「灯台」深田亨

 潮の流れの速い海峡のまん中に灯台がある。そこが浅瀬で、岩礁が隠れているのを知らせるために、明治時代に建造されたそうだ。
 私の家は海峡のこちら側に建っていて、海沿いの崖の上にあるので、二階の窓から灯台がよく見える。子供のころからそこは私の寝室で、馴染んだ景色だった。
 ある夜、灯台が近付いているように感じた。
 昼間見ると正しい位置にある。ところが夜中近くに、窓からふと見ると、どうも距離が縮まっているような気がした。
 最初は気がしただけ。
 でも翌日の夜には、間違いなくもっと近くになっていた。日暮れから窓の横に椅子を置いて、目を離さず見ていても動かない。けれど席を外したり、いや、ほんの少し横を向いたりするだけで、ずっと近くなっている。
 まるで「だるまさんがころんだ」をしているような状態なのだ。
 ただ、私の生まれ育ったこのあたりでは、その遊びを「ぼんさんがへをこいた」と、やや下品な言い回しをする。考えてみるに、ぼんさんがへをこく、つまり僧侶が放屁するのはごく当たり前のことである。それに対して、この場合起き上がりこぼしを意味すると推定される「だるまさん」が転ぶという事態は、通常の状態とは言えない。
 転んでも起き上がる機能を備えている達磨人形が転倒するというのは、何かを暗示してはいないか。
 近寄ってくる灯台を夜ごと見つめていると、そんな形而上的な思いにふけってしまう。だが、「だるまさんがころんだ」も「ぼんさんがへをこいた」も、単に十を数えるための手法に過ぎないのだ。
 灯台が動き始めて――最初にそう思った夜から数えて七日目、もうその姿は指呼(しこ)のうちに迫っていた。
 海岸に到着したのだ。崖の下で波が灯台を洗っている。
 灯台は崖の高さとほぼ同じで、二階の窓から見て庭先あたりに大きなレンズがある。そいつがくるくる回って数秒間に一度こちらを照らすのが、まるで誘っているかのようだ。
 思わず階段を駆け下りて、庭に出る。間近に見る灯台は、頑丈なコンクリート造りで、思っていたより巨大な姿に、頼もしい感じさえする。
 レンズがこちらを向く。閃光。そのあとの暗闇は夜より深い。
 レンズが三六〇度回転して、閃光。早くおいでよ。そう言われているようでもある。
 またひと回り。レンズのある灯室は庭に立った私の目の高さに等しいが、崖の端と灯室は水平方向に数メートル離れている。
 下を見ると、もう灯台は波打ち際と接しているけれど、上の方が狭くなった円錐台形をしているので、届かないのだ。飛び移れる距離ではない。
 なす術もなく佇んでいると、くるくる回る光がさらに近くなった。灯台が、まるで柔らかな若木のように身体をしなわせているのだった。
 灯室の手すりが手の届く位置にきた。眩しさに目がくらまないようにとの配慮か、レンズは反対側で止まったまま、雲の多い夜空を照らしている。
 飛ぶまでもなく、楽々と手すりを乗り越えて、灯台の上に立つ。灯台はゆっくりと背筋を伸ばすと、垂直に屹立する。
 何ごともなかったように、レンズが再び回り始める。それとともに、灯台はしずしずと崖を離れ、海峡に向かって動き出す。
 もとの位置に戻るのだろうか。
 手すりをつかみ、潮風に吹かれながら家を見ると、明かりを消した二階の窓が開いたままである。
 あそこに帰ることはあるのかな。
 そんなことをぼんやり考えていたが、やがて非常に疲れを感じたので、灯台の内側に沿った螺旋階段を下りて機械室のような部屋に至る。
 海峡の岩礁に作られた灯台なので、もとより人が暮らすようにはなっていないが、補修や工事のための簡易なベッドがあることを予想していた――というよりも、何故か知っていた。
 ほこりがうっすらと積もったマットレスに横になると、波の音が子守唄のようで、すぐに眠りに落ちた。

