「何かが起きた(下)」青木和

 真知子は、彼のたてる音があまりに生活感がありすぎて、幽霊っぽくないと言うのだった。もしかしたら、彼があたしの部屋で暮らしていた頃の音が聞こえているんじゃないかと言うのだ。つまり、どういう理由でかは分からないけど、あの部屋の中でだけ、あたしのいる時間と彼のいた時間がつながってしまったと。しかも音だけ。
 そういえば真知子は、タイムリープとかそんなのが出てくる映画が好きな子だった。でもさすがにあり得ないんじゃない? と言うと、だったら幽霊だってあり得ないよと返された。
 真知子の言うように、彼が死なずにすむならその方がいいのかもしれない。けれどあたしは真知子の説にあまり賛成できなかった。彼の音や気配に実際に接していると、あたしと彼の間にはとても深い溝があるような気がするのだ。それこそ生と死を分けるような。
 だからあたしは、彼が自分が死んだことに気づいてなくて、まだあの部屋で生活しているつもりなのだろうと思っていた。
 本当のことを言うと、あたしにとってはその方がよかったのだ。彼が死人なら、あたしがあの部屋にいる限りずっとあたしの〝彼〟のままで、ずっと一緒にいてくれる。
 ただ、彼の姿は見たかった。声を聞きたかった。もっともっと彼のことを知りたかった。
 どうしたらいいだろうと考えて、簡単なことを忘れているのに気がついた。あたしは、彼に話しかけたことがない。音が伝わるなら、声も伝わるのではないかしら。どうしてそんなことを思いつかなかったんだろう。
 それで、彼が部屋に戻ってきたときに思い切って「お帰りなさい」と言ってみた。
 緊張して声がかすれた。
 一瞬、彼の足音が止まったように感じた。止まって、あたしの声のした方に耳を傾けている。
 あたしはドキドキしながら彼の反応を待ったけれど、それきり何も起こらなかった。彼はいつものようにロフトに上がって眠ってしまった。
 彼が反応したように見えたのはあたしの思いこみで、実際は何も聞こえていなかったのかもしれない。がっかりしたけれど、それで話しかけるのをやめようとは思わなかった。
 真知子の方はというと、調査はまったく進んでいないらしく、ごめんで始まるメッセージばかりが並ぶようになった。だいたい彼がなんという名で、どんな顔で、何歳で、そしていつ頃の人だったかも分からないのだ。マンションが建ってからだけでも十五年はたっている。そう簡単に見つけられるわけがない。
 真知子が最初の勢いをなくしていくのと反対に、あたしはますます熱心に彼に話しかけるようになった。
 あたしは彼が帰ってくる時間には、今まで以上に起きているよう努力した。そしてできるだけ話しかけた。話す内容はその時々によって違ったけれど、必ず「会いたい」と言うのを忘れなかった。
 最初は半信半疑でおそるおそる話しかけていたのに、いつの間にか生身の人に話しかけるようにはきはきと声が出るようになった。
 お帰りなさい。行ってきます。今日はいいお天気だったね。なんて曲を聴いてるの? 花を飾ってみようかな。……そして必ず、会いたい。姿を見せて。
 やがて、あたしの思いが伝わったかのか、彼がリアクションを示すようになった。今度は気のせいではない。あきらかに立ち止まったり、ゲームのボリュームを突然下げてみたり。
 もう一息だ。
 そしてその日が来た。

