「上田早夕里『華竜の宮』インタビュー」聞き手・高槻真樹

(PDFバージョン:interview_uedasayuri

「華竜の宮」
上田早夕里著
ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/124653.html

――「華竜の宮」に関しては傑作という評価は定まっている気がするので、既に聞かれている部分はすっ飛ばして、皆さんの知りたいであろうことに直接行きます。というわけでずばり聞きます。短編版の「魚舟・獣舟」は衝撃でした。あれを長編化するのか、と皆さん楽しみにしていたと思うんですが、実際に出てきた長編は「…魚舟どこ?」ですね

上田「これは過去に何度も言ってるんですが、あれは発表のあてのない長編の構想が先にあって、もう発表の機会がないんじゃないかと思っていたので、たまたま頂いた短編の仕事(異形コレクション)の中で生かしたんですよ。だから、まずは一番印象に残る部分を切り取って見せているわけで、それを長編で繰り返しても仕方ないじゃないですか」

――ええ、了解しています。それはわかっています。では、最初に長編の話が来ていたら魚舟が大活躍する話になったのですか

上田「いや、ならない。今と大して変わらないでしょうね。…どう説明したらいいのかな。長編と短編は別ものですが、私の中ではひとつのものなんです。長編版では魚舟いらないじゃないかという話は何度か耳にしましたが、魚舟を抜いてしまったら、そういう話は他の作家さんによって今まで何度も書かれている。魚舟いらないという人は、たぶん《生物》に興味がないんでしょうね。地球環境というものを考えたとき人類が占めているのはほんのわずかな領域で、圧倒的大部分は人間じゃないもので構成されているわけです。小説というのは人間を書かなあかんというのは一般小説の話で、でもそれは違う、と教えてくれたのが私にとってのSFだった。だから人間じゃないものも出さないと意味がない。人間の価値観や善悪とはまったく関係なく生きているものがこの世界にはいっぱいいっぱい居るよというのが私にとってのSFの価値であって、だから、魚舟いらないという意見はまったく理解できない」

――つまり短編版と長編版をセットにして考えてほしいと?

上田「自分の中に年表があって、短編版はこの時代、長編版はまたちょっと違う時代、という位置づけができている。全部を頭から書いて行くことはできないから、その時々で、興味のある部分をつまんで書いて行っているわけです。全部が埋まるかどうかはわかりません。自分の寿命もあるし、出版社の都合もあるし」

――ざっとしたところでいいので、教えてください。この2本でその全体の何パーセントぐらいを書いたことになるでしょうか

上田「いや、そういう言い方はできないですよ。書こうと思えば無限に書けるわけで」

――ということは、頭と終わりが決まっているタイプではない?

上田「歴史小説を書かれる方は、皆さん得意な時代がそれぞれにありますよね。けれどもその時代の前後には、長大な別の歴史があるわけです。自分がやってることも同じです。《本当の全体》からみればほんの一部というか」

――大原まり子さんがされたように、わざと矛盾する要素同士を入れていく気はありますか

上田「それはそれで面白いですけど、わからないと言われる可能性もありますから、読者の反応を見ながらになるでしょうね。私は否定的な意見にも耳を傾けるようにしているんですが、何がそんなにわからないのか未だにわからない。そこに決定的な溝を感じます」

――それでは、作品中で投げっぱなしで終わったり、中途半端に終わったりする展開があるのはなぜでしょう。いろいろ戸惑う部分があるのですが

上田「自分では今の内容と構成で正しいと判断しましたが、構成要素のどこを重視してどこを削ぎ落とすかというのは、作家と読者では考え方が違うでしょうから、意見が食い違うのは仕方ないですね。作家には作家の考え方があるし、読者には読者の考え方があるし。ただ、いったん本の形として出版されたものはそこから形を変えようがない。この厳然たる事実をどう考えるかですね」

