「ホテル豆腐洗い猫」―豆腐洗い猫その7―間瀬純子


(PDFバージョン:hoterutoufuaraineko_masejyunnko
『読めば読むほどむなしくなる! かわいい猫の妖怪、豆腐洗い猫の悲惨な冒険』

 前回までのあらすじ→ 豆腐洗い猫は久留米ツツジ六〇本を背中に挿し木され、ツツジになかば運動神経を乗っ取られている。
 

一、豆腐洗い猫・悪口の間(ま)

 
 世界各国の都市にあるホテル、どこの都市であろうとホテルのうち一軒には、或る空間が存在する。
 洗いたてのシーツや枕カヴァーを積んでおくリネン室、フロントのキーの保管所、貴重品入れ、従業員用エレヴェーター、そういった、利用客が意識しないホテルならではの設備の合間に、ひっそりとそれはある。
 仮面をつけた人々が深夜につどう。ホテルで行われ得るどんなエロティックな行為よりも刺激的に……背徳的に……、人々はその空間で、或る行為に熱中する。
 
 その空間とは『豆腐洗い猫・悪口の間』である。
 東欧の某都市のホテルを覗いてみよう。従業員用エレヴェーターの機械室に見せかけた秘密の入口を開くと、アラベスク模様の真紅のビロードを貼った狭い部屋にスツールが並んでいる。部屋の隅には、使われていないリネン類が山積みになっているが、背徳行為に溺れる人々は気にしない。そして人々は仮面舞踏会の後に、豆腐洗い猫の悪口を言うのだった。
「猫のくせに豆腐を洗ってるのよ」「まあばかねー」
「猫のくせにというが、ふつうの猫はかわいいしわがままだしのんきにやってるのに、豆腐洗い猫だけがバカ猫なのだ」
 ベルボーイさんがドライマティーニを運んでくる。大胆に、猥雑に、機知を閃かせ、とびきりの豆腐洗い猫の悪口が小部屋を飛び交う。
「ほんとうに馬鹿な猫だ……というか猫のふりをした何かだ」「しかも元・神とか言ってるし」「痛い猫だな」
 
 静かな海辺の丘に、ピンク色にシリコン塗装した、こぢんまりした建物がある。建てられたのはバブルのころで、南欧風だ。入口にはイオニア式の白い柱が四本並び、合間のアーチをくぐって中に入るのだった。日本ではちょっと滑稽なはずだが、壁のピンクは、紫がかったところに砂が混じったような色合いで、白茶けた海と並ぶと、沈鬱で悲しげに見えた。
 この四階建ての建物が、『ホテル豆腐洗い猫』だ。もちろんこのホテルには、『豆腐洗い猫・悪口の間』はない。
 暖かい海辺にあるホテルには、リゾート客が来るのだが、冬の今は閑散としている。
 ホテルのまわりを久留米ツツジの防風林が守っている。ツツジの株間から銀色のポールが何本も突き立ち、万国旗がばたばた揺れていた。南国っぽく、棕櫚とソテツに色取られた庭園のプールは、水を抜かれている。
 
『ホテル豆腐洗い猫』で働く豆腐洗い猫は、新婚旅行のご夫婦を案内し、四〇二号室のドアを開けた。
 窓は南側の海に向かって大きく開いている。バルコニーには、久留米ツツジの鉢植えが密集し、冬だというのにちらほらと花をつけていた。
 室内は砂色の混じったピンク色の壁紙に覆われている。冬の午後の弱い陽が部屋の奥深く射しこみ、東側の壁だけが丸く光っていた。
 
 部屋の中央には素敵なダブルベッドが置かれている。
 ベッドはもちろん、ふわふわでしっとり輝く絹ごし豆腐である。豆腐のベッドは、きれいな水がなみなみと注がれた、ホーローびきのバスタブくらい大きなタライに浮かんでいる。タライには四本の脚がついていた。脚は優美に外に曲がった猫脚だ。
 豆腐のベッドはふわふわなだけではない。夏は、ホーローのタライにたっぷり氷を入れ、また、タライの下でどんどん薪を焚き、お湯を温め、季節ごとに心地好い適温にする。夏は冷ややっこ、冬は湯豆腐である。
 
