「夏の落語会」飯野文彦

(PDFバージョン:natunorakugokai_iinofumihiko
 その落語会に出向いたのは八月の末、残暑厳しき日のことだった。
 場所は横浜の、大桟橋近くにある会場である。このとき私は連日の猛暑にくわえ、ビールの呑みすぎが祟って、ずいぶんと夏バテ状態だったが、ふだんなかなかチケットが取れない若手人気噺家の独演会である。やっとのこと取ったこともあったし、どうしても生で聴いておきたかったため、片道二時間近く電車を乗り継いで、出向いたのであった。
 開始時間は午後五時からであったが、それよりも早く会場に着くようにした。落語家の粋な計らいで、暑いなか足を運んでくれる客へのサービスとして、開演一時間前からロビーで縁日をやるという趣向だったからである。
 JRからみなとみらい線への乗り換えがわからず手間取ってしまったため、会場に着いたのは、午後四時を十分ほど廻っていた。開場しており、会場のロビーではすでに人でにぎわっている。老若男女入り乱れて、五十人を越える人びとの姿があった。
 目を引くのは浴衣姿の若い女性だった。昨今の落語ブームとともに、その落語家の実力と男前もあって、若い女性のファンは多くなった。さらに浴衣姿で来場した客に五百円相当の縁日券を配るとのこともあって、夏の一日、浴衣姿でくりだしてきたというところか。
 ホールのあちこちには露店が出ていた。室内である上、やっているのも会の関係者らしく、どれも手作り感覚で、露店というよりも学園祭のバザーに近い。ぶらり廻ってみると、ヨーヨー釣り、金魚すくい、輪投げ。食べるほうではかき氷、焼きそば、焼きうどん、ラムネ、そして生ビールが出ていた。
 昼下がりの炎天下を歩いてきたため、ぐょしょりと汗をかき、喉も渇いていたこともあって、私はまずは一杯とばかり、生ビールを購入した。紙コップに入ったビールに小さな袋に入った柿ピーをおまけにもらい、片隅の椅子に腰を下ろして呑んだ。
 お目当ての落語家も浴衣姿で現れ、ファンと写真を撮っている。売れっ子になっても、このファンサービスは頭が下がるもんだなどと思いながら、気がついたら一杯目のビールを数分と経たないうちに呑み干していた。
 ふだん落語を見聞きする前に、アルコールは口にしない。一杯呑むと落語を聴くより、もっと呑みたくなってしまう質だからだ。うっかり酔っぱらって会場に入り、眠ったり、暴言を吐いたりしたら、それこそ会を滅茶苦茶にしてしまう恐れがある。
 しかし、今日は特別だ。わざわざ縁日を出しているのだから、売り上げに貢献するのも一興だろう。などと勝手な理屈をつけて、ふらふらと足を運び、もう一杯注文した。
 さすがに二杯目は数分というわけにはいかず、半分近くを呑んだところで人心地ついて、柿の種をつまみ、ぼんやりと辺りを見廻す。
 次第に客も増えてきた。件の落語家も写真撮影だけでなく、かき氷を売り、はたまた焼きそばの手伝いにと飛び歩いている。何より当人が楽しそうにやっているのがうれしく、良い気分でビールを口に運んでいたのである。
 明るいうちに呑む酒は廻りが早い。と良く言われることではあるが、このときの私もいつも以上に早く酔いが廻ったようだ。炎天下に代わり、今度はビールが原因となって、頭はボーッとしてしまう。まずかったかな、などと思いながらもストップをかけられず、ついつい紙コップを傾ける。
 二杯目を呑みおえたときには、よりいっそう頭はぼんやりとしていた。それがとろりと、心地よく感じられるようになっていた。気分としてはさらにもう一杯、と行きたいところだし、ふだんだったら迷わずそうしている。ところがこの日は状況がちがう。これから二時間あまり、じっくりと落語を聴くために、わざわざ横浜までやって来たのである。
 腕時計を見ると、まだ四時半にもなっていなかった。十分ちょっとの間に生ビール二杯呑んだのだから廻るよなあ。やっぱりまずかったかな。できるなら、しばらくごろんと横になりたいものだ。などと思いながら、一人所在なく坐り、柿の種をぽりぽりとやっていた。
 会場内には百人を超える人が行き来し、浴衣の女性たちが歓声をあげ、笑い声が響く。
 ああ、いい雰囲気だなあ。こういうのもいいよなあ。私も落語家のところに行って、話しかけてみようか。いや駄目だ、緊張してまともにしゃべれないよ。