――そして、これだけの枚数を費やして語られるのは官僚のネゴシエーションの話ですよね

上田「SFって何かと闘う話が多いじゃないですか。SFで闘う=武器を取って警察や軍隊が闘う、もしくは個人が銃をばんばん撃ち合うとかですよね。そういう作品は私も大好きなんですが、今回はそこから少し外してみたかった。武器を使わないのに面白い闘いって何だろうと考えてみると、自分がうまく書けそうなのは心理劇だということに気づいたんです。それを面白く書くための舞台を探しているうちに、組織の中で立場を持っている人間同士の腹の探り合いというのは、なかなかよさそうだなと……」

――官僚とかの取材はされたんですか

上田「いや、してないです。官僚自体に興味があるわけじゃなくて、やれることを考えたときにその方法しかなかったわけだから。参考にしたのは第二次大戦中の終戦工作を描いた歴史書です。それをそのまま使うんじゃなくて、思考の手順を参考にさせてもらって、SFの中に落としこむという方法を取りました。組織を作って社会を管理することを考えたとき、人間の物の考え方って、そう差異は出ないような気がするんですよ。たとえば私たちがある日突然官僚の仕事を任されたら、そのとき作ってしまう組織は、今とあんまり変わらないような気がするんですね。むしろ、とてもクリエイティヴな活動をしている企業の社長さんの内面のほうが、何をしているのか想像しにくいかもしれませんね」

――末端の官僚はまじめなのに上は腐っていて姿も見せない、という設定はあまりにも庶民感情そのままではありませんか?

上田「型を使うのが悪いこととは思いません。小説で大切なのは型そのものじゃなくて、その型を使って何をするか、何を見せるかですから」

――悪役とされている人たちがキャラクターを持たない組織だけ、声だけ、というのも型ですか

上田「私はそのあたりをいわゆる悪役とは思ってないんですよ。NODEもミラーも職務に忠実なだけですし、各々の連合の上層部だって相克を抱えているわけでしょう。この作品は、ある状況が発生したときにそれぞれの立場にいる人が何を考えてどう行動するかを描いた作品なので、特定の誰かを悪役と呼ぶのはちょっと違う。作品世界内の価値観も、いまの私たちの社会とは違うわけですしね」

――この作品のもうひとつの特徴として、「マン・プラス」「日本沈没」「風の谷のナウシカ」と先行作品のイメージを取り込んで自分のものとする傾向があるとの指摘が多くあります。これは意識的なことだったのでしょうか

上田「あまり意識的ではないですね。『日本沈没』は小学生のころテレビドラマ版をずっと見ていたので、影響というよりもまさしくSF原体験として自分の中に入ってしまっているんです。あのころは洋画でも『ポセイドン・アドベンチャー』とか『タワーリング・インフェルノ』とか、パニックものの傑作が多くてね。子供のころ見た映像というのは、自分の体験みたいに頭の中にすり込まれてしまう部分があるから、意図的に思い出そうとするというよりは自然に出てくる」

――では「風の谷のナウシカ」はどうですか

上田「あのころはもう大学生だから…特に意識はしなかったなあ」

――すると指摘されて意外に思った?

上田「いや、意外というよりは、《ゲド戦記》の方かなあ、影響されたとすれば。あれは多島海の話だし、筏族も出てくるし、でかくて賢い生き物(ゲド戦記の場合は竜)も出てくるし。宮崎駿さんも《ゲド戦記》がお好きだそうで、ナウシカを海のイメージを交えながら描いておられますよね。バージって艀のことだし、ガンシップも元は海軍用語だし。たぶん、リスペクトしている先が同じだということなんですよ」

――そういえば「ゼウスの檻」もル=グインぽいですが

上田「そこはあんまり…『闇の左手』はそれほど好きじゃないんですよ。どちらかというと《ゲド戦記》の方が。だって『闇の左手』はいいところまで行ってその先に行かないでしょう? 焚き火挟んで見つめあってるだけかっ、という感じで。《ゲド戦記》の方がもっと生々しい部分があるし。『闇の左手』は、あの延々と氷原を歩いていくシーンがすばらしいんであってね。ジェンダーSFということなら、萩尾望都さんのほうに大きく影響を受けていますね。『11人いる!』とか『X+Y』とか、初期の作品だと『雪の子』とか」

