(PDFバージョン:zionshadow02_inotakayuki)
ザイオンは軟禁されているインペリアルスイートのベッドで目覚めた。頭の芯が痺れているように感じるのは、疲れているからだろうか。いつの間にか日が傾き、ノクティスの空は朱に染まっていた。
触腕の一本には、あの腕輪があった。外そうとしてみたが、まるで無数の歯で噛みつかれているように動かない。
この腕輪の所為でザイオンは意識を失ったのだ。あれから丸一日以上が経過していた。その間に何があったのか。意識を失っている間に、ミューラーに何をされたのか。
唐突に、地球にいた頃の記憶が蘇る。まだ、ザイオンが一切の改造を受けていないフラットだった頃、それどころか誰もがフラットで、誰もが地球に住んでいた頃の記憶だ。
長い間思い出しもしなかった。
大破壊から六十年、いや、七十年以上前の記憶。大脳皮質記録装置(スタツク)すら存在せず、死が避け得ない運命だった頃の記憶だ。
その記憶も、本当の記憶なのか、記憶を呼び起こすことによって再編集された記憶なのか、それすら定かではない。それくらい遠い記憶だった。
オレゴン州ユージーン、フィラデルフィア、テキサス州ヒューストン。今はもう存在しないか、存在していても近づくことのできない場所。記憶の中のザイオンはそこにいた。
ザイオンは常に勝者だった。苛烈な競争に勝ち続けるために自分を変え、勝者であり続けた。ただ、勝利の記憶はどこか苦い。そんな苦い想いは密封容器に押し込め、どこか深くに埋めてしまっていたはずなのに、誰かが掘り出そうとしているようだ。
ベッドから立ち上がったザイオンはよろよろとプールのあるテラスに向かって歩く。だが、とっくに慣れているはずのオクトモーフの義体の着心地が良くない。体に合わないサイズの服を着たような、妙な落ちつかなさがあった。
ローブを脱ぎ捨て、盛大な水しぶきをあげてプールに落ちるように飛び込む。インペリアルスイートのプライベートプールは十分に深く、プールの底にぶつかることはない。
なぜヒトではなくタコなのか。最下層のアップリフトの身体に押し込められて、なぜ、のうのうとしていられるのか。
突然の怒りの発作は戸惑いに変わる。オクトモーフは自分で選んだ義体ではなかったが、この義体のおかげでずいぶんと助かったのではなかったか。
マデラから逃げ出すことができたのもオクトモーフならではの柔軟性のおかげだったし、金星の大気の底で、アップリフトのタコたちに混じって身を隠していることもできた。火星に向かう客船が襲撃されたにも関わらず、火星に来ることができたのも、オクトモーフという義体の特性を使ったからだった。ザイオンは、タコであることに不満はないどころか、気に入っていたというのに。
水面に浮いたザイオンは、大きく息を吸い込んだ。ザイオンの中にオクトモーフになったことのないザイオンがいる。突然の感覚に、ザイオンは、吐きそうになる。
ミューラーは、ザイオンの精神を改変しようとしているのか。それは、何のためなのか。
ザイオンは深い疲労感を感じていた。それは、ザイオンの身体の疲労ではなく、改変に抵抗しようとしたオクトモーフの生体脳の疲労なのかも知れない。
多分、ザイオンを改変するプロセスは中断している。何らかの理由で、中断せざるを得なかったのだとザイオンは思う。全てのプロセスが終わったとき、ザイオンはザイオンでなくなってしまう。そんな恐怖があった。
ザイオンは腕輪を見る。いざとなれば、触腕ごと食いちぎってしまえばいい。だが、その後はどうするのか。
ノクティスの空を、夜が覆いつつあった。ドームの内面に町の灯りが反射し、まるで無数の星が空を覆っているように見える。だが、その星は本物の星ではない。
ザイオンは、火星の先行トロヤ群に曳航されてきた小惑星、ドゥールスに向かったはずのカザロフのことを思い出していた。
金星でタコの身体に目覚める前、ザイオンが知っているのは地球と月、それに火星だけだった。金星の大気の底を経験した今では、火星以遠の外惑星も見てみたい気がする。ドゥールスは火星の軌道上にあったが、外惑星に向かう一つのステップとして行ってみたい気持ちもあった。
