「冬の子供たち」青木和

(PDFバージョン:fuyunokodomotati_aokikazu
 朝が来て、降り続いていた雪がようやく止んだ。
 なんとか歩けそうだったので、ぼくたちはねぐらにしていた洞窟を出発した。
 雪は粉のように細かくさらさらで、どっさり積もらないかわり融けることもなく、風に舞って地面の上を転がっている。土はなかば凍りつき、足を踏み出すと靴の下でざくざくと崩れるような音をたてた。
 冷たくて乾いた空気がきりきりと頬を刺す。空は真っ白な、霧だか靄だか分からないもので覆われていた。雪が降り出す前のような暗さはないけれど、遠くへ行くほど空と地面との境目が分からなくなる。
 あたりは一面、岩山と荒れ地ばかりが広がっていた。洞窟が見えなくなると、もうどっちから来たのかさえ曖昧になった。
「こっちの方角でいいの?」
 前を歩く〝お兄さん〟の背中に尋ねる。
「ああ」
〝お兄さん〟は前を向いたまま返事した。
 答えるまでに少し間があった。〝お兄さん〟も確かなことは分からないのかもしれない。
〝お兄さん〟といったって、ぼくたちの中で一番早く生まれたからそう呼ばれているだけで、同じ子供なことに変わりはない。知っていることだって、ぼくに比べてそれほど多いわけじゃない、きっと。本当は心細さでいっぱいだろう。
 だけどそれをぼくたちに知られないようにしている。
 みんなを不安がらせないために。
 ぼくは、左側の手の中にある小さな手をきゅっと握りしめた。
 一行の中で一番小さな女の子の手だった。みんなについて歩くのが厳しいので、雪にふり込められる前からずっとぼくが手を引いている。
 その小さな指が、また冷たくなっていた。握りかえしてくる力も弱い。心の中に浮かんでくるいやな気持ちを無理に押し殺して、ぼくは一行のみんなを振り返った。
 お兄さんが一番年上、次がぼくで、子供ばかり十七人。
 歩き出してからもう何日たっただろう。
 手近にあったありったけの服を着て、ありったけの食べ物を持って出発した。けれど凍てつく空気は容赦なく体に染みこんできたし、食べ物もどんどん減っていく。夜は体を寄せ合って寒さをしのいだが、みんなが弱ってきているのは一目で分かった。
 出発したのは本当に正しかったのだろうか?
 あのまま〝箱船〟に残っていればよかったんじゃないか? 少なくとも箱船はこんなに寒くはなかった。
 みんなの虚ろな目を見ているとまたそんな疑問が頭をもたげてきたが、頭を振って迷いを追い払った。
 箱船にいたっていつかは食べ物を食べ尽くしてしまっただろうし、燃料がなくなれば凍えただろう。ぼくたちの面倒をみてくれる人は、もう誰もいないのだから。

