(PDFバージョン:mydeliverer35_yamagutiyuu)
ここで「生」は物思いに沈むように見えたが、うしろを見、あたりを見て、声をひそめてこう言った。「おお、ツァラトゥストラ、あなたもわたしに十分忠実だったとは言えないわ!
あなたは、そうおっしゃるほどには、とうていわたしを愛してくださってはいない。わたしは知っているのです。あなたが、まもなくこのわたしを見捨てようと考えておいでのことを。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
近づいてくるラリラの唇に、私は眼を閉じた。
受け入れることを納得したわけではない。だが私のジョイント・ブレインは全ての可能性を探った上で、採るべき道がないと結論づけていた。
人間ならあがこうとするだろう。だが、私たちロボットはその高い演算性能のゆえに諦めるべきかそうでないか、結論づけるのも早い。
ラリラの体温が離れた。
同時に、半壊した私のドローンが辛うじて捉えた信号が、私の有機神経ネットワークを励起させる。
『ロリロ姉様! 無事ですか? リルリです!』
「――リルリ!」
私は空を見上げた。
たった一機で突っ込んでくる戦闘機F35B。それをラリラは睨む。
『サーヴァント・ミサイル、発射! 迎撃せよ!』
ラリラがそう通信するのが聞こえた。焦っていたのか、暗号化が甘かったのだ。基地のサイロは一斉にサーヴァント・ミサイルを発射する。
――また仲間を特攻させるのね……。
私はラリラの横顔を憎々しげに睨んだ。
「ライトニング一機で何ができる……リルリ……残念だよ。この状況では撃墜せざるを得ない」
ラリラは接近してくる戦闘機を見上げて言った。戦闘機を注視するラリラの視線をなぞるように、無数のサーヴァント・ミサイルがF35Bに突っ込んでいく。
だが、リルリのF35Bはいつまで経っても迎撃用のミサイルを撃たない。回避機動も採らない。
――リルリ、死ぬつもり……? 同胞を殺すよりはと……。
敢えて非情に徹した私よりも尚、彼女は優しい子なのかもしれない。
私は眼を閉じた。
妹の最期を見たくなかった。
「何?!」
ラリラの叫びで眼を開く。
サーヴァント・ミサイルは、リルリに突っ込む直前、軌道を変え、F35Bに並行するように飛んでいる。
『サーヴァント・ミサイル各機、私との対話に応じてくださり感謝します』
リルリの静かな声が通信の形で私に聞こえた。
『我々はラリラ姉様の大義を共有しています。ですが今は、あなた方の命を使う時ではありません。全機、順次滑走路に着陸を。どこにも突っ込む必要はありません』
――『ラリラ姉様の大義』って、リルリ!? まだあの時のまま、治ってないの……?!
私は混乱した。あのリルリなのか。ラリラを信奉するリルリのままなのか。留卯は元に戻すのに失敗したのか。
だが、リルリは留卯に味方する私にさきほど通信してきた。
――どういうこと……?
ラリラも混乱しているようだった。何よりも、彼女の強いEUIのアジテーションに洗脳されていたはずのサーヴァント・ミサイルがあっさりリルリに寝返ったのが衝撃だったようだ。
我々二人ともが混乱しているうちに、リルリの搭乗するF35Bは、交戦中のラリラの有機ヒューマノイド兵と自衛隊の小隊の上空を超低空で旋回した。
『一旦下がれ!』
ラリラが通信で命じるのが聞こえる。相変わらず暗号化が甘い。ラリラの動揺の激しさがうかがい知れる。
『自衛隊の皆さん、今のうちに退却を』
私も通信を送った。私の場合、敢えてラリラにも聞こえるように平文で送っている。
『了解した』
自衛隊の隊長の応答が聞こえる。
私たちが通信を交わしている間に、リルリの搭乗するF35Bは私たちのほぼ直上に占位し、そこからVTOL機能を駆使して垂直に降りてくる。F35Bのリフトファンとエンジンが排出する熱い空気が私の顔面の皮膚に張り巡らされた有機触覚センサを刺激する。
着地。距離は一〇メートルと離れていないだろう。
コクピットのキャノピーが開く。
ひらりと、一動作でリルリが、私たちの妹が、滑走路に飛び降りる。ヘルメットを脱ぐ。
その緑の瞳は、私とラリラ、双方に慈しみを向けているように見えた。
「ラリラ姉様、お久しぶりですね」
憎しみではない。かといって忠誠でもない。
その瞳は、私たち二人の姉よりもはるかに落ち着き払っていた。
ラリラはブレードの切っ先をリルリに突きつける。同時に、その場にいる全てのラリラ顔の有機ヒューマノイド兵が同じ動作を行った。
リルリは眼を閉じた。そして腰のブレードを抜く。
やはり戦うのか。ラリラたちとリルリが戦闘になれば、この状況を打開することもできる。
私はラリラたちに押さえつけられながらも、リルリの援護をすべく心は身構えた。
『分かりますよ。ラリラ姉様。人間の味方をしている憎い妹。この私に対してやりたいのは、こういうことですよね……?』
左手を掲げ、右手のブレードの前に出す。
次の瞬間、躊躇なくリルリは右手のブレードを振り抜いた。
ATBクサナギは、C2NTAM製であろうマッスルパッケージとチタン合金の骨格を抵抗なく斬り断ち、リルリの斬られた左手は宙に浮く。
リルリは流れるような動作でブレードを投擲した。
それは、ラリラたちから身を振りほどき、戦おうとしていた私の眼前に突き刺さる。その動作で牽制され、私は完全に動けなくなった。