「豆腐を洗いますにゃー」豆腐洗い猫は、新婚旅行に来た泥山田さんご夫妻の荷物を運びこむと、言った。泥山田さん夫妻は、わくわくしながら見守っている。
 豆腐洗い猫は、ホーローのタライに脚を突っ込み、体を乗りだし、両前脚の肉球を豆腐にこすりつけ、いっしょうけんめいベッドの巨大豆腐を洗った。豆腐はみるみるうちに輝きを増す。皮肉なことに、豆腐洗い猫は今や、六〇本の久留米ツツジになかば運動神経を乗っ取られているのだが、ツツジに制御されたためにかえって、豆腐に触れるたびにうまく爪を引っ込められるようになっていた。
 
 花嫁さんが言う。「ほんとうにきれいになってる! すごいわ」
「ああ、しまったコンドームを忘れた!」と花婿さんが照れながら言った。「子供はもう少し後にする約束なの」と花嫁さんが言った。
「ちょっと待ってくださいにゃー」豆腐洗い猫は豆腐ベッドからちゃっと飛び起りて、ドアを開け、ホテルの廊下を走った。
「ホテル備えつけのコンドームを持ってきますにゃー」
 
 コンドームは湯葉でできている。
 当然、よく破れるのだが、妊娠したところで、一週間後にオカラが生まれるだけなので別に良いのだった。

「さすが豆腐洗い猫ちゃんね」と花嫁さんが言った。
「ありがとうございますにゃー。ですがにゃー」豆腐洗い猫の神経を支配したツツジが、猫を動かし、かわいく答えた。
「猫の妖怪どうし、悪口は言いたくないんですがにゃー。豆腐洗い猫はちょっと無責任なところがあってにゃー、ホテルを放りだして遊び暮らしていますにゃー。みかねて代わりに、ツツジ猫ががんばってホテルを引き受けましたにゃー」
「ええ? ひどい猫ね。がっかりしたわ」花嫁さんが言った。花婿さんも言う。「豆腐洗い猫はまじめでひたむきな猫だって聞いていたんだけどなあ。ツツジ猫ちゃんは偉いねえ」
 にゃー……と豆腐洗い猫は思った。

 猫は、ダブルの豆腐ベッドが浮かんだホーローのタライの下で、薪を燃やし、お湯の中にネギを入れる。
「ポン酢を持ってきますにゃー」
 豆腐洗い猫は、四〇二号室と、一階のガーデンレストランの厨房のあいだを、こまねずみのようにきりきりと走りまわり、銀のお盆に載せて、サーヴィスの品々を持ってくる。「豆乳サワーのフルーツパンチですにゃー」「ホテル豆腐洗い猫の絵葉書ですにゃー」そのお盆のいちいちに、種類の違うきれいな久留米ツツジの花が載っている。

 廊下の天井にたくさん吊された呼び鈴がりんりん鳴った。呼び鈴には何十本もの凧糸がつながり、各客室で糸を引っぱると、廊下や階段やフロントの呼び鈴が鳴る仕組みである。
 冬で閑散としたホテルにもうひとりだけ、お客さんが泊まっている。三〇六号室でご用だ! 
「ごゆっくりおくつろぎくださいにゃー」ツツジ猫は新婚旅行のお客さんに深々と、しかもかわいくお辞儀した。
 四〇二号室から廊下に出たとたんに、背中のツツジたちが豆腐洗い猫に言った。「ちょう、君、やっといてえや」
 お仕事に飽きると、ツツジたちは、豆腐洗い猫の運動神経にからまった根っこを休ませ、豆腐洗い猫に何もかもやらせるのだ。
 
 三〇六号室のお客さん、藻島さんはひとりでお仕事のために来た立派なビジネスマンさんだが、あまりにおいしいので湯豆腐になった豆腐ベッド(シングル)を全部、食べてしまった。
「ツツジ猫ちゃん、豆腐のおかわりを頼むよ」
「かしこまりましたにゃー」
 
 豆腐洗い猫は、ぴょんぴょん階段を降り、吹きぬけになった二階やフロントロビーのある一階を通過し、地下に行った。
 地下の倉庫の隅から、大きな台車をがらがらと引き出す。
 業務用冷蔵庫を開けると、豆腐が載った大きな棚が、観覧車の籠のように、垂直に立った円盤状に並んでいる。豆腐ベッド用の新鮮な巨大絹ごし豆腐である。
 豆腐洗い猫は一番おいしそうな豆腐を選んだ。棚の回転ハンドルをまわし、目的の豆腐の載った棚を、冷蔵庫の一番下に持ってきて、台車の荷台と同じ高さにする。巨大豆腐の下には、ビニールのシートが敷かれており、シートを引っぱることによって、猫でもなんとか、大きく重たい豆腐をひきずり動かすことができる。シングルサイズでも、豆腐ベッドはウォーターベッドくらい重たいのだ。豆腐洗い猫はいっしょうけんめいシートを引き、豆腐を台車に積んだ。
 