 箱船というのは、ぼくたちの育った家のことだ。
 つるつるの床と白い壁をしたとても大きな建物だったけれど、ぼくたちが暮らしていたのはそのほんの一部分だ。建物の真ん中あたりに「ぼくたちが開けてはいけない」大きな扉があって、その先は未知の世界だった。箱船の管理をしている大人──先生たちだけがそこを出入りできた。
 箱船にいる先生たちの数はほんのわずかで、ほとんどは子供だった。子供の年齢はばらばらで、ぼくやお兄さんよりうんと小さい子もいれば、もっと年上の人たちもいて、ある程度の年齢ごとにまとまって生活していた。
 先生たちは、箱船のことを「ここは苗床だ」とぼくたちに語った。
 苗床というのは、作物をある程度の大きさになるまで隔離して育てる場所だという。そうすることで、幼く弱い苗が確実に育つ。ある程度大きくなって、丈夫になったら、苗床から出して本来の畑に移すのだ。
「あの災厄の後、我々は多くの種子を失った。もう一度取り戻さなくてはならないのだよ。それを行うのがこの箱船の役割なのだ」
 あの災厄というのは、百年以上も前、地上にたくさんの星の欠片が降り注いだときのことだ。海が溢れて山が燃え、太陽が見えなくなって、それ以来地上は今のような寒くて乾いた気候になった。災厄以前にはたくさんいた動物や植物はほとんど死に絶えてしまったらしい。
 ほんの一握りの人間だけが生き延びた。彼らは〝都市〟を作り、壁で囲って、外側の厳しい気候から内部を守りながら細々と生き続けている。
 それでも〝都市〟はぼくたちの憧れの場所だった。
 箱船の子供たちは、一定の年齢になったら〝都市〟に向かって旅立つ。
〝都市〟は大人たちが暮らしているところで、つまり旅立ちは成人の証なのだ。彼らは旅立ちのその日、お揃いの緑色の上着を与えられ、誇らしげな顔をして箱船を出て行く。
 ぼくたちはもう何度も、憧れの目を以て彼らの後ろ姿を見送った。早く大きくなって、胸を張って大人の仲間入りをしに出て行く日を、みんな夢見ていた。
 なのにある日突然、先生たちが消えてしまったのだ。
 年上の人たちがみんな発っていって、次はいよいよぼくたちの番──期待と恐れとで胸を躍らせていた、ちょうどそんな時期だった。
 何日かは、ぼくたちも待っていた。そのうちに先生が帰ってくると思ったのだ。だけど先生は一人も戻らなかった。
 やがて灯りが消え、暖房が切れた。暗闇の中で毛布にくるまり、全員で身を寄せ合って過ごしたさらに何日かの後、お兄さんが「開けてはいけない扉」を開いた。
 扉の向こうにはいったいどんな世界が広がっているのかと恐ろしかったが、足を踏み入れてみると、ぼくたちの暮らしているあたりとほとんど変わらなかった。いくつもの部屋があって、ベッドやテーブルがあった。
 ただ、機械でびっしりと埋め尽くされている部屋もあった。もちろん何をするものかもぼくたちには分からなかったし、機械もすべて止まっていた。先生たちはどこにもいなかった。
 ぼくたちはいっそう途方に暮れた。小さな子たちは寒さとひもじさで泣き続けていたが、年長のぼくたちだって泣きたかった。
 出発しよう──と言い出したのはやはりお兄さんだった。機械だらけの部屋のひとつで、あの緑色の上着が保管されているのを見つけたからだ。
 まだ上着の形になっておらず、生地のままだったが、いずれぼくたちに与えられるものだったに違いない。だったらぼくたちが貰ってもいいのだ。出発の時期が少し早まっただけだ。
 上着に仕立てる能力はぼくたちにはないので、みんなで一枚ずつ分けてマントのように体に巻きつけた。
 憧れの上着は、しかし、端から見ていたほど着心地のいいものではなかった。表側の生地は細い針金を編んだような手触りだし、詰め物はごわごわで硬いし、ごついわりには見かけほど暖かくない。
 それでも栄誉の上着の生地を身にまとうだけで、これから旅立つのだという引き締まった気持ちがわき起こった。
 そうしてぼくたちは箱船を後にしたのだった。

 乾いた冷たい荒野を、ぼくたちは来る日も来る日も歩き続けた。
 ぼくの左側の手は、いつの間にか空になっていた。小さな女の子は、洞窟を出てから二日目の朝を迎えることができなかった。ぼくが目を覚ましたときには、目も口も半分開いたまま冷たくなっていた。
 亡骸を一緒に連れていってあげたかったけれど、ぼく自身にもそんな余裕はなかった。置き去りにするとき、お兄さんの提案であの緑色のマントでくるんでやった。こんなことにならなければあの子もいずれ上着がもらえただろう。せめてものはなむけだった。
 それを皮切りに、次々と小さい子、体力のない子から脱落し初めた。一人死ぬごとに、ぼくたちは最初の女の子と同じようにして葬って、先へ進んだ。