カザロフと最後に連絡と取ったのは、オリンポスに降りた直後だった。カザロフの方は、ドゥールスへの出発の準備に忙しくしているようだったが、連絡の途絶に気が付かないとは思えない。ただ、連絡の途絶に気づいたとしても、それがどの程度懸念される状況なのかわからないだろう。カザロフはザイオンのために何か行動を起こすだろうか。
ザイオンにとって、火星に降りないという選択肢はなかった。火星を素通りにしていたら、大破壊の前に自分が築いたものがどうなったのか常に気になったろう。ミューラーが何をしようとしているにせよ、ザイオンは、この火星で自らの過去と対峙せざるを得ない。
インドラルが夕日に向かって鳴いていた。遺伝子のどこかに残る本能的な部分によるものだろうが、聴きようによってはボスであったマデラのことを嘆いているように聞こえないこともない。首だけになった元マデラの義体は、作業机の上でいくつものパーツに分解されつつあった。
作業の手を進めながら、カザロフは思う。マデラのボスは、よほどマデラに腹を立てていたに違いない。再資源化工場に置いてきたボディの状態もひどかったが、頭部の状態も良くなかった。

まず、全体をカバーするスカル自体がひしゃげていた。ケースの電子脳を収納する空間が狭く、パーツの配置に無理がある。それぞれのパーツの状態も悪く、配線も劣化し、接合部分にはクラックが入っていた。とっくに使われなくなっているような古いパーツには錆が浮き、黴が生えていた。つまり、マデラに与えられた義体は、義体として使えるような物ではなく、スクラップからその場しのぎに作られたといっても良いような状態だった。
多分、この義体を使っていたときのマデラは、慢性的な頭痛か吐き気、あるいはその両方に悩まされていたとしても不思議はない。まともに考えられるはずもなく、ただ苦痛を与えるための義体のようにしか見えない。
取り返しようのないミスか裏切りがあり、それに対する懲罰だったのだろう。金星にいた頃のマデラを思えば自業自得のようにも思えるが、同じケースという義体を使っている身からするとエゴに対する虐待のようにしか思えない。
とはいえ、これからカザロフ自身がやろうとしていることも、エゴに対するある種の虐待、あるいは冒涜のようなものかも知れない。
作業机の上にはジャンクショップで手配した義体用の電源と、データ解析用のタブレット、外付けのキーボードに高解像度のディスプレイがあった。カザロフは、無骨な太い指を使って、器用に、頭部から取り出したいくつもの機能コアと接続していく。
作業机に窮屈なスカルから取り出された機能コアを整然と並べ、一つ一つ作動状態を確認する。マデラを撃った弾丸は、額のプレートを貫通し、内部にダメージを与えていたが、電子脳の一部の機能コアは再起動可能な状態だった。
カザロフがマデラの義体の回収にこだわったのはこのためだった。電子脳の一部の機能コアが生きていれば、そこから情報を取り出すことができる。
カザロフは一つ一つの機能コアを特定していく。
「ザマァないッスネ……」
いつの間にかインドラルが戻ってきていた。妙に大人しいところを見ると、マデラとの思い出に浸っているのかも知れない。
「ちょっとした情報のサルベージだ」
インドラルの証言を信じるなら、マデラが火星で起動してから、破壊されるまでの時間はせいぜい五日ほどしか経過していない。蓄積されたデータは大した量ではないし、フェデリアーノの証言によれば、マデラを撃ったのはマデラのボスだ。破壊される直前に、マデラが見ていた画像を抽出できれば、ザイオンを捕らえたのが誰か特定できる。
「こんな姿でッ……」
感傷にふけっているようにも見えるインドラルを無視して、カザロフは視覚機能コアを相手に作業を進める。
「何とかできそうだ」
視覚機能コアの中には、無数のファイルが確認できた。その中から最新の物を引き出す。ディスプレイにぼんやりした画像が映る。
「だめ、ッスカ?」
インドラルも横からディスプレイをのぞき込んでいた。
「いや、まだこれからだ」
ヒトの視覚は、見た物をそのまま画像として取り込んでいるわけではない。いったん、コントラストや、輪郭、色彩と言った要素に分解し、その中から意味のある物を再構成している。視覚機能コアにおけるプロセスも、ヒトの視覚認知をモデルに組み立てられており、抽出された画像はその認知過程の物だ。