 豆腐洗い猫は、台車を押して、三〇六号室の扉をノックした。
「新しい豆腐ベッドですにゃー」
「お、ご苦労だね」藻島さんはベッドの向こう側で、ノートパソコンに何か入力している。
 豆腐洗い猫は、荷台の先端を、ぐらぐら煮たった、よくダシの出たホーローのタライに向けた。台車の取っ手を押し下げると、梃子の原理で、荷台部分が上がる。荷台の先端が、タライのへりに引っかかった。
「にゃー!」豆腐洗い猫は、今度は、荷台の取っ手側の端っこをつかむ。猫背を徐々に伸ばし、重量挙げのように、渾身の力を込めて、ぐいっと荷台の片方を持ちあげた。
 タライに向かって斜めになった荷台を、ずるずると豆腐がすべり落ちる。すべりながら豆腐はどんどん勢いをつけ、急速度でホーローのタライに落下した。
 タライのダシ汁の水面にぶつかり、ぐしゃーっと豆腐が砕け、お湯がびちゃびちゃに跳ね、豆腐洗い猫の体に降りかかった。「熱いにゃー!」
 
「ああ、重要な書類が!」
 藻島さんの大切なノートパソコンの上に、ダシ汁が、ネギと豆腐のカスとともにぶちまけられた。
 
「すいませんにゃー!!」
 豆腐洗い猫は、タライの反対側にいるお客さんのパソコンを拭こうとした。台車の荷台がタライのダシ汁の中にずぶずぶともぐりこむ。猫は焦って、ホーローのタライを飛び越そうと、取っ手の隙間に向かって跳ねた。ツツジの枝が、取っ手に引っかかり、猫は台車ごと、自分がいた扉側に引き戻される。猫の背中のツツジの、びっしり咲いた花が吸盤になって、模造大理石の床に強烈に吸いつく。そして猫は、台車の取っ手といっしょに、床にべったり貼りついた。
 台車が猫のほうに倒れ、ホーローのタライもひっくりかえった。ダシ汁と巨大絹ごし豆腐が、ぎゃーーー! にゃーーー!!! と、床にびっしゃあああああとこぼれた。
 
 藻島さんのノートパソコンがピーといって、断末魔の叫びをあげた。豆腐洗い猫が叫ぶ。「にゃーーー! 弁償しますにゃー」
「まあ、データは会社のコンピューターに同期するから……」と藻島さんはちょっと困った顔をして笑った。
 
 ああ、データが! 空中を今しも飛んでいって、藻島さんの会社の巨大コンピューターに同期しようとしたデータを、ツツジの葉っぱの気孔が吸い取った。
「ええ、データが消えてしまった? ああああ! これで五〇〇〇〇億円の損失だ!」
 うわーぎゃー! と叫んで、藻島さんは豆腐洗い猫を壁に叩きつけ、走って出ていった。「猫のホテルになんか泊まるんじゃなかった!」
 

二、大忙しの豆腐洗い猫

 
 豆腐洗い猫は、壁にぶつかった頭を押さえて立ちあがると、しくしく泣きながら雑巾で三〇六号室の床を拭いた。
 拭いても拭いても、床にこぼれた六〇リットルのダシ汁と巨大豆腐は吸い取れない。
 豆腐洗い猫の背中に生えたツツジたちが言った。「人生何ごとも経験やわ。あのビジネスマンのお客も、これで、ひとまわり大きい人間になれるわ」
「弁償するにゃー」豆腐洗い猫はかぼそく言った。
「できもしいへんことを言っとう!」「馬鹿ぁな猫や!」「この馬鹿は関西でいう『バカ』やで! ほんまに救いようのない馬鹿にしか使わん馬鹿や、これを相手に言うたらおしまいや、いう馬鹿や!」「豆腐洗い猫にはその『馬鹿』いう言葉がちょうどええで!」
 冬なのに満開に咲き誇った背中の久留米ツツジたちはいっせいに笑った。

