「耳にした話2」青木 和

(PDFバージョン:miminisitahanasi2_aokikazu

一、ペン回し

 知人の話。
 学生時代、ペン回しの達人に遭遇したことがあるという。ペン回しというのは、文字通り指の間でペンをくるくると回転させる遊びのことで、単純なものから複雑なものまで様々な技があり、それぞれの技に名もついているらしい。
 何の試験だったか忘れたけど、大教室に何百人も学生がいてさ、と知人は言った。顔も名前も知らない奴がいっぱい。だからその子(女の子だったらしい)も誰か分からないんだが。
 目の隅でちらちら動くものがある。気になってふと顔を上げてみると、斜め前の席に座ったその子がしきりにペンを回している。ペン回しのやり方を知らなかった知人はその動きの鮮やかさについ見とれてしまったが、しばらくして気がついた。
 親指の背でペンだけが回っている。どの指もまったくペンを動かしておらず、ペンだけがくるくる回り続けている。
 何か仕掛けがあるのかと気になって試験が終わるまでずっと眺めていたが、どうしてもペンがひとりでに回っているようにしか見えなかった。
 その女の子をその後学内で探したが、二度と見つけることはできなかった。
 単位は落としたそうだ。

二、髪を洗う

 友人の話である。
 友人は腰の丈まで髪がある。子供の頃からずっと伸ばしているらしいがたいへん綺麗な髪の毛で、本人も大切にしている。
 その友人だが、今までに二度だけ、髪を切ろうと思ったことがあるらしい。一度目はまだ小学生の頃で、母親が亡くなって髪を結ってくれる人がいなくなったとき。二度目はわりと最近で、肩を傷めて腕が水平より上がらなくなり、髪を洗うのがとてもつらくなったとき、だそうだ。
 今も髪を伸ばしているので、痛みに耐えて頑張ったのかと聞くと、そうではないという。
「洗ってもらったから」と彼女は声を落として囁いた。
 ある夜、洗髪中に腕が上がらず四苦八苦していると、ふと後頭部に何かが触れた。〝それ〟は彼女の髪を掻き分け、地肌をゆっくりとマッサージするように動いた。
 誰かの手が彼女の髪を洗っている。
 背筋が冷えた。彼女は一人暮らしだった。家には他に誰もいない。そもそももう一人入れるほど広い浴室ではない。
「でもね」と彼女は続けた。
 シャンプーの混じった湯が垂れてきて目が開けられない。〝それ〟が何か確かめることもできずに、うつむいたまま凍りついていると、なぜか恐怖心が消えていったという。
「子供の頃、お母さんに髪を洗ってもらった。それにそっくりだったから」
 肩はとうに治ったが、今でも時々〝それ〟に髪を洗ってもらっている。
 細い女性の指だそうだ。でも姿はまだ見たことがないらしい。

三、海沿いの病院

 知人の、そのまた知人の話。
 知人の知人が少し体を悪くして、入院した。病棟は海に向かって建っており、窓側のベッドに当たると広々と海が望める。もちろん窓を開けることはできないが、気の滅入ることの多い入院生活で、数少ない気晴らしになった。
 知人も見舞いに訪れたことがあるそうだ。それによると、病院の背後は山、目の前は海で、街からはやや離れており不便と言えば不便だが、病室は明るく清潔感があって、居心地は悪くなさそうだった。
 海岸に沿って線路が走っており、ときおりことことと列車が通る。音がうるさいというほど近くでもなく、列車の通過が単調な景色に刺激を与えて、退屈を紛らわすにはうってつけだった。
 知人の知人も、列車が通るのを心待ちにし、遠くから列車の響きが聞こえてくるたびに窓に近寄って眺めていたらしい。
 そうするうちに、時々誰も乗っていない列車が通ることに気がついた。最初は回送列車かと思っていたが、どうもそうでもないらしい。回送列車なら、無人の客車に車内灯をともしたりはするまい。
 煌々と灯りに照らされた無人の客車が妙に非現実的で、まるで銀河鉄道か何かのようだった。
 気になって、いったいあの列車は何かと地元住まいの看護師に尋ねてみたが、さあね、何でしょうねと笑われただけだった。
 その話のすぐあとから、窓にはブラインドが降ろされるようになった。
 それでも患者はブラインドの隙間から列車を見ていたらしい。無人の列車は日を追って数が増えていった。

「それで? 結局その列車は何だったんだ?」
「分からないんだ」知人は言った。「退院しないまま亡くなったからね。ご家族にも聞けないじゃないか、そんなこと」
 そう言って静かに眉をひそめた。

〈了〉

青木和プロフィール


青木和既刊
『つくもの厄介14
 ゆかんば買い』