 端から見たら、にたにたと笑った赤ら顔の中年男だけに、薄気味悪く思われただろう。誰も私には近づいてこなかった。そのほうがかえって気を遣わず楽だったが、ただひとつ、あまり女の子ばかりをじろじろ見ないように気をつけた。
 以前、桜の季節、近所の公園で一人カップ酒を呑みながら、桜を愛でていた。近くで若い男女のグループが花見をしていたのだったが、いつしか酔いが廻るにつれて、私は桜ではなくグループの中のグラマーな女を愛でていた。
 そうしているうちに、酔った男が近付いてきて、因縁を吹っかけられてしまった。
「おい、じじい。すけべ面してじろじろ見てんじゃねえよ」
 酒の勢いで暴れたところ、警官が駆けつけ、どういう流れか、私だけが悪者になっていた。抵抗したものの、逆らうと連行すると言われ臆病風に吹かれて、理不尽だと思いながらも、すみませんでしたと謝った。
「とにかくいい歳して、痴漢まがいのことしてんじゃない。わかったな」
 どう見ても三十そこそこの若い警官にどやされ、逃げるようにその場を後にして、悔し涙とやけ酒に溺れた経験がある。
 あそこまで大事にならなくとも、問題を起こしたくはなかった。だから、できるだけ女性客のほうは、見ないように見ないようにと心がけていた。とはいえ、それほど広いとはいえない会場内には女性が点在しており、中には浴衣越しにくっくりと身体のラインが見えたり、生々しい肉体が想像できる者もいる。
 見たい、じっくりと眺めたい。できるならタッチ……と想像したところで、私は思考回路を切断した。そのまま妄想を垂れ流したら、えらい目にあうと察したからである。
 仕方なく、できるだけ誰ともぼんやりと視線を合わせず、どこを見るともないようにしていたのだ。そんなとき、ふと視線が一点に向いたのである。
 行き交う人びとの向こうに、一人の老人が座っている。浴衣姿でまん丸い顔をした小太りの老人だった。一目見ただけで、思わず、
「あれっ」と声を上げていた。
 ぼんやりとした酔いの微睡みから、抜け出すように背筋を伸ばし、目を懲らした。よく似ている。誰に? 数年前に他界した人間国宝だった落語家にそっくりだった。二十メートルあまり離れていたものの、見れば見るほど瓜二つである。そっくりというよりも、当人としか思えないほどである。
    ◇ ◇
 この日の独演会の若手落語家は、死んだ落語家の孫弟子にあたる。という以前にあまりに有名な落語家なので、一般人の間にも顔は知れ渡っている。ましてこの会場にいる人びとは落語ファンだろうから、一目見れば誰しもが、わあそっくりと驚かないわけがない。
 それなのにその老人に、声をかける者は居なかった。声どころか、近くを通っても素通りしていく。ちらちらと見やったり、声をかけたりしても良いはずなのに皆無なのである。
 二、三分、そうやって、その老人を見ていただろうか。やはり誰一人として、振り向きさえしない。いよいよ変だと思った頃、その老人が私を見ていることに気づいた。
 最初は私を見ているのではなく、ぼんやりしているだけなのかと思ったのだったが、いったん意識すると、老人がこちらから視線を逸らすことはなかった。
 試しにとばかり、ぺこりと頭を縦に振ってみた。すると老人の唇の両脇があがった。目尻も心なしか、下がっている。まちがいない。向こうも私を見ているのだ。
 こうなったら、じっとしていられなくった。ビールの酔いも残っていた、というよりもますます脳細胞を朦朧とさせていたため、いつも以上に積極的になっていたのだろう。気がついたら私は立ち上がり、人びとの間を抜けて、その老人に近づいていたのであった。
 老人は壁際に備え付けられた椅子の一つにちょこんと腰を下ろしていた。白地に紺の唐草模様の浴衣姿である。近づく間から、ずっと私のほうを見て、にこやかに笑っていたのだが、間近に立ちつくしても、その表情はいっこうに変わらない。
「K師匠に似てらっしゃいますね」
 私は遠慮なく声をかけていた。老人はうれしそうに、いっそうほころばせて、
「おう、見えるかい?」と言った。
 似ているように見えるかい、とそう言われたと思ったため、
「ええ、そっくりです」
 と答えた。外見はもちろんのこと、老人の何気ない言葉の、その声さえも、生前に聴いたことがある落語家のものと、区別できないほどだった。
