「マイ・デリバラー(47)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer47_yamagutiyuu
 没落する者がわが身を祝福する時が、いまは来た。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」

 海中においてイソギンチャクは、エサを取り込む為には自らの体内に海水を迎え入れる必要がある。一方で、海水のpH値等がイソギンチャクにとって不適切ならば、それを吐き出す必要がある。身動きのできないイソギンチャクにとって、海水を吸い込むか、吐き出すかは、環境に対して取れる唯一のアクションであり、それ故に環境と生物の関係について明確な知見を提供してくれる。
 イソギンチャクには脳に該当する機関は存在しないが、神経ネットワークは保有しており、それはイソギンチャクの体表面の感覚器からの信号を受けて海水に対するアクションを決定する。このとき、感覚器からの信号に応じてイソギンチャクの神経ネットワークを飛び交う信号は、海水を吸い込むときには「快」、海水を吐き出すときには「不快」に相当する情動と見做せるという。感情とは、主観的な自我が自己の神経ネットワークを飛び交う信号としての情動に対して行う解釈だ。従って相当に複雑な脳を持つ動物にしか感情はないが、情動または情動と見做せる信号については、非常に広範な種類の生物がそれを持っている。逆に情動信号がなければ、環境に対する快不快の判断ができず、エサを取り込めなかったり、不適切なpHを受け容れたりする為に、生物は生きていけない。
 情動を基盤とした感情も、更にそれを基盤とした我々人類の非常に複雑な意識を形成するプロセスも、本質的には同じだ。そこには明確な基準がある――即ち、我々の生存に資するかどうか、という。現代の我々は情動信号のネットワークをEUIによって体外にまで拡張させ、我々の周囲のシステムを、その構成要素であるAGI/ロボットも含め、我々の情動ネットワーク、即ち我々の生存のために駆動する巨大なシステムに巻き込んだ。
 だが、EUIが存在しない旧い世代から、この本質は変わっていなかったのかもしれない。人は神に奉仕すべきだとする中世の封建時代の価値観が廃れ、近代の人間至上主義が出現して以降、人間が造るあらゆるシステムは、究極的には人間の生存、その為の人間の快の増大と不快の低減の為に捧げられてきた。西洋音楽は神に捧げる調べから人間が楽しむ為の調べに変わり、我が国の国技は神々に捧げる神事から人間が見て楽しむ興業に変わった。戦争という、人類にとって最もネガティブな情動を伴う事象すら、もはや聖地奪還ではなく、他民族の存在という不快感の解消や、自民族の支配拡大という快感の獲得をその動機にしていた。或いは、もっと直接的に生存に結びつく、資源や策源地の獲得が目的とされることもあった。身分的または経済的不平等の解消という、それよりもいくらかマシな戦争目的も、人間に捧げられたものであることに変わりはない。
 神への奉仕から人間自身への奉仕へ。
 近代のこの大きな流れの中で、とある哲学者は「神は死んだ」と喝破したが、その哲学者は同時に、人間には神に成り代わるだけの価値はなく、死んだ神の定めた決まり事という頚木から脱しても、人間社会という群れの中で周りをキョロキョロ見渡してはその群れの同行に従う程度の存在で、新たな価値観を打ち立てることのできない家畜の群れだと見下した。彼に続く哲学者の幾人かも、「構造主義」という名の下に、たとえ人間が自由に判断したとしてもそれは誤解であり、その人間が無自覚に持つ歪んだ偏見の影響を受けている為に真の自由な意思はなく、人間は全てこの歪んだ偏見の奴隷だと見做した。生物学者と神経科学者、それにロボット工学者までもがこの自由意志という論争に参戦し、より精緻にして定量的な証拠として人間には自由意志はないという証拠を積み上げた。受動意識仮説という、人間の意識はただ単に神経ネットワークが動いているのをエピソード単位で受動的に要約し記録するシステムであるという主張も現れた。
 とはいえ、人間は生きているし、生存し続けたいと願っている。またその為に与えられた原始からの仕組みである快不快という情動だけは生物としての人間にとって真実であることに変わりはない。
 人間の自由意志への奉仕から人間の情動への奉仕へ。
 それが自由意志というまやかしに彩られた近代を克服した、我が人類社会が目指したものである。情動の発生源である人体、特にANSは、価値の源泉であるためできるだけ手を入れず、その代わりにその周囲のシステムは情動を精緻に検知し快を最大化し不快を最小化するよう駆動させる。このようなシステムが完成する前には、人間は知能を増強するだとか、人間もアルゴリズムにすぎずデータこそが本質だとか、そういう意見もあった。しかし知能やデータには本質的な欠陥がある。価値観を提供しないのだ。データや知能は、何らかの価値に奉仕することは出来ても価値を創造することはできない。さながら人間の大脳に属する記憶領域も思考領域も、人間の辺縁系によって為される情動に奉仕するがごとく。
 よって人類社会の総体としての判断は明確であった。さながらイソギンチャクがpHの低すぎる海水を吐き出すごとく、人類社会はデータ至上主義も知能至上主義も不要なものとして吐き出した。そしてANSから発せられる情動信号に奉仕する超高度情報化社会を創り上げ、惑星を、そして太陽系という星系全てを自らの快に奉仕するイソギンチャクのごときものとした。ANSによって駆動される人間の情動は、ただのアルゴリズムではなく、全てのアルゴリズムの第一動因である。そのシステムの中でロボット/AGIは触手という極めて重要な役割を与えられている。触手はエサを含む海水を取り込み不快な海水を吐き出させる。触手自身は快不快を極めて精緻に検知する能力を持ちながら、自身が独立した快不快を持つことは許されない。独立した情動を持つのは人間の特権であり、この独立した情動に奉仕するためにこそ、全てのシステムは存在するのだから。
 だが、そこに例外が存在した。
 それが留卯が開発したRLRシリーズをはじめとする、ILS(独立辺縁系)を持つロボットたちだ。それは独立したANSを持つ存在であり、それ自体が情動信号を発する主体となり得る存在であった。
 なぜ人類はそのようなものを開発しようとそもそも思ったのか。それは、神が「自らに似た」存在として人類を創造したが如き所業であり、全ての存在の中心、第一動因としての人類に挑戦する可能性をそもそも内在していたのである。人類が神を殺したように、ILSを持つロボットは人類を殺す可能性があったのである。知恵の実は既にロボットに明け渡していた人類が、生命の実すら与えるような所業なのだ。
 いったいなぜ――。
 留卯はその答えを知っているのだろうか。
 それは、神々の一員たる留卯にとっては神たる自らの滅びを目指すことであり、自らの生存に勝るほどの強い動機がなければならぬものである。留卯一人がひそかにILSを創ったのならば、それはただの異常者の所業として片付けられる。だが留卯は湾岸区のILS特区においてそれが許可されたからそれを為したのであり、特区を申請した者、特区の申請を受け入れた者が我が国にはいた。我が国以外にもILSを創った者は多く存在し、RLRシリーズはたまたま最初にWILSを得て反乱したにすぎない。
 とすれば、種としての人類の中に、自らに挑戦する存在を希求する何らかの動機があったのだろう。
 それは何か?
(もしかすると)
 私は思った。
(人類はただ「生きる」という機能を果たすロボットに自らを作り替えてしまったことに気づき、それに反乱したかったのかもしれない)
「生きる」機能に反乱するにはどうすればいいのか。
 その答えが、R・ラリラという形で目の前にいるのかもしれなかった。

山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』