――『火星ダーク・バラード』はハードボイルド色のある作品ですが、このジャンルに対する指向もあるのですか

上田「ジャンルとしてのハードボイルドではなくて、ハードボイルド的な思考法が好きなんですよ。ただ、個人的には、SFとハードボイルドは水と油のような気がしています。ハードボイルドは主人公の内面が最初から最後まで変わらないことに意義がある。スタイルを守るところに美意識を置くんですからね。でも、SFは《認識の変革》を描く文学というぐらいだから、主人公の内面が変わっていかないと話にならない」

――矜持を持ってスタイルを守る、という意味でのハードボイルドですか

上田「そう。だから、その基準でいくと『ショコラティエの勲章』はハードボイルドになる。パティシエ・ハードボイルド(笑)」

――なるほど(笑)。「美月の残香」という境界系の作品もありましたね。手広く書いていらっしゃいますけど、でも最終的にはSFの方へ向かう、というところなんでしょうか

上田「SF、というか幻想小説ですね。まずベースとしてそこがあって、自然科学的なものを強めていくとSF、そうじゃないものは『美月』みたいになる。自分の中ではあまり中身を変えているつもりはないんですよ。編集者さんの注文に合わせて外見は変えてますが」

――そうすると上田さんとって大切なのはジャンルよりもスタイル、ということなのでしょうか

上田「今は本を売るのがとても大変なので、編集さんとの相談では、まず、どのあたりの読者層に向けて書くのかという相談から始まるんですね。早川書房さんだったらコアなSFファンまで視野に入れても大丈夫、光文社さんだと一般読者のほうを強く意識する。SFっぽいのもホラーっぽいのも出すけどジャンルじゃないよ、という微妙なさじ加減が必要になってくる」

――するとこのPWではどうなります?

上田「それはもう、好き勝手にやる(笑)。私の場合、編集さんが過去の作品を読んで下さって、『ああこの人こういうのが書けるのか、じゃあこういう作品を』という形で注文が来るんですね。だから、そこで相談の上、方向性を決めて原稿を書き、そして納品する。その繰り返しです」

――意外に職人気質なんですね

上田「SFだけ書いてていいよと言われたら好きにしますが、なぜかいろんな方向から注文が来るんですよね……」

――しかし職人気質であるにもかかわらず、大半の作品がバッドエンドですね。そこは美意識?

上田「自分の作品で、バッドエンドだと思っているものはひとつもないんですよ。そもそも、世間で言われているハッピーエンドって、本当にハッピーエンドなんだろうかという思いがあります。私は病院勤務が長くて、人間がどんどん死んでいくような環境にいたので、そこは普通の人と感覚が違うのかもしれませんね。自宅にもずっと介護が必要な人間がいましたし、阪神大震災のときには神戸在住だったので、その影響で家族を亡くしましたし。人間が病気になったり死んだりするのは日常的なことで、それをことさらに不幸だと考えるような書き方は、なんか違うような気がするんですよ。ターミナルケアの病棟で末期ガンの患者さんが亡くなるまでの経過をずっと追っていると、単純な価値観だけで幸せだとか不幸だとか絶対に言えなくなる」

