(PDFバージョン:ginngamihikousennnotabi_ootatadasi)
満月は今夜。
モトキは準備を整えていた。今日は眠いからと両親に言って早めに自分の部屋に引き籠もり、すぐにパジャマを着替えた。隠しておいたリュックには水筒とスニーカーとスケッチブック。もちろんクレヨンも入っている。
モトキの部屋は二階にある。窓を開けベランダに出ると、手摺りがうっすらと青い光に濡れていた。
顔を上げると、まんまるな月が地上に光を注いでいる。四月の夜風は、まだ寒かった。
空を見上げたまま、モトキは待つ。
本当に来るだろうか。約束、守ってくれるだろうか。
不安と期待がない交ぜになった気持ちで五分、十五分、そして一時間。実際は数分だったかもしれない。でもモトキには長く感じられた。
やっぱり来ないのか、と少し落胆しかけたとき、それが見えた。
東の空、月明かりに消されそうな星の瞬きの間に、光る点が滑るように移動している。
最初は飛行機かと思った。でも違う。それは遠くに去るのではなく、ゆっくりとこちらに近付いていた。
モトキは息を呑む。
やがてそれの形が見えてくる。銀色に輝く、少し歪な紡錘形。ヒレのないクジラのようにも見える。
間違いない。モトキは興奮した。あれは、ボクが作ったものだ。
銀色のものは、だんだんと大きくなりながら音もなく降りてきた。紡錘形の下にやはり銀色の碗を被せたような形のものがぶら下がっていて、それだけでもモトキの部屋と同じくらいの大きさがあるとわかった。
こんなに、大きくなってたのか。
碗にはいくつも窓があって、中で何かが動いているのも見えた。
窓が水平に見える位置まで降りてくると、それは停止した。
窓の横にあった扉が開く。出てきたのは、大きな眼鏡をかけた女のひとだった。
「こんばんは、モトキ君」
そのひと――トリカさんは言った。
「迎えに来たわよ。行きましょうか」
モトキがトリカさんに会ったのは、四日前のことだった。
重いランドセルを背負って学校から帰ってくる途中、いつも遊んでいる公園の前を通りかかった。まだ陽が落ちるには早い時刻だったが、公園に人の姿はなかった。
寄り道しないで帰りなさい――先生の声が頭の中に聞こえる。遊んでないで勉強しなさい――ママの声もそれに重なった。
その声に反抗するように、公園に足を踏み入れた。
ブランコも滑り台も無人だった。いつもいるハトやスズメの姿もない。花壇に植えられたパンジーが風に花を揺らしている。
ひとりで公園遊び放題。なのに心は躍らなかった。入り口近くで佇んだまま、モトキはぼんやりと揺れる花を見ていた。
「君」
不意に声がした。
「君、どこかに行きたいの?」
顔を上げると、滑り台の近くに女のひとが立っていた。
若いひとだった。大学生、高校生、いや、中学生かもしれない。大きな丸い眼鏡をかけて黄色いコートを着ている。そしてとても大きな鞄を提げていた。
最初、他の誰かに声をかけたのかと思った。でも、ここにはそのひとと、自分しかいない。
「どこかに行きたい?」
また、女のひとが訊いた。
「……ボク? ボクのこと?」
「そう。君、ここにいたくないみたい。違う?」
はっ、とした。
「ここでないどこかに行きたいのなら」
女のひとは鞄を下ろし、中から銀色の四角いものを取り出した。
「これで、船を作って」
「船?」
「折り紙、知らない?」
手渡された紙は、アルミホイルなんかよりもずっときらきらと輝いている。しかし受け取ったモトキは途方に暮れていた。
「ボク……船の折りかた、知らない」
「じゃあ、教えてあげる」
女のひとは滑り台の後ろにあるベンチに腰を下ろした。そして手招きをする。おずおずと、モトキは隣に座った。
女のひとは、もう一枚の折り紙を手にすると、
「わたしのやるとおりに折ってみて」
そう言って紙を折りはじめた。ゆっくりと、手順を教えてくれる。モトキは言われるまま、紙を折った。