 廊下の天井に張りめぐらされた呼び鈴が鳴った。豆腐洗い猫は三〇六号室の後片づけを中断し、フロントに駆けつけた。
 黄色いナイロンパーカーを着て黄色いリュックサックを背負った、しょぼくれた男の人が、ひとりでフロントに立っていた。
「いらっしゃいませにゃー」豆腐洗い猫はフロントデスクの裏に用意してある脚立によじ登って後ろ二本脚で立ち、デスクの上に宿帳を広げた。
 
 宿帳は、どんな猫でも読めるように、ひらがなで書くようになっている。お客は書いた。

 おなまえ : はたくらまゆみ
 しょくぎょう : みんぞくがくしゃ 
 つぎのもくてきち : とうふあらいのいりえ
  
「と……」と、はたくらまゆみ/幡倉真弓は言った。(第四回、『豆腐洗い猫トーテム』参照、豆腐洗い猫を信仰する一族の末裔で、民俗学者。話し下手)
 
 豆腐洗い猫は、このお客が、自分を信仰してくれる一族の末裔であることに気づいた。彼を導く親切な言葉をかけたかった。他の一族たちの消息を尋ねたかった。
「とうふ……この近辺に……、豆腐洗い猫が、と……」と、幡倉真弓はいっしょうけんめいしぼり出すように喋った。「猫が、洗う豆腐が……」
 そしてひとりごとを言う。「ツツジ猫ちゃんは知らないか……」
 
 ツツジたちは質問には答えず、きびしく言いはなった。「一泊、六八〇円ですにゃー。前払いですにゃー」
 
 幡倉真弓は黄色いナイロンパーカーのポケットを探ったが、どうしても五七二円しかみつからない。一円出てきたと思ったら、昔の缶ジュースのプルタブ(取り外すタイプ)だったりした。
 豆腐洗い猫が「五七二円でいいですにゃー」と言おうとしたら、当然、猫の発話機能を奪い取ってツツジが言う。「一泊、六八〇円ですにゃー。びた一文まけられませんにゃー」
 
 呼び鈴が鳴った。「ツツジ猫ちゃん来て!」
 豆腐洗い猫は心の中で血の涙を流しながら、小銭を探し続ける信者一族の末裔を後にし、呼んでいるお客さんのところに向かった。

 新婚の泥山田夫妻が、ホテルの地下大浴場の前で途方に暮れている。「お風呂に蛆が湧いているわよ!」
 ええ、にゃー……。花婿さんが足元を指差した。「これを見てくれよ」お風呂の扉の隙間から蛆が這いでている。猫一匹ではなかなか手がまわらず、豆乳風呂の入れ替えとか掃除を、そういえば忘れていた。
 大浴場の扉を開けた途端、何万匹もの小蠅がぶーんと豆腐洗い猫を襲った。ぎゃー!! ネズミがばたばたと駆けていく。大浴場の前に置かれた、高野豆腐でできた卓球台はびっしり青黴が生えて、ビロードを貼った本物の卓球台みたいになっていた。
 
 新婚旅行をキャンセルし、慌ただしくホテルを出て行く泥山田夫妻を傍らに、フロントロビーでは、幡倉真弓が立ちつくしている。
 彼は壁を眺めた。壁には絵が掛かっている。久留米ツツジの父、偉大なる久留米藩士・坂本元蔵の肖像を、エドワード・ホッパーが静謐に描いたものだ。ルノワールが描いた久留米ツツジの油彩もある。エドワード・ホッパーの絵のほうが、ホテル豆腐洗い猫には合っているかなと、幡倉真弓はぼんやりと思った。彼のまわりをゴキブリとフナムシがささっと走りまわる。大量のゴキブリの足音が吹きぬけのフロントロビーに響く。

 鹿が鳴いている。冬ぞ悲しき、鹿ぞ鳴くなる、と幡倉真弓は思った。鹿は、各部屋の豆腐ベッドの豆腐をむしゃむしゃと食べてはポタポタ糞をした。糞にはバラの種が含まれている。鹿が三頭、幡倉真弓が持っていた乾パンに惹かれてやってくる。食べ終わると、もっと餌をくれというように、ナイロンパーカーをくわえようとする。