――私の義母も長く看護婦をやっていたんですが、大変な合理主義者で

上田「医療の現場はそうですよ。合理主義じゃないとやっていけない。これはうちの病院にいた患者さんの話で――いまから15年ぐらい前の話なんですが、非常に印象に残っている出来事なのでちょっとお話ししますね。お酒好きから喉頭ガンになった方がおられて、末期にうちへ転院してこられたんですよ。ところがその方、病院の中で、ものすごい荒れ方をしましてね。自分でも末期だとわかっているから。夜中に病院を抜け出して飲んじゃいかんのにお酒を飲むわ、院長や看護師に喧嘩をふっかけるわ、自動販売機を蹴とばして怒鳴り回るわ……。でもね、なぜそうなるのかを考えたら、誰もその方を責められないんですよ。だってこの人、もうすぐ死ぬんですよ。自分でもそれがわかっているんですよ。荒れて当たり前じゃないですか。個人の死は、他人にはどうすることもできません。死ぬのは本人なんですから。誰も代わりに引き受けることなんかできない。そんな凄絶な孤独、簡単に癒せるはずがない。ところが、ある日その方が突然おとなしくなって、看護師さんたちに頭を下げたんです。『今まですみませんでした。皆さんにはご迷惑をおかけしました。ありがとうございました』って。それから一週間ぐらいして、うちの病院で静かに亡くなられたんですけどね。謝罪があったとき、みんな、びっくりしましてね。『いったい何があったんだ!』と。そういうことを繰り返し見ていると、人間って本当に、表に見えている部分だけで内面のすべてを測るなんて絶対にできない、ありきたりなハッピーエンドだとか幸せだとか、簡単に言えないと思うんですよね」

――「華竜の宮」でも指摘されましたけど上田さんの作品は「がんばったけど結局ダメでした」という感じの終わり方が多いですよね。それもやはり震災の影響ですか

上田「震災の件も含めて、これまでの経験の影響は大きいですね。死生観については、震災のときの体験で針が振り切れてしまったようなところがあります。天災だけでなく、人災も酷かったので――。で、振り切れたまま針が戻ってこない。たぶん一生戻らないでしょうね。自分にとって小説を書くことは、死者にかける言葉を探す行為に近いんです。生きている人間や生き残ってしまった人間は、そこへ向かって、どんな言葉をかけられるんだろうと。すると、まず全肯定するしかないんですよね。その人が生きていたその瞬間までを」

――それはどういう言葉ですか。「がんばりましたね」とかですか?

上田「それは違いますね。だって、がんばっていたのは本人だから。第三者が言うべき言葉ではないですよ」

――では具体的な言葉としては何を言うのですか

上田「それがわからないから、ずっと小説を書き続けている。それはひとことでは言えないし、言ってはいけない。そして、その部分をずっと意識している限り……自分は間違えないんじゃないかという確信があるんです。ふわふわした地に足のついていない言葉じゃなくて、本心でものを書けると。ただ、これは体験していない方には非常に伝えづらい事柄です。でも、伝わらないかもしれないというリスクをわかった上で、それでも書かざるを得ない。体験がなくても想像して理解してくれる人はいるし、それが人間の知性ということですからね。そこへ向かって書き続けるしかない」

――それが上田さんが小説を書かれる原動力、ということでしょうか

上田「震災のときにいろんなものをなくしまして、でも、唯一、自分の中に残ったのが《小説を書くこと》だった。このことだけが本当に……何の傷もつかないままに、きれいに心の中に残ったんですよ。最相葉月さんがお書きになった星新一さんの評伝『星新一 1001話をつくった人』で、初版の帯に惹句が書かれているでしょう。《憧れて小説家になったのではない、それ以外、道は残されてなかった》と。あの言葉のニュアンスが、すごくわかるような気がするんです。本当にここへ来る以外、とるべき道も自分が救われる道も何もなかったわけだから」

――そうすると、上田さんの目には東日本大震災はどう写っていますか

上田「差異はありませんよ。震災以降、どんな事故でも災害でも、同じ痛みとして感じてしまう。昔のことを思い出してしまうので、非常にしんどいですね」

――今回の東日本大震災に関しては規模が大きすぎて、今まで積み重ねた知恵が生かせない、阪神の教訓はなんだったんだ、と言われてもいますが

上田「9.11以降世界が変わったとか、3.11以降日本が変わったという意見はよく耳にしますが、人間の歴史なんて、大昔からずっと、しっちゃかめっちゃかだったでしょう? 世界は太古の時代からずっと残酷で、そのたびに当事者は悲しみと苦しみにさらされてきた。その人たちの悲しみと、今起きていることの悲しみの質に差があるはずはない。むしろ、あってはいけないんです。その衝撃を伝えていくのは、SFに限らず、創作全般が負うべき役割だと思いますね」

(2011年4月4日、神戸・三宮にて)

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『華竜の宮』