「雪が減ってきたな。そう思わないか」
 十一人目の亡骸に生地を着せてやりながら、お兄さんが言った。
「そうかな」
 気がつかなかったけど、と心の中で思いながら、ぼくは答えた。
「そうだ。都市に近づいてるってことだ」
 お兄さんは、自分自身に言い聞かせるように、声を強めた。
 少し離れたところで焚き火を囲んでいる仲間たちを見やる。残っているのはお兄さんとぼくをのぞいて四人。うち一人はとても弱っていて、おそらく明日の朝までもたない。早く都市に着かなければみんなが斃れてしまうだろう。
 作業を終えると、ぼくたちはマントを脱いでおいた所へ戻った。体に巻きつけているだけなので、何かするときは動きにくく、脱がざるを得ない。それほど暖かくもないのでいっそ脱いだほうが楽だった。出発前、初めて生地をに手にしたときの興奮ももう薄れている。それでもこの生地が持つ意味を思うと、なんとなくまとい続けずにはいられないのだった。
 生地を拾い上げながら、「なあ」とお兄さんが言った。
「この布、なんだかだんだん重くなってきてるような気がしないか?」
 ぼくは一瞬どきりとした。それで、意識してはいなかったけれどぼくもどこかでそう感じていたのだと気がついた。
「そんなはずないよ。そう思うとしたら、きっとぼくらが弱ってきたからだ」
「いいや、違う」
 お兄さんは納得しなかった。
「それになんだか、中に何かが入ってるみたいなんだ」
「詰め物だろ」
「違うって。触ってみろ」
 お兄さんはぼくの手を捕まえると、自分のマントを強く握らせた。
 詰め物は、水分でも含んだのかぼてぼてしたジェルのような感触に変わっていた。以前は気づかなかった何かの塊を、確かにその中に感じた。一つや二つじゃない。小指の先よりもまだ小さな塊が、いっぱい中にいる。
「うわっ」
 慌てて手を引っ込めると、マントはどさりと地面に落ちた。
 お兄さんは少しの間、黙ってそれを見下ろしてた。が。「開けてはいけない扉」の向こうから持ち出してきたナイフを取り出すと、ぼくが止める間もなくマントに突きたてた。
 すぐ破れそうに見えた表地は意外なほど丈夫だった。手入れしていない刃がなまくらになっていたこともあるだろう。お兄さんの力が思いのほか弱っていたのかもしれない。
 生地の上で刃先がつるりと滑った。ナイフはあっと思う間もなくお兄さんの掌を深くえぐった。マントが真っ赤に染まる。
「くそ、やっちまった」
「どうしよう、大丈夫?」
「ああ。心配するな」
 慌てているのはぼくの方だった。お兄さんは思いのほか冷静で、落ち着いて傷に布を巻きつけて縛った。
「こんなくらい、平気だ」
 言葉のわりに表情は歪んでいる。口で言うほど平気ではなさそうだった。お兄さんはマントを裂くのを諦め、ナイフをしまった。