「そうか、あんた、おれが見えるのか。いや、さっきからこっちを見てたんで、もしかしてと思ったんだが」
 尚もぶつぶつとつぶくのだったが、その姿や声は、ますます死んだ落語家そのものだった。もちろんそのときは、この老人はK師匠の熱烈なファン、もしくは物真似芸人かもしれないと思った。けれどもそれならば、辺りにいる人びとが取り囲んでもいい。しかし、まったく無視するのはなぜか。
「見えないんだよ。この人たちには」
「見えないって?」
「おれが見えないのさ」
「どう見てもK師匠そっくりですよ。落語ファンだったら、誰もがそう思うに決まってる」
「見えないんだから、仕方ねえじゃねえか。まあ、この頃は無視されるのにも、慣れっこになったけどな」
 老人の言っている意味がわからず、私は黙って立ちつくしていた。老人は悪戯っ子のような顔をして私を見上げて、
「いいかい、見てなよ」
 と言うなり、自分の顎を片手で、軽く突いた。すると首から上が、すうっと横に廻る。すぐに、ああこれは『首提灯』のアレだな、とわかった。
『首提灯』というのは落語の題目である。酔った男が侍に楯突いて、首を切られてしまう。ところが切られた本人は気づかず、歩いていると首がすっと横にずれてしまう。老人は、そこの場面のしぐさをしているのである。
 実際『首提灯』は、死んだ落語家の十八番だった。私もビデオではあるが、見たことがある。首がずれるシーンは、一種の見せ場であるが、目の前の老人はそれを見事に演じているのだった。
「うまいもんですねえ」
 思わず声をかけていた。本物みたいだ、と言おうとしたときだった。
「昔よりもっとすごいぞ。ほら」
 老人は両手で自分の首を持ち上げた。片腕で抱えた首を前につきだして、
「はい、ごめん、ごめん」
 と前に進むしぐさをした。落語『首提灯』のラストでは、切られた男が自分の首を提灯のように前にぶら下げて歩いていく。まさにその場面を演じているのである。
 最初は何が起こったかわからなかった。何か仕掛けがあるのだろうか。だがそうではない。老人はほんとうに、自分の首を抱えているのである。抱えられた首はじろりと私を見上げながらつぶやく。
「はい、ごめん、ごめん」
「うわああああああああああああああ」
 気がついたら絶叫していた。にぎやかだったロビー全体が、しんと静まり返り、私の叫び声だけが響く。何事かと辺りの人びとが見つめるなか、私は叫び声をあげながら、その場から走りだしたのだった。
 逃げ込んだ先はトイレだった。洗面所で水道の水を両手に受けて、顔を洗った。うがいをして、また顔を洗った。
「お客さん、だいじょうぶですか?」
 背後から声をかけられて、顔を上げた。洗面所の壁につけられた鏡に私の顔が、その後ろに声をかけた相手が移っていた。この日の独演会を行う当の落語家である。
「あ、どうも……」
 鏡越しに御辞儀し、あわてて取りだしたハンカチで顔を拭った。
「気分でも?」
「いいえ、そうじゃないんですが」
 ハンカチを顔に当てたまま振り返った。間近に相手を見ると、緊張とともにいくつかの気持ちが脳裏を過ぎった。
 話せ、見たことを。否、それはまずい。ロビーの隅に死んだ××師匠に似た老人が居ます。それならいいか。否、駄目だ。見えないのだ。見えていたら、とうに本人自身が気づいている。どうする。何と言う……。
「すみません、ちょっと」
 としか言葉が出てこなかった。相手の顔を見たが、よけいに緊張して、曖昧にうつむくしかできなかった。
「夏惚けってやつですかね?」
 言われて顔を上げると、にこやかに笑っていた。あわてて笑顔を作り、
「ええ、まあそんなところで……」
「お暑いところをありがとうございます。まだ開演まで時間がありますから、客席で休まれるとよろしい」
 落語家はにこやかに言い、トイレから出て行く。待ってください、実はロビーに……喉まで出かかった言葉を、私は懸命に押し殺していた。
    ◇ ◇
 午後五時を少し廻った頃、独演会ははじまった。幸いというべきか、私の席は最後尾で、ほかの客やまして舞台からも眼につきにくいところだった。縁日で興奮した方が……などと話題をふられるのではないか。そんな思いが脳裏をよぎったが、それもなく、枕を振った後に演題に入った。
