「蔵の扉を開いてみたら」平谷美樹

(PDFバージョン:kuranotobirawo_hirayayosiki
 二〇〇八年の十月から、二〇一〇年の九月までおよそ二年間、新聞連載を経験した。
 【河北新報】の朝刊の連載小説である。
 連載を始めるに当たっての新聞社側からの〈縛り〉は一切無かった。美術教師であったのだからと、挿し絵も任された。
「とりあえず四〇〇回。のびてもよい」
 有り難い提案である。一日分がおよそ原稿用紙三枚だから、一二〇〇枚書ける。
 新聞社からの〈縛り〉はなかったが、ぼく自身の〈縛り〉を作った。今までぼくの小説を読んでくれた方たちとは読者層が異なるからである。
 SF的要素を排除すること。
 オカルティックな要素を排除すること。
 しかも素材は今まで書いたことのない歴史物とした。
「つまらなかったら切ってください。どの場面からでも最終回に繋げられます」
 と、新聞社に申し出た。
 担当者は笑って「四〇〇回はやってもらいます」と言ったが、ぼくは本気だった。
 依頼を受けたのが三月。連載開始が十月。準備期間は七ヶ月。ぼくが考えたのは、ともかく連載四〇〇回分は書いてしまおうということだった。
 十月までに一四〇〇枚書いた。一二〇〇枚の所で終わってもいいように、山場を組み立てた。連載が四〇〇回を越えてもいいようにその後のストーリーも用意した。(最終的に2100枚の原稿になった)
 主な資料は【吾妻鑑】。それに【平家物語】【義経記】を加えた。昔から買い溜めてあった雑誌も役に立った。平泉の描写については、自宅から近いこともあって、頻繁に現地に出かけて取材した。
 何度か講演を依頼され、会場を埋め尽くす観客=読者に驚いた。
「連載第一回から書き写している」と、綺麗に和綴じした数冊の本を見せてくださった読者もいた。
「通勤列車の中で読みながら泣いた」という手紙ももらった。
 新聞連載を通して、作者冥利という言葉を実感することができた。
 しかし、それらは連載も後半のこと。
 前半は手探りで緊張の連続であった。
 不安に押しつぶされそうになりながらスタートした執筆だったが〈あること〉に気づいた時から気が楽になった。
 それは、
「歴史小説もSFと同じ感覚で書ける」
 と、いうものだった。
 たとえば――。【吾妻鑑】の記述にこういうものがある。
 文治二年(一一八六)八月十五日。奥州へ向かう西行法師が請われて鎌倉に立ち寄る。
 翌十六日。西行法師は鎌倉を去るが、その際に源頼朝から土産として銀細工の猫の像を手渡される。
 そして、文治五年(一一八九)八月二十二日。奥州平泉に攻め込んだ頼朝は、焼け落ちた政庁平泉之庁(ルビ せいちょう ひらいずみのたち)の西南の隅に蔵を見つける。配下に扉を開けさせると、数々の財宝が納められていた。
 【吾妻鑑】は蔵の中から見つかった宝を列挙する。その中に、まるで埋もれるように〈銀造の猫〉の文字がある。
「もし、蔵の中から見つかった〈銀造の猫〉が、西行がもらった物と同一であったなら」
 と、考えれば二つの記述の間に様々な仮説を立てることができる。二つの科学理論をくっつけて、新しい疑似理論を組み立てる感覚によく似ているとぼくには感じられたのだった。
 今まで手に取ったことのない歴史資料を読み込んでいくにしたがい、それが〈ネタの宝庫〉であることにも気づいた。興味は平安、鎌倉、室町と、次々に広がって行った。
 今は江戸に夢中である。何も知らないので、読む資料すべてが驚きの連続である。
 あまりにも面白いので、連載小説の単行本化の作業と平行して、江戸時代を舞台にした連作短編を書いている。
 SF小説を書くとき、ぼくは天文学や物理学などの資料で遊ぶ。歴史小説や時代小説でも資料で遊べるのだと気づいた時、それらはぼくのフィールドになった。
 ぼくにとって未知の分野であったから、定説や既成概念にとらわれることなく資料を読むことが出来る。

 蔵の扉を開いてみたら、彼方まで続く棚の上に、造形素材が沢山乗せられていた。広大な蔵を駆け回りながら、思う存分フルスクラッチモデルを造って遊ぶ日々は続く。
 もちろん〈銀造の猫〉も忘れてはいない。

平谷美樹プロフィール


平谷美樹既刊
『義経になった男(一)三人の義経』
『義経になった男(二)壇ノ浦』
『義経になった男(三)義経北行』
『義経になった男(四)奥州合戦』