗闇だからといって、肌を合わせれば、わたしが愛するに値する女か、気づかないわけがない。それに気づかないまま、擦ったマッチの、わずかな炎をどんどんどんどんと燃え上がらせる愛撫をつづけた彼のせいだ。
「痛いッ」
 わたしは顔をしかめた。
「安心して。無理はしない。時間をかけて……」
 彼は指を退かし、代わりに口づけした。蛞蝓(ナメクジ)が這うようだ、と、わずかに浮かんだ嫌悪は、すぐにぼやけ、甘くとろける。
 瞼の向こうに、たくましい男が見えた。顔も肉体も、どこかで見たことがある〈借り物〉だ。あるときは男優、あるときはアイドル、あるときはプロ野球選手からの〈借り物〉。それでわたしは自分で自分を愛してきた。
 けれども股間から伝わってくるのは、借り物ではなかった。わたしのものだ。わたしを愛撫してくれる彼のものだ。彼は誰、などという疑問は、浮かんだ刹那、わたし自身が踏みつけ、消し去った。そして酔った。わたしは、彼の愛撫に酔いしれた。

 翌朝、彼はいなかった。気怠い身体を起こして、カーテンを開け、窓の鍵を確かめようとした。カーテンを開けられなかった。夢だったのだ。すべては夢だから。

「灯りはつけないで」
 その晩、彼はそう言った。わたしは従った。その次の晩も、そのまた次の晩も、彼はそう言いつづけた。彼の言葉に従った。もし彼が逆のことを言ったら、従わなかった。とても従えなかった。
 一週間と経たないうち、わたしは六畳間の蛍光灯を外した。そうしておけば、たとえ彼の気が変わったとしてもごまかせる。ごめんなさい、蛍光灯が切れちゃってるの。
 わたしから求めたのは、蛍光灯を外した晩だった。彼はやさしかった。指で、舌で、そして……。毎夜、わたしは彼に貫かれた。わたしは遅まきながら恍惚の絶頂を知った。そして溺れた。

 身ごもったと知ったのは、秋の彼岸を過ぎて、残暑も和らいだ頃だった。言わなくても、彼も敏感に察してくれた。
 堕ろすことなど、まったく考えなかった。幸い、お腹のふくらみは目立たず、パート先で気づかれることもなかった。
 産院にはいかなかった。金もなかったし、根掘り葉掘り事情を訊かれたらと思うと、足を運べなかった。それでもさすがに出産となると、一人では無理だ。
 股間にバスタオルを宛がって、破水した羊水を吸わせながら、近くの産院まで歩いた。すぐに出産となった。子どもが生まれたとき、子どもよりも看護師の悲鳴が、分娩室に響き渡った。

「ご主人は?」
 わたしは答えなかった。さらに医者は、
「残念ながら、お子さんは死――」
「うそ」
 子どもは生きている。聞こえる。子どもが、わたしを呼んでいる。
「あ、まだ起きては」
 無視してベッドを抜け出し、我が子のところへ向かった。
 邪魔する輩を突き飛ばし、我が子を見つけたとき、なぜ彼があれほど灯りをつけるなと念押ししたのか。その訳がわかった。
「いや、これは。その」
 わたしは、微笑み、抱いた。
「こんにちは、赤ちゃん。わたしが……」

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『飯野文彦劇場
 六本木にて』