 見事なできであった。いつしか自分の醜態も忘れて、噺に聞き入っていた。拍手とともに一席が終わり、仲入りつまり休憩となった。
 十分あまりの休憩の後、後半となったのだが、枕を話しているときのことだった。舞台の脇から、人影が現れたのである。
 あの老人である。つまり死んだ名人ということか。
 私は立ち上がらんばかりのかっこうで、老人を見つめた。通常、舞台で落語家が話しているとき、別の者が現れたら、何があったのかと観客の関心はそちらに行く。しかし誰も老人に感心を払わない。それどころか高座にあがっている落語家も、まったく気づかずに、話しつづけている。
 よたよたと危なっかしい足取りで老人は歩き、演じている落語家の後ろに立った。あわただしく会場内を見回してみたけれど、やはり三百人ほどの観客たちは、誰一人として気づいていない様子である。
 ところが異変というか、あることが起こった。後ろに立った老人が演者の落語家に近づき、両手をぽんと肩に置いたのだ。その途端、
「それにしても××師匠はすごかった」
 と死んだ名人について話を振ったのである。
「観客の皆さんには、あの凄さはいまいちわからないかと思いますがね。こうして噺家になってみると、身に染みる。たとえばですね」
 そう前振りしてから名人の真似をした。するとまさに真似をする寸前、後ろに立っていた老人が、すっと高座の落語家に重なり、一体となったのだ。
 落語家の口から出た言葉や台詞回しは、死んだ名人のものと瓜二つであった。観客達の間からは、笑い声以上に、感嘆の溜息さえもれる。
 時間にすれば、それこそ一分かそこらのものだっただろうが、若き落語家の口から死んだ名人の言葉が紡ぎ出された。そうして一呼吸おいたとき、落語家の姿が二重にぼやけたかと思ったら、次の瞬間またしての背後に老人が立っていたのである。
「ね、すごいでしょ。この間合いができるのは、××師匠だけです」
 落語家はふだんの口調に戻って言った。客席からいっせいに拍手が起きた。気がついたら私も、立ち上がらんばかりの勢いで夢中で拍手していた。
 老人が私を見た。にたりと笑い、片方の手で顎をつんと突く。首から上がすっと横を向いた。ずれた首を片手で抱えると、老人は二度と振り返ることなく、楽屋に姿を消して行く。私の脳裏では、ロビーで老人がつぶやいた言葉が響く。
「はい、ごめん、はい、ごめん」
 枕が終わり、演題に入った。
 この日、何を演じるかは、お楽しみということで公表されてはいなかった。だが私は第一声を聴くまでもなく、それから演じられる題目が、何であるかはわかったのである。
 見事な出来であった。拍手が鳴りやまなかった。やっとのこと席を立った客の間からも絶賛の声がやまない。そんな中、出口に向かって歩いているとき、背後から、
「××がいたね」
「ええ、そうでしたね」
 そんな声が聞こえた。振り返ると、少し離れたところに老夫婦の姿があった。私はつい、
「××がいましたか?」
 と声をかけていた。
 奥さんのほうは戸惑ったように微笑み、ご主人のほうが言った。
「下りてきたんだ、と思うよ」
「もしかして……」
 見えたんですか?
 じっと見つめる私に向かって、ご主人はにんまりと微笑み、
「長い間、落語を聴いていると、ごくごくたまにですがあるんですよ、こういうことが」
 と言ったのである。
 人込みだったため、それ以上話せなかった。会場を出てロビーに出たときには、その老夫婦の姿は人込みにまぎれて見えなくなってしまっていた。
 ロビーに張り出された〈今日の演目〉という紙に書かれた『首提灯』の文字を見て、私の中に、弾けるようなみずみずしい感覚が広がった。じっとしていられず、人の邪魔にならないロビーの隅に坐りこみ、この感動を印しておこうと、メモ帳を取りだした。
 私はメモ魔で、いつもメモ帳を携帯している。新しい頁を開き、ペンを紙に当てる。だが、何を書いていいか浮かんでこない。と、右手が勝手に動いた。
〈ありがとう ××〉
 ××のところには、死した名人の名前が記されていた。
 はっとして辺りを見た。ぐうぜん私が腰かけていたのは、開演前にあの浴衣姿の老人が坐っていた場所に他ならなかったのである。(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』