「兎の跳躍」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:usaginochouyaku_ootatadasi

 一瞬の閃光に視力を奪われそうになり、竹田光平は思わず眼を閉じた。その間に、すべてが終わっていた。
「やったぞ!」
 武秀教授の声にやっと眼を開くと、強化ガラス製のドームの中を注視した。そこには何も存在していなかった。
 視線を左へ移す。三メートル離れた位置に置かれた同じ形のドーム内に、白いものがうごめいていた。
「……すごい」
 光平は思わずドームに駆け寄った。白いもの――一匹の兎が不安げにドームの内側を嗅ぎまわっていた。
「成功ですね」
「いや、まだわからない。兎をレントゲン撮影とCTスキャンにかけて内部まで正確に移動しているか確認しないうちには」
 さすがに教授は慎重だったが、それでも表情は晴れやかだった。
「だが、見たところ元気なようだ。前足と後ろ足が入れ代わったりもしていない。“teleportation”は成功したと見なしてもいいだろう」
 teleportation――瞬間移動。ついに人類の夢がひとつ叶えられた。光平は歴史的瞬間に立ち会えたことに昂奮していた。
 武秀教授の唱えた理論は、それ自体はさほど独創的なものではなかった。空間を歪めて離れた地点を繋げるという、古来よりSFで扱われてきたアイディアを応用したに過ぎない。ユニークだったのは空間を歪める力を生物の遺伝子情報内に見出したことだった。彼は遺伝子解析研究で謎とされてきた一部のDNAシーケンスに宇宙のインフレーションに相似したものがあると気付いたのだ。生物は内部にビッグバンの記憶を宿しているのではないか。そう推察した武秀教授は独自に解析を進め、ついに遺伝子内で模擬的なビッグバンとビッグクランチを起こすことで空間を移動することが可能だという説を立てた。そして今日、その実証実験に挑み、見事に理論の正しさを証明したのだった。
 特殊なパルス波を受け一瞬で三メートルの距離を移動した兎は、その後の精密検査で移動前となんら変わることなく生命活動にも支障が起きていないことがわかった。
 武秀教授は光平と共にその実験の結果を論文にまとめ発表した。しかし当初はあまり評判にならなかった。あまりに突拍子もない内容であるため、まったく信頼されなかったのだ。多くの研究者の前で実験を行い、兎が瞬間移動するところを見せても、これは何かのトリックではないかという疑惑を招くばかりだった。
「なんということだ。どうして自分の眼で見たことも信用しないのか。人間とはこんなにも固定観念に囚われた生物だったのか」
 武秀教授は憤懣やる方ないといった様子で研究室内を歩き回った。
「大丈夫ですよ先生。みんなきっと信じてくれます」
 光平は宥(なだ)めるように言った。
「今、各国の研究者が追試をしています。それで再現することが証明されれば、先生を疑っていた奴らのほうが恥をかくことになりますよ」
「そうだな。今は忍従のときだ。我々はもっと試験を続けてデータの集めなければ。今度は別の兎を飛ばしてみよう。竹田君、準備をしてくれ」
「わかりました」
 光平は実験用の兎を飼育している部屋に向かった。そこで異変に気付く。
「あれ? あの兎、どこに行った?」
 これまで瞬間移動の実験に使っていた兎だけ別のケージに入れておいたのだが、それがもぬけの殻になっていたのだ。
 そのことを報告すると、武秀教授の顔色が変わった。
「もしかしたらスパイが潜り込んで盗み出したのかもしれん。急いで探さなければ」
 光平と教授は必死になって研究室内のあらゆる場所を探し回った。
「駄目だ。見つかりません。もしかしてもう研究所の外に連れ去られてしまったのでは?」
「そうだとしたら由々しきことだが……他に探していないところはないか」
「後はトイレの掃除道具を入れているロッカーくらいでしょうか」
 念のためトイレに向かい、ロッカーを開けた。
「あ、教授、ここにいました!」
 慌てて駆けつける武秀教授も、それを見た。モップの影で小さくなっている白い兎。首に巻かれたタグは間違いなく、実験に使っていた個体だ。
「なんだ、盗まれたのではなく逃げ出しただけだったか。竹田君、君の管理不十分が原因だね」
「いえ教授、僕は間違いなくケージの扉を閉めて施錠しました。事実、兎がいなくなったときも鍵は掛けられたままでしたよ」
「しかし君、兎はここにこうして――」
 言いかけた教授は、そこで言葉を飲み込んだ。目の前の兎の姿が一瞬にして掻き消えてしまったのだ。
「まさか……」
 トイレを飛び出した教授を、光平は慌てて追う。彼は廊下に立ち尽くしていた。目の前で、あの兎が身繕いをしていた。
「……いい子だ。悪いことはしないから、おとなしくしているんだ。いいね」
 猫なで声で近づく教授。兎は彼をじっと見つめ、そして、また消えた。
「……くそっ!」
 教授は廊下の壁に拳を叩きつけた。
「一体、どうなっているんですか」
 当惑する光平に、教授は言った。
「このことは想定して然るべきだった。あいつは覚えてしまったのだ」
「覚えたって、何を?」
「瞬間移動のやりかたをだよ。あいつの中の遺伝子が目覚めたんだ。もうパルス波の力を借りなくても自力で空間を移動することができる」
「じゃあ、あの兎は……?」
「どこに行ってしまうのかわからない。もしかしたら――」
 そう言いかけた教授の頭の上に突然、兎が姿を現した。
「おわっ!?」
 素っ頓狂な声をあげた教授の頭に光平が飛びつく。しかし兎はすぐに姿を消し、彼は勢い余って教授に衝突し、共に廊下に転がった。
「痛てっ! くそっ、あいつ、僕らのことを馬鹿にしてるな」
 その後も兎はあちこちに出現したり消え去ったりを繰り返した後、ついに姿を見せなくなった。
「どうやら研究所を出てしまったようだな」
「どうします教授?」
「どうしようもない。捕まえたところで、すぐにまたどこかに移動してしまうだろう。我々には手の施しようがない。このまま放っておくしかないだろう。なに、兎が一匹現れたり消えたりしたところで、特に実害が出るわけでもないしな」
 諦めたようにそう言ったとき、武秀教授の携帯電話が着信音を鳴らした。
「おや、アメリカのジャクソン教授からだ」
「瞬間移動実験の追試をしているひとですね」
「そうだ。個人的に電話をしてくるなんて珍しいな」
 そう言いながら教授は電話に出た。その表情がたちまち変わる。
「どうしました?」
「向こうでも実験が成功したそうだ」
「おお、やりましたね。これで我々の正しさが証明されたわけだ」
「それはそうなんだか、ひとつ厄介なことが起きた」
「何でしょうか」
「ジャクソンの奴、自分を実験に使いおったんだ」
「え? 人体実験ですか」
「ああ。そして彼に兎と同じことが起きた」
 教授は蒼白な顔で言った。
「彼は電話で私に感謝していたよ。素敵な能力をありがとうと。どんなに堅牢な金庫も自分の前では空気も同じだと笑いおったよ」
「じゃあ……」
「我々の研究は恐ろしいものを作り出してしまったようだ。いたしかたない。対抗手段を取らなければ」
「何をするんですか」
「ヴィランにはスーパーヒーローをぶつけるしかない」
 教授は光平の肩を叩いた。
「君が、ヒーローになるんだ」

 こうして稀代の追いかけっこが始まったのだった。

太田忠司プロフィール
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太田忠司既刊
『万屋大悟のマシュマロな事件簿』