 朝起きると、自分のベッドにいた。昨夜灯台に乗り移ったのは、夢だったのか。
 開いたままの窓から海峡を望む。いつもの位置に、灯台はあった。
 夜、二階の窓から見ても変わらない。だが、灯台の閃光がこちらを照らすと、その現象は起きた。私は「だるまさんがころんだ」で鬼から見た子供のように、一瞬で灯台に移動していたのだ。
 だるまさんがころんだ。

 私が乗った灯台は、海峡のもとの場所に留まらず、夜の海を突き進んでいた。灯台が建っている岩礁ごと、波を蹴立てて移動するのだ。
 昔、テレビの人形劇でそんなのがあったと聞いたことがある。いやあれは、島が動くのだったか。
 大海原に出てから数カ月経っていた。
 機械室にあった非常用の食料と水は底をついた。保守作業員が置いていったのか、釣り道具があったのでそれで魚を釣った。
 晴天が続き雨水が確保できないときは、釣った魚の水分が頼りだった。

 昼間は崖の上の自分の家で、これまでどおりの暮らしをしていた。仕事も休まずに出かけた。でも夜になると、灯台の光が二階の窓を照らす。くるりと回って光が届く。
 だるまさんがころんだ。

 やがて灯台は世界のあちこちに寄港するようになった。
 灯台の訪問が珍しいのか、人びとが見物に押し寄せた。思いついてわずかな入場料をとるようにした。お金が貯まると必要なものを買いこんで、海原に出立した。
 人びとは名残を惜しんでいつまでも港から手を振った。
 また来てくれよ。
 待っているわ。

 昼も夜も、灯台は海峡のまん中にあった。それは当たり前のことのはずが、なぜか不安な心地がするのだ。どうしてなのかは、思い出せない。夜になると、灯台の光が二階の窓から侵入する。
 だるまさんがころんだ。

 灯台は生まれ故郷の海峡に向かっていた。
 ここを出てからどれぐらい時間が過ぎたのだろうか。見当もつかないが、そのあいだに我われ――灯台と私――は世界を回遊し、港々で歓迎を受けた。
 いま、灯台には私のほかに、南米のある港で知り合った妻と、二人の子供が乗り組んでいる。三歳の男の子と二歳の女の子。もっとも、子供は妻と前の夫とのあいだにできたのだが、いまでは私の家族だ。
 灯台は海峡の、もとあった位置にきても止まらない。崖の上の、私の家に向かって進んでいく。二階の窓は開いていて、明かりが点っている。
 誰か住んでいるのだろうか。
 灯台は海岸に到達すると、レンズの回転を止め、ゆっくりと崖に面した庭に向かってかしいだ。
 床が斜めになったので、息子が滑り落ちそうになって手摺にしがみつく。娘は妻がしっかり抱きかかえている。
 最初に妻と娘が、ついで息子が庭に降り立つ。息子が手すりを乗り越えるのに、手を貸してやる。最後に私が芝の上に足を乗せる。
 深呼吸をする。草の匂いが胸の中に広がる。星月夜だ。妻が不安そうに家を見上げている。
 私は彼女の肩にそっと手を置く。我が家だよ。そう口に出して言わなくても、理解できたのか妻は微笑む。子供たちも妻の顔を見て、安心したようにくすくす笑う。
 首を回して海を見ると、灯台はすでに海岸を離れて、海峡のまん中へ向かっていた。
 私は先頭に立って玄関まで歩く。
 ここを出たとき、鍵は持ってきた。だがそれを使うまでもなく、玄関に鍵は掛かっていなかった。誰もいないのだろうか。そんなはずはない。
 灯台から見たとき、二階の部屋の窓は開いていて、明かりが点いていた。
 家の中に足を踏み入れると同時に、二階から誰かが降りてくる気配がした。

 だるまさんがころんだ。