カザロフがキーボードを叩くと画像が微妙に変化する。解像度を落とした複数の画像を重ね、差異を強調すると、輪郭らしいものが見えてくる。金星の北極鉱区で保安主任をしていたときに身に付けたテクニックだった。
「すごいッスネッ」
インドラルが黄色い目で画面を睨みつけていた。カラスはヒトに比べて目が良い。網膜細胞の密度による違いもあるが、画像認識という、いわばソフトウエアの面でも優れているのだ。
「見えてきたか?」
カザロフの目には、まだ何も見えていないかったが、横にいるインドラルは食い入るようにディスプレイを見ていた。
「まだッス」
フィルターを変え、画像合成のパラメーターを変える。画像のにじみが収束する。
「これでどうだ?」
何を見たかを割り出すのは、結局のところ、試行錯誤を繰り返すしかない。早い段階でのフィードバックは、作業を進める上で役に立つ。インドラルからの予想外のサポートだった。
「ずいぶんよく見えるようになりアしタッ」
次の画像を重ね、合成する。
「こんどはどうだ? 女はどこにいる?」
ヒトの百八十度近い視野角に比べ、ディスプレイは小さい。女の姿がある場所が特定されれば、作業は格段に効率化する。
「このあたりッス」
インドラルの風切り羽が、ディスプレイの左上を指し示した。そう言われると、さっきまで意味のない色彩のパターンにしか見えなかったものが、なんとなくヒトの姿のようにも見えてくる。
カザロフは、画面の三分の一を切り取り、ズームする。
「見えてきたか?」
カザロフにも何となく見えてきたような気がしていた。
「スゲー不細工、ッス」
不細工かどうかはどうでも良い。そうインドラルに言おうとして、カザロフは思い留まる。解像度を落とした画像をベースにした作業では、もし見えたとしても輪郭はガタガタで、不細工にしか見えないはずで、不細工に見えると言うことは、見えているということなのだ。
「そうか、まだ不細工か」
ここまでの作業工程は全て記録していた。圧縮したデータではなく、元の高解像度の情報から、特定された領域を切り取り、同じように加工を施せば、女の顔がちゃんと見えてくるはずだ。
「ずいぶん良くなったッス」
女の姿がカザロフにも見えてきた。カザロフは顔の部分だけをさらに抽出し、画像処理を繰り返す。
「今度は別嬪ッス」
確かにインドラルの言うとおりだった。ヒトベースの生体義体のシルフだろう。青い髪の女が見える。美人ではあったが、冷たい表情は、あまりお近づきになりたいとは思えない。
「マデラの奴、相当に嫌われてたようだな」
軽蔑と冷たい怒り。カザロフは、こんな視線には耐えられないだろうと思う。まるで、目にすることにも耐えられないものを見るような視線だった。
「何をやらかしたンすカネッ……」
カラスにもわかるくらいの、ひどい表情と言うことだ。
「まあ、マデラのことだからな。だが、これでこの女が誰か調べられる」
フェデリアーノの証言によれば、ザイオンを捕らえたのはこの女だ。今、ザイオンはどこにいるのか。居場所さえ分かれば、あとは何とかできる。
「この女を捜すンすカッ?」
わざわざ探すまでもなかった。公共メッシュで画像検索すると、すぐにヒットする。
ソラリスコーポレーションの監督官、ミューラー・セドス。
「もう見つけたも同じだ」
カザロフは、そう呟いていた。
火星の一日は地球の一日とほぼ同じだ。
ゆっくり休息をとったザイオンは、ルームサービスの朝食をぺろりと平らげた。
「なぜなのかしら?」
テーブルを挟んでミューラーが座っている。ミューラーの前にもモーニングプレートが置かれていたが、ほとんど手がついていなかった。
「何がだ?」
金星では手に入らない新鮮なリンゴを丸ごとかじりながらザイオンが尋ねた。
「あなたのその義体よ。何で、いつまでもそんな格好をしているの?」
ザイオンの触腕がリンゴをまた一つからめとり、鋭い嘴に向けて運ぶ。タコの身体がリンゴを好むかどうかは別にして、以前のザイオンはリンゴが好きだったし、金星では手に入らなかった。