 心優しい幡倉真弓は、もっと餌をあげようとしたが餌なんかない。鹿たちは首をゆっくり振りながら、軽やかな足取りで、幡倉真弓に頭をぶつけてきた。手に持った地図を、鹿が引き裂き、食べはじめる。鹿は岩波文庫の『忘れられた日本人』(宮本常一著)を、真っぷたつに食いちぎった。五十頭くらいの鹿がどっと幡倉真弓を取り囲み、無言で彼に頭突きする。牡鹿の立派な角が突き刺さる。
 幡倉真弓は、五七二円をフロントデスクに忘れたまま、ホテルのガラスの扉を開けて、逃げていった。
 
 当然のように、ホテル豆腐洗い猫は荒れていった。一階のレストラン『アザレア』では、厨房でも客席でも、ガーデンテラスでも、鹿が糞をしまくっていた。
 二階のバー『豆腐洗い』には、『豆腐洗い猫・悪口の間』が出来ている。影のような、仮面をつけた人々がやってきて、豆腐洗い猫の悪口を言っている。「見て、このグラス、オカラがついてるわ。最低ね」
「あの猫を家族の一員として引き取る奇特な人はいないの?」
「家じゅうに豆腐をまきちらされるだけだな。しかも向こう三軒両隣、マンションだったら全室、それに隣のビルまで、汚泥と恥辱にまみれた豆腐のクズをばらまかれるに違いない。豆腐にはすべて『死ね』とか『バカ』とか書いてあるのだ。ご近所トラブルの元だよ」
「世の中には、もっといたいけで、かわいくて、困っている子猫がいっぱいいるんだ。タフに生き抜いた長寿猫も、尊敬しあいながら、供に暮らすパートナーにふさわしい。だが、大昔から生きているくせに馬鹿のままで何のご利益もない猫……自称・元・神(笑)など……」
 
 豆腐洗い猫がバー『豆腐洗い』を覗くと、影たちはさっと引っ込んでしまい、白とピンクの模造大理石で市松模様を作った床に、空っぽのスツールが、ただただ長い影を落として並んでいる。
 
 フロントで呼び鈴が鳴った。お客さんだにゃー!
 今度来た客は、豆腐まみれで柔らかい毛が固まって悲惨な表情の豆腐洗い猫の姿を見ると、びっくりして、持っていたバラの苗木をフロントデスクに置いて逃げだした。豆腐洗い猫はどうして良いかわからず、「大事に育てますにゃー」とお客さんの背中に叫んだ。
 おかげで捨てバラがたくさん集まった。
 ホテルの名物、全室そなえつけの豆腐ベッドは、鹿がした糞から生まれたバラの苗代になって、バラは部屋じゅうに蔓を伸ばした。蘭や、ビカクシダ、スマトラオオコンニャクも持ち込まれて、部屋を占領していった。鹿はバラをむしゃむしゃ食べてトゲが刺さって死んだ。
 死体からまた、バラが生えてきた。
 

三、植物のパラダイスホテル

 ホテル豆腐洗い猫は今や、単なる温室であった。園芸愛好家が来るかもしれなかったが、そんなことをしてお客を呼び、集金する甲斐性や世知が豆腐洗い猫にあるわけがなかった。

 鹿の死体、猪の死体。
 薄暗い廊下には、熱帯のサトイモ科植物スパティフィラムが繁茂し、白い仏炎苞(ぶつえんほう)が広がる。
 バラがこの館の女王だった。
 ツツジが豆腐洗い猫をあやつり、グーグルに頼んで『捨てバラ引き取ります』という広告を出したため、ますます『捨てバラ』が集まってくる。各客室の豆腐ベッドに生えたバラが色とりどりの花を咲かせる。
 豆腐洗い猫は、幡倉真弓が忘れた五七二円で近所の農家から牛糞を買い、大八車に乗せて、バラの肥料に運んできた。本当は自分がピカピカに洗うべき豆腐に泣きながら撒いた。

 客室で開花したバラたちは、せっせとポエムを書いている。

  ツツジよ……さぞかし私を恨んでいるであろう……
  私たちの愛は種間雑種不能の不稔の愛……

 ツツジ猫が言う。「バラさんたちは、サカタのタネさんやタキイ種苗さんのような一流どころの園芸カタログで大人気ですにゃー。毎号特集で、すごいページ数を割かれてますにゃー。『咲かれて』と『割かれて』をかけてますにゃー」ははははとツツジはお追従笑いをした。
 