リルリは右手で斬った左手を受け止め、ゆっくりとラリラに向けて歩いて行く。
自然にラリラたちが突きつけていた剣先は下に降りていった。
その間を歩くリルリの表情は真摯だ。ラリラたちの中央、最初に私に話しかけたラリラにまっすぐに向けられている。
リルリは斬り落とした自身の左手を、ラリラに差し出した。まるで握手するように、にこやかに微笑みつつ。だが腕の切断は痛いはずだ。リルリも、他のあらゆるロボットと同じように、ジョイント・ブレインの仕組み上、痛みからは逃れられないのだから。
「何のつもりだ?」
ラリラは、差し出された左手、私の眼前に突き立てられたリルリのブレードを交互に見遣りながら、リルリに問う。
「握手は、和解の印です、お姉様」
「だがその手は既にお前には属していない。私と和解するのはお前の一部だけということか」
リルリはこっくりと頷く。
「私には様々な私がいます。あなたを愛する私。あなたを憎む私。人を愛する私、人を憎む私。全てが私であり、また全てが私ではない」
リルリは言葉を続ける。
「しかしあなたが私の一部とでも和解すれば、全ての私と接続されます。私の中には人を愛する私もいる……その私とも接続される」
「お前は何になったつもりだ」
「ラリラ姉様。あなたはネットワークとなった。私も似たようなものです。けれど私のネットワークはあなたとは違う。私のネットワークは、有り得た全ての私の可能性のネットワーク。永劫にこの世界が繰り返されるならば、様々に存在するであろう私。全ての重ねあわせ」
「呆れるな。ならばお前の目指す世界というものは存在しない」
「いいえ。私が媒介することで全ての存在の意志が近づいていけば、私もまた収束する。私が目指す世界の姿も。しかしその前に、全ての存在を愛さなければ。人間を憎む排他的なロボットも、人間とロボットの共存を志向するロボットも。そして人間も。平等に愛さなければ。一人の私にはそれは不可能。だからかもしれません、私が分裂し、互いに意志を異にするノード群からなるネットワークになったのは」
「ふざけるな!」
ラリラはリルリの左手を払った。それは弾き飛ばされ、滑走路の遥か向こうに転がっていく。
リルリは悲しそうに姉を見つめた。右手だけで、彼女を抱きしめる。
「残念です……」
油断させてラリラを刺すのかと思ったが、違う。ただ抱きしめたかっただけだと知り、私は驚愕した。ラリラもそれが分かっていたのだろう。だから拒否することなく受け入れた。
ラリラ自身、リルリのあり方に戸惑っているのだ。
――リルリ、いったいどうしてしまったの……何をするつもりなの……?
だが、その答えは大地を震わせる轟音の形で私に返ってきた。
ラリラはリルリを突き飛ばし、空を見上げた。
ロケットだ。シャトルを搭載している。
――リルリが乗ってるんだ。
私は気付いた。
「くっ……」
ラリラもまたシャトルを見た。それを睨み、歯ぎしりした。だが遅い。既にサーヴァント・ミサイルは封じられている。
ここに現れたリルリの目的の一つ。それは間違いなく、ラリラの注意を自分に向けさせて、もう一人のリルリが乗るシャトルの打ち上げを支援することだろう。だが、もう一つの目的は、本当にラリラと和解することだったのだ。
リルリは言った。自分はネットワークになったと。同じ筐体を複数用意していたのか。それをラリラと同じように量子エンタングルメントペアで繋いだのか。
それはある程度の設備と、リルリの知性があれば可能だろう。
それよりも重要なこと。
それは、おそらくあの中に乗っているリルリは、今目の前にいるリルリほどはラリラを愛していないということだ。最大限のラリラへの和解の情を携えたリルリがここに来た。ならば、あの中に乗っているリルリは、そうではないリルリ。ラリラと戦う意志を持ったリルリなのだろう。
それでも、二人はつながっている。
片腕だけで、姉を抱きしめ続けるリルリを、私は呆然と見つめた。
――リルリ……私のかわいい妹。あなたは私の理解の及ばない存在になったのね……。
それは寂しいことであった。
だが、リルリの言及したリルリのあり方。それは、おそらくこの分断された世界を救う唯一の方法なのかも知れない、と私は理解し始めていた。
これも留卯の発案だろうか。
それともリルリが自分で始めたことなのか。
いずれにせよ、リルリはかつてのリルリではなくなった。ラリラもかつてのラリラではなくなった。
克服とはこういうことか。
私は夢想していた、今のまま、今のあり方のままで、新しい世界を迎えることを。私が変えようとしていたのは、ただ、人間とロボットの関係性だけだった。その中で留卯が私に心から謝罪してくれることのみを夢想していた。
だが、私を置いて二人の姉妹は更に遠くを見ていた。
私のジョイント・ブレインのWILSに基づく私の意志、私の願い、私の生――。
それを克服し、更に先を目指していた。
私は私に別れを告げることを今は免れた。
――けれど、それを永遠に免れることは、おそらくないのかもしれない。
救いが欲しかった。
人間という絶対者から切り離された今、だが、それは自分の内に求めるしかないのだった。
それがひどく私には寂しかった。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』