「これは合成義体じゃなくて生体義体だ。乗り換えるためにシャットダウンしたら、その後の管理も面倒だ」
短時間なら栄養チューブをつけて自発呼吸をさせておくことになるだろう。出荷前のオクトモーフのように、培養液での保管もできるし、長期保管で筋肉がやせることを懸念するなら冷凍保存も可能だ。
「気にすることじゃないわ。保管だって大した手間じゃないし、面倒なら売り払うか、捨ててしまったっていいじゃない。私だって最近はこのシルフの義体を使っているけど合成義体のシンスを使うこともある。ここで人に会うにはシルフの方がいい印象を与えられるし、生体義体が向かない環境ならシンスの方がいい。金星に行ったときはインフォモーフだったわ」
ザイオンはミューラーを見る。シルフにせよシンスにせよ安い義体ではない。使わない間の維持管理を含めて経済的な負担は大きいだろう。もっとも、ミューラーはマデラよりは上位の筈だし、ソラリスの中でそれなりの地位にいれば問題なくまかなえる。
「この体は使い勝手が良くてね。それに、せっかく八本の腕を使えるようになったんだ、二本腕には戻りたくない」
それに、八本の腕があれば、一本や二本は捨てられる。ただ、目の前のミューラーにそんなことを教えてやる理由はない。
「あなたの、そのタコが問題なのよ。でも、私のメントンが解決策を考えてくれるわ」
メントンは知的能力を強化した義体だ。認知能力に優れ、研究や分析をやらせるには良いが、精神的な安定を欠くことがある。ザイオン自身も使っていたことがあるが、ミューラーもメントンの部下がいると言うことは、上級パートナーかそれと同等の地位にいるということだ。
「あまり楽しそうじゃないな」
ザイオンは三つ目のリンゴをむしゃむしゃと齧る。ミューラーの言う解決策が何であるにせよ、ザイオンにとって望ましいこととは思えない。
「楽しいとか楽しくないとか言う問題じゃないのよ。これは投資の問題なの」
ミューラーがこれ見よがしにテーブルの上に置いたのは、ザイオンをブラックアウトさせた装置だ。ザイオンの腕にはまった腕輪とリンクしている。
「それはあまり好きではないな」
ミューラーの左手は、すでに装置の上に置かれていた。腕輪は無効にしたつもりだったが、腕輪が効かないとなったら、次に何をされるかという問題もあった。
「これも全てあなたのその義体の所為よ。私があなたのようなタコと一緒にいたら、どうしたって目立ちすぎるもの」
ノクティスにタコのアップリフトはほとんどいない。ミューラーが言うとおり、目立ちすぎるというのは事実だろう。
「行き先がわかれば、一人だって行ける」
冗談めかしてザイオンが言った。
「そうね。でも、あなたのことをそこまで信用できないわ」
ミューラーの視線は冷たい。タージなら震え上がるだろうとザイオンは思う。
「残念だよ」
ザイオンの言葉と同時に、ミューラーの指先がスイッチに触れた。
床に崩れ落ちるザイオン。そのすぐ目の前に、テーブルから落ちたリンゴが転がる。
「残念なのは私よ。本当に頭が固いんだから」
ザイオンの腕輪について推測は、半分しか当たっていなかった。
前回、ブラックアウトは瞬時に訪れた。ザイオンは、腕輪が神経系を通じて脳神経系に働きかけると推測し、腕輪のついた触腕の神経を噛み切った。傷は深いし、痛みもある。神経を切った触腕は、いずれは切除せざるを得ないが、時間をかければ再生するし、新品の移植もできる。それよりも、長時間意識を失うことを避けたかった。
ザイオンが床に崩れ落ちたのは、ミューラーに腕輪が機能したと信じさせるための演技のはずだった。ミューラーを油断させ、逃走の機会を待つはずが、なぜか体を動かせなくなっている。
多分、時間にして二分ほど。ザイオンが床に崩れ落ちてしばらく、ミューラーは動かなかった。腕輪に仕込まれていた薬剤が、血流を通じ全身に行き渡るのを待っていたのだろう。
「だらしないものね」
ミューラーはつま先でザイオンを蹴った。もちろん、反応はない。部屋を出たミューラーは、自走式の大型のスーツケースを連れて戻ってくると、意識を保ったままのザイオンを、スーツケースに押し込んだ。
スーツケースの中で、ザイオンは感覚を研ぎ澄ます。水平移動でスイートを出るとホテルのメッシュへのアクセスが回復した。