 アルバイトを終えてマンションに戻り、エントランスでメールボックスを開けていると、背後からいきなり呼び止められた。
「ねえ、ちょっと。あなた四〇四号室の人でしょ」
 振り返ると、作業服を着たおじさんが立っていた。誰だっけ、と少し考えて、このマンションの管理人だと思い出した。管理会社から派遣されて、月曜と水曜だけ巡回してくる。ほかのマンションも掛け持ちしているのか一日に何時間もいないようで、引っ越しのときに挨拶したきり顔を合わせたことはなかった。
 管理人のおじさんは、あたしの肩越しにまだ扉の開いているメールボックスをのぞき込む。あたしは体でメールボックスを隠すと、後ろ手で扉を閉めた。
 ボックスの中はチラシばっかりで、見られたところでどうということはなかったのだけれど、なんだか覗き見されるようでいやな感じがしたのだ。
 そんな動作が気に障ったのかどうか、おじさんはちょっと不愉快そうに鼻を鳴らすと、
「お一人?」ぞんざいに言った。「お住まい、お一人ですか」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。ワンルームなのだから一人に決まっている。
「もちろんですけど」
「そう? ならいいけどね」
 おじさんはメールボックスをちらちら見ながら、念を押すように言った。
「このマンションは単身用で、皆さんにもそれで契約してもらってますんでね。あなたも契約書書いたでしょ? お友達が遊びに来てちょっと泊まってくくらいはいいけど、一緒に住んでもらったりしたら違反になるからね。家賃きっちり払ってらしてもダメだから。一応注意しとくよ」
 面倒くさそうにそれだけ言い捨てると、これで用はすんだと言わんばかりに背を向けて歩き出す。
 わけがわからず、あたしは少しの間固まっていたが、やがてあっと気づいて管理人のおじさんを追いかけた。
「待ってください。あたしの部屋に人がいるって、誰か見たんですか」
「私は見てないけどね。苦情があったのよ、同じ四階の人二人から別々に。女の子の部屋のはずなのに若い男がうろうろしてるって。そういうのは……」
「どんな人だって言ってました?」
 あたしは気がせいて、おじさんの言葉を途中で遮った。
 せっかく穏便に忠告をしたのに、あたしが気まずそうな様子も悪びれる様子も見せず、むしろ嬉しそうにしたのがさらに気に障ったらしい。おじさんはますます不愉快そうな顔になった。
「さあね。背が高いとか低いとか。二十歳(はたち)くらいとか三十くらいとか。私は見てないからね。とにかく、注意はしたからね」
 管理人のおじさんが立ち去ってから、あたしは部屋に飛び込んで、ほうっと深呼吸をした。
 まだ胸がどきどき言っている。
 きっと彼だ。それにしても悔しいのは、管理人のおじさんが直接彼の姿を見ていないことだ。週二日とはいえ管理人なら彼を知っていたかもしれないのに。
 あたしは、とりあえず真知子にこのことを報告しようと、バッグを探った。メールボックスから回収してきたチラシが邪魔で、乱暴に投げ捨てる。
 靴を脱いで部屋に上がり、鞄を置いて、スマホを起動する。夢中になっていたあたしは、そこで大事なことを一つし忘れてしまった。

 がちん、と重い金属音がしてあたしは目を覚ました。
 部屋の中はぼんやりと薄暗い。退屈しのぎにつけていたテレビはいつの間にか放送時間を終えて、無音のお天気情報を流していた。一瞬自分が何をしていたのか思い出せなかったが、すぐにベッドに突っ伏して眠っていたことに気がついた。
 管理人のおじさんと別れ、部屋に戻って真知子にLINEをした。既読はついたのに真知子は何をしているのかさっぱり返信がなくて、待ちくたびれて、ちょっとだけと思ってベッドにもたれて目を閉じた。ほんの仮眠のつもりだったのに。
 彼が帰ってきてしまった。
 玄関の方から、ぎしりぎしりと足音が近づいてくる。
 どうしよう。早めに起きて身支度をしておこうと思ったのに、こんな寝起きの顔で会うなんて、最悪。
 やがて暗闇の中に、ぼんやりと人のシルエットが浮かび上がった。背の高い、痩せ気味の男の影。
 彼だ!
 せめて寝乱れた髪の毛をなでつけようとしたとき、思いもかけずはっきりした声で男が口を開いた。
「やあ、理香」
 あたしの手が宙に浮いたまま止まった。
 何度も聞いたことのある声だった。あたしに妻よりも君を愛していると、運命の恋だと甘い嘘をつき続けた声だ。
 その時あたしは初めて、玄関の鍵をかけ忘れたことに気がついた。いつもだったらこんなことは絶対に忘れないのに。
「高杉主任……?」
 一瞬で凍りついたあたしを見て、主任は歪んだ笑いを浮かべた。
「ぼくで悪かったね。君は誰を待っていたのかな」
 どうしてここが、と言おうとして続かなかった。主任の手の中で緑色の小さなランプがちかちかと瞬いていた。目が闇に慣れ始めて、それが何かようやく分かった。
 スマホのお知らせランプだ。スマホのケースに見覚えがあった。真知子のだ。
 あたしの視線の先に気がついたのか、主任はにやりと笑って、真知子のスマホをテーブルの上に放り投げた。
「あとでちゃんと返すよ。本人困ってるだろうからな。それもこれも理香が悪いんだぞ。ぼくに黙って引っ越したりするから」
 子猫に語りかけるような、甘くて優しい声音は昔と変わらなかった。けれどその同じ声に、うなじを逆なでされるような寒気を感じた。あたしに愛してるとささやいた頃とは違う何かが声の裏に潜んでいた。
 あたしは思わず後ずさった。けれどワンルームの中でそれほど逃げる場所があるわけない。あたしが下がった分だけ主任が近づいてきて、すぐそばに顔が迫った。
「冷たいな、理香。そんなに逃げなくてもいいじゃないか」
 相変わらず絹のような声音でささやく。が、次の瞬間に絹は氷に変わった。
「それともこんな落ちぶれた男にはもう用はないっていうのか? ぼくは君のために何もかもなくしたんだぞ。なのに君はさっさと新しい男を見つけてよろしくやっているんだな。ひどいじゃないか。え?」
 主任の顔は土色でげっそりと頬がこけていた。目だけがどこか焦点をはずれ、潤んだように光っていた。
「どんな奴なんだよ、彼って」
 主任の手が伸びてきて、あたしの首に掛かった。