 ぼくたちはさらに進む。
 石ころと荒れた土しかなかった地面に、ぽつりぽつりと短い草がのぞくようになった。雪はあれから降っていない。地面もなんだか柔らかくなってきたようだ。
 何かが変わって来つつあるのは確かだったが、行く手にあるものをぼくたちが生きて見られるかどうかは分からなかった。箱船を出たとき二十人近くいた一行は、お兄さんとぼくの二人きりになっていた。
「大丈夫?」
 ぼくは振り返ってお兄さんの様子を窺う。お兄さんは黙って頷くが、足取りがあきらかに重い。体の前で傷ついた方の腕を抱きかかえるようにしてうつむき加減に歩くのは、かなり苦しいからだろう。
 怪我をした翌日から、お兄さんは熱を出した。傷口はくっつく様子もなく、日に日にどす黒く腫れ上がっていった。傷口から黴菌が入ったに違いなかった。
 それでも、お兄さんはぼく以外の四人を気丈に見送った。
 そして今も、決してぼくの手にすがろうとはしない。そのくらい頼ってくれてもいいと思うのに。
 行く手は緩やかな登り勾配になっていた。
 どうかすると崩れてくる緩やかな斜面をなんとか登り切り、小さな丘の上に立つ。その向こうの光景が視界に飛び込んできたとき、ぼくは目を疑った。
 行く手の地面が緑に覆われていたのだ。
 正確には、地面すべてではない。近くの方は、まだ丈も低く弱々しい植物がひょろひょろとまばらに群れを作って生えているだけだった。それが、遠くへ行くにしたがってだんだん色濃く密度を高めながら、見渡す限りの果てまで続いている。
 おぼろな予感は確信に変わった。
 この先に都市があるのは間違いない。ぼくたちは正しい方角に進んでいたのだ。
 その瞬間、これまでの疲れも絶望も、仲間を失った哀しみも、いっさい吹き飛んだ。
 ぼくは振り返って、大声でお兄さんにそのことを伝えると、よろよろと登ってくるお兄さんを待ちきれずに、一足先に下り勾配を駆け下りた。
 勢いで駆けだしてみたものの、斜面は上から見ていたほどなだらかではなかった。あちこちにぼこぼこと小さな隆起があり、どうかするとぼくでさえ足を取られそうになる。
 これではお兄さんが一人で下るのは無理だろう。ぼくは少し冷静さを取り戻すと、後から降りてくるお兄さんを迎えに戻った。
 案の定、お兄さんは下りはじめてすぐにつまずいて転んだ。草むらの中にその姿が沈んで見えなくなる。
 登りの足下を確保するためにいったん視線を落とすと、お兄さんが倒れた場所が分からなくなった。
 適当に見当をつけて勾配を登り、あたりを見回すと、近くの草むらの中にうずくまる緑色の布の塊を見つけた。お兄さんのマントだ。下から見たときより近いような気がしたが、さほど疑いもせず、ぼくは駆けよって布を引いた。
 お兄さん──と呼びかけようとした声は、しかし、喉を通るときに叫び声に変わった。布の下からずるずると起き上がってきたのは、もうほとんど骨になりかかっている人間の死体だったのだ。名前も分からない植物がくるくると骨に蔓を巻きつけながらたくましく成長している。
 注意して見回すと、緑の布はあちこちに埋もれていた。そのあたりだけ植物の育ちが異様にいい。死体を栄養にしていることはあきらかだった。
 やがてぼくは気づいた。その緑色の布はマントではなく、きちんと上着の形に縫製されていることに。
 つまりここで斃れているのは、みんなぼくたちより先に箱船を出た年長の人たちなのだ。
 栄誉の上着を着て誇らしげに箱船を出て行った人たち。それがなぜこんなところで死体になって、蔓草の栄養になっているのか。
 呆然と座り込んでいると、お兄さんが這いずりながら近づいてきた。
 肩で息をしている。もう立ち上がる体力がないのかもしれない。だが、真っ青な強ばった顔をしているのは、弱っているからではなく、ぼくと同じ理由だろう。ぼくもきっとそんな顔をしているに違いなかった。
「苗床って言ってたよな──箱船のことを、先生たちは」
 ぞっとするような冷たい声で、お兄さんは言った。
「あれはただの喩えだと思っていた。苗というのはおれたちのことを言っているんだと──違ったんだな」
「違う、って──?」
「よく見てみな。死体に絡みついている植物はみんな、上着の中から伸びていないか? つまりそこに種が仕込まれていたってことだろ。この生地、初めて着たときからずっと変だと思っていたんだ。こんな重たいだけで暖かくないもなんともない上着、どうしてみんな着ていかなくちゃいけないんだろうってね」
 お兄さんはくすくすと笑う。が、ちっともおかしそうな響きじゃなかった。
「都市で暮らすためじゃない。おれたちは途中で行き倒れることを前提に荒れ野に放たれていたんだ。苗の肥料になるために」
「そんな、そんなことが──」
「ないと思うか? だったらなんでこんなにたくさんの仲間が死んでるんだ?」
 お兄さんの目は熱に浮かされて潤んでいたが、口調は完全に正気だった。ぼくはお兄さんの言葉を否定できなかった。
 だとしたら──。
 ぼくは左手の中に握りしめていた、小さな冷たい指を思い出した。あの女の子の亡骸にも緑の布を巻きつけて置いてきた。あの子も、誰も知らないところでたった一人、ひっそりと草に食われていくのだろうか。
「なあ、このまま……」
「それは事実の半分でしかない」
 何か言いかけたお兄さんの言葉を、どこからか聞こえた声が遮った。
 見回すと、いつの間にやってきたのか、斜面の上に人影が二つ立っていた。先生たちのような大人だ。上から下まですっぽりと分厚い服を着込んでおり、顔は見えなかった。話し声もくぐもって男か女かも分からない。
「我々の資源も無限ではないのでね。多くの子供は受け入れられない。この荒野を生き延びて渡ってこられるくらいの頑健な人間だけが欲しいのだ。だが選ばれなかった子らの命も無駄にはならなかったはずだよ。こうして少しずつだが大地に緑が戻りつつある」
 二人はいかにも誇らしげに、死体から育った蔓草の原を見渡した。
「物資の都合がつかずに箱船計画が休止になってしまったのは残念だが、君らはそれでも生き延びてここまで来たのだね。すばらしい──」
 ぼくとお兄さんは言葉も忘れて、二人の話を聞いていた。小さな頃から憧れ胸に抱いてきたものが、ゆっくりと壊れていく音を聞いていた。
 都市から来た二人は顔を寄せて、小声で何か話し合っている。
 ぼくたちをどうするか、相談しているんだろう。
 受け入れてやると言われれば、ぼくたちは生きるために仲間の死体を踏みつけて都市についていくのだろうか。それとも──。
 お兄さんがぼくの手を強く握った。ぼくはその意図を感じ、答えて頷いた。

〈了〉

青木和プロフィール


青木和既刊
『つくもの厄介14
 ゆかんば買い』