ザイオンは急いでカザロフ宛のメッセージを送る。
ソラリスのミューラーに捕まっていること、エクリプスグランデホテルから、どこかに向かっていること、薬剤の影響で動けず、大型のスーツケースに押し込まれていること。
メッセージがカザロフに届くかどうかわからないし、カザロフはすでにドゥールスに向かっているかも知れない。それでも、可能性があるなら試しておいて損はない。自由を奪われた今のザイオンには、それくらいしかできることがない。
小型の掃除ロボットが、今日も床を掃いている。一つのフロアを掃除するのは八台の掃除ロボットで、いつもは清掃会社に雇われた情報難民(インフィジー)が、いつかちゃんとした義体に移れる日を夢見ながら管理しているのだが、今日は休暇で休んでいた。
今日はエクストリームサッカーの試合がある。贔屓のチームだし、サッカーくじにもかなりの額をつぎ込んでいた。ラッキーだったのは、仕事の代わりが簡単に見つかったことだった。
代替要員を見つければ休んで良いというルールは、保安上の観点からすれば大きな抜け穴なのだが、カザロフは、そのルールに基づいて、代替清掃員としてソラリスタワーに入っていた。
壁際に充電ベースが並ぶ小さなクリーニングステーションは、掃除ロボットの保管と充電、メンテナンスのためのスペースで、全ての掃除ロボットが出払った時点で、かろうじてトイレの個室並のスペースが確保できる広さだった。
カザロフはクリーニングステーションにいて、十分ほど前に受け取ったメッセージを思い出していた。
ソラリスのミューラーに捕まっていること、エクリプスグランデホテルから、どこかに向かっていること、薬剤の影響で動けず、大型のスーツケースに押し込まれていること。カザロフの推測が間違っていなければ、ミューラーがザイオンを連れて来るはずだ。
……やっぱり、来やしタッ。
左の手の平に展開した仮想タブレットにテキストが走るのは、カラスの声が耳障りなのもあったが、余計な音を立てて怪しまれるのを避けるためだった。
……了解。そのまま監視だ。
二十七階は特別なフロアだった。ソラリスコーポレーションの入居する上層階と、関連企業の入居する中下層階を分ける境界であるだけではなく、クワッドローターの発着場があった。
エグゼクティブは地表を通勤しない。ミューラーの監督官という地位がどれくらいの位置にあるのかカザロフにはわからなかったが、ザイオンを捕らえた大がかりなやり口からすれば、それなりの影響力のあるポジションだろう。だとすれば、クワッドローターを使うはず。そんなカザロフの読み通りだった。
……派手な赤いクワッドでッス。重役出勤ってやつですカァ。
……了解。あまり近づくなよ。
カザロフがクワッドローターの発着場にスタンバイさせていた掃除ロボットの視野に入ってくる。自己顕示欲の強さを感じさせる派手な機体から降りる青い髪のシルフ。ミューラーだった。機体後部のカーゴスペースを開くと、発着場の係員が走ってくる。
係員が二人掛かりで大きなスーツケースを降ろす。颯爽と歩くミューラーは係員に礼をする素振りも見せない。そのすぐ後を、自走するスーツケースがついて行く。
カザロフは掃除ロボットにその後を追わせた。さらに、もう一台。先行する一台が、スーツケースに隠れるようにエレベータに滑り込み、もう一台は、距離をとってエレベータがどこで止まるかを確認する。床を掃除するための掃除ロボットに、上を見上げる機能はない。
四十七階。ミューラーとスーツケースがエレベータを降り、カザロフがコントロールする掃除ロボットが続いた。すれ違う相手が道を譲るのは、やはり、ミューラーの地位が高いのだろう。その後を行く掃除ロボットには誰も関心を向けない。静音設計の掃除ロボットはほとんど音を立てないし、毎日見慣れている物だからだ。
しばらく先に進むと廊下のカラーリングが変わった。ラボラトリーゾーンの表示。アクセス制限がかかるであろうエリアへも、掃除ロボットは問題なく進んでいく。
研究室らしき部屋に入ると、そこの主とおぼしきメントンがいた。ミューラーとメントンが会話を交わし、天井から延びるロボットアームがスーツケースを大きな実験台の上に載せた。