     ****

 最初に入ってきた女は三十といくつくらいだろうか。とても長い髪をしていて、神秘的といえば聞こえはいいけどちょっと危なげな感じがした。くすんだ色の、古くさい形のロングドレスを引きずっている。あんな格好をしなければけっこう素敵な人だろうにと思ったけれど、それではきっと普通すぎて商売にならないんだろう。
 彼女は部屋の中をぐるりと見渡すと「いるわね」と言った。
「やっぱり?」
 女に続いて入ってきた若い男の子が、ちょっと怯えたような様子で尋ねる。彼の方は二十四、五歳くらい。ひょろりとしてちょっと幼い感じだけれど、優しそうに見えた。着ている服はたぶんユニクロかGAPであまり拘りがないのが分かったけれど、似合っているのでマル。
 あたしはベッドに横たわったまま、彼を見上げている。彼があたしの想像していたイメージにとても近かったので、嬉しかった。
「ここで何が起きたんですか?」
 不安そうに彼が女に尋ねる。
「知らないの?」
 女にじっと見つめられて、彼は目を伏せた。睫毛が思いのほか長くて、きれいだった。
「なんとなく見当はついてますけど。いちど不動産屋の担当者にカマをかけてみたんですが、とぼけられました。向こうはプロだし、こっちは素人だし……」
「誠実じゃないわね。それで、何が起きたのか私に教えてほしい?」
「そうではなくて」彼は首を横に振った。「それもありますけど、むしろ彼女がどうしているのか知りたくて。苦しんでいますか?」
 女は振り返って、あたしの方をじっと見つめる。あたしはにっこり笑って、女に手を振った。女は呆れたように溜息をついた。
「そうは見えないわね」
「そうですか。よかった」
 彼は安心したように、ほっと溜息をつく。
 彼があたしの心配をしてくれていたのを知って、ますます嬉しくなった。優しいのね。思ったとおり。
〝彼〟についての推測は、結局半分当たっていて、半分はずれていた。あたしの部屋にいた〝彼〟は、幽霊ではなかった。あの時彼は確かに生きていて、あたしは彼が現実に生活している音を聞いていたのだ。その点では真知子が正しかった。違っていたのは、彼が過去ではなく未来の時間にいる人だったことだ。どうりで、真知子がいくら過去を調べても事故も事件も見つからないはずだ。
 だから四階の住人が見た男というのは、もしかしたら彼ではなくて主任のことだったのかもしれない。残念だけど。主任は真知子のスマホを盗み見て、あたしの住所を知った。あたしの留守に何度か足を運んでいたと、警察で言ったらしい。
 そういえば、真知子はあれからどうしたのだろう。真知子がスマホを盗まれたことが原因で、あたしは主任に殺された。その責任をひどく感じて落ち込んでいたけれど……。
 真知子に会えたら、どうか苦しまないでと言ってあげたい。だってあたしは今、そんなに不幸ではないから。幽霊になったおかげで、こうして彼と会えたのだから。
「で、どうする?」
 霊能者の女が彼に尋ねる。
 彼は答えをためらうように視線をはずす。焦点がいまいちあたしに合っていないのが悲しいけれど、きっと彼はあたしの気配を感じている。
 あたしは彼のそばにいる。これからもずっと。

                 (了)