「イエローウォール」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:yellowwall_ootatadasi

「もう一度、確認しておく」
 出発前に秀精が皆に告げた。
「俺たちの糧食と水は往復十日分しかない。だから五日間歩いて水も食料も補給できないようなら、そのまま引き返す。しかしその間に他の人間が住む場所に着くかもしれない。そのときは先方と交渉して滞在させてもらう」
「五日間歩いて誰とも行き会わなかったら、この旅は無意味ってことですか」
 問いかけたのは泰覧(たいらん)だった。越境隊員の中で一番体格がよく、力仕事を進んで引き受けている。
「無意味ではない。俺たちがこの旅で見聞きして集めた情報は、誰も知らないことだ。限られた小さな領地で生まれ、外に何があるかも知らずに死ぬしかなかった俺たちが、外にも世界があることを知り、それを持ち帰って故郷に広める。これには大きな意義がある」
「でも、戻ったらすぐに捕まっちゃうわ」
 蓮桃(れんとう)が言った。背の高い女性で、髪をいつも後ろでまとめている。秀精は答えた。
「確かに捕まるかもしれない。しかし、すぐではない。俺たちは潜伏し、得た情報を可能な限り広めるんだ」
「知識は力」
 燐香が言った。
「力を得れば、人は変わる」
 力を得れば人は変わる……真馬は、その言葉を噛みしめた。
「異議なし」
 声をあげたのは堂穏(どうおん)、ひょろりと背の高い男だ。
「わたしも」
 哉沙(かなさ)も手を挙げる。丸っこい体つきで、穏やかな物言いをする女性だった。
「僕も」
 最年少の伏呂(ふしろ)も同意した。泰覧と蓮桃も異議は唱えなかった。
「よし。では出発する。荷物をまとめろ」
 秀精の号令がかかる。
 訓練された集団ではない。規律も制約もない。ただひとつの目的の元に集まった。
 外の世界を見てみたい。
 そのために、すべてを犠牲にする覚悟で領土を飛び出した若者たちだった。