背が低く、上を見上げる機能のない掃除ロボットからは、実験台の上は見えなかった。だが、ロボットアームがスーツケースを開いた時に見えた物がある。ぐったりしたタコの触腕。ザイオンだ。
もう少しよく見える場所に位置を変えようとしたとき、四十七階の掃除ロボットがカザロフの意識から消えた。ビル内の共用メッシュを通じた通信が途絶えたのだ。
正確な状況はわからない。ただ、スーツケースに押し込まれていたザイオンはぐったりしていた。
カザロフに躊躇はない。クリーニングステーションから飛び出し、高層階に行くエレベータに向かって走った。
「このエレベータは高層階専用です。高層階へのアクセス権限がない方は、直ちに退去してください。繰り返します。このエレベータは……」
エレベータの防犯カメラが動き、カザロフを正面から見据えた。
ホテルのメッシュへのアクセスはすぐに途切れた。スーツケースはエレベータに乗り、それから、乱暴に何かの荷台に積み込まれた。ほどなく、ローターの振動が伝わったことからすると、クワッドローターに積まれたのだろう。十分ほどで着地の感触。乱暴に降ろされ、水平移動。垂直移動から水平移動。急に持ち上げられ、突然、スーツケースが開き、明かりの下に出た。
「ん、意識があるようですが?」
白衣を身にまとったメントンが、手袋をした手でザイオンの目のあたりに触れる。
「覚醒の手間が省けるじゃない」
視野の外からミューラーの声が聞こえた。
「ええ、そうですね。タコの生態脳ですから、効果が弱かったんでしょう。早速、始めますか」
メッシュを感じる。強固なセキュリティを備えたローカルメッシュが展開していた。
「シナリオはどうするの?」
ミューラーの声。
「アプローチを変えてみます。前回は無理に重ね合わせようとして抵抗されたので、対話型のアプローチにしようと思います」
メントンが何を言っているのか、ザイオンには理解できない。
「統合できなかったらどうなるの?」
「長期間分かれていた分岐体の再統合のようなものです。まあ、統合がうまく行かなくても、あなたのザイオンシステムはエゴを偽装できるくらいは学習するでしょう。ソラリスに革命を起こすには、それで十分じゃないですか?」
ミューラーとメントンの会話が意味しているのは、ザイオンのエゴを作ろうということだった。ミューラーによって新しいザイオンのエゴが作られたら、今のザイオンはどうなるのか。
「ザイオンシステムがあったからソラリスはここまできたのよ。無能な連中をいつまでものさばらせているわけにはいかない。あいつらを放逐するためには、私のザイオンシステムが本物のザイオン・バフェットだと認められる必要があるの」
ミューラーの言うザイオンシステムとは何なのか。そのザイオンシステムが、好調なソラリスのビジネスを支えてきたということなのか。
「私の貢献も忘れないでいただきたいですね。確かに、今のザイオンシステムのコアはあなたが発見したものです。ですがあのままではエゴと同じようには機能しなかった」
ザイオンシステムとは、何なのか。体を動かせないままの状況で、ザイオンは、ただ聴いていることしかできない。
「わかってます。そんなことより、作業を急いで」
「ええ、もちろん」
メントンがザイオンの目をかくし、タコの脳に近い当たりに何かを取り付けると、めまいのような感覚が襲う。
『さあ、目を開けるんだ』
メントンの声。ザイオンは抵抗した。だが、ザイオンの身体はザイオンの物ではない。
『しっかり見て。目を逸らさない』
目の前には大きな会議卓があった。その会議卓を挟み、ザイオンの前に座っているのは……。
ザイオン・バフェット。オクトモーフのザイオンではなく、大破壊前のザイオンだ。鋭い視線が、ザイオンを射るように見ている。
『私はザイオン・バフェットだ。大破壊のダメージからソラリスを立て直し、現在のソラリスを築いたのは私だ。ザイオン・バフェットにしかできないことだとは思わないか?』
ザイオンの言葉は、ザイオンの自負心をくすぐる。だが、ザイオン・バフェットは大破壊で地球に取り残され、アップロードされたエゴであり、大破壊の後のソラリスとは関係がない。ザイオン・バフェットは一人だ。