「そう、そこを折って、引っくり返して……最後にここから、ふっ、って」
女のひとが折った紙に息を吹きかける。モトキも同じようにしてみた。紙風船のように膨らんだ。できたのは、ヒレのないクジラのような奇妙なものだった。
「これ、船じゃないよ」
モトキが言うと、女のひとは微笑んだ。
「船よ。飛行船」
「ひこうせん?」
「空を飛ぶ船」
「……へえ」
船が空を飛ぶ。考えたこともなかった。でも面白い。モトキは銀色の飛行船を見つめた。そしてこれが飛んでいる光景を思い浮かべる。
「乗ってみたい?」
「……え?」
「飛行船に乗ってみたい?」
「……うん、乗りたい」
自分がそう答えたことに驚いていた。
「じゃあ、次の満月の夜、乗せてあげる」
女のひとは言った。
「ほんと? どうやって?」
「簡単。月の力でこの船は飛ぶの。君が折ったこの船で迎えに行ってあげる」
そう言うと女のひとはモトキから飛行船を取り上げ、歩きだした。
「あ……あの」
思わず声をかける。
「お姉さん、だれ?」
女のひとは振り返り、言った。
「わたしはトリカ。密原トリカ。覚えてて。きっと迎えに行くから」
そして公園を出ていった。
「……トリカ……」
残されたモトキは、その名をつぶやいた。
「月の光には、人間の眠りの力が蓄えられているの」
飛行船に乗り込むと、トリカさんは言った。
「人が眠っている間に放出する夢や痛みや願いや後悔。それが立ちのぼって月に届き、光になる」
「違うよ」
モトキは言った。
「月の光は太陽の反射だよ」
学校で教えてもらったことだ。でもトリカさんは微笑むだけで、それを違うとも本当だとも言わなかった。モトキは自分が間違ったことを言ってしまったような気がして、窓の外に眼を逸らした。
「わあ……」
飛行船は街の上を飛んでいた。家の屋根や明かりが滑るように流れていく。
「ねえ、この飛行船、どこに行くの?」
モトキが訊くと、
「もちろん、月」
トリカさんは答える。そして、
「見て」
天井を指差した。そこは大きなスクリーンになっていて、満月が映し出されている。
モトキはその月をじっと見つめた。だんだん大きくなっていく。本当に月に向かって飛んでいるんだ。
ぷか ぷかぷかぷかか
突然の音に驚いて振り向くと、そこにはブリキの小さな人形が数体、それぞれに楽器を構えて立っていた。
ぷか どんどんど ぱああん
「君を歓迎してるの。彼らが出てきたってことは、もうここは月の領域ね」
船体が少し揺れた。窓の外には大きな月が、凹凸まではっきり見えるほど近付いていた。
「ひとつだけ、聞いてほしいことがあるの」
トリカさんは言った。
「月に着いたら、何を訊かれても『はい』としか答えないで」
「どうして?」
「どうしても」
「誰が何を訊いてくるの?」
「それは、着いたらわかるわ」
「訊かれても『はい』って言わなかったら、どうなるの?」
最後の質問にトリカさんは、微笑んで答えなかった。
また大きな揺れ。そして船が停まった気配がする。
「到着したわ。出ましょう」
「空気は?」
「心配いらないから」
トリカさんは扉を開けた。おずおずと、船を降りる。
灰色の地面が液晶画面のように光を帯びている。空は真っ暗で星がさえざえと見えていた。そして外には、楽団と同じブリキの人形たちがたくさん立っていた。
「ようこそ、月へ」
先頭のブリキ髭を付けた人形が言った。
「旅行は快適でしたかな?」
「あ……はい」
モトキは答える。
「ではこちらへ。さっそく調印式に臨んでいただきます」
「ちょ? あ……はい」
案内された先にブリキのテーブルがあり、モトキはブリキの椅子に座らされた。
「それではこれより契約のための調印式を執り行います」
髭のあるブリキ人形が高らかに宣言した。するとほっそりとした人形が一冊の本を捧げながらやってきた。髭人形はその本を受け取るとページを開き、ペンと一緒にモトキの前に差し出した。
