「昔は作品より作家の人生の方が面白かった」吉川良太郎

(PDFバージョン:mukasihasakuhinnyori_yosikawaryoutarou
「昔は作品より作家の人生の方が面白かった。今じゃどっちもつまらん」(C・ブコウスキー『パルプ』)

 昔、サドという男がいた。
 ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵。一八世紀フランスの名門貴族にして作家、といえば先祖代々の財産で優雅に生活し働かなくていいもんだからヒマもてあまして手すさびに小説でも書いてみようかしら執事よ口述筆記の用意をウィムッシュウ、という大変にうらやましい大変にうらやましい境遇を想像するが(本当にうらやましいので二度言いました)実際は放蕩生活の廉で人生の大半を牢獄か牢獄に等しい精神病院で過ごし、しかしその虜囚生活の中で書いて書いて書きまくった膨大かつ過激なポルノ小説が二十一世紀の現在まで読み継がれ、孤高の思想家と讃えられ、さらにはその名に由来する一般名詞までできたという作家である。と聞いてピンとこない人でもバラエティ番組やらで「ドM」だの「ドS」だのはしゃいでいる芸能人を見たことはおありだろう。あの「S」がサドだ。ド・サドの略じゃなくてドレッドノート(弩級戦艦)のド。レはレモンのレ。ミでオチをつけたかったが思いつかなかったので各自考えてください。あとこのコラムはこんな調子でいきますので御了承下さい。ところでこの「ドS」という言葉を聞くたび「ドレッドノート級のサドってどんなのよ」とぼくはイライラしながら思うのですが。想像してみよう。日本海を埋め尽くすドレッドノート級変態貴族の大艦隊。迎え撃つ団鬼六。地獄だ。閑話休題。

 などと書き出しておいてなんだが、実はサドの作品がさほど面白いと思ったことはない。ポルノといっても二百年以上も昔の小説だ。この時代特有の悠揚迫らぬというかぶっちゃけダラダラした文章、美女が悪党の罠に落ちてあわやというところでおもむろに始まる長い哲学談義、過激な思想といってもキリスト教倫理が骨身にしみてない日本人にはどうということもないし、人間に想像しうるあらゆる性的妄想を書き尽くしたとはいうがこっちは世界一性におおらか且つ凝り性な国のすれっからしな読者なのでそれほどショッキングでもない(ちょっとマニア系の成年マンガ誌を二、三冊買ってみるといい。サドの妄想など新人賞佳作にもなるまい)
 それでも誰にも頼まれないのに必死でサド全作品に挑んだころがぼくにはあった。それは澁澤龍彦(仏文学者。サドやバタイユを日本に紹介した)に出会って人生設計がゆるやかに狂い始めた中二のころから醸成された宿命であり、うっかり大学院仏文科にまで進んでしまい行く末に暗雲がたちこめていたころにはとにかくまずこの男を倒さなければと思っていた。なぜかは知らん。なぜと問われてスラスラ答えられるようなものは人生ではないのかもしれない。しいて言えばただ若かったのであり、もうじきその若さに別れを告げねばならない日のための儀式のようなものだったのかもしれない。とにかくそのころの煮詰まりっぷりは尋常でなく、末期にはもうサドと目が合った次の瞬間には怒りを込めた拳がクロスカウンターでたがいの顎を砕いているような遺恨が二人にはあったのだった。無論サドに会ったことなんてないんだが。ウソを書くなウソを。ウソではない表現だ。

 だから、面白いと思ったことはない。ないんだが、どうしても気になった。
 作品ではなく、作家自身がだ。
 サドはなぜ牢獄でこんなものを書いたのか。いや、書けたのか。
 バスチーユ監獄で看守の目を盗むため幅十二センチ、長さ十二メートル超の巻紙の裏表にアリのような字でビッシリ書きこんだ『ソドム百二十日』の原稿を写真で見たとき、ぼくは気が遠くなった。そのすべてがポルノ。原稿料も出ないのに。出版するあてもないのに。いや人生は何があるかわからん。些細な失敗で牢にブチ込まれ、信じていた友はみな去り、訴えは誰にも届かず、薄い毛布にくるまって身と心の寒さに震える夜、人はふと思うのかもしれない――そうだ、エロ小説書こう。ねえよ! そんなこと! ふつうは人生達観したような顔で辛気臭い短歌でもひねるものだろう。だがサドは書いた。書いて書いて書きまくった。何のために誰がために。たぶん本人にもわかるまい。さらにこれでもなお未完であり、革命が勃発しバスチーユ襲撃のドタバタで原稿が紛失すると、自身の言葉によればサドは「血の涙を流した」ときいてぼくは思わず失神したのだった。

 不自由が人を自由にすることがある。
 サドが監獄に入らず、ただの大金持ちの不良貴族で、パリのお屋敷で高いワイン飲んで高級娼婦をはべらせて、たまにふざけ半分に鞭でぶったりぶたれたり(意外だがサドはぶたれるのも好きだった)程度のお遊びに興じていたとしたら、彼の魂はそれを失って「血の涙を流す」ほどの充足を得ただろうか。
 牢獄が人を自由にする。夢見る力を生む。時あたかもフランス大革命。自由を求める革命家たちの夢が世界を動かそうとしていた。だが狭い牢獄の囚人、牢獄に等しい精神病棟の狂人が宰領する夢の領土が現実世界より狭かったと、自由でなかったとどうして言えるだろう。そこには確かに自由があった。誰にも擁護されないだろう、しかしこれほど人を解放するものはない自由が。そしてサドのような夢魔の王となるためには、べつに本当の塀の中に入る必要はない。どこでもいつでも誰にでも、夢を見る力が生まれる。この世界が最初から牢獄だと気づきさえすれば。
 青春のすべてをドマイナーな文学にかけて大学院を出ても行く当てなどなかった。講師の口は気が遠くなるほどの順番待ちだった。世間はまだ不況の嵐が吹き荒れていた。彼女と約束した甲子園にも行けなかった。そんなゾンビに囲まれたスーパーマーケットに立てこもるような煮詰まった状況、だがオギャーと生まれてこのかた煮詰まっていなかったことなどあるか。そこに一筋の道が開けた気がした。失うものなど何もない。ペンと夢の他には。あと野球やったことないし彼女もいなかった。だからウソを書くなというのに。書きますとも。現実に後ろ足で砂かけてやるような夢を。

 ――と、ぼくにとってSFとはセンスオブワンダーとはそういうもので、だから処女作がアレ(「ペロー・ザ・キャット全仕事」)なのだった。温かい応援をたくさん得た。その倍くらいの批判も受けた。だがぼくはずっとこういう風にやってきた。そしてこれからもだ!
 自動筆記みたいに書き始めたがうまいことオチました。こんなもんでいいですか?

吉川良太郎プロフィール


吉川良太郎既刊
『解剖医ハンター 2』