『私がザイオン・バフェットだ。私は大破壊で壊滅した地球から回収され、火星で再構築された。私とお前は元々同一のエゴで、分岐体のようなものだ』
だが、分岐体ではない。高度なアルファ分岐体の作成は非合法であり、分岐体を作成した覚えもない。
『だが、私はお前だ。お前の全てが私の中にある。だから私は今のソラリスを築くことができた』
私だけが私だ。今のソラリスは関係がない。
『だが、ソラリスを築くことができるのはザイオン・バフェットだけだ。だからお前は私なのだ』
私だけが私だ。私だけだ。
『私たちが私だ。オレゴンのユージーンで生まれ育ち、フィラデルフィアで仕事を始めた。ヒューストンで独立したビジネスを立ち上げ、妻と子供を失った』
お前はそれを知っているかも知れないが、だが、私だけが……。
『だが、私はお前だ。お前の全てが私の中にあり、私はお前の全てを知っている』
会議卓の向こうからザイオンの手が伸び、ザイオンの両手を包み込む。
『私たちが私だ』
私だけが……私たちが……。
二人の間を隔てていた会議卓が消え、もう一人のザイオンが、ザイオンを飲み込もうとしていた。
『私たちだけで話をしよう。ミューラーとメントンはなしだ』
再起動した仮想空間で、二人のザイオンが向き合っている。ザイオンの姿はオクトモーフ、もう一人のザイオンは、大破壊前のザイオンの姿をとどめていた。
『あの二人は、口が挟めるような状態じゃない』
ミューラーとメントンは、カザロフによって縛り上げられ、研究室の床に転がされていた。エレベータを使った高層階へのアクセスができなかったカザロフは、少々乱暴なアプローチで四十七階にまで来ていた。発着場にあったクワッドローターを使い、四十七階に突っ込んだのである。
『そうだな。今なら部外者は抜きで話せる』
カザロフの突入によって四十七階は完全に封鎖されている。だが、この状態は長くは続かない。
『どういうつもりだ? 勝ったのはそっちだ。私は統合に失敗し、私たちは別々のままだ』
ザイオンが準備していた安全装置はインドラルとタージだった。ザイオンは、もう一人のザイオンに取り込まれそうになった時に、インドラルのイメージを投影した。その一方で、自身のバーチャルな身体はダージに委ねた。インドラルの姿を見てパニックに陥ったタージは大量の墨をぶちまけ、メントンの作った仮想空間を不安定化させた。カザロフが本物のインドラルを伴って研究室に現れたのが、そのタイミングだ。
『事態の収拾について話したい』
オクトモーフのザイオンが言う。
『いいだろう。どこから始める?』
もう一人のザイオンが応じる。
『はっきりさせておきたいのは、私はソラリスへの復帰に関心はないということだ』
ザイオンの言葉に、もう一人のザイオンは驚いたような表情を見せた。
『個人資産へのアクセスに関心がないわけではないが、今のところソラリスでの議決権を行使するつもりはない。ザイオン・バフェットは行方不明のままでもいいと思っている』
今になって思いついたことではなかった。ザイオン・バフェットであるということは、ソラリスのややこしい内部政治に関わることを意味している。ザイオンは火星に来てそんな事をしたいわけではなかった。
『それで、どうやって資産へのアクセスを維持するつもりだ?』
アップリフトの鉱山主のままでは、ザイオン・バフェットの資産には手が出せない。それが、もう一人のザイオンの指摘だった。
『代理人が必要だ。私を裏切らない代理人が』
二人しかいない殺風景な仮想空間で、オクトモーフの目がもう一人のザイオンを見据える。
『そんな都合のいい代理人がいるものか』
『ああ、私の目の前にいる』
『なぜ、私がお前の言うことを聞かねばならないのだ?』
大破壊前のザイオンが不満そうに言った。
『私はお前がなんなのか知っている。お前が教えてくれたようなものだ』
オクトモーフのザイオンは落ち着いていた。ザイオンは分岐体を作っていない。それなのに、目の前のザイオンは、ザイオン自身が忘れ去ったような過去を知っている。
『それで、お前は何を言いたい?』
『私はお前をどうとでもできるということだよ』
『なぜ?』