 野営した丘の向こうに広がるのは、荒れ地だった。岩だらけで、草もまばらにしか生えていない。その間を縫うように細い道が続いている。
 この道は誰が作ったのだろう。歩きながら真馬は考える。学校の教科書にはもちろん、この道のことは書かれていない。領地の外のことは何ひとつ教えられなかった。でもこの道は間違いなく領地から伸びている。あるいはどこからか領地に続いていたのか。
 どこからか。この先にその「どこか」があるのだろうか。真馬は胸の高鳴りを感じた。自分は今、そこに向かっているのだ。
 しかしそんな高揚感も、長くは続かなかった。ただ単調な道を何時間も歩くだけで、景色は一向に変わる様子もない。疲れるというほどではないが、足取りは自然と重くなる。
 この先に本当に何かあるのか。あるとしてもそれは意味のあるものなのか。そんな疑問に駆られはじめた頃、不意に先頭を行く燐香の足が止まった。彼女は例の茶色いノートを見つめ、それから目の前にある小山のような岩に駆け上がった。
 どうしたのか、と問いかけようとして秀精に止められた。彼は黙って幼馴染みの様子を見ている。やがて燐香は身軽な動作で岩から飛び下りてきた。
「ここを西へ」
「何があるんだ?」
 尋ねた秀精に、彼女は言った。
「わからない。でも」
 ノートを広げ、見せる。真馬もそれを見た。燐香が指差したところに四角いものが描かれている。
「これは……建物か」
「わからない。でも、確認したい」
 隊員たちに否はなかった。道を外れ、岩場を乗り越えるようにして進みはじめる。
 岩場を抜けて、貧弱な草ばかりが生える平地の中に、それはあった。
「……何これ?」
 哉沙が呟く。彼らの前にあるのは、黄色い壁だった。
 真馬は誰よりも早く壁に駆け寄る。高さは十メートルくらい。長さは……どこまであるのかわからない。黄色い煉瓦を積み上げて作られている。触れてみると、ざらざらとした感触があった。
 他の隊員も壁を見上げたり触ったりしている。
「明らかに人工物だな」
「ああ、しかしこの大きさは何だ? 領地にもこんなものなかったぞ」
「この煉瓦、かなり古そうね」
「脆そうだけど、結構頑丈みたい」
 真馬は隣に立った燐香を見つめる。彼女も壁に手を触れていた。
「どこまであるのか、確かめよう」
 秀精の言葉に、一同は壁沿いに歩きはじめた。
 壁は一直線に伸びている。煉瓦はきっちりと積み上げられ、どこにも隙間や崩れた箇所はないようだ。だから壁の向こうに何があるのか見ることはできなかった。
 十分ほど歩いて、ついに壁が切れている場所に到着した。伏呂が誰よりも早く端に行き、覗き込む。そして首を振った。
「やっぱり壁だ」
 直角に曲がる形で、また同じような壁が続いている。みんなは互いに顔を見合わせ、苦笑した。
「こうなったら、とことん付き合ってやろうじゃない」
 蓮桃が自棄気味に言い、歩きだした。他の者たちも一緒に歩きだす。
 ほとんど何も変わらない状態で隙間なく煉瓦を積み上げられた壁沿いに歩くこと十五分ほどで、また曲がり角に到着した。
「なんとなく状況がわかってきたな。この壁は何かを囲っているらしい」
 秀精の言葉どおり、角を曲がって十五分ほど歩くと、やはりまた曲がり角が現れる。そこから五分ほど歩いたところで、燐香が皆を止めた。
「ここがさっき、わたしたちが歩きだした起点だわ」
「ということは、一周したってわけね」
 哉沙が言った。
「わたしの歩幅と歩数から計算すると、この壁は一辺がほぼ一キロ四方の正方形になってる」
「燐香の地図どおりの形だな」
 秀精は頷く。
「でも入り口らしいものはなかったよな。なんでこんなもの作ったんだ?」
 堂穏が壁を叩いた。
「こんなの、入ることも出ることもできないぞ」
 荒れ地からの乾いた風が越境隊員たちに吹きつける。
「あの、野沢隊長」
 真馬は燐香に話しかけた。
「すみません。あのノートを見せてくれませんか」
 拒まれるかと思ったが、燐香は躊躇する様子もなくノートを差し出してきた。真馬はページを捲る。
「……やっぱりそうだ。この地図に描かれている四角い壁の、ここ。印が付いてますよね」
 真馬の指摘に全員がノートを覗き込もうとする。
「ほら、ここに×印がある。これ、何でしょうか」
「もしかしたら、秘密の入り口かもしれない」
 泰覧が言った。
「行ってみよう。ここ、どこだ?」
「この面の真ん中ですね」
 真馬がノートを持ち、先頭に立って歩きだした。
「……このへんです」
「このへんですと言われても、特に変わったところはないようだな」
 秀精が壁の煉瓦を押したり叩いたりし始める。他の者たちもあちこち調べまわったが、何も見つからなかった。
「駄目。何もない。その印、意味なんかないんじゃない?」
 蓮桃が燐香に尋ねる。
「どうなの隊長、あなたが描いたからわかるでしょ?」
「わたしには意味はわからない。ただ、浮かんできたものをなぞって描いただけだから」
「でも、描かれている以上、何か意味があるはずです」
 真馬は力説した。手にしたノートを見つめる。そして気づいた。
「この印、壁から少し離れたところに付いてますよね。ということは、壁自体に何かあるという意味ではないのかも」
「どういうことだ?」
「壁から少し離れた場所です。たとえば……」
 顔を上げ、壁面の真正面に目を向けた。
「あの、岩」
 三メートルくらいの距離を置いて、大きな黒い岩が佇立している。
 秀精が逸早く岩に駆け寄った。真馬も追いついて岩に触れてみる。ごつごつとしているが、そのあたりにある岩と特に変わったところはないように思えた。しかし、
「妙だ」
 秀精が呟く。
「この岩、削られている」
「え?」
「これを見ろ。鑿のようなもので手が加えられた痕がある」
 彼が指差した箇所には、たしかに直線の傷が残っていた。
「ちょっと離れてろ」
 秀精は他の者たちを遠ざけると、しゃがみ込んで岩の根元あたりを探っていた。
「秀精さん……」
 真馬が声をかけようとしたとき、鈍い音が地面から響いた。彼は思わず後退る。
「……そういうことか」
 得心したような秀精の声。彼の足下に、黒々とした穴が開いていた。
「秘密の抜け穴?」
「あの壁の内側に通じている、かもしれない」
 秀精は一同を見回して、
「俺が入ってみる。待ってろ」
 言うが早いか彼は穴の中に入っていった。
「秀精!」
 珍しく燐香が大きな声を出す。
「心配するな。すぐ戻ってくる」
 そう言ったきり、秀精の姿は消えた。
 彼らは待った。一分、三分、五分。
「大丈夫かなあ」
 泰覧が焦れたように言う。
「せめてふたりで行くべきだった。今からでも追いかけようか」
「いえ。待ちましょう」
 そう言ったのは燐香だった。
「秀精なら大丈夫。戻ってくる」
「でも隊長――」
 堂穏が言いかけたとき、異変が起きた。聞いたこともないような地響きが彼らを襲ったのだ。
 危うく尻餅を突きそうになった真馬は思わず振り向く。
 壁が、動いていた。

太田忠司プロフィール
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太田忠司既刊
『万屋大悟のマシュマロな事件簿』