「では、ここにサインを」
「……はい」
言われるままペンを執る。開かれたノートには意味不明の絵文字のようなものがいっぱい書かれている。その右下に空欄があった。
「そこに名前を書いてくださるだけで結構です」
促されるまま、名前を書こうとした。が、ペンが止まる。見回したがトリカさんの姿は見えない。
「どうしました? 名前を書いてください」
「……はい……ううん、違う」
モトキは言った。
「これ、何ですか」
質問に驚いたのか、髭人形は髭をくるりと一回転させた。
「取り決めについて聞かなかったのですか。ここでは『はい』以外の言葉は――」
「だって、なんだかわからないものに名前なんて書けないよ」
モトキは言い切った。
「これは、何なの? 教えて」
「だから、契約書ですよ」
人形はくるくる回る髭を押さえて、
「地球の所有権は我等にあるということの確認契約です」
難しい言い回しだが、意味はわかった。
「地球があんたたちのもの? 違うよ。地球は人間や犬や象やチューリップやティラノサウルスや、地球にいるものたちのものだよ」
「またそんな世迷い言を! 地球は古来より我等の所有するものですぞ」
憤然と髭人形が言い放つ。
「さあ、つべこべ言ってないでサインしなさい」
「いやだ! 僕はサインなんかしない。いやだ!」
ペンを投げつけ、席を立つ。そのまま走りだした。
「こ、これ、待ちなさい!」
人形たちが追いかけてくる。でも足が遅くてモトキには追いつけない。
モトキも闇雲に走っていた。どうやったら逃げられるのか……。
「こっちよ」
声がした。見るとあの銀紙飛行船が宙に浮きかけている。
「急いで」
扉を開け、トリカさんが待っている。モトキは力のかぎり走り、その扉に飛びついた。
「セーフ。ご苦労さま」
モトキが飛び込むと同時に扉が開き、飛行船は上昇した。
「……ねえ、どういうこと? わけがわからないんだけど」
モトキが尋ねると、トリカさんは優しい笑みで、
「あの人形たちは、滅びた月文明の遺物。昔々、月の人間は地球を支配していたの。でも今はもう彼らはいない。残されたブリキ人形たちだけが地球も自分たちのものだと思い込んでいる。そして地球の人間にもそれを認めさせようと契約を迫ってくるの」
「トリカさんはブリキ人形の味方なの?」
「ただの代理人(エージェント)よ。契約の手伝いをしているだけ。定期的に地球人の代表を月に連れていくのが仕事」
「……でも、どうしてボクなの?」
「わたしが選んだの。君なら絶対に『はい』って言わずに逃げ出すとわかってたから」
トリカさんは言った。
「人形たちはいつもわたしが送り込んだ人間を相手にして契約に失敗している。でも、すぐにそのことを忘れて、またわたしに依頼するの。簡単に契約してくれるような子供を連れてきてくれって。そしてわたしは、彼らの望みを叶えるふりをして、君のような子供を連れていく。これをずっとずっと繰り返しているの」
「もしも……もしもボクが契約してたら、どうなってたの?」
「ブリキ人形たちはすぐに地球に進軍したでしょうね。戦争になっていたわ」
「戦争……じゃあ、ボクが戦争を止めたの?」
「そう、君は英雄。ねえ、そろそろ眠くなってこない?」
言われたとたん、強い眠気を感じた。
「眠りなさい。眼が覚めたときには、もうこのことは夢になっているから」
「夢……これ、夢なの?」
意識が遠退(とおの)くのを感じながら、モトキは訊いた。
「もうすぐ夢になるの。そして忘れる。でも、このことだけは覚えておいて。君はいざとなったら勇気をもって自分の信じたことをすることができるって。それだけの強さがあるって」
トリカさんの声が子守歌のように心地よく感じられた。
「おやすみ、モトキ君」
眠りに落ちる瞬間、自分が乗っている銀紙飛行船が宙を飛ぶ姿を見たような気がした。
太田忠司既刊
『さよなら、と嘘をつく
‐‐沙之里幽譚』