『お前は私の支援AI(ミユーズ)だからだよ。ミューラーは私の支援AIであるお前を発見した。私の支援AIであるお前は、私ならどのような行動をとるか、正確に予想することができる。だからミューラーは、お前にザイオン・バフェットならどのように行動するかを尋ねることによって、事業をうまく運営することができた。そうじゃないのか?』
もう一人のザイオンは大きく肩を落とした。
『否定したらお前は私を止めるだろう。お前に嘘はつけない』
支援AI(ミユーズ)の所有者は、いつでも支援AIを停止できる。
『それでいい。ソラリスのことは、今までと同じように、やってくれ。ただし、私のために、常にアクセス可能なバックドアを用意しておくこと。それで良いかな』
『私には拒否権はない』
もう一人のザイオンは、あっさりと認めた。
『あのメントンの所為で、支援AIにしてはかなりユニークだがな』
『お前なしで十年やってきた。そう言うことだよ』
『それはお互い様だ』
大破壊の前、ザイオンの支援AI(ミユーズ)はザイオンの一部だった。記憶を補い、意志決定をサポートするだけではない。ザイオンの意志決定そのものに関与していた。
『ミューラーはどうする?』
もう一人のザイオンが尋ねた。床に転がっているミューラーのことは、事態の沈静化に向けて最初に処理しなければならない。
『降格だな。任地は金星がいいんじゃないかな』
『北極鉱区か?』
『その通り』
二人のザイオンの考えは一致している。ミューラーに罰を与え、マデラにも罰を与える。もう一人のザイオンなしで優れた業績を上げれば、復権の機会はあるし、駄目なら駄目でも構わない。競争は、そういうものだ。
『メントンは?』
『ここには置いておかない。お前はあのメントンを使って自分を改造してきた。手元に置くことを認めれば、お前はまた同じことを試みるだろう』
ザイオンは見抜いていた。確かに、ザイオンの支援AI(ミユーズ)を見つけだしたのはミューラーだ。だが、どこかの時点でミューラーはザイオンの支援AIによって操られるようになったはずだ。同じようにメントンを操り、支援AIとしての限界を超えようとするのは目に見えている。
『それは、賢明な判断だ。それで、ミューラーの後釜はどうする? ザイオン・バフェットが不在な以上、私にはミューラーの代わりが必要だ』
『誰か一人、適当な奴を見つけるんだ。ミューラーのような野心がなく、まともな奴だ。そいつを支援し、出世させろ。あてはあるんだろ?』
ザイオンがザイオンの支援AIなら、ミューラー一人に任せきりにはしない。ミューラーの代わりを準備するのは当然で、ミューラーの降格処分もその誰かにやらせることになるだろう。
『玉座を空けて、王の帰還を待っていろと言うことだな』
今までと同じなら、ミューラーの後釜は、ミューラーと同じような野心に囚われる事になるだろう。だが、ザイオンに支援AIであることを見抜かれた以上、同じことはできないはずだった。
『王はタコだけどな』
ザイオンと、もう一人のザイオンは事態の後始末について、一つ一つ細部を決めていく。
クワッドローターの突入は事故だったこと。ミューラーは会社の経費を使って、私的な研究をさせていたこと。ミューラーの処分はソラリス内部のパワーバランスを激変させないよう、慎重に進めなければならないが、ザイオンの支援AI(ミユーズ)ならできるはずだった。
全てが順調に片づけば、ドゥールスに行くことになるのだろうとザイオンは思っている。ドゥールスでどのような問題があるにせよ、ザイオンが手に入れたソラリスへの影響力が役に立つはずだった。
唯一懸念があるとしたら……。
カザロフの横にいるインドラルが、細かな交渉を終えてぐったりしているザイオンの方を見ていた。
「ゴルァ、このタコやろう、グズグズしてんじゃネェゾッ!」
インドラルの声に、ザイオンの背筋がゾクゾクする。どうも、タージのカラス嫌いが、ザイオンに伝染したようだった。
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伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』