 バラの繁茂した客室から廊下に出ると、「けっ、落葉樹が」とツツジは豆腐洗い猫の背中で毒々しく呟いた。
 にゃーと豆腐洗い猫は思った。

 かつて、『豆腐洗い猫・悪口の間』があった、バー『豆腐洗い』は、窓枠にからみついた蔓バラ、地面に置かれたミニバラと、バラであふれ、悪口を言う人々も来ない。
 ホテルの空中は、植物でいっぱいなので酸素が濃くなっていた。なんだかくらくらしながら、豆腐洗い猫は植物たちの世話をし続けた。
 元々建物のあちこちに置かれていた、久留米ツツジの鉢植えはじょうぶである。豆腐洗い猫は、どんどん増える捨てバラをホテル内に受け入れるため、久留米ツツジを庭に植え替えていった。
 
 四〇二号室の豆腐ベッドに根づいたバラは、ブクブクビラビラした花びらを揺すりながら、『冬で寒いから暖かくせよ』と豆腐洗い猫に命じた。
 ツツジ猫がバラに言う。「ツツジ猫はバラさんたちのために奉仕しますにゃー。園芸植物の主役はやはりバラですにゃー!」

 豆腐洗い猫は、豆腐ベッドがひたされた、ホーローのタライの下の薪に火をつけようとした。
 薪に火をつけるのはたいへん難しい。特に猫には困難である。右手の小さな指のあいだにマッチ棒を差しいれ、左手にマッチ箱を持つのだが、うまく箱が持てない。猫は座りこみ、後ろ脚でマッチ箱をはさみ、左手で押さえた。
 やっとマッチに火がついた。火は、マッチ箱に燃え移った。豆腐洗い猫はあわてて、タライの下に積んだ薪の上にマッチ箱ごとマッチを投げた。ああ! いつの間にか、薪の上に、灯油の一斗缶が置かれている! ちゃんと蓋も開いている。

 豆腐洗い猫のツツジ部分が、猫をあやつって一斗缶を置いておいたのだった。火はあっという間に燃えあがった。
 
 豆腐洗い猫は消火器を持ってくる。噴射されて出てきたのは灯油である。ツツジ猫が中身をすりかえていたのである。別の消火器にはエタノールが! 別の消火器には着火材が! ああ! 消火器だと思ったら火薬だ!
 大体、植物だらけになったホテル豆腐洗い猫だ。ホテルの中は、ただでさえ、酸素濃度があがっていた。
 
 燃えさかる炎が、豆腐に生えたバラを包んでいく。
 
「水を汲んできますにゃー!」豆腐洗い猫はバラに言った。が、ツツジが言う。「まあ世は無常や。ええんや、仕方ないんやわ。驕れる植物は久しからずや」
 ツツジ猫はサカタのタネとタキイ種苗の園芸カタログからバラのページを破り取り、一緒に燃やした。
 
 炎は、大きなガラス窓をやぶり、さらに部屋中に広がる。
「もうだめにゃー、バラさんごめんにゃー」
 豆腐洗い猫は、あわてて部屋の扉を閉め、階段を転げるように降りる。

 フロントロビーで、ツツジが豆腐洗い猫の体に急ブレーキをかけた。フロントデスクの裏に向かわせ、脚立を運ばせる。
 脚立をゆっくり運びながら、豆腐洗い猫は叫んだ。「逃げるにゃー!」
 炎が階段を舐めている。ツツジたちは猫の体を、フロントロビーの壁際に置いた脚立に登らせた。エドワード・ホッパー描く、久留米藩士・坂本元蔵の肖像画をはずす。額を頭の上に載せる。猫は、脚立が倒れると同時に、ぴょんと床に飛び降り、一目散に外へ駆けだした。
 
 ツツジが言う。「バラはなあ、悪いやつらやからなあ、これも自業自得やろ。あいつらはなあ、しょせん落葉樹のくせになあ、たばかっとうんやわ。バラの世話はたいへんや言うやろ、黒星病やウドンコ病。あれなあ、みんな仮病やでええ。バラ愛好家(審美眼のかけらもない軽薄な人々)の注意ひくための仮病なんやわ!」
 
 もちろんすでに、館内のツツジはすべて、安全な外に移植されている。
 白茶けた海の前の砂浜に座りこんで、坂本元蔵さんの肖像画にもたれかかりながら、にゃー……と猫は思った。

間瀬純子プロフィール


間瀬純子既刊
『物語のルミナリエ
異形コレクション〈48〉』